ジャーナリスト

「慶子の時間」ですよ=微笑が魅力のプロアナウンサー(上)

 元気で、朗らかな、気さくな人柄は多くの人に好かれる。それが人間のつながり(連鎖)と拡大になっていく。プロ・アナウンサーの堀江慶子さんはじつに明るく、それを感じさせる。まさに、人柄と人徳だろう。

 慶子さんは国立音楽大学ピアノ専攻を卒業した後、テレビ局のアナウンサーとなった。
 人間は明るくても、落ち込んだりするものだ。明るい慶子さんの場合はどうなのだろうか。いきなり、失敗談を語ってもらおとしたけれど、

「わたし楽観主義なんです。みなさんが失敗だと思うことでも、『ああいい経験した』と思ってしまうのです。失敗という意識が薄いのです」
 彼女の辞書には、後悔、くよくよ、失意、落胆はないようだ。

「取材中に、むかしの私を知るひとに出会っても、変わらないわね、慶子ちゃんは。明るいね、とよく言われます」
 彼女にはつねに笑顔がある。

 テレビ朝日『築地ホット情報』、テレビ東京『株式ニュース』を担当した。千代田区広報番組『わが町千代田』、さらには日本フィルハーモニー交響楽団『ファミリーコンサート』などの司会を経て、現在フリーアナウンサーとなっている。

「こちらは足立区役所です。午後5時になりました、外で遊んでいるお子さん達はおうちに帰りましょう」 都民にはおなじみの有線放送だ。足立区の放送は慶子さんなのだ。

「この声のおかげで、足立区の住民とのつながりがいっそう深くなりました。子供ころ、お世話になった商店街や地域の皆さんが、あら、慶子さんの声だったの、と感銘してくれます」
  彼女にはよい宣伝塔(放送)になっているようだ。なにしろ、毎日、一回は区内のどこかで聞くのだから。無意識に、たとえ聞き流したにせよ、どこかに慶子さんだと、ごく自然に入っているはずだ。

 「子どもの頃」どんな性格の女子だったのか、慶子さんに語ってもらった。九州出身の両親のもと足立区・梅島で育った。3姉妹の長女だった。

「元気いっぱいの子供でした」
 慶子さんは迷いなくそう言い切った。

 幼稚園時代に木琴を担当した。それで音楽好きとなり、慶子さんはピアノを習い始めた。ちなみに父親は警察官だった。
「わが家に冷蔵庫やテレビを買う前に、テープレコーダー、ピアノを買ってくれました。それほど両親も音楽好きで、わたしがピアノを弾いていると、ご機嫌でした」

 慶子さんはピアノ、次女はピアノとエレクトーン、三女はバイオリンと、三姉妹はみな楽器を習っていた。音楽一家だった。

「ともかく、世話好きの性格でした。教室のオルガンを弾いてクラスメイトの歌の伴奏をしたり、小、中学校では生徒会役員に選ばれました」
 文化祭では司会を担当した。
「まさか、自分がプロアナウンサーになるとは、夢にも思っていなかったです」
 白鴎高校では、合唱のとき歌の伴奏をしていた。大人になったら、音楽の先生になるんだと、かたくなに決めて、それを目標としていた。 

 国立音大に入っても、ピアノ講師を目指して、子ども達にピアノを教えていた。

 大学の就職掲示板をみていると、アナウンサー募集が出ていた。
「わたしの今までやってきたことが、生かせるのではないか。子ども番組や音楽番組のアナウンサーをやってみたい」
 その想いが突如として募ったのだ。

 テレビ局に国立音大出の先輩はいないだろうか。学生課に問い合わせたうえで、テレビ局に電話を入れて先輩に会いに行き、アドバイスを受けた、と経緯を語ってくれた。

「いざという時は積極的になります。そのお陰で、合格したのかな、と思います」
 入社後に、人事課の方から『下町育ちの元気さがよかった』とほめて下さった、と慶子さんはつけ加えていた。

 テレビ朝日「築地ホット情報」やテレビ東京「株式ニュース」を担当が長く続いた。その頃、足立区役所の方から夕焼け放送のアナウンスをしてほしいと頼まれた。
 それを受けて、最初に録音したのが、今から23年ほど前だった。

