ジャーナリスト

坂本龍馬を美化しない、だからこそ龍馬のすごさがわかる=「島へ」53号

 雑誌「島へ」53号が4月1日に発売された。「坂本龍馬と瀬戸内海」シリーズの2回目となる。今回はいろは丸事件だ。
 龍馬の率いる海援隊の蒸気船・いろは丸(商船)が、紀州藩の軍艦と衝突し、沈没した事件だ。
 海援隊は全国から脱藩浪士ばかり集めた、貿易・政治結社だった。相手は水戸黄門で同じみ、葵のご紋の紀州藩だ。そこから約8万3000両を賠償金として取った。

 衝突回避は国際法で、双方の右旋回を義務づけけられている。このルールを守れば、たがいにすれ違える。しかし、いろは丸は逆に左旋回した。そのために衝突、沈没した。
 
 多くの学者や研究者たちは、「当夜は霧が深く、突然、紀州藩の船が現れた。すでに目と鼻の先といった緊急事態だった。いろは丸は臨機応変に左に舵(かじ)を切った。だから、決して悪くない」という、こんな作り話が主流だった。
 英雄・龍馬が悪い、と書けない雰囲気が脈々と続いてきたのだ。

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「倒幕同盟に芸州」「竜馬の功績に新説」の見出し=東京新聞

 雑誌「旅へ」52号(2月1日)で、私は「坂本龍馬と瀬戸内海」のシリーズもので、「四藩連合の軍事同盟は大崎下島で結ばれた」という記事を書いた。東京新聞特別報道部の記者・秦淳哉さんから、「たいへん興味を覚えました、わが社でも、ぜひ取り上げたい」と連絡があり、快く取材に協力した。


「薩長同盟だけでは江戸800万石の徳川幕府を倒せるはずがない。それに土州(土佐藩)が加わったにしても、ムリである。西日本最大の雄藩である芸州藩(広島)が加わったから、徳川を倒せた」
 私は秦記者にたいして、そのような考えを述べた。
「毛利元就が関が原の戦いで、徳川に敗れた、という積年の恨みが芸州にある。だから、精神的にもすんなり加われたと思う。龍馬には、その辺りの読みがあって芸州に接近したのではないか」と、作家としての想像も語った。


 東京新聞3月21日(日)の朝刊「こちらは特報部」のコーナーにおいて「倒幕同盟に芸州」というタイトルで、見開き2ページで、大きく取り上げられた。


 この四藩軍事同盟の発掘は、1936年発行「維新志士 新谷翁の話」という文献の発見によるものだ。その書物によると、慶応3年11月3日から3日間の御手洗の密議がおこなわれた。大久保利通、桂小五郎、山形有朋、後藤象二郎、池田徳太郎など十数名という、そうそうたるメンバーだ。
 この密議で、四藩が急いで京都に兵糧を送る、と軍事同盟が成立した。(約2ヵ月後には鳥羽伏見の戦いで、徳川軍を破った)


 もし徳川に敗れたとき、この志を誰が後世に伝えるか、という話題が出てきた。皆の年齢を確認した龍馬が、最も若い新谷道太郎を指名した。
「(伝承)責任は君にあるぞ。ただ急いで口外するな。口外したなら、君はすぐ殺されるぞ。どのようなことがあろうとも60年は黙っておれ。60年経てば、皆死んでしまう。その後で言え。いかに佐幕の者でも、その子孫が怒りを継いで、君を殺しには出てくまい」
 龍馬は助言している。
 新谷道太郎は60年余、沈黙を守った。そして、昭和に入って、この事実を語ったのだ。


 龍馬は四藩軍事同盟が成立させた、翌7日に御手洗を出発した。8日後の同月15日に、京都の近江屋で暗殺されたのだ。あまりにも悲痛な話だ。
 龍馬が芸州藩を巻き込んだからこそ、徳川幕府が倒せた。四藩軍事同盟こそが龍馬の最大の功績だった思う。この事実をもっと世に知ってもらいたいと思う。
 東京新聞の記事の一節、「歴史を覆す新事実となるか」という秦記者の文章からも、8日後の死という悲劇の龍馬にたいする熱い想いが感じられた。

