ジャーナリスト

小さな一歩が世界を変える=TBS・秋沢淳子さん

 TBSアナウンサー・秋沢淳子さんは報道、情報番組を中心に活躍している。他方で、個人的なボランティア活動を行なう、異色の人材である。
 彼女は埼玉県・飯能市の出身で、高校時代にはAFS交換留学生(すべてボランティアで成り立つ)として、ニュージーランに一年間留学し、そこでボランティア精神を磨いた。
 入局後において、「国際交流団体SPUTNIK JAPAV」を立ち上げ、主にスリランカとガーナに教育支援を推し進めている。

 7月12日、HRM協会「心の経営」実践フォーラムで、秋沢淳子さんは講演した。タイトルは「誰にでもできる~小さな一歩が世界をかえる」で、場所は東京・千代田区のアタックスグループ東京事務所5階セミナールーム。参加者は47人だった。

 なぜスリランカか。
 AFS留学の同期で、スリランカ出身のエシャンタさんが母国の大学を卒業後、日本の大学に留学していた。スリランカは内戦(昨年、やっと停戦)で、多くの子どもたちは教育の機会を奪われていた。現地の学校には図書館がない、本がない。

 日本のほうは少子化の影響で小学校が次々に廃校になっている。エシャンタさんはそれら学校から図書を集め、身銭を切って母国・スリランカに送っている。秋沢さんはそれに共鳴し、ボランティア活動に取り組んだという。

「日本のODA(国際協力 政府開発援助)は、気前よく1億円をぽんと出して学校を作ります。しかし、運営費は出ないのです。箱物(建物)だけを作って、教師や教材がなければ、意味を成しません。だから、日本の援助は感謝されないのです」と明かす。

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かつしか区民大学=花咲く水元公園で、課外講習

 6月下旬は、花しょうぶが咲いているだろうか。
 かつしか区民大学の(私が伝えるかつしか、歩く、撮る、書く)講座は第3回目として、午前、午後を通した課外講習が組み込まれていた。場所は都内随一の花しょうぶが咲く都立水元公園(葛飾区)である。花しょうぶが終わり、枯れた光景ではさえない。気をもんでいた。

 この講座は葛飾を伝えるミニ記者の養成である。課外活動としては、写真の撮り方、取材(インタビュー)の仕方が中心になる。枯れても記事になるが、華やかなほうが良いに決まっている。

 今年は寒い日が多く、開花が後ろ倒し、という花情報だった。期待したとおり、6月20日は華麗な花しょうぶ、豪華なアジサイ、清廉なハスの花が三つ巴で見ごろだった。

 同日の朝10時(日)、受講者17人は葛飾区東金町地区センターに集合した。スタートの30分間は、課外活動のポイント(指導説明)を行なった。

【写真の上手な撮り方】のポイントとして、スライドを使って、
  ①日の丸方式のとり方はやめましょう
  ②三分分割法(黄金分割法)の法則
  ③構図の中に、斜め、曲線、S字型の取り込み
  ④無駄なもの、目障りなもの、それらを取り込まない。
  ⑤被写体は近づいて撮影する
 これらを特に強調した。

 受講生とともに、水元公園に出向いた。花しょうぶ、はすの花が盛りで、被写体としては申し分がない、好条件だった。

午前中は写真指導を中心に行なった。

  ・大きな時計台を構図の中に取り込めば、時間がそれとなくわかる、
  ・釣り人が白さぎに魚を与える。岸辺のL字を取り込んで、遠近感を出す。
  ・尺八演奏グループでは、人物の取り込み方。(日の丸方式でなく)
  ・菖蒲の絵を画く人。キャンバスの裏側は余計だから入れない。

           

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東京スカイツリーの最高の景勝地は 下町の4つの河川のどこか?

「最高」とか、「絶対」とか、最上級のことばは作品のなかで、安易に使わないように。小説講座、エッセイ教室で、区民大学などで、受講生たちに指導している。「最高」といっても、多くの場合は書き手の思い込み、単なる強調用語で、根拠がない。そのうえ、すべてを吟味し、比較したうえでないから、最高がほんとうに真実なのか、となると疑わしい。あいまいなケースが多い。

 東京タワーは素敵な形状だ。愛宕山の周辺からみると、豪快に聳(そび)え立つ。それよりも、ちょっと距離を置いた、お台場からみた景観のほうが勝っている、と思う。とくに夜景の場合は、レインボーブリッジ、汐留のビル群の灯火の美観と重なり合い、とても美しい。


 東京スカイツリー(完成時・634メートル)は世界一のタワーだ。押上や業平橋からだと、三角関数ではないが、距離がないし、見上げても、視界が鋭角過ぎてしまう。首を折り曲げて見上げるよりも、隅田川、荒川、中川、江戸川など、川を含めた情感のほうが勝ると思う。ただ、江戸川は遠い。

