ジャーナリスト

「山の日」関連の歴史小説を取材中。長野県の地元新聞で紹介される

 私は現在、祝日「山の日」に関連した、山岳歴史小説を執筆ちゅうである。天明・天保時代の松本市と飛彈高山市の周辺取材をはじめてから約一年が経った。この作品は、新しく祝日となった「山の日」を盛り上げる狙いがある。2016.8.11からカレンダーに赤い祭日の印がつく。

 現在、現地で展開する取材のようすが、2015年7月2日(木)の信濃毎日新聞で紹介された。タイトルは『「山の日」盛り上げる歴史小説 執筆中』である。サブタイトルとして、『舞台は上高地や「飛州新道」」としている。

 同記事のなかで、「山の日」が超党派の国会議員連盟によって制定された。そのメンバーから、東京の作家・穂高健一に執筆を勧められたもの。昨年5月から、長野・岐阜の両県で精力的に取材している、と記す。

 作品の背景となる飛州新道(現在の安曇野市三郷小倉から大滝山、上高地を経て、焼岳の肩の中尾峠から奥飛彈に至るルート)に、記事は多くの紙面を割いている。
 新道開削に関わった岩岡家が文化時代に、上高地に湯屋(宿屋)をつくった。主人公は、その上高地の温泉宿で過ごした岩岡家の娘である。
 安曇平(現在の安曇野市)は、荒れ地で水不足で苦しんできた。天明、文化・文政のころに、当時の農民たちがみずから、約20年間にわたる苦労の末に、巨大な15キロにもおよぶ農業用水路「拾ヶ堰」を開通させた。荒廃地が一躍、水の豊かな農耕地帯になった。
 作品はここから書きだす、と同記事で紹介されている。

 掲載の写真撮りは、同年6月17日、松本市・安曇(上高地の麓・島々)でおこなわれた。資料など槍ヶ岳山荘・社長の穂苅康治さんが、同記事のなかで、『小説が「近代登山が始まる以前の地元の歴史や、山の生活が発信される貴重な機会になる」と、出版の日を心待ちにしている』と述べている。

                            【了】

私たちの歴史は平和として描かれるのか(下)=平和は瀬戸物なり

 幕末を大名家でなく、「藩」単位で見ていると、司馬遼太郎史観など、薩摩とか、長州とかの「藩」の見方がまかり通る。

 戦場で戦う者は武士であって、農商工の領民は無関係である。為政者の大名家が勝とうが負けようが、年貢が変わらなければ、生活は変わらないのだ。大名家どうしの戦い。この認識は重要だ。民を巻き込んだ戦いは明治の徴兵制からだ。

 龍馬を描く小説は決まって薩摩藩とか長州藩とかになる。「德川家」と「毛利家」の戦いにしない。「そうせい公」と毛利家は隅にやっている。そうでないと、巨大な大名で強い権力を持った毛利家の前で、脱藩浪人の龍馬が貧弱に見えるからだ。


 当時、長崎・グラバーという武器ブローカーが南北戦争で余った兵器を密輸入していた。各藩の武具奉行たちは、武器の買い付けに長崎にでむく。グラバーはおおむね安価で古い銃を売りつけていた。地方の大名家の家臣は火縄銃よりも西洋銃の方が良いというていどの認識だった。

 連発銃などは高くて、藩財政に影響するから、安価な西洋銃で数の辻褄(つじつま)合わせをしてきた。
 海運業を興した龍馬は、あちらこちらで蒸気船を借りた、それら武器の運び屋だった。

 德川家は藩をつぶす政策は取っていない。あくまでも、『家』の存続か取り潰しなのだ。長州藩自体はつぶさない。
 毛利家が改易(お家取りつぶし)、転封(てんふう・他に移る)なっても、次なる長州藩の大名家にはおおかた岡山・池田、熊本・細川、阿波・蜂須賀などが大ものが転封してくるだけだ。仮に細川家ならば、龍馬はその家臣に武器を売り込めばよいのだ。

