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エッセイ教室70回記念誌(「元気に百歳」クラブ)=序文

 真夏の太陽が海面にかがやく。波静かな海には富士山に似た大崎上島が浮かぶ。竹原港から乗った中型フェリーが、私の故郷の島に向かっている。この島には橋が架かっていない。瀬戸内海では数少ない離島の一つだ。
 東京に出てきたころ、「島育ち」は田舎者の代名詞のようで、人前で語るのは嫌いだった。故郷が恥ずかしいとさえ思ったものだ。
 本州や四国との間で橋が架かると、離島ではなくなる。大崎上島はいま瀬戸内海で最も大きな離島になった。淡路島、小豆島も離島でなくなったからだ。
 船を使わなければ渡れず、近代化や文化が遅れた、過疎の島と形容できる。しかし、不便さが却って人気となり、メディアに何かと取り上げられている、と島民が教えてくれた。不便さが今後の期待につながっている。故郷は静かに変貌しているのだ。
 大崎上島には血筋の身内がいない。それでも私は故郷に足を運ぶ。若いときには、あれほど帰省すら嫌だったのに、と思う。
「故郷は心の財産だな。精神的な支えだ」
 上陸すれば、なおさらその想いが強まった。


 3・11東日本大震災から、2年半が経った。三陸の大津波の被災地は『海は憎まず』として発刊することができた。その後は、原発事故関連の取材で集中して福島に入り込んでいる。私の故郷に対する、見方、価値観がごく自然に変わってきた。
 双方を取材して、私なりに導いた定義がある。
『三陸は大津波による物理的な破壊、福島は精神的な破壊だった』
 福島・浜通りの住人は原発事故直後、恐怖ともに故郷から追い出された。そして流浪の民になった。
 原子炉の底から沈降した核燃料がメルトアウトしている可能性がある。地下水に触れているかも、と住民はそれを恐れる。数年先、数十年先に、高濃度の放射線に襲われるかもしれない。それすら現状では予測できない。住民はもはや故郷に帰りたくても、帰れない、流浪の民となってしまったのだ。


 年配者やお年寄りは故郷に帰って死にたい、と考える。若者は幼い子を放射線のなかで育てられない、と見限る。親子でも連帯感が失われる。夫婦においても考え方の違い、温度差から、離婚が増えている。故郷を失くした人の心はしだいに廃っていく。
 これら福島の人たちと取材で接すると、故郷がいかに大切なものかと解る。と同時に、広島県の離島が、私の人生の根っ子なのだと再認識させられた。


 このたび70回記念誌が発行できた。それぞれ創作の力量は高まり、完成度の高い作品や、生き方を味わえる良品が多い。実に、読み応えがある。
 エッセイは作者の体験・経験がベースになっている。だから、当事者の作者しか知り得なかった、貴重な証言であり、将来は研究資料、史料的な価値も予測される作品もある。滑稽なエピソードが、読み手としては楽しく愉快な作品もある。さらには夫婦、家族愛、人間愛から胸にジーンと響き、涙する作品もある。

 作者側から見れば、創作作品が冊子になっていると、いつでも読み返せる。人生を回帰できる。作品
そのものが「心の故郷」になっているのだ。
 この意義は大きいと思う。


 関連情報

 「元気に百歳」クラブ・エッセイ教室

明治政府は軍事クーデターによる軍事政権である:正しい歴史認識

 各地で戊辰戦争の取材をしながら、おなじ疑問に突きあたる。なぜ大政奉還の後に、戊申戦争が行われたのか、と問うても、多くが満足に答えられない。それは学生時代に教科書で教わっていないからだ。

 いまや政治家の大半が戦後生まれになった。その政治家すらも、明治政府が軍事クーデターで生れた政権だという、正しい認識を持ちえていない。だから、政治的な弊害がすこしずつ出はじめてきた。

 幕末の徳川政権は統治能力が低下し、政治的継続が不可能と判断し、みずから政権を皇室に返した。それが1867年の大政奉還である。世界史でもまれにみる、平和的な政権移譲だった。ほんらいは日本の誇らしい偉業だった。