 地元紙『足立読売』が、夕焼け放送のアナウンサーとして慶子さんを取り上げた。その記事を読んだ足立吹奏楽団」のメンバーから、足立区に音大出身のアナウンサーがいるなら、司会を頼みたい、と話が舞い込んできた。
 
それは『足立区成人の日の集い』の演奏にかぎった司会役だった。慶子さんは国立音大出だから、演奏会の司会は楽しいだろう、と引き受けた。

 
「せっかくなら、成人式の全体の司会をして欲しい」
 成人式の関係者から、話がさらに拡がった。
「じつは式典とアトラクションの間に、新成人が外に出てしまう人が多い。最後まで会場にいてもらえるよう、頑張って欲しいのです」
 と主催者から要請された。
「頑張るぞ」
 慶子さんはそこで張り切った。

 それから20年も経つ。今年(2014)も、「成人の日の集い」の司会を担当している。成人式の催しは毎年違う。同吹奏楽団との縁もその後に及び。その司会も平成6 年1 月のポップスコンサートより、連続42回目(21年間)担当している。
 双方とも、ロングランのお付き合いとなっている。

 慶子さんの話を伺うほどに、明るい人柄の人物はひとたび縁ができると、長く結びつくものだと思う。笑顔と明るい性格は人間関係を円満なものにする。歳月とか、回数とかが、まさに実証している。



いまはJ:COM足立のアナウンサーとして 生放送「デイリー足立」の「けいこの街なび」という中継リポータ―をしている。女子プロレスの皆さんと撮った写真を提供してもらった。
 慶子さんの明るい表情を如実に写し撮っている。

 フットワークが良い。慶子さんはすぐに現場に出むいていく。
「話すのが楽しい。ともかく、わたしに見合った職業です」
 堀江さんはいまや足立区内において最も人気のプロアナウンサーである。


                                   写真提供:堀江慶子さん

ここしか生きていく道はない=クラッシック歌手・川島由美(下)

 川島由美さんは正統派のクラッシック歌手である。活動の範囲は広く、昭和音楽大学の非常勤講師、東京都ヘブンアーティストの活動も積極的である。ソプラノ弾き語りスタイルで、上野公園、都営地下鉄(新宿西口駅)などにおいて日本の童謡、唱歌、世界の名曲を広める演奏活動をおこなう。

 「円盤投げと歌唱でつかう深部の筋肉は同じです」
 そう語ってくれた川島さんは、身体の軸の使い方などの指導をふくめた、ボイストレーニング講座の活動もおこなっている。

 石井武則さんは3年前から、川島さんから、町田教室でボイストレーニングで声の出し方を学びはじめた。最初の1時間は、胸、横隔膜、腹部の体操である。あとの1時間は歌の発声となる。
「声の出し方がわかりやすく、川島さんは上手に説明してくれます。知っている体験をすべて出してくれます。出し惜しみがない。それが魅力です。だから、生徒数が増えています」
 石井さんは彼女の誠意と情熱に感動し、「川島由美後援会」を立ち上げた。後援会の事務局長である。夫婦でコンサートには出むく。


 川島さんは5月20日に和光大学ポプリホール鶴川(町田市)で開催された『川島由美・CD「四季のうた」発売記念コンサート』では、童謡、歌謡曲、ミュージカル、オペラアリアまで、2時間21曲を歌った。
「すごい体力です。歌手が連続21曲など、ふつうはできません。歌う表情が豊かで、聴く人の心に届くソプラノシンガーです」
 石井さんは体力の賞賛のみならず、彼女の幅広い音域とレパートリーも讃える。秋葉原駅コンサートで聞いた直後だけに、それは納得できた。

 同駅に出むいていた『母よ』の作曲家の石黒さんは、川島さんについて、「母の力強さを明るいイメージで歌ってくれます。たとえ80歳、90歳の老齢になっても、その方が母を思い出すと、それは若い日の母親です。それを歌で表現してくれています」と話す。


 CD『母よ/この街で』が発売されている。このなかの「この街で」は、新井満さん(日本ペンクラブ常務理事)の作曲だ。
 日本ペンクラブは毎年3月3日に、「平和の日」を全国各地の持ち回りで開催している。(大江健三郎さんが提案し、国際ペン・本部ロンドンが3月3日に「平和の日」と決めてから、約25年間余りにわたりイベントを行っている)