 龍馬が毛利家に忠義をつくす必要は何もない。相手が細川でも、蜂須賀でも、密貿易の鉄砲を買ってくれるならば、誰でもよい。
「儲かれば、どの家にでも武器を売買する。密輸で儲けさせてもらう」
 現代社会で拳銃を売買すれば、法律に違反する。德川時代もおなじルールがあった。
 この違法な行為をした龍馬は、正義でなく、まさに死の商人なのだ。あえて言えば、それが鳥羽伏見、戊辰戦争で、多くの日本人を殺傷した兵器となった。これは「戦争ごっこ」ではない。おなじ民族の大量の流血の大惨事となったのだ。


 第二次長州征伐には大きな後遺症があった。国内経済が急激に悪化し、物価高騰で、庶民の生活は圧迫された。となると、武器を持たない民衆だが、許しておけない。大反発のパワーが「ええじゃないか運動」となり、愛知から広島・尾道まで、男女を問わず一気に荒れ狂ってしまった。
 将軍家の徳川といえども、民衆に武力で鎮圧できない。為政者と民衆が血と血で戦うと、国家の破滅に及んでしまうからだ。


 徳川慶喜には外交能力はあるが、優秀な経済ブレーンがいなかった。結果として、「大政奉還」で、天皇家に政権を返上したのだ。だれも「徳川家」を倒していない。これは倒幕ではなかったのだ。
「薩長による倒幕」は、明治政府が自分たちに都合よく作った、歴史のわい曲だった。

 攘夷(外国人へのテロ)を叫ぶ下級藩士たちが、戊辰戦争を引き起こした。そして、東京に明治軍事政権をつくった。政治家となった、毛利家の下級藩士の山縣有朋が武力主義で、明治6(1873)年に「徴兵令」を発布した。


 国民に武器を持たせたのだ。明治22(1889)年には法律にまで昇格させた。それが第二次世界大戦まで77年間もつづいた。国家総動員令で、婦女子までも巻き込まれた。

 戦国時代まで、戦争は武士のしごとだった。
 農商は戦場へと荷運びを手伝わされても、戦いが始まれば、逃げてもよいのだ。流れ弾に当たらなければ、畑仕事をしていてもよい。その意味では、国民皆兵を導入した山縣有朋の罪は末代までも重い。
 一度飲んだ麻薬の味は忘れられないという。

 私たちの子孫が、外交の失敗で戦争にでもなれば、自衛隊の隊員数だけでは国が守れない、国民皆兵制が早急に必要だ、と政治家や軍人は言いだすに決っている。

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子どもの自転車競技会と安全教育=東京・葛飾

 葛飾区内は自転車による交通事故がとくに多い。2014年の交通事故の内、44.4%は自転車が関与している。


 警視庁葛飾警察署では、子供の自転車安全教育を目的とした、『セーフティ葛飾自転車競技会』が、5月17(日)朝9時から、平和橋教習所で行った。5月11日~同月20日まで「春の全国交通安全運動」の一環である。

 開会式の冒頭のあいさつで、同署交通課の阪下敏規課長代理は、
「葛飾区内は、自転車の通行量が多く、路地の出会いがしら事故が多発しています。自転車が関連した死亡事故の場合、8割が自転車側に違反があります。この大会を通して、交通マナーとルールを身につけてください」
 と、競技会による安全意識向上の趣旨について述べた。

 同教習所の佐藤光治所長が、「二人乗り自転車事故は、後の方が死ぬケースが多いのです。正しい自転車の乗り方を学びましょう」と前置きし、競技方法と採点について説明を行った。
 9時10分から学科テストが行われた。そして、「自転車競技」が開始された。参加者は約30人である。

 種目はS字、スクローム、30センチ幅の平均台、一度停止の確認、駐車する車両の側面の通過である。

 学科テストと競技大会の総合点から、「高学年の部」の優勝は宮内陽菜(はるな)さん、準優勝は渡辺優奈さん、ともに女子だった。

 競技大会が終了した後、「かつしかPPクラブ」は阪下課長代理と佐藤所長にインタビューを行った。

「自転車の危険な乗り方が目立ちます。法令改正で、本年6月1日より、自転車でも信号無視などの危険行為をして、3年以内に2回以上摘発されれば、講習会が義務付けられました。(5700円)。飲酒運転も禁止です」と阪下課長代理から14類型の危険行為について説明があった。