 大政奉還から、わずか2か月後には、西洋式軍事訓練を受けた、下級武士階級層が軍事クーデターを起こしたのだ。それが鳥羽伏見の戦いと戊辰戦争だった。成功裏に進み、明治軍事政権ができたのだ。
 

 近年、アジア・中近東で軍事政権が数多く生まれたが、決まって民主的な国家だとカムフラージュする。
 明治政府もたぶんに漏れずだった。薩長土肥の官僚(クーデターの兵士)らによる、初期の教科書作りで、軍事政権だと明記しなかったのだ。
 明治政府は文明開化、富国強兵を推し進める近代国家と称した。それがいまなお引き継がれているのだ。

 新政権を作った志士たちの主義・主張は、「尊王攘夷」だった。攘夷とは外国と通商をしないで鎖国状態を続けることだ。
 江戸幕府のほうは逆に鎖国をやめて開国し、人材を海外に派遣し、すでに外国文化を取り入れていた。
 クーデター政権は、その政策を真似ただけなのだ、

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【推薦図書】 出久根達郎著 「名言がいっぱい」

 人間の性格はそう変わるものではない。ものの考え方、見方は変わる。出久根達郎著『名言がいっぱい』(あなたを元気にする56の言葉)を読んで、そう思った。清流出版、定価1700円+税(9月4日発行)。帯には「心が疲れた……、そんなときに効く あの人のあの名言」と記す。
 それはやや控えめな表現で、出久根さんの内心は、「生き方も変わる、座右の言葉が見つかるよ」と言いたかったと思う。

「名言の背景がわからなければ、名言のありがたみも感動もない。発したものがどういう経歴のかたか知らなければ、通りいっぺんの言葉と聞き流してしまう」。体験から得た言葉は、尊い。そこから元気をもらう、と出久根さんは述べている。

 著者のアドバイスに従って、読者が良く知っている人物、経歴がわかっている、そういう人物から読めば、即座に心にひびく名言に出会う。

 私は幕末史に取り組んでいる今、勝海舟、坂本龍馬、岩崎弥太郎、川路聖謨あたりから、読んでみた。その実、日露修好条約を結んだ川路はあまり好きではなかった。私は下田にもなんどか取材に行った。川路の下田日記が手元にある。他の資料からしても、東海大地震直後のロシア提督との外交交渉は、中村為也(勘定組頭)の苦労に乗っかりすぎている。それで後世に川路の名が残った、と。

 しかし、私は同書から川路を見直した。
「奈良奉行」時代の川路は「おなら奉行」のあだ名をつけられていたとか。奈良では鹿を殺すと死刑であるが、暴れる鹿を取り押さえたが誤って死なせてしまった人に温情判決をしたとか。博打を厳重に取り締まり、与力同心への付け届けを禁じたとか。
 人間としては魅力あるな、という認識に変わったのだ。

 小説家では、夏目漱石、尾崎紅葉、吉川英治、山本周五郎、田山花袋、森鴎外……、と精読させてもらった。周五郎は数多くの文学賞を断る一方で、家計を考えず、ひたすら良い小説を書きつづけていた。タンスの中に夫人の着物が1枚もなかった。
 かれは小説「かあちゃん」のなかで、『貧乏人には貧乏人のつきあいがある。貧乏人同士は隣近所が親類だ。お互いが頼りあい助け合わなければ、貧乏人はやってゆけはしない』と展開する。それら文章が紹介されている。

 尾崎紅葉は親分肌の人で面倒見がよく、弟子たちの文章はていねいに添削し、おめがねに適えば、出版社に売り込んだ。弟子の泉鏡花は「小説作法だけでなく、世間常識、言葉遣い、食事のエチケット、金銭の扱い方、交際法など、人の世に生きるための知恵をすべて教えられた」と語っている。
 私は各講座で、作品の添削をしているので、ここらは肝に銘じるものがあった。
 
 同書から、先入観が変わったのが、二宮尊徳、小林一茶、沢村貞子(女優)、金栗四三(マラソン)などである。

「私はこの物語にずい分悩まされたのを覚えています」(美智子皇后)、「細道を歩む時は、端によけていれば、人は突き飛ばさない」(野口英世の母・シカ)、「長生きをするためには、まず第一に退屈しないこと」(物集高量・もずめたかかず)、目次の名言から入っていった。

