ジャーナリスト

推量小説作家・新津きよみ著『トライアングル』がフジTV・ドラマで放映

 11月26日は、「ペンの日」だ。東京會舘(千代田区)のローズ・ルームで、約300人ほどが参加した、親睦会がおこなわれた。日中文化交流の代表団も参加していた。

 広報委員会の仲間数人がいつも一つテーブルを囲んで快談している。同委員の新津きよみさんが、「私の推理小説「トライアングル」(角川書店刊)が原作で、フジTVの火曜日夜10時から放映されるの。スタートは1月6日からで、3月まで」と話す。


 彼女には「どんな内容なの」と訊いてみた。
「ことばで説明するのはむずかしいわ」といいながらも、国際刑事警察機構(ICPO)の捜査官が帰国し、警視庁に勤務。彼は医師のライセンスを持つ。さかのぼること25年前、彼が10歳のとき、同級生で初恋の女性が誘拐されて殺された。迷宮入りになり、時効が成立している。ここからドラマが始まる、と説明していた。

 関西テレビ50周年記念のドラマで、出演者は江口洋介、広末涼子、稲垣五郎、北大路欣也など。原作は20年前だけど、江口洋介の実年齢にあわせたらしく、25年前に替わっている、と教えてくれた。

 新津さんの実父は長野県の医者で、県警の監察医でもある。だから、ICPOの捜査官が医者というシチュエーションの作品も書けるのだろう。同書は9月からソフトカバーで販売されているが、来月からはドラマ化という帯を付けてくれると、話す。

 日本ペンクラブ・阿刀田高会長がやってきて「TVドラマは、原作はずいぶん変えられるんだよね」と話しに加わっていた。(右)

 写真左は、広報委員会・副委員長の鈴木康之さん(編集担当)。

伝統職人(47師)の宝庫に住みながらも

 葛飾区には『戦後』という街はもう見当たらない。戦後から一筋という伝統工芸の職人は多い。現在47人が活躍している。国宝級のひともいる。

 終戦直後からの華やかな、最も発達した町は立石だった。葛飾の中心で、葛飾区役所がある。メインの街なのに、いつのころからか京成立石駅には特急が止まらなくなった。
 渥美清さんの「寅さんシリーズ」の映画が上映されると、柴又人気が急上昇した。葛飾を代表する町に思われはじめた。

 私はそのころ全国に旅行する機会が多かった。問われて、東京・葛飾に住むといえば、きまって「柴又ですか」と聞かれた。面倒になって、そうですよ、と言いたいが、「いいえ、立石です」としっかり否定してきた。相手はとたんに興味がそがれた顔をするのが常だった。

 妻の母方の実家が葛飾・柴又だから、決して無縁ではない。だが、葛飾立石にこだわり続けた。いまや寅さんブームが去った。葛飾・立石は『昭和の残る町』として息吹を取り戻してきた。

 PJニュースを書きはじめてから500本を超えた。地域、分野を問わず、自分の知識や活動の領域を広げるつもりで、記事を書きつづけてきた。初対面の人から話を聞くのが好きだから、インタビュー記事も積極的に取り組んできた。他方で、葛飾の地元関連の記事が少なかった。

 地元から目を逸らしていたわけでない。写真エッセイ『東京下町の情緒100景』を執筆し、そちらを中心に回っていた。100景が達成した頃から、葛飾発の記事も積極的に書こう、と決めた。
 それが昨年末で、立石仲見世の凧の取材記事を書いた。これが縁で、仲見世の理事の方々に同事務所に集まってもらい、将来を語る座談会を開いてもらった。それを連載した。

 京成立石駅から2分のところに、葛飾区伝統産業職人会の会館がある。伝統工芸品を売っている。訪ねたことはなかった。身近でいつでも取材できるという立地のよさから遠い存在だった。

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『ルーズベルトの刺客』・マヌエラ追悼公演を観て

 今年2月ごろ新宿で、永島直樹さんから、「秋には西木正明さん(直木賞作家)原作の芝居をしますから、ぜひ観にきてくださいね」、といわれていた。それから月日が経ち、すっかり忘れていた。『良い芝居になりそうです、ぜひよろしく』という文面を添えた案内状がとどいた。

 題名は『ルーズベルトの刺客』で、原作・プロデュースは西木正明さん、演出・脚本は永島直樹さんだった。劇場は新宿御苑前のシアターサンモール。サブタイトルに、「マヌエラ追悼公演」とあった。どういう人物なのか、男女もわからず、さして気にもとめていなかった。

 舞台は第二次世界大戦前の上海租界の社交クラブだった。各国の思惑が入り乱れたスパイ活動、テロ活動が行われていた。「マヌエラ」は美貌とダンサーとしての輝きから、各国スパイの憧れの的だった。彼女は秘密のベールに包まれ、素性が知れなかった。劇が進行するうちに、初代・水の江滝子が上海で「マヌエラ」という名で活躍していたとわかる。