「赤信号で子どもが止まっているのに、親が渡ってしまう。安全教育は親の意識改革も必要です」と佐藤所長は強調された。

 同日11時からは「一日開放」が開催された。パトカー、白バイの展示および撮影会などが行われた。

 子どもたちはバスの運転手になったり、パトカーに乗せてもらったり、白バイにまたがったり、同署員の指導の下で、楽しい時間を過ごしながら、安全教育を学んでいた。

 同会場では、東京消防庁・本田消防署による、はしご車の体験も同時に行われた。

祝「山の日」記念全国大会の第1回・開催地が決定=長野県・上高地

 国民祝日「山の日」が衆参の国会を通過し、法案が可決したのが、昨年(2014)の5月28日だった。施行は2016年8月11日である。

 実施まで、約2年間において、国民が親しめる祝日として、全国「山の日」協議会(会長・谷垣禎一)を中心として、山岳団体、官公庁主催がこの祝日の意義をつたえるイベントを展開している。


 今年度(2015)は、東京・有楽町の国際フォーラムで、全国「山の日」フォーラムが開催された。2日間の総入場者数は約1万8000人で、盛況だった。特徴としては、最近は「山ガール』ブームであり、それを反映した若手登山愛好者の参加が目立った。

 全国「山の日」協議会の平成27年度総会が、5月23日から、衆議院議員第2会館の多目的会議室で、16時30分から開催された。
 今年度は、大分県・九重町で、プレ「山の日」記念、全国大会を開催することになった。

 衛藤征士郎(えとうせいしろう)さん(大分県選出・第64代衆議院副議長)とは、国会内の初映画試写会に招かれた縁である。プレイ「山の日」は伺いますよ、と言うと、ぜひ来てね、と握手された。


 2016年「山の日」記念全国大会の開催は、富士山か、上高地か、と意見が二分していた。5月28日の協議会の審議を通して、長野県・上高地に決まった。

 第1回の記念・全国大会に関する要望書が、阿部守一・長野県知事、菅谷昭・松本市長、上條敏昭・松本市上高地町会長から、同協議会に提出されていた。それが可決されたものだ。
 富士山となると、山梨、静岡、どちらが主体になるか。むずかしい調整があり、場合によると2県に分散した大会にならざるを得ない。それを避けた面がある。

 真夏の上高地は若者、家族連れ、槍穂への登山者が大勢集まる。全国に名高い。これらで、団体代表41人、個人13人(わたし穂高健一も個人会員)、合計54人による満場一致で決まった。

 私個人としては、来年8月11日の祝「山の日」にむけた、歴史山岳小説を取材・執筆している。その小説は槍ヶ岳登山、幕藩体制の下で安曇平と飛彈との間に、天保時代にできた「飛州新道」が背景のひとつである。
 
 主人公は、18歳の「湯屋」(旅宿)の知的な女性・岩岡志由である。豪農の4女の彼女が上高地の一軒家に入るのだ。幕藩体制(飛彈・信州)が、上高地の山奥にもつよく影響してくる。桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されると、幕府の圧力で飛騨新道は閉鎖される。志由は山を下りていく。江戸時代の上高地はここで一度歴史から消える。


 単に山の小説に閉じ込めず、天明天保は大飢饉に襲われた。一方で文化文政の華やかな旅ブームだった背景を織り込む。餓死する農民や農民一揆、栄華を極める豪商たち。当時の日本人の姿を克明に描いていく作品だ。

 務台(むたい)俊介代議士は長野県選出である。「上高地に決まって良かったですね」と声掛けすると、喜んでいた。小説取材先の紹介など、ご協力してもらっている。

 2016年「山の日」記念全国大会の開催が、長野県・上高地に決まった。私の作品もフォーラムの一環に間に合わせたい。その上で、可能ならば、超党派議員などのコンセンサスをとり、祝「山の日」記念出版に持ち込みたい考えである。

2015年度かつしか区民大学・区民記者養成講座が開講する。

 2015年度かつしか区民大学「写真と文章で伝える私の葛飾」の第1回が4月25日・同区内の青砥地区センターで開講した。
 副題は「歩く、撮る、書く、区民記者入門講座」である。講師は穂高健一、受講生は15人、主催は葛飾教育委員である。
第1回は、「取材した人の写真の上手な撮り方」である。