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第71回・元気100エッセイ教室=作品の勝負は結末で決まる

 エッセイにしろ、小説にしろ、読者が作品を手にしてから、読んでもらえるか、ポイされてしまうか、それは書き出しで決まります。

 私の友人に、エッセイと小説の双方の「応募作品の下読み」を糧の一つにする作家がいました。かれの話では、100~200編の原稿が送られてきて、約10日間か半月でAからDのランクをつけて、依頼先に返す。C以下は(評価一覧表に記載のみで)、原稿は返さず、廃棄処分にすると話していました。

 AとBは評価理由のコメントをつける。

 
「最初の1-2枚を読んで、ダメなものはどんどん棄てていくんですよ。後でじっくり読みたい作品を別に置いておく。8割くらいは書出しで、ポイしておかないと、これはと思う作品をしっかり読んでコメントする時間が無くなりますからね」
 その友人だけでなく、評論家に聞いても、8割の作品は読むに堪えない、と話す。それらは文章が見劣りする、拙い(C)、基本の文法もわかっていない(D)。8割をはじき出す、アウトにするのは実にかんたんな作業だという。

 作品を最初から最後まで読ませれば、一応の合格点である。(A-B)。一次選考通過、二次選考通過していく。
 そして、編集者が候補作品を選ぶ。

 小説でいえば、どこの文学賞に応募しても、一次選考通過すら、まったく名前が出ないのは、小説を書く以前の状態で、文章を学ばずして、ストーリーで作品が生まれると勘違いしているからです。


 私は何かにつけて「書出し」にこだわり、文章の添削につとめるのは、友人や評論家の話が真実だろう、と考えるからです。
 夢と希望を持って、時間をかけて数か月も、1年以上もかけて作品を仕上げても、ものの3分でポイだと、あまりにも惨めだからです。

 最終候補作品に選ばれると、完成度の高い作品です。あとは選考委員会で、選者の好み、運なども左右します。それはそれとして、決定打はなんでしょうか。作品のエンディングです。

「これは読後感がいい。良い作品だな」
 そう感動させるのは、最後の数行。つまり、作品の評価は「結末」で決着するのです。

『結末に強くなる。結末の力量を高める。結末の落としどころを磨く』
 まず結末まで毎回書かずして、上達などのぞめません。

 作品を勢いよく書きだしても、途中で、あれこれ悩み、投げ出す。別の作品に手を出す。こういう作者はいずれ、書きたい想いばかりで、作品が創れなくなります。
 結末の訓練など覚束きません。あげくの果てには、結末を書く呼吸すらつかめず、失望や創作活動のとん挫で終えてしまいます。

 「書き出したら、何でもかんでも最後まで書く」
 これが身につけば、時どきの出来ばえに甲乙があっても、長い目で見て、確実に作品力が挙がってきます。


【結末のテクニック】

①初稿は多めに書いておいて、うしろの数行、数枚を切り棄てる。カットした先が読後感になる。

②結末は説明文でなく、描写文で終わらせる。映画のシーンのように。

③結末と書き出しと、いちど入れ替えてみる。すると、双方が良くなることがある。

④結末の推敲は念入りにする。誤字・脱字とか、難しく読めない漢字とかがあれば、読後感が悪くなってしまう。


【勝負できる結末】

 ①全体をしっかり受け止めている

 ②作者の言いたいテーマが凝縮している。

 ③導入部(リード文)と、結末がリンクし、題名とも関わっている。

 ここに力量が到達するには、どんな作品でも、途中で投げ出さないことです。そのうえで、結末は何度も書き直して、①~③に近づけることです。

歴史上の人物の描き方=早乙女貢著『世良斬殺』より

 実在した歴史上の人物を小説で描く、その場合はなにが大切か。どんな人間でも長短もあり、裏表もあり、良し悪しの両面が必ずある。それを大前提におくことだろう。作者の先入観、価値観だけで、人物を悪者だ、非道だと決めつけて書くと、歴史観のミスリードになってしまう。