 3つの川からのタワーを比較すれば、どこが一番か。

     

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龍馬とお龍~命をかけた夫婦愛~=NHK「龍馬伝」と同タイム

5/30日、NHK「龍馬伝」(龍という女)の放映で、龍馬とお龍の出会いがあった。今後は、ふたりの数奇な運命が展開されるだろう。

6月1日の発売「島へ。」54号で、坂本龍馬と瀬戸内海③ 龍馬とお龍~命をかけた夫婦愛~が掲載された。まさに計ったようにNHKの放映と同タイムとなった。

この夫婦は劇的で、日本人の心にひびくものがある。寺田屋事件に遭遇し、鹿児島へ新婚旅行、長崎を経由し、下関で三畳半の狭い新居を持つ。その年の暮れには、龍馬の暗殺となっていく。
私は作品の中で、お龍の性格、夫婦愛、悲哀など展開させている。


なぜ、NHKの放映と同タイムになったのか。単なる偶然だが、多少の読みがあった。龍馬関係の史実は限られているし、NHK「龍馬伝」も同じ流れでくるだろうから、と。

「島へ。」からの連載依頼は昨秋だった。それから龍馬関係の基礎資料を集めはじめた。
年明けの、一月半ばになると、旅行オフシーズンで、京都へのディスカウントの高速バスの売出しがあった。龍馬を書くからには寺田屋事件は外せないはずだ。まだ筋立てもなかったが、伏見の寺田屋に出向いてみた。


鳥羽伏見の戦いで、寺田屋は全焼している。現在の建物は別ものだ、と京都府はクレームをつけている。寺田屋(持主)は当時の建物を移設した、と主張している。どちらが正しいにせよ、執筆する上で、イメージ作りはできた。

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「かつしか区民大学」が開講。初年度の講座講師としてスタート

 東京・葛飾区で、「かつしか区民大学」が5月から開講した。
 講座は、同区の特徴や魅力を学ぶ「葛飾学」や、知識や教養を楽しく身につけられるものなど、数多くが設けられている。

 講座は単位制である。一定の単位数なると、30(グッドチャレンジ賞)、100(かつしか区民学士)、150(かつしか区民修士)、200(かつしか区民博士)の認定書がもらえる。それを学習の励みとし、区民の生涯学習を支援するものである。

 長年学んで、200単位を終了した方が、『かつしか区民博士 ○○○○』の名刺を作ると、格好いいな、と思う。勉学意欲もわくし、良いアイデアだと思う。

 私は初年度の講師に迎えられた。
『私が伝えるかつしか~歩く、撮る、書く~』の8回コース(8単位)を受け持つ。第1回目は5月21日(金)の夜7時から2時間の講義だった。受講生は募集定員20人で一杯だった。
 上手な写真の撮り方、上手な文章の書き方、という2点を同時に学ぶことができる。と同時に、ミニ記者として、葛飾を発信する技法を身につけてもらう講座である。

 講座のイントロでは、「これまでも多くの方は、美しい、という視点で写真を撮影していたと思う。今後はテーマを決めて町を歩き、写真を撮っていただく。それに題名と説明文(キャプション)、記事、エッセイをつけて、葛飾の情報として発信していただく。ミニ記者の養成講座として理解してもらえば、わかりやすい」
 という趣旨の説明を行った。
 それだけでも理解しにくい面がある。そこで受講生には4つのサンプルの冊子(表紙と裏表紙だけ)を見てみてもらった。
「私が愛するかつしか・中川は東京スカイツリーの最高の景勝地」
「かつしかの下町っ子は明るくて、元気」
「かつしかの町を象徴する像」
「東かつしかの伝統行事」
 このサンプルから、受講生たちの講座のイメージが多少なりとも高まったかと思う。

 事前配布のアンケートを持参してもらった。
 
  ・葛飾の歩き方、記事の素材(テーマ)の見つけ方
  ・上手な写真の撮り方のテクニック、
  ・文章の上手な書き方のコツ、文章の基本について
  ・大勢に伝えたい、ブログとか、冊子で。

 学びたい項目の順番を問う内容だった。集計した結果は4項目とも平均していた。

 応募の動機については、「写真と記事の組み合わせ」「写真にエッセイをつけたい」というものが主流だった。私のHPを見て、この講師ならば、写真と文章がともに学べると判断して、決められた方もいるのかな、と想像してみた。

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『維新志士・新谷翁の話』に、思わぬ所から整合性を発見した