 当時の日本軍が上海在留のユダヤ人に軍事訓練を施し、アメリカに渡らせ、ルーズベルトを暗殺する。その企てが進行していた。3000年も国土を持たないユダヤ人は、見返りに建国の夢を満州国の一角に抱き、協力する。

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 焼き鳥屋『光っちゃん』で、小中陽太郎さんと2人で語らい

 日本ペンクラブのメルマガで、『ペンの顔』シリーズを書いている。会長の阿刀田高さんからスタートし、専務理事の浅田次郎さん、副会長の下重暁子さんなど、もう10人くらいに及んだだろう。
今回は小中陽太郎さんだ。梅原猛会長の下で、日本ペンクラブ専務理事として、その6年間は中核で運営に携わっていた。現在は同クラブの理事だ。

 先月には「ペン理事会」の後、小中さんのインタビューをおこなっていた。理事会の後は例会で、出久根達郎さんのミニ講演が予定されていた。インタビューはわずか10分ていどだった。『ペンの顔』の記事とするには駆け足過ぎた。記事の内容にはもっと深みが欲しいし、部分的な確認もあり、小中さんには再度インタビューを申し込んだ。

 10月18日の夕刻に目黒駅で、小中さんと落ち合った。駅前の喫茶店に入るなり、小中さんが平賀源内の話題から、オーダーしたばかりのコーヒーを棚上げにし、近くの東京都庭園美術館(旧迎賓館)に案内してくれた。道々、「目黒」の名の由来とか、白金台の江戸時代の史実とか、戦後のGHQによる占領の出来事とか、諸々の話が聞けた。

 小中さんはかつて「鈴木知事に対抗して、東京都知事に立候補を」と押されたという。仲間の小田実さんが立つので、べ平連から2人出てもしかたない、と止めたと語っていた。

 同美術館は5時閉館前だったで、場所の確認にとどまった。目黒の喫茶店にもどってから、小中さんのインタビューに入った。84年の国際ペン東京大会では、小中さんは国際委員長として、大江健三郎さんとともに活躍されている。私からの事前質問の一部に対して、小中さんは三好徹さんに電話で確認されていた。他方で、関連資料をも持参していた。そこには井上靖会長の自筆の書簡があった。

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記念パーティーは、その道のプロ、達人、名人ばかり

 カルチャースクールには多彩なジャンルの講師がいるものだ。フラダンス、陶芸、着物の着付け、詩吟、マージャン、カラオケ、水墨画など、98人の参加者は一人ずつジャンルが違う。珍しい講座も多い。受付嬢から、参加者名簿を手にしたとき、さすがカルチャーだと思った。
  
             

 9月23日、目黒学園カルチャースクール主催による、40周年記念の「講師懇談会」が開催された。場所はカトリック目黒教会で、同学園の第2教室でもある。
 西澤社長は挨拶のなかで、カルチャースクールには3つ多様性があると語った。

    ① いろいろな講座がある
    ② 評価が多様で、輝く人がそれぞれにいる。
    ③ たがいが尊重し、認め合う、という多様性。
「ふだんはバラバラであっても、学園祭や発表会など、何かあれば、一緒にやれる」と、同学園の特徴を語った。
 来賓の小山裕三さん(東京都民間カルチャー協議会顧)が「他の新聞社系のカルチャーへスクールはOBの天下り先で、会社的です。しかし、この学園はちがいます。アットホームな雰囲気で、『目黒さんま祭り』にも参加している。こうした講師の懇親会もおこなっている」と賞賛していた。

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要(かなめ)町の女将は祭りが大好き、粋な姿で神輿をかつぐ

 秋祭りたけなわである。13(土)、14(日)は都内のあちらこちらで、神輿が町内を回っていた。昼間は子どもの神輿、夜は大人の神輿が通り相場だ。

 「TOKYO美人と、東京100ストーリー」の『婚約者は刑事』で、中村裕子さん(豊島区)が猫の写真を提供してくれた。彼女は中華料理屋『博雅(はくが)』の女将さんだ。家族そろって祭り好きらしい。先月末には、14(日)の夕方からは店じまいで、地元『要町三丁目町会』の秋祭りで神輿を担ぐ、という情報を得ていた。


「一年のなかで、もっと楽しみにしている日ですよ」と、義妹の裕実さんが教えてくれた。根っからの祭り好きで、法被が似合うひとだともいう。

 猫の写真提供のお返しで、14日(日)の午後5時から、写真撮影に出向いた。場所は有楽町線・千川駅付近である。中村裕子さんは粋な法被(はっぴ)で、ねじり鉢巻の出で立ちだった。長身だけに、確かによく似合う。夫と末っ子の息子(小学校5年生)と3人で、町内をまわる神輿を担いでいた。