 事務局の秋本さん(同委員会・生涯学習課)にモデルになってもらい、受講生には撮り方の実践を行った。
 単に正面から、カメラ目線で撮るのではなく、両サイド、ハイアングル、ローアングル、背後から、と7カ所から撮影する。その技法を行う。受講生たちは、みんなして秋本さんの廻りを取り囲んだ。
 

 講座回数は5回である。曜日は第4土曜日の2時からである。課外活動(インタビューの実践・7月)は1回あり、午前から夕方までである。
 同講座の主目的は4つである。
 
① 報道写真が撮れる技術が学べる

② 記事が楽に上手く書ける方法が学べる

③ 聞いて、伝えてあげる。インタビュー技術が会得できる

④ 読んでもらえる記事・紙面が作れる

講座が終ると、アフターである。この講座がはじまったのが5年前で、毎年、恒例になっている。

 今年から、受講生は葛飾区内限定を外した。内尾さん(写真)は品川区在住で、国立科学博物館に勤務する、理学博士である。
「かつしかPPクラブ会長」の浦沢誠さんとはおなじ職場で、彼の推薦で入られた。彼女から話しを聞けば、広島大学から東工大・博士課程に進んでいる。私は広島県の島だが、彼女は広島市内出身だった。

 東立石在住の中川亮さん(ファイナンシャルプランナー)など、身近な住いの人もおり、講座の学べるスキルなどの質問が出るなど、会話が弾んだ。


 

「先の大戦で」は不適切、「明治から77年の軍事国家」を総括すべし

 終戦から70年を機にして、「先の大戦」という言葉が躍っている。「先の大戦」の謝罪や反省の文言にばかり捉われている。それはちがう。

 日本が大きな罪を犯したのは、第二次世界大戦(太平洋戦争)だけではないはず。明治政府が生まれて間もなく、明治5(1873)に徴兵令を敷き、海外侵略の「征韓論」をとりはじめた。かれらの発想は傲慢な豊臣秀吉の発想とまったく変わっていない。
 韓国はなにも悪いことはしていないのに……。

 あえていえば、吉田松陰が獄中で書き残した、中国大陸への海外侵略の思想が、明治をつくった長州藩士たちに受け継がれた。
 薩長土肥が中心となった明治政府はしだいに長州閥が強まってきた。山方有朋たちが強兵思想を高め、国民の眼を「強い国家・強い政府」という求心力につかった。
 「日本には神風が吹く」と平民を信じ込ませて、軍服を着させて、海外に送り込んだのだ。そして、強引に領土拡張を展開してきた。


 日清、日露、第一次世界大戦、シベリア出兵、満州事変、日中戦争、太平洋戦争へと、広島・長崎の原爆投下で終結するまで、77年間は戦いが続いた。
 この77年をもつて日本人は外国人から、「戦争好きの国家、国民」に思われてしまったのだ。戦争を知らない私たち世代すら、そんな目でみられている。
 だれがこんな国家にしたのだ。そう叫びたいのは私たちだ。

 岸元首相、佐藤栄作、安倍現首相と、戦後も長州から歴代首相がでている。安倍首相は東京生まれにしろ、基盤は長州閥の流れを汲んでいる。
 明治の軍功・元老といわれる山方有朋などの長州閥が軍部・政治の核を動かし、日新、日露という大戦争を引き起こしたのだ。中国・韓国は別段、日本に何も悪いことをしていないのに。安倍首相に長州の血があればこそ、「先の大戦の謝罪」だけでなく、「明治からの77年の謝罪」がもっとも相手国の心につたわるし、美くしくひびく。ある意味で、長州人だから、チャンス到来なのだ。


 太平洋戦争の末期には焼夷弾で、日本列島の町が数多く破壊されてしまった。親を失った戦争孤児たちは食べられず、大勢が餓えて死んだ。原爆孤児もしかり。満洲から引き揚げて棄てられた子供もいる。
 その過酷な状況のなかで、生き残った子どもが、いっさい戦争をせず、戦後70年間の平和を築いてきたのだ。