 早乙女貢さんは満州生まれで、生れたふるさとを喪失した、と生前に語っていた。戊辰戦争で、会津落城(開城)で、藩士たちは斗南(青森)に流されて過酷な生活を強いられた。
 会津の悲劇をもっとも世に訴えた作家のひとりだろう。代表作が長編小説『会津士魂』(直木賞受賞作)である。


 私は「戊辰戦争・浜通りの戦い」を執筆することになった。ここ数年、歴史小説から遠ざかっていたので、多少なりとも勘を取り戻すために、江戸時代により近いところで生きていた世代、海音寺潮五郎、村上元三、山岡壮八などの作家の短編集に目を通していた。


 早乙女貢さんが亡くなった年、私は2時間に及ぶロングインタビューをしたことがある。(写真)「薬を飲んだことない、病院に行ったことがない」など元気な語調だったのに、数カ月で逝ってしまった。
 その後、鎌倉・早乙女邸で開かれる「ミニ講演会」も、何度か出向いていたし、会津の早乙女さんの墓参りもした。親しみがある作家だった。

 早乙女貢『世良斬殺』を読みすすめると、言いようのない嫌悪感に襲われた。たとえ悪行に対する批判があったにしろ、地獄の底から現れた人物のように書いたらいけない。それはむしろ作者の偏狭性にすら思えてしまう。

 幾つか取り出してみると、
「世良修蔵は人柄も荒々しく、声も大きく、人相も険悪だった」(世良の写真を見てもそうは思えない)
「長州奇兵隊は狂犬の集まりのようなものだ」
「明治になって、天下を取った長州人の人材の大半が幕末に死んでしまって、残ったのはカスだけだった」
「大島の漁師あがり」(萩の藩校・明倫館に学び、江戸で儒者・安井息軒に学び・塾長代理をつとめる)
「島の荒風と、血のあらしの中で、世良修三という冷酷非常、残忍な性格が醸成されていった」
「世良修蔵の暴虐な行為」
「生り上り者の猛々しく、情の一片もない男であった」
「犬畜生」
 ここまで来ると、もはや文章を拾いたくなくなる。

「東北人は、雪の深い冬を耐えてきている。耐え忍ぶことを知っている」と対比させる。このバランス感覚の悪さはなんだろう。

 世良はなぜ会津の松平容保を憎み、許そうとしなかったのか。早乙女さんは、世良の生まれ故郷・周防大島に脚を運んで、郷土史家たちから話を聞いていない、と推量できる。歴史作家として最も大切な現地取材を放棄した作品だと思う。

 世良が総督府下参謀で、仙台に来たあと、仙台藩士たちが、「会津の松平容保公の武力攻撃はやめてほしい」とくり返し、嘆願した。しかし、世良はいっさい応じなかった。かれの言い方にも態度にも問題があり、仙台藩士らは勘にも触った。世良の悪評がいっきに広がったのだ。


 世良が抱いた松平容保にたいする憎しみは、そのすべては第二次長州征討にある。強引な宣戦布告で、周防大島が突如として、艦砲射撃の砲弾を無差別に撃ち込まれたうえ、幕府陸軍と松山藩に占領されたのだ。占領軍の兵卒は島民に強奪、略奪、婦女の強姦と、惨殺などをくり返す。

 長州藩は、この周防大島に軍勢をまったく置いていなかった。なおさら、占領軍は連日、無抵抗の島民の食料を奪い、抵抗するものは殺し、婦女子を裸にし侮蔑の限りを尽くした。近世日本史の中でも、あまり例がないほど人民を侮蔑し、恐怖に陥れたのだ。

 世良にすれば、「俺たちの島民は何を悪いことをしたというんだ。ふるさとを目茶目茶にされた」という強い恨みがあった。


 第1次長州征討では、幕府が要求した通り長州藩は3人を切腹し、首実検に応じた。これで禁門の変は解決したのだ。
 しかし、一ツ橋慶喜と松平容保は違った。幕府の威厳、意向を見せたくて、その後において、長州藩主・親子を後ろ手に縄にして(罪人として)江戸に連れてこい。なおかつ七卿都落ちの公家もつれてこい、と要求したのだ。