 親子3人で掛け声を上げて神輿を担ぐ姿は微笑ましい。ある意味で、うらやましいかぎりだ。撮影している方も、気持ちが高揚してくる。

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一丁櫓(いっちょうろ)の感動

 私は、瀬戸内海の大崎上島(広島県)の出身である。父親が教員で、この島に赴任してきた。村上水軍(因島)の血筋を引く島娘と結ばれた。その子どもとして私は生まれ育った。
 高校時代までは島っ子だった。夏には全身が真っ黒に日焼けしていた。中学時代の黒んぼ大会で、トップになったことがある。小学校から最大の遊び道具が、一丁櫓の伝馬船だった。


 ジャーナリストとして取材中に、私事にふかく関わる話題が出ることがある。学校や出身地がおなじ、趣味が共通している、身内が近いところにいると、話題として提供したい衝動に駆り立てられる。だが、決して口に出さず、聞き手に徹する。それは長くモットーにしてきた。

  旅先で伝馬船の漕ぎ手をみるたびに、漕いでみたいな、と思う。住まいに近い江戸川の河岸・柴又にいくと、渡し舟の船頭が対岸の矢切(松戸市)にむけて、リズミカルに櫓を漕ぐ光景がある。『やってみたいな』と常づね考えていた。他方で、島を離れてから久しいし、一丁櫓はもう漕ぐことはないのだろう、という思いがあった。

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江戸と東京の大道芸=写真集

 東京・上野の不忍池・池畦『みずどりのステージ』で、7月23日18時半から、「江戸と東京の大道芸」が開かれた。江戸時代からの大道芸、TVで活躍する芸人たちが舞台で、愉快に演じ、楽しませてくれた。


 同月19日に、「うえの夏まつり」のパレードの取材に出向いた。弁天堂で、福岡詩二さんと会った。夏のイベントの幾つかの招待を頂いた。取材活動をしていると、人脈が広がり、大道芸人の方々とも、親しい間柄になる。それぞれから話が聞ける。他人(ひと)を笑わせる。その一芸に身を投じてきた人たちだけに、人間的な魅力がたっぷりだ。

今回は写真で、芸人たちの魅力を紹介したい。

佃川流大江戸玉すだれ『佃川燕也一門』 (右上)


         
津軽三味線『大内和己』 (上)


居合抜き『柳亭風枝』(右上)
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パントマイム『京本千恵美』(上)

    江戸大神楽『丸一仙翁社中』(右)

大正演歌『福岡詩二・詩乃里』


和太鼓『和太鼓 飛翔』(右)

 

松本幸四郎さん、藤間紀子さんに、インタビュー=日本PEN・メルマガ 

 日本ペンクラブ・7月例会が14日、東京會舘(東京・千代田区)で、開催された。今回の講演は、2月の世界フォーラム『災害と文化』で、活躍した神田松鯉(しょうり)さんの講談だった。三遊亭円朝作『怪談・乳房榎(えのき)』だった。

 ふだん講談は生で聞く機会がないだけに、興味深いものがあった。講談師はドスの利いた声、高温、低音と領域が広い。じっくり見ていると、顔の表情が実に変化に富んでいた。

 講談師の語ることだから、真贋は定かでないが、現在、全国に落語家は500人くらい、(東京・350人、上方・150人)、浪曲は200人くらい。講談師は東京で47人いるという。

「これは、どこかで聞いたことがある人数」と神田松鯉が語る。四十七士の赤穂浪士の数と同じ。「実に不思議な縁、こんな少ない人数の商売はめずらしい」という。都道府県が47だから、知事の数とおなじだともいう。

 講談のあと、新入会員が紹介された。神田松鯉さんも、今回が正式な入会だった。愛川欽也さん、松本幸四郎さん、妻の藤間紀子さんなど10人が壇上で、それぞれ紹介された。代表して挨拶に立ったのが、松本幸四郎だった。

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富士山には、根深い対立構造あり。聖護院の修験者(山伏)が百数十年ぶりに入峰修行

 全国の修験者(山伏)は聖護院、醍醐寺、金峯山寺の3派に分かれている。むろん、細かくいうと無数にあるけれど。富士山の山頂はかつて聖護院(京都)の下で、大日堂が建立されていた。明治初(1868)年から出された『神仏分離令』がきっかけに、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)が全国にひろまり、聖護院は熊野や富士山などから追われた。


 明治政府が急激に神道強制を行った、影響は大きく、廃仏毀釈は全国的な広がりを持った。とくに過激派神官らが中心となり、仏教施設の破壊運動にまで発展した。『インドから渡ってきた仏教を打ち壊し、日本からの天照大神(あまてらす おおみかみ)を崇める』いう考えにまでおよんだものだ。

 この折、富士山頂の大日堂は、村山(富士宮市)の浅間神社の境内に移された。他方で、仏像や仏具などは徹底的に破壊された。

 富士山の開山式が毎年、7月1日、静岡県側と山梨県側の各所で行われる。村山の浅間神社および大日堂も一つ。京都・聖護院からは例年数名の修験者が出向いてくる。富士宮市長など多数が参列。開山式は朝10時だった。

 開山式は各TVでも放映されるし、東京からの私は時間的にもムリなので、当初から開山式に出むかなかった。開山式のあとに、つよい興味があったのだ。

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