ジャーナリスト

瀬戸内・取材こぼれ話し=仙酔島

 雑誌社の依頼記事の取材で、鞆の浦、仙酔島に行った。鞆の浦は昨年の暮れから立てつづけに3度だった。同港から「平成いろは丸」に乗り、5分で仙酔島に着く。その島は先月に続いて2度目の訪問だった。

 鞆の浦港の発着所から「平成いろは丸」が20分ごとに出航する。出札口に着いたとき、まさに同船は岸壁のロープをはずし、出航寸前だった。舳先に立つ船員が、私の姿を見、乗せてくれる雰囲気で「乗船券は買っているかい?」と聞いた。
市営の連絡船だし、お役所仕事でなく、親切だな、と思った。
「これから買うけど」
「じゃあ、だめだ。次だ」
 船は定刻運航を優先し、すぐさま鞆の浦港を離れていった。


 次の船便までは待合室のベンチで待つ。ノートパソコンを取りだした私は、撮り立て写真の処理をはじめた。記事に関連する写真を中心に、セレクトをはじめた。ひとたびはじめると、区切りがつかなくなり、他方で、仙酔島へ急ぐこともないし、と次の船便、さらに次の便も、とやり過ごした。
 小1時間ほどで、撮影写真のセレクトのメドがたった。

「平成いろは丸」の乗船券は、待合所の自販機で発券されている。往復券で、片道券は売られていない。鞆の浦と仙酔島には橋はないし、この連絡船だけだけだから、当然だろう。
「帰りは必要ないから」
 その往復券は改札所で回収されてしまった。
 片道は船、帰路は泳いで帰る人はいないのかな、と考えてみた。

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龍馬はなぜ大崎下島で、徳川幕府を倒す4藩軍事同盟を推し進めたのか

『島へ』52号に掲載した「坂本龍馬と瀬戸内海」について、読者からの反響があった。いくつか紹介したい。と同時に、穂高の見解で補足してみます。

「これまで、薩長で徳川幕府を倒したと、教わってきました。2藩で倒されるほど、江戸支配の800万石の徳川は脆弱だったのか。東京人としては長い間、悶々としていました。今回の記事で、龍馬が広島を巻き込み、4藩で徳川を倒したといわれると、すっきりした」(植木さん・目黒区)


  芸州(広島)藩は、西日本一の雄である。豊富な軍資金と兵器と物量をもつ。徳川幕府についたままならば、薩長土にとっては大きな障壁となる。巻き込めば、徳川を倒せる可能性がある。重要なキャスチングポートだった。(穂高)


「私は会津出身です。薩長土の3藩はよく思っていません。龍馬が西日本の大きな芸州藩を巻き込んだから、徳川が倒せた。それについては納得できました。会津は犠牲になりましたけど」(鈴木さん・江戸川区)

 龍馬はあえて広島藩・大崎下島の新谷道太郎宅(寺の住職宅)に3藩の主力メンバーを集めたうえで、同藩との軍事同盟を結んでいた。(道太郎述書より)
 芸州藩はその直後、御手洗港から倒幕の軍兵を送り出している、という明確な出兵事実がある。(穂高)


「親父が九州の海運業だったから、瀬戸内航路の特徴は良くわかります。薩摩藩(九州の最南端)、長州(本州の外れの日本海側)、土佐藩(四国の外れ)で地の利が悪い。京の都や江戸から最も遠い藩。薩長土で戦うとなれば、瀬戸内海を通って大阪湾から京都に上がる必要がある。もし、芸州藩(広島)が戦略的に瀬戸内を封鎖したら、3藩は身動きがとれなかったはずです」(東さん・福岡)

 御手洗の周辺は潮流が早くて、汽帆船でも港に入って潮待ちしないと航行できない。芸州藩が薩長土の船を港に入れてくれなければ、兵力は送れなかったはずだ。(穂高)

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龍馬の謎が解明! 暗殺される9日前に、4藩軍事同盟が結ばれた