 2005年の日本ペンクラブ主催「平和の日・松山の集い」の開催前日に、関係者が市役所に市長を表敬訪問した。「21世紀に残したいことば」で松山市長賞を受賞した「恋し、結婚し、母になったこの街で、おばあちゃんになりたい」が新井さんの目にとまった。この言葉に感動した新井さんが、即興で作曲した。翌日の1000人以上の大ホールで披露した。それが全国に広がったものだ。

 新井さんが日本ペンクラブのフォーラムなどで、折々に歌う曲だ。川島さんの「この街で」は、新井さん同様に感動をうまく歌唱していると思う。


 CDは 『四季のうた』(ダニーボーイ、アメイジンググレイス、津軽のふるさと、百万本のバラほか)などがある。それらは聴く人の感動を誘う。

 彼女のCDはすべて「手作りCD」である。世界の愛唱歌や名曲、明治から昭和までの叙情歌を選曲する。そして、演奏家や音響のプロの友人の力を借りて、デザインや入稿、選曲から、音の選定まですべて自分で手がけている。

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円盤投げの選手から、華麗なる音楽家への道=川島由美(中)

 東京都ヘブンアーティストたちは都営地下鉄の駅構内などでも、演奏活動をする。川島由美さんには演奏者の立場から、第1回「駅ライブ・イン・秋葉原」(主催はJR東日本)は従来(地下鉄駅)と比べて、どうですかと聞いてみた。

「地下鉄駅などでは、ふだんピアノ(ポータブル)を運んできたり、演奏者兼スタッフです。会場はコンコースですから、演奏でお客さんを集めるほどに、かえって乗降客の流れに邪魔になっていないかと、そちらも気になってしまいます。きょうの秋葉原はスタッフがしっかりついてくださり、聴く方の整理をしてくださり、良いスピーカーを使っているし、歌と演奏に集中できました」
 と明るく語ってくれた。
 
 コンサート会場のお客さんはチケットを買ってくるから、どんな曲、ジャンルでも、予備知識があり、じっくり聞いてくれる。駅の場合は、行き交うお客さんの足を止めないと聴いてくれない。その点の選曲について、川島さんに聞いてみた。

「テンポの速い曲でないと、お客さんは立ち去ってしまう、という焦燥感にかり立てられます。しかし、ゆったりした『月の沙漠(さばく)』などは不思議に、集まってくれるのです」
 聴く人は心をクリアし、気持ちを真っ白にしてから、歌に聞き入る。だから、足を止めて集中してくれるのです、と川島さんは解説してくれた。

 たしかに、『アメイジンググレイス』、『翼をください』、『ダニーボーイ』、『花は咲く』など、いずれも郷愁に満ちた曲であった。駅構内で立ち止まった聴き入るひとたちの顔を見ていると、心に邪念がなくなり(童心に戻る)、耳を傾けている表情だった。
「わたしが歌い、その歌が聴く人のものになるのです」
 そう語った川島さんは、30分間の持ち時間内で、最大限に郷愁を提供していた。

 母親の川島温子(はるこ)さんが、よき応援団として観客のなかにいた。どんな娘さんですか、と訊いてみた。
「努力家で、興味津々で、体力があります」
 音楽家の体力とはなにですか。
 高校時代の由美は円盤投げ、槍投げ、砲丸投げの選手だった。記録も持っていますと話す。砲丸投げとソプラノ歌手とはイメージと合わない。
 人生にどんな転機があったのか。

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第1回ステーションライブ・秋葉原で、川島由美が懐かしの曲を歌う(上)

 5月24日、JR秋葉原駅構内の2階コンコースで、生演奏の音楽が流れていた。利用客が足を止めて演奏に聴き入る光景があった。それは第1回「駅ライブ・イン・秋葉原」(Station Live in Akihabara)で、主催はJR東日本だった。
 主催者側の説明によると、JR秋葉原駅の生演奏は初めての試みであり、今後は月1回ほど開催したいと話す。東京都内でも乗降客の多いターミナル駅で、こうしたライブは東京駅に続くものだという。

 過去の日本国有鉄道時代を知る人たちにとって、4月、5月はじつに憂鬱(ゆううつ)だった。賃上げ闘争にからむ順法闘争で、乗客に迷惑をかけっ放し。通勤・通学の時間帯の満員の車内で、乗客は定刻通りに走らない電車にイライラし、ストレスがたまる一方だった。

