A020-小説家

幕末史の空白と疑問(3)=尾張藩はなぜ徳川を敵にしたのか

 尾張16代藩主の徳川慶勝(よしかつ)は、尊皇攘夷の立場をとる大名だった。そんな背景から、孝明天皇からも厚い信頼が寄せられていた。
 慶勝は德川家そのものよりも、むしろ朝廷を尊ぶ、尊王思想だったという。

「尾張藩の初代藩主である義直の『王命に依って催さるる事』を秘伝の藩訓としてきた。つまり勤皇思想の家訓を受け継いでいたからです」
 徳川美術館(名古屋市東区)の原史彦主任学芸員がそう語ってくれた。

「禁門の変」で、朝廷に銃を放った長州に対して、孝明天皇は激怒した。長州藩追討の勅命を発したことから、天皇の信頼が厚い徳川慶勝が、第一次長州征伐の征長軍総督になった。(慶勝は当初固辞していたが、全権委任を取り付けて引き受けた)。

 慶勝は兵を進めながらも、平和交渉で外交に勝ち、終戦に持ち込めた。
 長州藩には禁門の変の責任を取らせて、三家老を切腹させた。
「血を流さず、戦費を費やさず」
 慶勝とすれば、最高の平和裏の終結だった。慶喜からは長州の措置が寛大すぎるとして、非難されて、糞みそに言われたことから、慶喜が大嫌いになった。

 第二次長州征伐のとき、慶勝は個人的な慶喜への遺恨から、もはや尾張藩主でないし、病気を理由に出陣もしなかった。

 大政奉還のあと、鳥羽伏見の戦いが起きた。徳川軍は頭から戦うつもりでなく京都への上洛の途中だった。西郷隆盛ら薩長土芸の軍隊に奇襲攻撃されたのだ。

 德川軍は体勢を立て直し、本気で戦う気ならば、まだ勝算があったはず。しかし、慶喜は会津藩主の松平容保を連れ、大阪城の門番の目をごまかし、こそこそと逃げ出すなど、およそ徳川将軍の振る舞いとは思えなかった。軍艦で江戸に逃げ帰ったのだ。

「徳川将軍も地に落ちた」
 それが長州の和平を糞みそに言った慶喜だっただけに、尊王派の思想だった慶勝は、徳川家そのものを完全に見限ったのだ。

 尾張家からは、德川15代将軍に誰一人なっていない、という潜在的な不信感とか、反発もあっただろう。

 慶勝が京都から尾張に帰ってきた日、青松葉事件が起きている。(名古屋城に石碑がある)。同藩の重臣から一般藩士まで及び、斬首14名、処罰20名にのぼったのだ。
 岩倉具視が京都で、慶勝に官軍に旗幟をあげるならば、徳川派の家老たちを切腹させよ、と圧力をかけたという説がある。

 その実、青松葉事件の真相はいまだ幕末史の謎である。名古屋でも研究が進んでいない。最近まで研究発表すらタブー視の面があったようだ。
 なぜか。大切にしてきた德川御三家・三つ葉葵に泥を塗るのか、名古屋人の恥なのか、だれかが傷つくのか。ともかく触れたがらない。
 まだ150年前の出来事だし、それら子孫が現存し、影響力があるからだろう。
  
 慶勝が青松葉事件にどこまでかかわっていたか。それは別として、慶勝が徳川譜代大名たちに600通からの書簡を送ったのだ。
 東海道、中山道、北陸道で、戦わず官軍を通す。 御三家の尾張家から、その書簡は強い影響力を持ったのだ。徳川美術館の原主任学芸員はそう話す。

 西郷の率いる倒幕軍は京都から難なく、東海道を進み、大井川、箱根の山を越えたのだ。西郷と勝海舟との会談に及び、江戸城の無血開城となったのだ。

 討幕。戦い一途な軍隊が、東海道でも、江戸でも戦わない。これでは手柄が立てられない不満分子が何するかわからない。西郷はそのエネルギーを会津藩に向けさせたのだ。
 ここから戊辰戦争が始まったともいえる。やがて会津の落城となり、西郷たちは、会津の財産を根こそぎ奪い取り、「戦争は儲かる」という思想に及んだのだ。

 武力思想に固まった西郷が、明治政府の軍最高責任者となった。こんどは韓国を攻めるぞ、と主張した。西郷の征韓論に待ったをかけたのが、同じ薩摩藩の大久保利通だった。
「韓国を攻めるのは時期尚早だ、富国強兵が優先だ」
 双方がぶつかり、日本では最後の内戦となった西南戦争が起きた。

 明治政府軍は西郷軍を鎮圧後、その軍事力を強めて日清戦争へと向けていく。「戦争は儲かるぞ」とどこまでも戦争国家への道を突き進んでいった。政財界はたしかに儲かり肥った。職業軍人には軍人恩給がつくが、庶民の命は一兵卒として捨てられていったのだ。

 戊辰戦争はまだ150年前である。多くの日本人にいえるのは西郷隆盛、坂本龍馬、勝海舟の英雄に陶酔するだけでなく、自分の曾祖父などは日清戦争か、日露戦争で戦った一兵卒だっただろう、という視点で近代史を見る必要もある。
 それが戦争とは何か、という考え方につながる。

 

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