 そんな無理難題は長州が絶対に飲めるはずがないし、拒否をつづけた。さらには桂小五郎と高杉晋作を差し出せ、と要求したのだ。これも拒否する。これは狙い通り戦争への環境づくりだった。一ツ橋慶喜と松平容保は、要求をのまないならば、と帝から長州征伐の「勅許(ちょっきょ)を取って宣戦布告したのだ。(帝は半年間も出ししぶった)。
 大義のない戦いだといい、薩摩、広島、宇和島藩などは出兵拒否だった。

 長州藩は広島藩を通じて、10数回も「戦いを回避してくれ」と願い出ている。
 慶喜と容保のふたりは、権威が失墜してきた徳川家の威厳を取り戻すためだけの戦争だった。
 渋しぶ戦いにやってきた諸藩の兵卒の士気のなさに、如実に表れていた。
 幕閣は一方的に攻撃日を決めると、4か所から討ち入ったのだ。これが第2次長州征討だった。

 世良にしてみれば、「徳川慶喜と、松平容保が一方的に戦争を仕掛けてきて、罪もない島をめちゃくちゃにした。会津は絶対に許さない」と敵意と復讐心に満ちていたのだ。第2次長州征討から戊辰戦争まで、わずか1年半だ。

 現代的に言えば、原発事故でふるさと福島がめちゃくちゃにされた住民にとって、「東電は憎い」。1年半経ったから、まわりから「東電を許してあげください」、と言って許せるだろうか。

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広島藩の藩校「学問所」の取材に行く。そこでみた驚きの史料=修道高校

 小説の執筆「戊辰戦争の浜通りの戦い」で、幕末の広島藩の取材を続けている。主人公は高間省三(20歳で死す)だが、資料が少なくて書き出しからけつまずいていた。
 困難を極めている。ある意味で、それが歴史小説の創作のやりがいになるのだが……。
 
 広島・私立の修道高校の近川俊治事務局長とのアポイントが8月2日、午後3時だった。時間的に余裕ある気持ちで、羽田空港に10時ごろについた。前日のANA確認では空席があった。ところが夏休み入りで全便満席だった。

「まずいな。どうするかな?」
 旅先で、思いがけないアクシデントがあると、とっさの判断が必要になる。それが後のち良い思い出になることがある。かつて広島空港で最終まで待てどもキャンセルが出ず、リムジンでJR駅にもどり、新幹線とか、夜行バスとか、余計な手間をかけて戻ってきたことがある。それも何度かある。

 こんかいは初対面の方だ。なにが何でも広島に行く必要がある。羽田から東京駅に戻り、新幹線となると時間的には厳しかった。空港内のANA発着便のボードを見上げた。電光掲示された△印は、岡山空港と山口宇部空港だった。どっちを選ぶかな。

「宇部空港は海岸だ。そこから電車で、景色のよい海岸線を見ながら、広島駅に行くか」
 その考えは甘かった。宇部についたら昼前だ。新幹線を使わなければ、時間的に間に合わない。

 海岸から、わざわざリムジンで、40分もかけて山奥の新山口駅まで行った。トンネルばかりの山陽新幹線に乗った。こんどは早くつきすぎて、御幸橋の修道高校まで1時間ほど余裕があった。


 原爆ドームを見て、太田川沿いに下ってみた。うかつにも「御幸橋」を勘違いしていた。別の支流だった。方向を変えても公共の乗り物だと、約束時間に間に合わない。ふだん使わないタクシーに乗った。
「ずいぶん遠回りして、交通費をかけたな」
 私は取材で作品を書くタイプだ。だから、取材費がかかるのは承知のうえだが、極力、タクシーなど使わず、その分より多く取材するポリシーを持つ。こんかいはまるで逆だった。

 これまで鳥取藩や岩城平藩、相馬藩の現地取材に出向いた。それなりに足を運んだ価値はあった。ところが、広島はどこに行っても、原爆で資料がないという。
 広島公文書館でも、広島城資料館でも、浅野家の分家があった三次歴史資料館にまで足を延ばしても、収穫はほとんどなかった。それが現実だった。