 民営化した以降のJRには、乗客を大切にする考え方が浸透し、私鉄・地下鉄との競争激化から、より高いサービス向上をめざす。従前は駅構内の人の流れをいかにスムーズに流すか、そこに趣きがおかれていた。、現在は快適にも駅を利用してもらう発想から、構内でイベントがあちらこちらで行われている。
『駅ライブ・イン・秋葉原』のメインテーマは「心躍る時間をあなたに」である。足を止めて愉しんでも乗らう。まさに隔世の感がある。

 第1回は12時から17時まで、全4ステージを行う。各30分毎だった。

 STAGE1 『Dot & Line』(ドット アンド ライブ) NHKラジオなどに採用されているオリジナル曲

 STAGE2 『川島由美』(ソプラノ歌手) 弾き語りスタイルで、ピアノを弾きながら世界の名曲を歌う

 STAGE3 『TOMA』(トマ・苫米地義久) 自然派サックス奏者で「人がやさしく元気になる」ソロ演奏

 STAGE4 『沙羅璃』(しゃらり) 津軽三味線とバイオリンの和洋の楽器によるコラボレーション

 ステージの演奏者たちはすべて『東京都ヘブンアーティスト』(東京都の審査会に合格したアーティストやパフォーマンス・芸人たち)である。

 司会の田中杏奈さんは、「曲がはじまると、年齢や男女を問わず、多くの人が集まってくれました。聴き入る皆さんが心から楽しんでいるのが、伝わってきました」と話してくれた。

 STAGE2のソプラノ歌手の川島由美さんから、話を聞くことができた。曲目としては、『あの素晴らしい愛をもう一度』、『 琵琶湖就航の歌』、『四季の歌』、『みかんに花咲く丘』とつづく。なじみのある曲ばかり。駅構内のお客さんは、親しみをもって聴くことができたようだ。

 川島さんには演奏者の立場から、感想を聞くと、
「秋葉原駅のコンコースが広く、足を止めてくださった聴衆が多くて、気持よく、弾いて歌えました。心がかるく演奏できました」
 と心境を語ってくれた。
 音楽人生まで語ってもらうと、川島さんの意外な面が発見できた。

                         【つづく】

 

路上で、うたごえ喫茶アルバムを楽しむ=葛飾・亀有

 5月22日の午後、亀有駅の駅前で、男性五人のボーカルグループが、マイクを手にしていた。見た目には30歳代だ。
「これから『銀色の道』を歌います」
 どうせかれらの最新作だろう。そういう思いで通り過ぎようとした。歌われはじめたとき、
「むかし懐かしい曲だな」
 と足を止めて聴き入った。
 私は20代のころ北アルプスを中心とした登山に青春をかけていた。雪峰の登攀(とうはん)などは苦しくて、体力の限界を感じることも何度もあった。そんなときには口ずさんでいた曲だ。そして、自分を励ましていた。

 『銀色の道』が終わった。そのまま通り過ぎるつもりだった。次は『千の風になって』ですという。新井満さんの曲だから聴いていくか。

 2010年国際ペン東京大会で、新井満さんと私は同外交委員会に2人して出席した。英語、フランス語、スペイン語の同時通訳だが、難解だった。なにしろ、メキシコ政府のジャーナリスト弾圧が中心課題だったのだから。
 新井さんとは1日一緒して会食を含め、あれこれ語ったものだ。日本語どうしだから、ほっとしたものだ。新井さんもきっと同じだったと思う。2人の会話は弾んでいたから。それを思い出しながら、亀有駅前で、しばし聞き入った。


 かれらは「ベイビー・ブー」(Baby Boo)というボーカルグルーブだった。「新宿の歌声喫茶『ともしび』で聴いて、とても良い曲だと思いました。私たちはそれを歌っています。日本のよき歌を広めたい」
 かれらのリーダーのチェリーさんは語る。
 
『高校三年生』、『花は咲く』、『明日があるさ』、『星よおまえは』、『卒業写真』、『心の旅』、『北帰行』、『出発の歌』、『ともに見し夢を(仰げば尊し)』
 中高年層にはとても懐かしい曲が並んでいた。亀有駅前はバスターミナルだから、乗降客が足を止めている。

