A010-ジャーナリスト

龍馬の謎が解明! 暗殺される9日前に、4藩軍事同盟が結ばれた

 隔月誌『島へ』52号が2月1日に全国の書店で発売さる。私は「坂本龍馬と瀬戸内海」シリーズ・3回連載を約束し、第1回目として『4藩連合の軍事同盟は大崎下島で結ばれた』というタイトルで、龍馬の遺業を取りあげた。


 幕末史に新たな1ページとなる、斬新な取材記事が掲載できた。

「坂本龍馬に、こんな事実があったのか。京都で暗殺される9日前、龍馬は極秘に大偉業を成立させていたとは……」
 だれもが驚愕(きょうがく)するだろう。と同時に、これまで以上に、龍馬の大きさを知るはずだ。
 幕末研究の歴史家、維新志士を描く作家たちは、新たな事実として、対応する必要があるだろう。


 慶応3年11月6日、龍馬の主導の下に、4藩の志士が「巨大な徳川を倒す」という君命で密議を行った。場所は瀬戸内の大崎下島・御手洗港から約1.5キロ奥まった寺で、住職の宅だった。幕末志士の新谷道太郎(にいや みちたろう)の生家である。そこに集まった十数人の志士たちが、3日間の密議を行い、極秘の4藩軍事同盟を結んだのだ。

 4藩軍事同盟の参加者たちを列記しておこう。

芸州藩 池田徳太郎、加藤嘉一、高橋大義、船越洋之助、星野文平
薩州藩 大久保一蔵(利通)、大山格之助、山田市之丞
長州藩 桂準一郎、大村益次郎、山縣狂介(有朋)
土州藩 坂本龍馬、後藤象二郎

 これから徳川と戦う。志士たちには、確固たる勝算が見えない。全員が決死の覚悟だった。
「明日にも知れず散る生命。死ねば暗に葬られる。どうして後世に伝えようか」
 大村益次郎の発言に対して、
「皆が死んでしもうたら、誰が伝えるんか。ここは一番年若い者、だれか一人が生き残り、われら忠義の志を後世に伝えねばならぬ」
 龍馬が指名したのが、最も若い道太郎だった。
「急いで口外するな。口外したなら、君はすぐ殺されるぞ。どのようなことがあろうとも、60年は黙っておれ」
「なぜ60年間も待たねばならぬか」
 道太郎が龍馬に問うた。
「これから60年すれば、皆死んでしまう。その後で言え。いかに佐幕の者でも、その子孫が怒りを継いで、君を殺しには出てくまい」
 そう指図した龍馬は翌日、御手洗港を発った。京都に上り、真っ先に殺されたのだ。

         

 兵法では「事は密をもって成り(計画は秘密に運ぶからこそ成功する)」という教えがある。手紙は幕府側に奪われると、重要な密議の場所・御手洗が発覚してしまう。龍馬はどの手紙にも「御手洗」について一言もふれていない。当然だろう。それゆえに物証が残っていない。上陸事実としては、河田佐久馬(鳥取藩士)が御手洗で龍馬と出くわした、と書き残す。(現存)

 龍馬の暗殺で、参加者全員が明治維新になっても口を閉ざした。道太郎は島根県の僻地の寺に隠れた。こうして4藩軍事同盟の存在すら闇の中に消えたのだ。
 大正、昭和と時代は変わっていく。


 明治維新から60年余年経ったところで、道太郎がこれら4藩の志士たちの偉業を世に伝えはじめた。皇族の前で語ったり、各地を講演して回ったりした。

 昭和11年には述著として単行本で遺した。当時は新聞などにも取り上げられていた。
翌年、わが国は盧溝橋事件で日中戦争に突入した。世間やマスコミ(新聞・ラジオ)の話題は明治維新よりも、戦争へと傾斜していった。道太郎の存在は薄らぎ、幕末の4藩軍事同盟すらも、ふたたび歴史から消えてしまった。


 昨年末、私は新谷道太郎の述著があると知った。しかし、国立国会図書館で検索しても出てこなかった。紆余曲折した結果、道太郎の本にたどり着けた。

 それを手にした私は、全身が震えた。幕末史では語られていない途轍(とてつ)もない事実、顕在化していない出来事が数多くあったからだ。その一つが4藩軍事同盟だった。

 この取材で、新谷家の関係者から資料や情報提供がいくつも得られた。住職の宅は幕末のまま現存し、移設も、大きな改築もない、と教えられた。
 龍馬たち十数人の志士が集まり密議したままなのだ。室内の写真撮影も許可してもらえた。それら室内写真は同誌に掲載している。
「この部屋に龍馬も、桂小五郎も、大久保利通も……きた」
 日本を変えた幕末志士のなかに、わが身を置いたような格別の感慨を覚えた。

(新谷道太郎の述著にたどり着く、その道のりは次回で、紹介したい)

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