安倍首相と重なり合う、長州の軍事国家への道(上)=幕末史から学ぶ
こんな危険な安倍晋三さんを、だれが内閣総理大臣に選んだのか。途中で政権を投げだした人を、再度、首相にさせたのか。この選択肢の誤りは、将来の遺恨につながるだろう。
そう言いたくなるほど、安倍首相の一連の動きは、当人の意識・無意識にかかわらず、まちがいなく軍国の道へと歩んでいる。
幕末の長州藩がいかに乱暴な、軍事色の強い藩だったか。それと安倍政権はずいぶん重なり合うものがある。
後世の人から見れば、安倍首相ひとりのせいだ、といえないのだ。私たちが手を貸そうが、貸すまいが、政権を黙認してきた、社会の一員なのだ。安倍首相から政権を取り上げる努力を怠っておいて、軍国への道を走らせてきた。私たちは、その一切を時代のせいにはできないのだ。
「鳥羽伏見の戦い」以降は、長州藩の暴走は目に余るものがある。それでも反旗を翻せず、徴兵制を認め、軍事国家の道を表向きは賛辞してきたと、その時代に生きた人たちの責任になる。
いち個人の力だけではとうてい抵抗できず、わが身を守れず、治安維持法で口をふさがれ、1枚の赤紙で戦地に借り出されて死んでいく。妻子は本土空爆や原爆で家屋を焼かれ、死んだり、飢えていく。
鳥羽伏見の戦い以降は、日本は血の歴史だった。それでも、その時代に生きた人は、時代のせいにできない。
安倍首相が「不戦の戦い」とか、「戦没者への哀悼の誠」とか、どんなきれいごとを述べようとも、長州藩の軍事優先思想が、戦争の大悲劇を招いたのだ。その道が底流でいまなお引き継がれている。
現代の政治、昭和の歴史をあきらかにするには、明治維新まで遡らなければならない。
幕末の長州藩はひたすら「攘夷」を叫び、下関の砲台から外国船に砲弾を撃ち込む。翌年には仕返しに、四か国連合艦隊に襲われてしまう。むろん、犠牲になったのは藩士よりも、民・領民である。
蛤御門の変では、長州藩士たちは京都御所に発砲し、たんに退却すれば良いものを、京都の町に火を放つ。大火災が、京都庶民や住民の資産を焼きつくす。現在において、もしわが個人資産が一瞬にして灰になれば、どんな悲しい想いになるだろうか。
戦いの大義すらあれば、民の生命財産などどうでもよい。少なくとも、長州藩には庶民への配慮がなさすぎる戦いが多い。わが身に置き換えれば、どれだけ罪な行為か、理解できるはずだ。
長州はなにかと「薩長同盟」で倒幕した、と誇らしげにいう。けれど、これは嘘の歴史である。かれらが後世につくった、政治的なまやかし(欺瞞)である、と断言できる。
慶応3年の大政奉還で、徳川幕府から朝廷に、政権が平和裏に返還された。長州藩はこの大政奉還にまったくかかわっていない。朝敵で、京都にすら入れなかったのだ。
(一部の藩士は隠密的に偵察していたけれど。これが後世に英雄として誇張されている)。
大政奉還後、慶応3年11月末、(龍馬と中岡慎太郎が暗殺された直後のころ)、薩摩藩と広島藩は京都へと兵をあげた。会津・桑名藩と御所警備に代わる、近衛兵の役が目的だった。
幕閣がもともと、「毛利家の家老を、長州征伐の罪を問うから、京都に連れて来い」と命じている。そこで薩摩と広島藩は、毛利家老の護衛を口実に使おうと決めた。つまり、長州はダシだった。
「ならば、長州藩の兵も一緒につれて来よう」
薩摩と広島はそう決めた。広島県・御手洗港に3藩が集結し、長州軍艦には広島藩の旗を掲げさせた。そして、淡路沖までくると、その船内と、西宮に駐留する大洲藩の陣内で、長州藩兵をかくまっておいたのだ。
なにしろ暴走する藩だ。とくに広島藩などは隣国で十二分にわかっていたから、広島藩士・船越洋之助が大洲藩に、「長州を西宮に上陸させるから、そのまま引き留めておいてくれ。朝敵だから、京都に来させないでくれ」と依頼しているのだ。大洲藩はそれを守り切った。
小御所会議で、明治政府が正式に誕生した。長州はこの場にも関わり合っていなかった。つまり、倒幕に役立つ藩ではなかったのだ。