 「ベイビー・ブー」からさらに話を聞いてみた。
 かれらは神戸淡路大震災の翌年にできたボーカールグループです、という。震災直後は町が焼け野原で楽器などなかった。
「みんなして声を出して歌えば、復興の励みになる」
 それが発足の動機で、そうした活動が展開されてきた。


 東日本大震災3.11は3年経っても、メディアが復興への道と福島原発を追っている。作家の私も福島取材をおこないつづけている。

 神戸の場合は違っていた。
 町を焼きつくす大火災、高速道路の倒壊、都市型直下地震による大災害だった。次世代への教訓などいくつもあった。だが、数か月後には東京の地下鉄でサリン事件が発生した。これも、世界中を震撼させる大事件だった。メディアの報道が一気にそちらにシフトしてしまった。

 「ベイビー・ブー」2002年には、メジャーデビューした。神戸から東京にきた。しかし、まったく売れずに契約が解除になった。
 神戸淡路大震災よりも、東京発の報道は逃亡するオウム真理教教組や信者たちの追撃と逮捕劇だった。神戸から出てきたグループが取材で取り上げられることはなかったのだ。
「メンバーには家族もいる。食べさせていかなければならない。このまま解散になりたくない」
 その想いで、今日まで続けてきた。
 この間にメンバーは逐次入れ替わった。しかし、活動は停止しなかった。神戸から立ち上げたグループは、挫折の手前でも耐え続けてきたのだ。

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社交ダンスは心身を磨く(下)=親がストーカーをつくる時代

 ダンス業界の現況を聞いてみた。
「ダンススクールは『風俗営業法』の枠組みにあるんです。夜12時過ぎて、踊れないんです」。ソシャールダンスは、10年前まで、子どもが教室で学べなかったという。
 日本がいまだ文化の後進国だ、と物語っている事例の一つだ。

 ノーベル賞授賞式でも、天皇が晩餐会でも、それぞれ盛装してダンスを踊る。華やかで高貴なダンスは子供たちのあこがれだろう。
 ソシャールダンスが幼いころに学べなかった。10年前にやっと規制解除がなされた。とはいえ、ダンス教室はいまだ特定団体扱いだ。(警察の許認可・風俗営業法)。こんな国家は世界中でも稀有な存在だろう。
 法律をつくる政治家・官僚の考え方の貧困さであり、「男と女は身体を接触すれば、いかがわしい」とする、頭細胞の固さを反映している。
 日本人として恥ずかしいかぎりだ。

 ダンス教室で、やっと子どもが学ぶことが可能になった。だが、こんどは小学校でフォークダンスをやらなくなった。
「幼いころから男子が女子をリードする。それが社会のあるべき姿です。男の子、女の子、ともに思いやり尊重する心を育てることです」
 全日本チャンピオンになった橘弘子さんは、ダンス教育の大切さを語る。

写真提供:橘ダンススクール


 音楽を聞いたら、身体が自然に動くものだ。
 歩きはじめた幼い子どもたちを観察すれば、音楽が流れると、ごく自然に体を動かしている。これがダンスの原点だ。育つ家庭において、男女が手をつないだり、唄いながら踊ったりすれば、健康的な男女の精神が育つ。

 戦後の学校教育のなかで、ダンスがふつうに学べた時代があった。さらには男女大学生がディスコで踊る世相もあった。男女の間が自然に相手を想う気持が湧いてくる。それが異性を見る目を育てたり、交際になったり、結婚に結びついたりしてきた。

 現代社会は、ストーカー事件がうなぎ上りだ。この陰湿な社会悪は、塾教育が最盛期に育ってきた世代層に多発している。
 女性から発信される、嫌いよ、もう大嫌いよ、という拒否とか拒絶とか、が解らない。怖いから態度で示すが、微妙なことばのニュアンスが正確に読み取れないのだ。
 これは犯人の独善の性格だけでない。諸悪の原因が社会に内在している。

  子どもの人間形成にはなにが重要なのか。親は真剣に考えているのだろうか。小学高学年ともなれば、子どもは夜9時、10時まで学習塾、進学塾へと追い立てられる。親はひたすら「勉強しなさい」と叱咤する。