取材こぼれ話、店名のない美味しい、お好み焼き屋=鞆の浦

 鞆の浦は、瀬戸内海の中心に位置し、江戸時代に発達した、商港だ。帆船時代は潮待ち、風待ちに最適な港だった。

 当時の面影が数多く残る。歴史的、伝統的な価値が高い。鞆の浦港や仙酔島の情景は国内でも最上のものだけに、大勢の観光客でにぎわう。

 医王寺への登り口には、木造家屋の「お好み焼き屋」があった。暖簾(のれん)も店構えもどこか古い。昭和の最盛期に流行っていたような店だ。一見して、観光客あいてではない、とわかる。港に出入りする船員、漁船員たち、それに地場の人たちがお客だろう。

 店内に入ってみた。鉄板の回りでは、地場のおばさん2人がお好み焼きで、昼食を取っていた。昭和時代の雰囲気が読み取れた。
「こっちに座りんさい」
 お客どうしが隣り合わせに座った。

 店主の玉井恵子さんが、鉄板の上で器用にお好みを焼く。彼女の話によると、鞆の浦・元町にはかつて「お好み焼き屋」が7軒ほどあったという。
「この元町では、もう1軒だけよ。うちだけになった」
 バス停近くには観光客あいてお好み焼きはあるけれど、と補足していた。この店を選べてよかったと心から思えた。
 店名を聞いたけれど、特にないと笑って答える。
「はい、どうぞ」
 多めにソースを塗ってもらった。その味が格別だ。

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瀬戸内・取材こぼれ話し=仙酔島

 雑誌社の依頼記事の取材で、鞆の浦、仙酔島に行った。鞆の浦は昨年の暮れから立てつづけに3度だった。同港から「平成いろは丸」に乗り、5分で仙酔島に着く。その島は先月に続いて2度目の訪問だった。

 鞆の浦港の発着所から「平成いろは丸」が20分ごとに出航する。出札口に着いたとき、まさに同船は岸壁のロープをはずし、出航寸前だった。舳先に立つ船員が、私の姿を見、乗せてくれる雰囲気で「乗船券は買っているかい?」と聞いた。
市営の連絡船だし、お役所仕事でなく、親切だな、と思った。
「これから買うけど」
「じゃあ、だめだ。次だ」
 船は定刻運航を優先し、すぐさま鞆の浦港を離れていった。


 次の船便までは待合室のベンチで待つ。ノートパソコンを取りだした私は、撮り立て写真の処理をはじめた。記事に関連する写真を中心に、セレクトをはじめた。ひとたびはじめると、区切りがつかなくなり、他方で、仙酔島へ急ぐこともないし、と次の船便、さらに次の便も、とやり過ごした。
 小1時間ほどで、撮影写真のセレクトのメドがたった。

「平成いろは丸」の乗船券は、待合所の自販機で発券されている。往復券で、片道券は売られていない。鞆の浦と仙酔島には橋はないし、この連絡船だけだけだから、当然だろう。
「帰りは必要ないから」
 その往復券は改札所で回収されてしまった。
 片道は船、帰路は泳いで帰る人はいないのかな、と考えてみた。

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龍馬はなぜ大崎下島で、徳川幕府を倒す4藩軍事同盟を推し進めたのか

『島へ』52号に掲載した「坂本龍馬と瀬戸内海」について、読者からの反響があった。いくつか紹介したい。と同時に、穂高の見解で補足してみます。

「これまで、薩長で徳川幕府を倒したと、教わってきました。2藩で倒されるほど、江戸支配の800万石の徳川は脆弱だったのか。東京人としては長い間、悶々としていました。今回の記事で、龍馬が広島を巻き込み、4藩で徳川を倒したといわれると、すっきりした」(植木さん・目黒区)


  芸州(広島)藩は、西日本一の雄である。豊富な軍資金と兵器と物量をもつ。徳川幕府についたままならば、薩長土にとっては大きな障壁となる。巻き込めば、徳川を倒せる可能性がある。重要なキャスチングポートだった。(穂高)