  
 ABCラインの経済封鎖があった。だから、太平洋戦争へ突入したと正当化する影の声は多い。それはちがう。いま現在で考えてみればわかる。北朝鮮の拉致問題にしろ、クリミア問題のロシアにしろ、経済制裁や経済封鎖を課しているのだ。
 他人の領土に「満洲国」という国をつくれば、世界中からバッシングを受けて当然だし、国際連盟から制裁が課せられるのはあたりまえのシナリオだ。

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歴史記録写真集「明治 大正 昭和 志和」 = 吉本正就 

東広島市・志和町(しわまち)の吉本正就さんが、このたび歴史記録写真集『明治 大正 昭和 志和』を発行された。
 吉本さんは、地元の歴史に造詣がふかい郷土史家である。歴史関係資料や写真のコレクターでもある。自宅の2階には陳列ケースがしっかりした展示室をつくられている。

 古写真の収集が1000点ほど溜まったことから、約1年間の編集・追跡取材を行い、発行に及んだものだ。

 私たちは「明治は遠くになりにけり」と言われて育ったものだ。祖父母がまだ明治生まれだったけれど、当時の話をさして聞いておらず、いまとなれば悔やまれる。ただ、それはいつの時代になっても、口から口へと伝承される限界なのだ。

 私たちが祖父母になってくると、いまや「昭和は遠くになりにけり」である。昭和天皇が没したのはつい先日のように思えるが、もはや27年が経っているのだ。
 平成元年生まれの子が、27歳で社会現役の最先端で頑張っている時代だ。
 
 私たちは、両親が生きた太平洋戦争のできごとは、さして言葉で引き継いでいない。敵とは言え相手は生身の人間だ、しょせん人殺しだ、銃弾の殺戮を語りたくなかった親も多かった、と知る。

 小さな記録文、写真を探しだして歴史記録として遺す。70年経ったいまはラストチャンスだ。もう半世紀たつと、写真の裏付けの話しは聞けないし、写真といえども、古文書のように影が薄くなってしまう。


 写真は歴史の断面を正確伝えられる。政治・経済・文化の面からも、実に重要なことだ。ただ、古写真の収集作業は、ことばでいうほど簡単でない。最近はやたら個人情報という弊害が目につく。先祖の写真すらも、提供を嫌がる人もいるだろう。
 吉本さんのように脚で訪ね歩く地道な努力とともに、協力者も必要だ。


 とくに強く印象に残ったのが、昭和14(1939)年に撮影された、看護学校の卒業女子たちの写真である。西志和の女性7人が盛装し、記念写真に収まっている。
 彼女たちは広島市内の病院勤務だった。

 昭和20年8月6日の原爆投下の地獄のなかで、看護に勤務しており、4人が亡くなっている。半数以上の乙女が無残にも命を失くす。

 吉本さんがそこまで追跡して、写真キャプションに書いている。だから、昭和史の大きな出来事の原爆投下の惨さが、集合写真でありながら、しっかり遺されるのだ


 吉本さんはに「歴史記録」と位置づけて、3つの時代明治、大正、昭和と良い面、辛い面、拙劣な面も含め、公平・客観の目線で遺されている。

 志和といえば、私の著作・幕末歴史小説『二十歳の炎』の神機隊が発足し、訓練地した場所である。

 主人公の髙間省三、幕末史に大きく関わった船越洋之助、加藤種之助などが同隊の一員として、農兵とともに、教育・訓練をした土地なのだ。

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沖縄に、ジャンヌ・ダルクが出たら、どうするの=日本政府は?

 日本政府は沖縄に関して、実に危険なことをしている。もし、ジャンヌ・ダルクが沖縄に現れたら、日本政府の誰がどのように責任をとるのか。
 沖縄県民が民主主義のルールで選んだ地元政治家に耳を貸さない。無視する。威圧する。それは過去から日本が沖縄にやってきた傲慢な政治的態度と類似している。