 隔月誌『島へ』52号が2月1日に全国の書店で発売さる。私は「坂本龍馬と瀬戸内海」シリーズ・3回連載を約束し、第1回目として『4藩連合の軍事同盟は大崎下島で結ばれた』というタイトルで、龍馬の遺業を取りあげた。


 幕末史に新たな1ページとなる、斬新な取材記事が掲載できた。

「坂本龍馬に、こんな事実があったのか。京都で暗殺される9日前、龍馬は極秘に大偉業を成立させていたとは……」
 だれもが驚愕(きょうがく)するだろう。と同時に、これまで以上に、龍馬の大きさを知るはずだ。
 幕末研究の歴史家、維新志士を描く作家たちは、新たな事実として、対応する必要があるだろう。


 慶応3年11月6日、龍馬の主導の下に、4藩の志士が「巨大な徳川を倒す」という君命で密議を行った。場所は瀬戸内の大崎下島・御手洗港から約1.5キロ奥まった寺で、住職の宅だった。幕末志士の新谷道太郎(にいや みちたろう)の生家である。そこに集まった十数人の志士たちが、3日間の密議を行い、極秘の4藩軍事同盟を結んだのだ。

 4藩軍事同盟の参加者たちを列記しておこう。

芸州藩 池田徳太郎、加藤嘉一、高橋大義、船越洋之助、星野文平
薩州藩 大久保一蔵(利通)、大山格之助、山田市之丞
長州藩 桂準一郎、大村益次郎、山縣狂介(有朋)
土州藩 坂本龍馬、後藤象二郎

 これから徳川と戦う。志士たちには、確固たる勝算が見えない。全員が決死の覚悟だった。
「明日にも知れず散る生命。死ねば暗に葬られる。どうして後世に伝えようか」
 大村益次郎の発言に対して、
「皆が死んでしもうたら、誰が伝えるんか。ここは一番年若い者、だれか一人が生き残り、われら忠義の志を後世に伝えねばならぬ」
 龍馬が指名したのが、最も若い道太郎だった。
「急いで口外するな。口外したなら、君はすぐ殺されるぞ。どのようなことがあろうとも、60年は黙っておれ」
「なぜ60年間も待たねばならぬか」
 道太郎が龍馬に問うた。
「これから60年すれば、皆死んでしまう。その後で言え。いかに佐幕の者でも、その子孫が怒りを継いで、君を殺しには出てくまい」
 そう指図した龍馬は翌日、御手洗港を発った。京都に上り、真っ先に殺されたのだ。

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困ったことが起きた。そこから、潜水夫の体験談が聴けた

 東京からの夜行バスで、今治桟橋(愛媛県)に着いた。9時発の御手洗(大崎下島・広島県)港行き切符は自販機で買い求めた。桟橋に出たが、今治―御手洗-川尻航路のそれらしき定期船も、乗客もいない。いやな予感がした。ひとたび待合室に戻り、念入りに刻表を見てみると、9時発は土、日のみだ。平日は6時05分、次の午後2時30分だった。航路案内図を見て、どうみても今治港から大崎下島までの船便はそれしかないない。

 雑誌の仕事で、御手洗(写真・右)では9時半に郷土史家、さらには忠海駅(竹原市)で取材協力者に会う約束が午後3時だ。
「こまったな……。今治でただ6時間も待たされるのか」
 まさに無意味な時間だ。それ以上に、アポイントをとっている人に迷惑がかかる。一泊余分になってしまう。

 大崎下島には橋が架かっているが、それは本州の呉市からだ。四国からだと、今治―川尻航路しかない。

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東京・葛飾区「かつしか区民大学」のプレ事業の講師に決定

 東京・葛飾区では、来春から『かつしか区民大学』が開校する。その準備が進められている。
 今年の秋からはその予行として、区民大学プレ事業がスタートする。いくつかの講座が開講するが、私はその一つを受け持つことになった。
 講座名は『ジャーナリストがやさしく伝授する 写真と文章で伝える私のかつしか』で、6回シリーズである。11月13日が第1回の講座となる。