 幼いころに明るく楽しくダンス、音楽、スポーツも塾年齢になると止めさせてしまう。
 公園遊びで、ごく自然に学べた、子ども道の意思疎通の訓練の場が取り上げられてしまう。そうなればなるほど、男女の価値観の違いも疎くなる。

 皮肉なことに、塾に追い立てる親はコミュニケーション・ギャップの障害者づくりに懸命になっている。
「女性を殺して、自分も死ぬ気だった」
 いつまでも相手の女性に好かれている、と思う自意識過剰だ。

 塾優先、成績優先、偏差値主義で育ってきた、情緒の欠如から生み出されたものだ。男女交際の場でも、自然なコミュニケーションが取れず、悩む。
 30歳にして女性が口説けず、求婚の仕方すらわからない。ダンスのように、女性をうまくそこまでリードできない。結果として、30-50歳代にしてストーカー予備軍になってしまう。
 そんな成人が次々に世に作り出されているのだ。

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社交ダンスは心身を磨く(中)=80歳で優雅な踊り

 阿出川好一さん(81)歳が橘ダンススクールにやってきた。姿勢が良い。身長が高く、手足が長い。格好いい感じだ。
 1955(昭和30)年に早稲田大学・商学部を卒業し、メーカーで経理畑を歩んできた。退職後の生き方として、保護司の活動と、ダンスを習いはじめた。いまやダンス歴は20年に及ぶ。

 橘ダンススクールに通いはじめて約6年間である。自宅から同教室まで40-45分かかる。これまで、幾つかダンス教室の門をたたいたようだ。
「プロにも、ピンからキリまであります。中高年齢者に対しては中途半端な指導する人がいる。それでは困る」と前置きしたうえで、
「橘さんは元全日本チャンピオンで、雲の上の人です。しかし、技術は出し惜しみしない。初心者でも丁寧に教えてくれます。橘さんは本当のテクニックを教えてくれる。ダンスは楽しいし、やりがいと生きがいになっています」
 と阿出川さんは話す。

「阿出川さんは探究心が強い。ダンス用語に対しても質問される。素朴だけれど、大事なところがあるのです。私自身がはっとさせられたりします」
 橘弘子さんは話す。
 技術的な面は如何ですか。
「阿出川さんは年齢から見たら、ダンスのテクニックがすごい。リズム感は良いです。頭脳が明晰です。新しいことは大変だけれど、コツコツ努力される。あきらめない精神があります。ステップは時にあれっ、と思う、間違いはままありますけど、まだ伸びますよ。できないと悔しがる」、その熱意と向上心があるかぎり、大丈夫です、と言い切った。

  人間は誰もがいつか年齢的な限界に突き当たる。阿出川さんは何歳までダンスをやられますか。
「教室の客種として、私は自分の存在を考えています。老人がダンス教室にトボトボやってくれば、迷惑になります。悪貨は良貨を駆逐する。変な客が一人でもいると、全体の質を下げてします。そこらが見極めだと考えています。それまでは精一杯やりたい」
 ダンスに対する熱意が、若さの秘訣になっているのだろう。

 長野在住の娘の好美さんが、父親のレッスンを見に来ていた。感想を聞いてみた。

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社交ダンスは心身を磨く(上)= 元全日本チャンピオンが語る

 ノーベル賞の授賞式パーティーでは、盛装した男女が社交ダンスを踊る。年配者でも、流れるようにリズムに乗り、踊っている。じつに輝いて見える。メイク、ドレス、優雅な非日常の世界がある。日本人の憧憬の一つだろう。
 
 ダンスは健康に良い。流れる音楽で、からだが応じて足腰、リズムを取る。相手(パートナー)がいるから、身体を使う、気を使う、頭を使う。若さを維持できる。

 わが国ではしだいに人口の高年齢化がすすむ。単なる長生きだけではつまらない。欧米のように、社交ダンスを愉しみ、ダンディーな若さを保つ。そうした生き方の心がけも必要だろう。

 81歳になった阿出川好一(あでがわ よしかず)さんが、元全日本チャンピオンの夫婦が経営・指導する橘ダンススクール(東京・駒込)で学んでいると聞いた。5月12日、同スクールに取材に出むいた。阿川さんは午後2時から30分間のレッスンだったので、先立つこと橘弘子さんから話を聞いた。