 かれらが独立に目覚めて、沖縄という表現から琉球ということばに置き換えたら、どうなるのか。激しい独立運動が起きるのではないか。

1429年から1879年の450年間は、沖縄本島の琉球王国が存在した。この450年は重要な歴史的な事実だ。約600年のうち500年は琉球國なのだ。


 1853年(嘉永6年)5月は黒船が来航した。アメリカ海軍のペリー提督は、琉球を独立国と見なし、首里城に入って開港をもとめた。
 翌1854年には、琉米修好条約を締結した。まさに、日米修好条約とまったく同一なのだ。アメリカは琉球王国を独立国として認めていた。これも歴史的な事実だ。


 琉球王国は、1609年に薩摩藩の侵攻を受けて支配下に入ったふりをしていたが、独立国家として消滅したわけではない。首里城が歴然と存在していたのだ。
 かれらは中国大陸、南方の国々と三国間貿易で、独自の国家と文化を築き上げていた。


 1871年、明治政府は廃藩置県で、琉球王国の領土を鹿児島県の管轄しようとした。しかし、琉球は従わなかった。
 1879年3月、明治政府は約600人の軍隊と警察を従え、武力的威圧のもとで沖縄県の設置を行った。これがいまの沖縄県の根拠になっている。

 第2次世界大戦後、明治政府が作った沖縄県は消滅した。1952年(昭和27年)から1972年(昭和47年)まで、琉球政府が存在して、独立した行政を行ってきた。わずかに約40年前なのだ。


 450年間にわたる琉球王朝の支配は、そう根本から日本に同化しない。文字を持たなかったアイヌ民族とはちがう。歴然とした国家と文化と言語を持っていたのだ。


 日本政府が過去の薩摩藩、明治政府ように、おごり高ぶり、服従支配の態度で支配しようとすれば、単に反発ではすまなくなる。高飛車に出れば出るほど、琉球王国の独立運動につながってくる可能性がある。
 東南アジア、中国の経済発展はめざましい。琉球はしだいに観光立国として、自主独立できる環境が整いつつある。

 奄美諸島に目をむければ、琉球王朝の支配下にあった時が長い。米軍統治下でも、琉球政府の支配だった。
 沖縄ジャンヌ・ダルクが現れて、独立を叫びはじめたら、九州と奄美諸島との間で国境をどうするのか、という複雑な問題に及ぶ。とてつもない争いに及ぶ恐れがある。


 現代は、時々刻々とTVでものごとが伝わる。
 日本政府の官房長官の表情や発言ぶりなど、まるで民族独立運動を呼び起こすような態度だ。薩摩藩、明治政府の真似事は止めた方が良い。
 一介の政治家の発言や傲慢な態度が、国家の大きな危機にまで及ぶ。それは古今東西の歴史が教えることだ。


 政治家はもっと歴史から学ぶべきだ。たとえば、長州藩の下参謀だった世良修蔵(せら しゅうぞう)が、まるで支配者の顔して仙台で傲慢(ごうまん)な態度をとり、それが端を発して、暗殺され、奥州32藩の結束から、戊辰戦争に突入した。とんでもない犠牲者が出た。まだ150年前の生々しい事実だ。


 政治家ならば、ここらも熟慮し、謙虚にしてもっと懇切丁寧な態度をとるべきだ。沖縄ジャンヌ・ダルクが現れてからでは手遅れで、日本の悲劇におよぶ。世良修蔵のような、個人の汚名だけではすまないだろう。


写真提供 : 滝アヤ

出久根達郎さんが『半分コ』で「芸術選奨」の文部科学大臣賞を受賞=再掲載

 文化庁が3月12日に、第65回芸術選奨の受賞者を発表した。直木賞作家・出久根達郎さんが『半分コ』で文部科学大臣賞を受賞されました。

 この「穂高健一ワールド」で紹介した、推薦図書『半分コ』を再掲載いたします。


【推薦図書】 Kindleサイズ「短編集 半分コ」=出久根達郎


 Kindleサイズの紙の単行本とは考えたものだ。持ち運びが良い。満員電車でも、簡単に読める。なにしろ流行の先端を行っている。
 液晶画面でなく、紙面で読める。あらたな読者層を広めるだろう。


 出久根達郎著「短編集・半分コ」が三月書房かせ出版された。定価は本体2300円である。

 Kindleサイズの出久根さんのアイデアか。それとも出版社か。後者ならば、編集か、営業か。そんな興味もわいてくる。ご本人に訊いてみたいが、想像にとめておこう。その方が楽しい。
 