「私は会津出身です。薩長土の3藩はよく思っていません。龍馬が西日本の大きな芸州藩を巻き込んだから、徳川が倒せた。それについては納得できました。会津は犠牲になりましたけど」(鈴木さん・江戸川区)

 龍馬はあえて広島藩・大崎下島の新谷道太郎宅(寺の住職宅)に3藩の主力メンバーを集めたうえで、同藩との軍事同盟を結んでいた。(道太郎述書より)
 芸州藩はその直後、御手洗港から倒幕の軍兵を送り出している、という明確な出兵事実がある。(穂高)


「親父が九州の海運業だったから、瀬戸内航路の特徴は良くわかります。薩摩藩(九州の最南端)、長州(本州の外れの日本海側)、土佐藩(四国の外れ)で地の利が悪い。京の都や江戸から最も遠い藩。薩長土で戦うとなれば、瀬戸内海を通って大阪湾から京都に上がる必要がある。もし、芸州藩(広島)が戦略的に瀬戸内を封鎖したら、3藩は身動きがとれなかったはずです」(東さん・福岡)

 御手洗の周辺は潮流が早くて、汽帆船でも港に入って潮待ちしないと航行できない。芸州藩が薩長土の船を港に入れてくれなければ、兵力は送れなかったはずだ。(穂高)

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龍馬の謎が解明! 暗殺される9日前に、4藩軍事同盟が結ばれた

 隔月誌『島へ』52号が2月1日に全国の書店で発売さる。私は「坂本龍馬と瀬戸内海」シリーズ・3回連載を約束し、第1回目として『4藩連合の軍事同盟は大崎下島で結ばれた』というタイトルで、龍馬の遺業を取りあげた。


 幕末史に新たな1ページとなる、斬新な取材記事が掲載できた。

「坂本龍馬に、こんな事実があったのか。京都で暗殺される9日前、龍馬は極秘に大偉業を成立させていたとは……」
 だれもが驚愕(きょうがく)するだろう。と同時に、これまで以上に、龍馬の大きさを知るはずだ。
 幕末研究の歴史家、維新志士を描く作家たちは、新たな事実として、対応する必要があるだろう。


 慶応3年11月6日、龍馬の主導の下に、4藩の志士が「巨大な徳川を倒す」という君命で密議を行った。場所は瀬戸内の大崎下島・御手洗港から約1.5キロ奥まった寺で、住職の宅だった。幕末志士の新谷道太郎(にいや みちたろう)の生家である。そこに集まった十数人の志士たちが、3日間の密議を行い、極秘の4藩軍事同盟を結んだのだ。

 4藩軍事同盟の参加者たちを列記しておこう。

芸州藩 池田徳太郎、加藤嘉一、高橋大義、船越洋之助、星野文平
薩州藩 大久保一蔵(利通)、大山格之助、山田市之丞
長州藩 桂準一郎、大村益次郎、山縣狂介(有朋)
土州藩 坂本龍馬、後藤象二郎

 これから徳川と戦う。志士たちには、確固たる勝算が見えない。全員が決死の覚悟だった。
「明日にも知れず散る生命。死ねば暗に葬られる。どうして後世に伝えようか」
 大村益次郎の発言に対して、
「皆が死んでしもうたら、誰が伝えるんか。ここは一番年若い者、だれか一人が生き残り、われら忠義の志を後世に伝えねばならぬ」
 龍馬が指名したのが、最も若い道太郎だった。
「急いで口外するな。口外したなら、君はすぐ殺されるぞ。どのようなことがあろうとも、60年は黙っておれ」
「なぜ60年間も待たねばならぬか」
 道太郎が龍馬に問うた。
「これから60年すれば、皆死んでしまう。その後で言え。いかに佐幕の者でも、その子孫が怒りを継いで、君を殺しには出てくまい」
 そう指図した龍馬は翌日、御手洗港を発った。京都に上り、真っ先に殺されたのだ。