 指導者の橘正幸さん(61)歳と妻の弘子さんは、プロ競技選手として、「1999年・全日本オープン選手権」で優勝した華やかな経歴がある。現在は夫婦して同公認審査員である。

「わたし東京下町・葛飾立石に生まれ育った。看護婦でした」
 弘子さんは聖路加看護大学の在学中に、友達に誘われて同校「ダンス部」に軽い気持ちで入会した。スポーツ部員として活動したが、学生競技会では、記録を残すほどの成績はなかった。
 彼女は病院勤めの看護師になっても、ダンスを習っていた。夜勤を終えてダンス教室に通っても苦ではなかったというから、根は好きだったのだろう。

 その教室で、あるときプロの橘正幸さんの練習相手に選ばれた。「無料で学べる、ラッキー」と思い、彼女は練習に一段と熱が入った。一方で、好きで進んだ看護師を続けるか、ダンスを選ぶべきか。将来はどちらに行こうかと迷いはじめた。親との対立もあったようだ。

 結果として、夫・正幸さん=ダンスを選んだ。つまり、プロ競技選手(ダンス教師)となったのだ。それは甘くない、いばらの道だった。57キロの体重が2年後には46キロにも落ち込む。漸次、成績を重ねながら、夫婦はイギリスにも留学し、やがて全日本チャンピオンとなった。

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一粒の米に、人生の情熱を込める (下) =埼玉県・幸手市

 日本人が主食とする「米の美味しさ」、つまり食味値は粘り、風味、糖度、そして水分によって総合判定がなされる。

 従来は品質の判定は、人間の勘で決められていた。「新潟・魚沼産コシヒカリ」、「宮城ササニシキ」という銘柄だけで売れた時代だった。消費者も銘柄米に頼り切った決め方だった。

 日本酒はかつて特急酒、1級酒、2級酒という決め方だった。いまや2級酒だった地方銘柄が、地酒ブームで、高価でも、もてはやされている。呑む人の品質、美味しさで、銘柄が決められる時代だ。

 現在、米は科学的な成分分析ができる。国際基準も作られている。個別農家ごとに品質測定ができる。その意味で、「地酒ブーム」と同様に、「米の田家(でんか)ブーム」が到来するだろう。
 工業製品の電化ブームはバブルがはじけても、品質勝負で、外国産の安かろうに対抗し、商品開発を推し進めて、国民の間に信頼度を高め、家電の国産志向を生み出した。

 工業製品、日本酒と同様に、「米の田家ブーム」の到来も当然、やってくるだろう。農家はそれを視野に入れておくべきだ。先駆けになるには、早くから無農薬に取り組んでおく必要もある。一度、田んぼに雑草取りで農薬を入れてしまえば、もう後手、後手になってくるからだ。

 遅かれ早かれ、米の自由化はいずれやってくると思われる。安価を追求するがゆえに、農薬などで手間をかけず、肥料も細く、「不味かろう」それではだめだ。
 国産米だから買ってくれる、という甘い考えは通用しない。国民の多くは、「安かろう、たっぷり農薬の米」など、本心は買いたくないのだ。ここらは農家、JAなどはニーズをしっかり読みとっておく必要がある。

 品質分析をした米が輸入されたら、どう太刀打ちするのか。米の銘柄よりも、分析結果の表示が独り歩きするおそれだってある。

「人間は考える葦です。良い米を追求する、それを生きがいにしています。手をかければ、美味しいお米がまちがいなく作れる」
 幸手市の松田光男さんは明瞭に言い切った。ここ数年は漸次、食味値の数値を伸ばしつづけてきた。昨年度は、第25回国際大会(米・食味分析鑑定コンクール)で、食味値87点を収得し、上位にランクされている。

 今年の秋、あるいは来年には念願の「食味値90」を達成したいと、強い意欲で取り組んでいる。特に、お米の一粒ずつにたいする愛情、熱意、熱気が感じられる。

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一粒の米に、人生の情熱を込める (中) =埼玉県・幸手市

 私たちがふつうに食している米は、農薬を使っているし、一毛作で肥料は1回のみだ。こうした消費者が購入する米の価格は、数十年前に比べても、安価になっている。農家はこのさきTPP(環太平洋パートナーシップ協定)で海外の農作物が自由化、あるいは関税の引き下げになれば、さらなる競争激化となり、低価格化へのプレッシャーは必然だと危機感を持っている。