 高間省三は秀才で、藩校「学問所」の助教だった。修道高校は藩校を引き継いでいる、と広島の郷土史家から最近教えてもらった。
 藩校は全国どこでもエリート高校が引き継いでいる。修道高校は広島県内でも超一流校だ。

 同校の近川さんが応対してくれた。「修道歴史研究会のメンバーならば、もっと詳しいのですが」と前置きして、冊子『修道開祖の恩人 十竹先生物語』が差し向けられた。

 私は山田十竹なる人物は知らなかった。藩校の学問所を実質的に創設したのは、朱子学者の頼春水(頼山陽の父親)という先入観があったので、「開祖の恩人」にはどこか違和感があった。よく見ると、修道の開祖だった。

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心優しく、絵心で、明日をめざす=柏木照美さん

 2013年の梅雨明けが予想よりも早く、連日の猛暑だった。
 7月8日には、東京銀座1丁目のBartok Gallary(バートック・ギャラリー)で開催された、『紙芝居塾7期終了展』に出向いた。午後2時ころだった。地下鉄から会場まで、直射日光の暑さで、胸や背中に汗が流れ出るのがわかるほどだった。
「こんな猛暑の昼間ですから、お客さんはいらっしていません」
 案内状をもらった柏木照美さんが出迎えてくれた。梅雨入りしたばかりの猛暑日は、たしかに出かける人は少ないだろうし、ギャラリーが独り占めできた。


 出品者は10人の展示会で、手作りの創作紙芝居だった。柏木さんの作品は、『おいしい紅茶の入れ方』で8枚の絵だった。
 彼女に頼めば、仲間内のどの紙芝居でも披露してくれる。

『ほこらの龍』(ひぐちりかこ作)を頼んでみた。池に住む龍と村人と、あつれきと交流を描いた、心温かい内容の作品だった。柏木さんの口調はやさしく、擬人法の龍に感情移入できた。
(童心にもどれたのは何十年ぶりだろう)
 たまには童心に帰って、素直に楽しむのは良いものだ。

「私はナイーブなアートを目指しています」
 淡い色合いの作品に特徴がある。それだけに、彼女は「上野現代童画展」にも何度も入選している。

 紙芝居を始めた動機について訊いてみた。「会場は紙芝居と絵画の展示も行っています。私が最初に出品したのは 宮沢賢治の童話『銀河鉄道の夜』を模した絵でした。それをみたギャラリーの女性オーナのジェイン・トビイシさんが、紙芝居を勧めてくれたのです」
 それから毎年出品しているという。物語の創作(ストーリー)、それに紙芝居の絵と、双方に才能が発揮できるので、彼女には向いていたようだ。

 8月には16人による『ありがとうがいっぱいサニー10歳記念展』(江東区・ギャラリーコピス)にも、作品を出品する。作品の売上の一部は東日本大震災チャリティーとして寄付される。

 柏木さんには、絵画とは別の顔がある。13年3月、「日本紅茶協会認定ティーインストラクター」のジュニア資格を習得した。1年間はしっかり勉強して習得したという。次回はおいしい紅茶を入れてもらい、紙芝居を楽しみたいものだ。

大阪も水没するのか。南海トラフで、JR大阪駅には津波が最大5m

「あすは、わが身」
 それが災害列島に住む人間の心構えである。
 大阪の市民は、大地震が来たら、津波を警戒して、地下鉄から逃げた方がいい。私たちは東北と関係ないと思ったら、危ない。


 「南海トラフ巨大地震」で3・11なみの地震規模のマグニチュード9・1が発生すれば、約2時間後には大阪湾が大津波に襲われる、と大阪府は公式に発表した。さきの中間想定の見直しを図ったものだ。

 津波が到達した後、JR大阪駅(北区)など市西部一帯は深さ最大5メートルで水没するという。

 大阪中心部は地下鉄網が発達している。地上が水没すれば、当然ながら、地下に浸水する。津波に襲われたら、地下からは強力な海水の水圧で逃げ切れない。地下街も、地下鉄も水没する。ここまで具体的に発表していないが、簡単に想像がつく。