 情報化時代とは情報の「受け手」と「発信者」との境がなくなった社会だといえる。一般市民も地域情報の発信者になれる。葛飾区の情報を発信できる、地域・ミニ記者の養成講座である。

 主催者と打合せをしてきた結果、「上手な写真の撮り方」「上手な文章の書き方」という二面の指導内容で決まった。野外の撮影と文章スケッチの指導もある。

 具体的には、受講者は街なかの風景、家族、建物、草花、史跡、名物などを撮影してきて、やさしい説明文をつける。テーマ「身近な葛飾、ちょっと自慢の葛飾、おしえてあげたい葛飾」の下、ブログや冊子で、情報を発信できるように指導していく。

 受けて側が興味をもつ、上手な情報提供ができる。これを主目的としたい。

 
関連情報

かつしか区民大学プレ事業

東京のサラリーマン・OLたちの昼休みの群像=神田(1)

東京のお昼どきの顔。「昼の群像シリーズ」ものとして紹介していきたいと、カメラをもって、まず神田駅で下車してみた。

西口に行くか、南口に行くか。駅のプラットホームから街並みを比べてみた。西口は皇居側だが、みるから雑然とした町だ。そちらは夜ともなれば、庶民が集る飲み屋街だと知る。
 昼間の神田の顔。そこに興味をもち、西口にむかうことに決めた。


 江戸時代から、神田は庶民の町だった。昭和には青果市場などがあった。
その面影の一端が感じられる、庶民的な西口商店街だった。


      

   商店街には、数多くのラーメン屋があった。昼食どきだから、店内は満席。
    店の外はサラリーマンや職人たちが長い行列をつくる。
    列の長さは味を判断する、バロメーターかもしれない。

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北欧クルーズ「バルト海」の写真=久能康生さん・寄稿・写真(1)

 久能さんは一年間に数回、海外旅行をしています。風景写真を得意としています。その都度、「穂高健一ワールド」に寄稿してもらっています。
 今回は、メインタイトル「バルト海」の写真を提供してもらいました。連載で、紹介します。

写真の上で、左クリックすれば、拡大されます


 コペンハーゲンの港街ニューハウンの8pm。待望の夏を市民と観光客が入り乱れて楽しむ。(右)

 コペンハーゲンと言えばここ。でも、ご覧のとおりの大混雑。
 ならばボートで海上から後姿を。



 チボリ公園は24:30まで営業。
 嬉々とした家族連れや若者グループに市民の素顔が見られる。
            

 奮発して泊まった市庁舎広場前のパレスホテル。しかしあっけないほど簡素なサービスに驚く。

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【書評】元気が最高のボランティア「元気に百歳」10周年記念号

「元気に百歳」クラブ10号周年記念号が10月10日に発刊される。(代表 和田譲次)。毎年同月に発行し、今回が10号である。
 同クラブは設立が2000年1月1日で、約30人からスタートした。現在は関東、中部、関西、九州の4ブロックで、会員は約300人である。10号の筆者はそのうち77人。おどろくべき比率の執筆者数である。

 50歳代から102歳の会員が、400字詰め原稿用紙で5~10枚ていど執筆している。書く意欲、気力、書き上げる。それらは逞しいものだ。


 巻頭言は日野原重明さんで、「今は百歳を越えないと長寿とはいえない」という。50年前の百歳以上は153人だった。08年は3万6000人余り。多くの人が気楽に百歳が超えられる現実を踏まえ、同書が社会の「星」となり、「長寿者の新しい生き方のガイド」となるだろうと述べている。


 特別寄稿は、ペギー葉山さんで、『歌の力を信じて』というタイトル。彼女の音楽の自分史である。「今春、とてもうれしいことがありました。私のヒットソング『学生時代』の歌碑が、懐かしい青山学院のキャンパスに建立されたのです」と書き出す。歌の中のチャペルは主人と結婚式を挙げたところ、と明かす。 
 1959年の大ヒット『南国土佐をあとにして』にもふれる。「初めは、ジャズシンガーだった私に、『南国土佐……』は抵抗がありました。それが大ヒットするなんて、予想外でした」(原文通り)。
 故阿久悠さんの遺作「神様がくれた愛のみち」は、彼女の歌手生活55年のために書いてくれたものだ、と明かす。名古屋公演の幕が開く寸前に、彼の死が知らされたという。
 歌手人生が力強いタッチで書かれた、読み応えのある内容だ。