 雑誌「島へ。」に連載「坂本龍馬と瀬戸内海」シリーズの第1回で、新谷道太郎が60年後に明かした、四藩軍事同盟を取り上げた。

『維新志士・新谷翁の話』のなかで、1867(慶応3)年11月に、大崎下島・御手洗町・大長にある新谷道太郎の実家(住職の宅)で、薩摩、長州、土佐、芸州の4藩の主力志士が集まり、軍事同盟を決めた。

 年若い新谷は龍馬から、「60年間は他言するなよ、急ぐと必ず暗殺の危険が身に来るぞ、よくよく注意したまへ」とアドバイスを受けた。当の龍馬が8日後に暗殺された。 13人のメンバーは明治維新になってからも口を閉ざした。
 新谷は昭和11年まで、沈黙を守ってきたのだ。

 新谷道太郎は広島県・大崎下島で、寺の住職の長男として生まれた。実家を飛び出し、勝海舟の門下に入った。勝がつねに供人にするほど、頭脳明晰な人物のようだった。

 私は同書の取材・裏づけを取りに多くの人に会った。昭和の初めに、新谷道太郎の講演を聞いたという人物に出会えた(竹原市在住)。当時の新谷道太郎は90歳だったが、すごく頭の良い人という印象を持ったという。
 子孫の縁戚の方々にも会った。長寿の家系らしく、元校長、住職と80代の年齢を感じさせない、明晰な方ばかりだった。
 新谷道太郎が90歳で残した本には、記憶が確かだろう、と考えた。

 慶応三年ころ、新谷家に得体の知れない人物が出入りしていた、という証言の記録も出てきた。新谷道太郎の話は間違いない、これは幕末史の新たな発見だ、と判断をした。

『維新志士・新谷翁の話』のなかで、ただ、数ヶ所は90歳の老人の自慢話かな、と疑う点があった。

 四藩軍事同盟が結ばれる同年の半年前、根回しの会談が御手洗・大長でおこなわれている。慶応3年3月18日の「桃見の会に龍馬を励ます」という項目の一部を紹介したい。

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「坂本龍馬と瀬戸内海」いろは丸事件、反響について

 隔月誌「島へ。」に連載している「坂本龍馬と瀬戸内海」シリーズで、第2回目は「いろは丸事件」を取り上げた。
 坂本龍馬が船将として乗り込んでいたいろは丸が、備後灘(広島県と香川県の境)で、紀州藩の軍艦と衝突し、沈没した事件である。
 海援隊は脱藩浪人ばかりを集めた集団。一方は水戸黄門ではないが、葵ご紋の紀州藩である。あまりにも、地位が違いすぎる。龍馬はそこから8万3千両の賠償金を取ったのだ。鞆の浦、長崎へと交渉の場が移った。
 龍馬の巧みな交渉術と、その推移を紹介した内容だ。
 多くの方から取材のご協力を得た。私自身は納得できるいい記事が書けたと思っている。一通の感想文を紹介したい。


【読者感想】
「石垣島」が、これだけ詳しく書いてあると、遠いと思った島が少し小さくなりました。
 TVで「龍馬伝」を楽しんでいますので、「坂本龍馬と瀬戸内海」はグッドタイミングです。今回の(いろは丸事件)では、龍馬の性格がよく出ていますね。紀州藩が、執拗に食い下がる、交渉相手に辟易している様子がよくわかります。
 丁寧な取材によるのでしょう。同じ作者で「海は燃える」が新連載! 第1回だけでは「坂本龍馬……」の方に軍配をあげますが、これからを楽しみに待ちましょう。


 取材のご協力をいただいた広島県・教育委員会からも、ていねいな謝意の手紙を頂戴した。そこには 龍馬への見方、文学の発祥地「鞆の浦」という、あたらしい視点が述べられていたので、紹介したい。

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坂本龍馬を美化しない、だからこそ龍馬のすごさがわかる=「島へ」53号

 雑誌「島へ」53号が4月1日に発売された。「坂本龍馬と瀬戸内海」シリーズの2回目となる。今回はいろは丸事件だ。
 龍馬の率いる海援隊の蒸気船・いろは丸(商船)が、紀州藩の軍艦と衝突し、沈没した事件だ。
 海援隊は全国から脱藩浪士ばかり集めた、貿易・政治結社だった。相手は水戸黄門で同じみ、葵のご紋の紀州藩だ。そこから約8万3000両を賠償金として取った。

 衝突回避は国際法で、双方の右旋回を義務づけけられている。このルールを守れば、たがいにすれ違える。しかし、いろは丸は逆に左旋回した。そのために衝突、沈没した。
 
 多くの学者や研究者たちは、「当夜は霧が深く、突然、紀州藩の船が現れた。すでに目と鼻の先といった緊急事態だった。いろは丸は臨機応変に左に舵(かじ)を切った。だから、決して悪くない」という、こんな作り話が主流だった。
 英雄・龍馬が悪い、と書けない雰囲気が脈々と続いてきたのだ。