 一部報道によれば、松井一郎知事は8日の記者会見で、「厳しい想定だが、被害が起きてから『想定外だった』と言い訳することはあってはならない。堤防崩壊を防ぐ強化工事などに力を注ぎたい」と述べている。内心は、地下街、地下鉄の水没など、脳裏に浮かべた発言だろう。

 行政は地下鉄浸水など最大のリスクを明瞭に言わない。これはある種の危機管理の欠如である。

 危険と危機との違いを知ろう。

 危険とは、まったく想定をしておらず、突然、危ない目に遭うことである。
 危機とは、システムの欠陥から、危ない目に遭うことである。行政が明瞭に予測しない地下浸水はシステムの欠陥である。


 穂高健一著『海は憎まず』でも、東北地方で行政が定めた「広域避難所」が低地すぎて、大勢の人が死んでいる、と被災地の事例を取り上げている。行政の方々も多く亡くなっているから、一概に批判もできない。だが、この経験は生かさなければならない。
 同書では、大都会が津波に襲われた場合の、地下鉄の危険性なども取り上げている。

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高校生の教科書から「漢字」を学ぶ=書宗院展

 第57回「書宗院展」が東京銀座画廊美術館の7階で開催された。最終日の7月28日に展示会に出かけた。書家・吉田翠洋(本名・吉田年男)さんの作品が出展されていた。

 書宗院展は古典の書を手本にした、書道である。歴史に名を成す大家に、より近づこうとするものだ。展示品は、たとえ模したにしても、古代から現代まで、名家の書を見られるのが特徴だ。今年は高校生の部の出品があり、制服姿の男女生徒らも会場で作品を観ていた。

 「書聖なる王義之らの生きた時代に思いを巡らし、その息子・『王献之尺牘』の書を出展しました」と吉田さんは語る。


 吉田さんから会場で、興味深い話を聞くことができた。

「楷書があって崩し文字が生れた、と多くの人が信じていますが、それは逆なんです。紀元前1300年ころの甲骨文(こうこつぶん)から、文字は始まっているのです」
 甲骨文を含めた篆書(てんしょ)、そして草書(そうしょ)、行書(ぎょうしょ)、楷書(かいしょ)の五書体が順次生れた、と話す。

 それが2013年度の高校教科書(書道)に出ているという。その実、吉田さんは教え子が書道教室にその教科書を持ち込んでいたので、それを見て知ったと話す。

 吉田さんは一つひとつ解説し、丁寧に教えてくれた。

「篆書」ということば自体はふだん聞きなれない。中国で生まれた最も古い書体で、甲骨文、金文(きんぶん)、小篆(しょうてん)を含めているという。秦の始皇帝時代に確立している。

 左右相称で曲線が多い。ただ、書写には時間がかかる そこで簡素化して前漢時代に隷書(れいしょ)が出現した。躍動感があふれる、動的な美しさだという。

 次に生まれたのが、日常の手紙などの早や書き用として、「草書」である。それは前漢の時代だった。「行書」は後漢に表れはじめた。双方とも、実用的に文字として発達してきたのだ。

「楷書」の兆候は早くにあったが、長い歳月をかけ、合理的な文字として、唐の時代に完成した。それが現代まで続いている。その後には新しい書体が生まれていない。
「明の時代、新の時代にはりっぱな書家はいるが、現在と同じです」と吉田さんは教えてくれた。

 こうした一連の記載が高校教科書(書道)に載っている。教科書からも、学ぶものも多いな、という思いを持った。

夏のPEN例会で、「思想・表現の自由」の重要性を再認識する

 日本ペンクラブ七月例会が7月16日午後5時30分から、千代田区の東京會舘で開催された。
 浅田会長は冒頭の話題として、7月の35度が4日間もつづいた猛暑を取り上げた。昭和元年から同20年まで35度の日は1回しかなかった。さらに昭和時代はわずか数日で、それも連続35度は一度もなかった。平成時代に入ったいまの異常気象を語る。
 浅田さんはパソコン(ネット)をやらない。書斎にはそれらの知識を引き出せる本が積まれている口ぶりだった。