 直木賞作家で、現代では第一人者の短編小説集だ。軽妙に手軽く読める。気にいった題名から読めばいいだろう。

 人生半ばを迎えた主人公たちが、ふと過ぎし日を想う時、その何気ない言葉やしぐさに心の内を垣間見る。……どこか懐かしく、そしてほろ苦い16の小さな物語。

 『掲載作品』
    半分コ
    饂飩命
    赤い容器
    母の手紙
    十年若い
    お手玉
    空襲花
    符牒
    紀元前の豆
    名前
    薬味のネギ
    校庭の土
    こわれる
    腕章
    桃箸
    カーディガン     

ニューヨークの大停電、私たちはそこにいた=2作品の偶然

 この偶然にはおどろかされた。「元気に百歳クラブ」のエッセイ教室の指導を引き受けてから、約9年に達する。この教室がはじまった頃(2007年2月)に、和田譲次さんが30年間前(1977(昭和52)年に米国・ニューヨークで起きた大停電の体験記を提出してきた。


 大停電自体も当初信じられない思いだったが、和田さんがエンパイアステートビル88階の展望台にいたというから、これにはおどろかされた。まるで大都市停電の空中見学ではないか。すごい場所にいたものだと思ったものだ。

 同教室は1年に10回開催されている。その都度、平均15作ほど提出される。1年ごとに製本されているので、8冊できている。私は単純計算でも、9年間で1350作品を読んで、添削し、講評してきたことになる。
 数多くの作品のなかでも、和田さんのニューヨーク大停電はつよく記憶に残る一つだった。

 それから8年が経った。ことし(2015年3月)の作品で、武智弘さんがニューヨークの大停電の体験記を提出してきた。「えっ」と思った。
 武智さんは女子プロテニス・ゲームを観戦していた最中に停電が起きた。真っ暗闇のマンハッタンは大墓地で、人々がその中を歩いていたという。

 天空の和田さん、大墓地と感じた武智さん、2つの作品に共通するのは、「人間は国籍を問わず助け合うものだな」と、心温まる人間の触れ合いだ。そして、ふたりしてアメリカが大好きになったと記す。ともに、感動作品だった。

 私が書き過ぎると、作品の妙味がなくなるので、ここらで筆を止めます。じっくり味わってください。

ある日のニューヨーク武智 弘

 忘れもしない1977年(昭和52年)7月13日の夕刻、私はデトロイトから 空路ニューヨークに入った。翌日に会社の事務所で報告をすませてから、日本に帰る予定だった。
 ホテルにチェックインした後も連日の猛暑で、また街に出て行く元気は無かった。だが、一人で部屋に居ても仕方がないので、コンシェルジュに電話をして、今夜のイベントを聞いてみた。

 マディソン、スクエアガーデンで女子プロテニスがあるという。出場者を聞くと新聞やテレビでよく見る名前の選手が多かったので、切符を予約して貰って、とにかく行ってみる事にした。


 満員の観衆の中で見るトップクラスの女子プロテニスのゲームは、想像以上の迫力があり、私はぐんぐんと周囲の雰囲気に引き込まれて行った。
 選手たちの気合いの入った掛け声、観衆の拍手、ボールを打つラケットの響きに次第に我を忘れていた。丁度、1時間も経ったと思われる頃、どうした事か、突然館内の照明が全部消えてしまった。

 静まり返った館内に10分程して場内放送が、
「突然の停電で原因は分かりません。回復次第ゲームを再開します」
 という意味の事を何回も言ったけれども、回復する気配は無かった。30分程経っても真っ暗闇は続き、観衆が騒ぎ出した頃また放送があり、
「まことに申し訳ありませんが、この停電は直ぐ回復する見込みはないようなので、今晩のゲームはこれで中止致します。お気をつけてお帰り下さい」
 という事になった。

 冷房の消えた館内は、大観衆のせいもあって急速に暑くなってきたので、観衆は我勝ちに出口に殺到し始めた。私も大勢の人々に押され、突かれ、踏まれながらやっと外に出た。館外に出てから、暫くの間に見た光景は一生忘れがたいものとなった。

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