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困ったことが起きた。そこから、潜水夫の体験談が聴けた

 東京からの夜行バスで、今治桟橋(愛媛県)に着いた。9時発の御手洗(大崎下島・広島県)港行き切符は自販機で買い求めた。桟橋に出たが、今治―御手洗-川尻航路のそれらしき定期船も、乗客もいない。いやな予感がした。ひとたび待合室に戻り、念入りに刻表を見てみると、9時発は土、日のみだ。平日は6時05分、次の午後2時30分だった。航路案内図を見て、どうみても今治港から大崎下島までの船便はそれしかないない。

 雑誌の仕事で、御手洗(写真・右)では9時半に郷土史家、さらには忠海駅(竹原市)で取材協力者に会う約束が午後3時だ。
「こまったな……。今治でただ6時間も待たされるのか」
 まさに無意味な時間だ。それ以上に、アポイントをとっている人に迷惑がかかる。一泊余分になってしまう。

 大崎下島には橋が架かっているが、それは本州の呉市からだ。四国からだと、今治―川尻航路しかない。

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東京・葛飾区「かつしか区民大学」のプレ事業の講師に決定

 東京・葛飾区では、来春から『かつしか区民大学』が開校する。その準備が進められている。
 今年の秋からはその予行として、区民大学プレ事業がスタートする。いくつかの講座が開講するが、私はその一つを受け持つことになった。
 講座名は『ジャーナリストがやさしく伝授する 写真と文章で伝える私のかつしか』で、6回シリーズである。11月13日が第1回の講座となる。

 情報化時代とは情報の「受け手」と「発信者」との境がなくなった社会だといえる。一般市民も地域情報の発信者になれる。葛飾区の情報を発信できる、地域・ミニ記者の養成講座である。

 主催者と打合せをしてきた結果、「上手な写真の撮り方」「上手な文章の書き方」という二面の指導内容で決まった。野外の撮影と文章スケッチの指導もある。

 具体的には、受講者は街なかの風景、家族、建物、草花、史跡、名物などを撮影してきて、やさしい説明文をつける。テーマ「身近な葛飾、ちょっと自慢の葛飾、おしえてあげたい葛飾」の下、ブログや冊子で、情報を発信できるように指導していく。

 受けて側が興味をもつ、上手な情報提供ができる。これを主目的としたい。

 
関連情報

かつしか区民大学プレ事業

東京のサラリーマン・OLたちの昼休みの群像=神田(1)

東京のお昼どきの顔。「昼の群像シリーズ」ものとして紹介していきたいと、カメラをもって、まず神田駅で下車してみた。

西口に行くか、南口に行くか。駅のプラットホームから街並みを比べてみた。西口は皇居側だが、みるから雑然とした町だ。そちらは夜ともなれば、庶民が集る飲み屋街だと知る。
 昼間の神田の顔。そこに興味をもち、西口にむかうことに決めた。


 江戸時代から、神田は庶民の町だった。昭和には青果市場などがあった。
その面影の一端が感じられる、庶民的な西口商店街だった。


      

   商店街には、数多くのラーメン屋があった。昼食どきだから、店内は満席。
    店の外はサラリーマンや職人たちが長い行列をつくる。
    列の長さは味を判断する、バロメーターかもしれない。

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北欧クルーズ「バルト海」の写真=久能康生さん・寄稿・写真(1)

 久能さんは一年間に数回、海外旅行をしています。風景写真を得意としています。その都度、「穂高健一ワールド」に寄稿してもらっています。
 今回は、メインタイトル「バルト海」の写真を提供してもらいました。連載で、紹介します。

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 コペンハーゲンの港街ニューハウンの8pm。待望の夏を市民と観光客が入り乱れて楽しむ。(右)

 コペンハーゲンと言えばここ。でも、ご覧のとおりの大混雑。
 ならばボートで海上から後姿を。



 チボリ公園は24:30まで営業。
 嬉々とした家族連れや若者グループに市民の素顔が見られる。
            

 奮発して泊まった市庁舎広場前のパレスホテル。しかしあっけないほど簡素なサービスに驚く。

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