 日本人はいまやグルメ志向であり、食生活も多様化し、「安かろう不味かろう」にはソッポを向き始めている。美味しいコメを求めている。しかし、農業は今後の外国との競争をにらみ、低価格にたいする危機感を声高に言う。ここに消費者とのギャップが生れている。

 日本人の米のこだわりは独特である。大家族の時代ならば、大量に安い米を必要としていた。現在は核家族だから、1家族2-4人が平均だ。高級車に乗りたい人はたくさんいるように、少量でおいしい米を食べたいのだ。「安さよりも、美味しさ」が求められている。

 国際競争がいくら厳しくても、品種や銘柄、味覚を選択するのは消費者である。とくに米に関して言えば、低価格=品質の劣化は望んでいない。
 しかし、米店、スーパーなどで購入する米は、過去からブレンド騒ぎを起こし、古米の混入など、いま一つ信頼度に欠ける。地域銘柄で買っても、その都度、どこか味が違う。まずは信頼度を取り戻すことである。

 たとえば、JA単位の表示でなく、5kg、10kgの米袋には、農家の顔写真、家族写真を張って出荷する。そうした耕作責任など導入すれば、輸入品にも太刀打ちができる道が作れるだろう。

 つまり、全農家が生き残る発想でなく、品質競争に打ち勝ったところが、高品質=高価格の米で生き残る道をつくることだ。

 全国を見渡せば、良質な米栽培に取り組み、世界大会の上位志向の農家はある。収穫したコメの分析から、さらに上質なものを目指し、肥料を研究し、高コストでも、美味しいコメをつくろうとチャレンジしている。
「ありきたりの米は作りたくない」
 幸手市の松田光男さんは公務員の退職後、農家の跡をついでいる。
「私の作った良質のコメ(食味値87)を、有名な料亭が買い求めてくれました。ところが安い米とブレンドして炊いていると知り、その料亭には売っていません」
 こうした品質に対する自信とブライドが大切だ。

「雑草駆除の農薬はいっさい使いません。他所(よそ)の農薬飛散からも守るために、隔離した水田で米を作っています。いちど農薬を散布すれば、翌年度からは、もう無農薬の米だとは言えません」
 無農薬と一言でいうが、容易ではないようだ。真夏の太陽が容赦なく照りつける炎天下で、水田に入り、雑草を取る。蛭(ひる)もいれば、蛇もいる。直射日光と流れる汗との格闘だ。

 須藤泰規さん(73)は、大手企業をリタイアした後、米作りに加わっている。田植えから雑草取り、収穫まで参加している。
「松田さんの高品質の米作りのこだわりが好きです。収穫期には労働の対価として、美味しい米が貰えますし、収穫の喜びがうれしくて、きびしい雑草取りにも、精が出ます」
 雑草取りの期間は5月20日~7月上旬で、1か所の田圃(たんぼ)にそれぞれ3度入る、と話す。
「稲が実ると、両手でかき分けて、泳ぎをするように進むのです」
「稲が育ってくると、須藤さんの姿が見えず、倒れているのではないか、と心配していると、ふいと頭が見えるんです」
 松田さんがユーモアたっぷりに語る。

「ここの家族はみんなが良く手伝ってます。それは感心です」
 須藤さんの視線が、庭のバーベキューに流れた。

 5月の連休のさなかでもあり、長男の松田裕之さん(32)の職場(介護職)仲間3人が、田植えを手伝いにきていた。ちょうど昼食時で、バーベキューのパーティのさなかだった。それぞれに農作業の感想を聞いてみた。
「裸足で田んぼに入る前、内心、汚いな、と思いました。でも、これをやらないとお米ができない、と自分に言い聞かせました」
 高橋祥平さん(26)が話す。田植え機で、まず苗が植えつけられる。田圃の角や、植え洩れ場所は手で補植する。それらの手作業です、とつけ加えた。
「きょうは朝9時から来ました。ひと苗ごとにていねいに植えると、いい汗です。夕方4時頃まで、田植えをします」
 木村祐樹さん(28)が、塩おにぎりを頬張りながら語っていた。

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