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「倒幕同盟に芸州」「竜馬の功績に新説」の見出し=東京新聞

 雑誌「旅へ」52号(2月1日)で、私は「坂本龍馬と瀬戸内海」のシリーズもので、「四藩連合の軍事同盟は大崎下島で結ばれた」という記事を書いた。東京新聞特別報道部の記者・秦淳哉さんから、「たいへん興味を覚えました、わが社でも、ぜひ取り上げたい」と連絡があり、快く取材に協力した。


「薩長同盟だけでは江戸800万石の徳川幕府を倒せるはずがない。それに土州(土佐藩)が加わったにしても、ムリである。西日本最大の雄藩である芸州藩(広島)が加わったから、徳川を倒せた」
 私は秦記者にたいして、そのような考えを述べた。
「毛利元就が関が原の戦いで、徳川に敗れた、という積年の恨みが芸州にある。だから、精神的にもすんなり加われたと思う。龍馬には、その辺りの読みがあって芸州に接近したのではないか」と、作家としての想像も語った。


 東京新聞3月21日(日)の朝刊「こちらは特報部」のコーナーにおいて「倒幕同盟に芸州」というタイトルで、見開き2ページで、大きく取り上げられた。


 この四藩軍事同盟の発掘は、1936年発行「維新志士 新谷翁の話」という文献の発見によるものだ。その書物によると、慶応3年11月3日から3日間の御手洗の密議がおこなわれた。大久保利通、桂小五郎、山形有朋、後藤象二郎、池田徳太郎など十数名という、そうそうたるメンバーだ。
 この密議で、四藩が急いで京都に兵糧を送る、と軍事同盟が成立した。(約2ヵ月後には鳥羽伏見の戦いで、徳川軍を破った)


 もし徳川に敗れたとき、この志を誰が後世に伝えるか、という話題が出てきた。皆の年齢を確認した龍馬が、最も若い新谷道太郎を指名した。
「(伝承)責任は君にあるぞ。ただ急いで口外するな。口外したなら、君はすぐ殺されるぞ。どのようなことがあろうとも60年は黙っておれ。60年経てば、皆死んでしまう。その後で言え。いかに佐幕の者でも、その子孫が怒りを継いで、君を殺しには出てくまい」
 龍馬は助言している。
 新谷道太郎は60年余、沈黙を守った。そして、昭和に入って、この事実を語ったのだ。


 龍馬は四藩軍事同盟が成立させた、翌7日に御手洗を出発した。8日後の同月15日に、京都の近江屋で暗殺されたのだ。あまりにも悲痛な話だ。
 龍馬が芸州藩を巻き込んだからこそ、徳川幕府が倒せた。四藩軍事同盟こそが龍馬の最大の功績だった思う。この事実をもっと世に知ってもらいたいと思う。
 東京新聞の記事の一節、「歴史を覆す新事実となるか」という秦記者の文章からも、8日後の死という悲劇の龍馬にたいする熱い想いが感じられた。

取材こぼれ話、店名のない美味しい、お好み焼き屋=鞆の浦

 鞆の浦は、瀬戸内海の中心に位置し、江戸時代に発達した、商港だ。帆船時代は潮待ち、風待ちに最適な港だった。

 当時の面影が数多く残る。歴史的、伝統的な価値が高い。鞆の浦港や仙酔島の情景は国内でも最上のものだけに、大勢の観光客でにぎわう。

 医王寺への登り口には、木造家屋の「お好み焼き屋」があった。暖簾(のれん)も店構えもどこか古い。昭和の最盛期に流行っていたような店だ。一見して、観光客あいてではない、とわかる。港に出入りする船員、漁船員たち、それに地場の人たちがお客だろう。

 店内に入ってみた。鉄板の回りでは、地場のおばさん2人がお好み焼きで、昼食を取っていた。昭和時代の雰囲気が読み取れた。
「こっちに座りんさい」
 お客どうしが隣り合わせに座った。

 店主の玉井恵子さんが、鉄板の上で器用にお好みを焼く。彼女の話によると、鞆の浦・元町にはかつて「お好み焼き屋」が7軒ほどあったという。
「この元町では、もう1軒だけよ。うちだけになった」
 バス停近くには観光客あいてお好み焼きはあるけれど、と補足していた。この店を選べてよかったと心から思えた。
 店名を聞いたけれど、特にないと笑って答える。
「はい、どうぞ」
 多めにソースを塗ってもらった。その味が格別だ。

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