(高知県・桂浜)

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写真と小説の類似点を見つけた

 PJニュースの記者仲間で、コマーシャル写真家の池野徹さんに「写真の上達法」を聞いたことがある。「良い写真をたくさん見ることだよ。そこに尽きる」という一言だった。
 良い写真となると、写真展や個展だ。そこまで足を運ぶ余裕はなく、2年ほど経った。この間に、せめて写真雑誌、駅ポスター、写真コンテストの受賞作品などは意識してみるようにしていた。


 今年7月の東京都写真美術館において、「世界報道写真展」が開催された。朝日新聞文化事業部の協力を得て、3年ぶりの取材をおこなった。この折、同館・広報とのパイプができた。案内をいただける、プレスギャラリー(報道関係者の公開)には積極的に参加している。

 新聞、雑誌、TV関係者をまえにして、同館の学芸員から専門的な説明がある。聞きながら著名な写真家を観る。学ぶ点が多い。

 稲垣功一の写真「心の眼」北島敬三「コザ/東京/ニューヨーク/東欧/ソ連」では街のスナップショットが中心だった。
 いま開催中の『旅』3シリーズ「異邦へ 日本の写真家たちが見つめた異国世界」は、著名な木村伊兵衛さんたちの海外のスナップが中心になっている。風景写真や記録に終らず、そこに生きる人物を上手に捉えている。

 小説づくりも、写真撮影も、人物を描くことでは共通しているな、という思いを強く持った。一つの作品(単一写真)のなかで、いかにテーマの絞込み、ストーリーを作るか。これが写真撮影のコツだ、と考えた。

 このところ写真への興味が強く、ふだんの私は作家的な視線よりも、カメラ的な目で、街や人物を見ていることが多い。と同時に、写真活動の幅を広げたい、という意欲から、今年9月に「社団法人日本写真協会」に入会した。同会員から、より多く学びたいと思っている。


写真:東京写真美術館の「旅」シリーズ、第2部「異郷へ 写真家たちのセンチメンタルジャーニー」の展示で

P.E.N.は人材の宝庫。酒も強し(2)

 日本ペンクラブ9月度例会が15日、東京会館(千代田区)で開催された。
 恒例のミニ講演は落合恵子さん(作家、理事)だった。題名は『子供の本の現場から~33年間の奇跡、あるいは軌跡』である。


 彼女は幼いころ母親(シングルマザー)の手で育てられた。貧しかった。書店で立ち読みすると、店主にハタキでパタパタやられた。「大人になったら、本屋をやりたい」という夢を持つ。それが1976年に実現した。彼女が経営する児童書籍の専門店「クレヨンハウス」の運用について、いくつかの事例をあげて熱っぽく語った。
「不可能といわれたら、やる気が出る」
 それが落合さんのエネルギーの源だと語っていた。

       

 阿刀田高会長は、「国際ペン・東京大会」について、会員が来年9月まで発行する書籍すべてに、『国際ペン・東京大会2010』のロゴと文字を入れてもらう、と発表した。それら多数の本の帯が書店に並べば、国際大会がより多くの人に認識されるだろう、と期待を寄せていた。

 パーティーに移った。私は顔見知りの会員と次つぎと小談し、親交を深めた。二次会は「ヨタロウ会」のメンバーが有楽町の居酒屋に集った。
 大原雄さん(元NHK・ニュースデスク)には、現役の社会部・記者だった頃の、新聞記者の取材との違いを聞いてみた。記者クラブを一つにして、たがいに競って特ダネをとる。それは新聞記者もTV記者も変わらない。新聞は文字で表現する。TVは映像が必要になる。どうしても映像が手に入らないときは現場で、記者がマイクを持って語るのだという。資料的な映像は別のセクションで編集するという。

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