 毎回、例会では20分間のミニ講演がある。佐藤アヤ子さん(明治学院大学教授)がタイトル『国際会議に参加して』のスピーチを行った。日本の文学作品がもっと海外に翻訳出版される、そうした体制を作るべきだと強調していた。

 パーティーに入ると、野上暁さん(常務理事・写真右)と、6月21日の日本ペンクラブ「憲法九十六条改変に反対する」声明と記者会見の内容について語りあった。
「野上さんの説明はとても解りやすかったです。中学生、高校生でも理解できるように……」
 その会報記事(写真・文)を担当する私は、記者会見の場を取材していた。

「総選挙の低い投票率を考えると、全有権者の3分の1くらいで議員に当選している。その議員が3分の2で憲法改正を発議しても、国民の総意からすれば少ないくらい。それなのに、議員の半数で拳法が改定なんて、暴論ですよ。国民の総意をまったく反映していない」
 野上さんはそう強調されていた。

 憲法と法律の違いについて、吉岡忍さんの説明も解りやすかった、と2人して話す。

『憲法は国家権力がどういう範囲内で、行政、立法、司法をやってよいか、と政治の枠組みを定めた、為政者の行動を規定するもの。法律とは国民の行動を規定するもの』
 一般の法律のように、議員の半数で憲法が改定される、とハードルを下げてしまえば、衆参の半分以上の議席を取った与党がそれだけで、憲法改正の発議ができる。時どきの政府が自由に憲法を変えれば、社会の根幹を変えてしまう、と吉岡さんは記者会見で説明していた。

 このさき憲法を改正し、「公共の秩序の維持」、という甘い言葉で法律までもが変えられたら、まさに官憲の弾圧を招いた、戦前の治安維持法の暗黒の時代に逆戻りする。九条とともに、重要な問題である。それは野上さんと私の共通認識だった。

 日本ペンクラブの約1800人には、多種多様な考え方、見方、思想がある。思想信条の自由がある限り、それぞれが自身の意見を述べていくべきだろう。それが作家の役目の一つだと考える。

 夏場のパーティーは毎年、出席者が少なめである。およそ200人くらいだろう。国際弁護士の斎藤輝夫さん(ニューヨークにも事務所)から声をかけられた。
「ネットで日本ペンクラブを検索していたら、穂高さんのHPにヒットしました。多彩な活動で読み応えがありますね」と妙に感心された。
 斎藤さんはこのたび国際委員会に任命されたという。同委員長とはまだ面識がない、と話す。ミニ講演の佐藤アユ子さんが同委員長である。私はよく知る人だ。
「ご紹介しますよ」
 彼女のいる場所に案内した。二人は国際通だから、すぐに打ち解けていた。


 その場を離れると、吉岡忍さんが声をかけてきた。
「2、3日まえに、(穂高)着歴があったけど?」
「轡田さんが立石に来るから、ひと声かけてみようか、と思っただけですよ」
 すぐに返事をもらえる吉岡さんだけに、忙しさは読み取れたと話す。
「いまメチャメチャ忙しくて。電話をかける余裕すらなくてね。実はTVドキュメントとの審査委員長で、ずっと映像を見っぱなし。9月の立石の飲み会は10月にしてよ」
「9月末か、10月に設定しましょう」
 弁護士の斎藤さんも、講談師の神田松鯉さんも楽しみにしている。

「海は憎まず」の話題が吉岡さんから(帯を書いてくれた)出てきたので、私はいまフクシマ取材をしていると近況を話した。
 先日は飯舘村の村長に取材しましたよ、と補足した。
「ぼくもあの村長に会ったよ。飯舘はしっかり追いかけると、これまでにない作品が生まれるよ。日本人が誰も描かなかったものが……」
 時代の切り口が鋭い吉岡さんだ。フクシマ小説に対するいくつかのヒントを頂いた。


 ととり礼二さんに会ったので、先月は幕末因州藩の取材で鳥取市に出向きましたよ、と戊辰戦争の一部を語った。

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