ジャーナリスト

P.E.N.は人材の宝庫。酒も強し(1)

 国際ペン・東京大会が来年9月23日~30日に開催される。会場は京王プラザホテル(東京・新宿)と早稲田大学である。諸外国から、ノーベル文学賞受賞作家やそれに準じる方が大勢来日する、と見込まれている。

 日本ペンクラブ(P.E.N.)では、その準備委員会が毎月一回、阿刀田高会長の下で行われている。9月14日は同クラブ大会議室で開かれた。東京大会の開催まで、あと一年に迫った。それだけに執行部、理事、各委員長たちの討議は活発化し、議案が次々に決まっていく。

 私は広報委員会の委員として、P.E.N.会報、同クラブ・メルマガの取材で同席している。
 最も感心させられたのは、国際大会でありながら、電通や博報堂など大手広告代理店をつかわず、(9月現在)、自前の会員で立案、展開していることだ。
 日本ペンクラブは営利団体でなく、会員の会費で成り立つ。誰もがボランティアだ。それでいて国際会議が自前でできる。それだけ人材が幅広く豊富だ。会員から、招聘すべき外国人作家の名前などが挙がってくる。
 早稲田大学が文学部創立100周年で、その一環で積極的に支援してくれている。それも強い味方となっている。

 準備委員会が終わると、有志が近くの居酒屋に足を運ぶ。顔ぶれは折々に違うが、いつも十数人くらいだ。
 私は轡田隆史(くつわだ たかふみ)さんと隣り合った。名刺交換から、ともに日本山岳会の会員と知る。轡田さんは、「きょう山岳会・会報用に、書評を書いてゲラを出してきたばかりですよ」と話す。映画の剱岳「点の記」など、新田次郎の原作など話が弾んだ。

 轡田さんは朝日新聞・社会部出身で、「素粒子」を6年間ほど執筆していた。
「ナベツネさんが、朝日の素粒子だけはゼッタイ読まない、と言っていましたね」と私が話題をさし向けた。
「ちょうど、あのころ私が書いていました」
 ナベツネさんの批判は勲章だと思っている、とつけ加えていた。

 私の名刺から、「ホダカ、ケンイチさん、ですよね」と轡田さんが念を押す。それというのも、轡田さんが最近、テレビ朝日(レギュラーのコメンテーター)に出演した日、穂高岳でヘリの事故が起きた。同局スタッフから、「ホダカ、ほたか」どちらですか、と聞かれたという。ホダカは穂高連峰。ホタカは武尊山(2158、群馬)である。
 そこは二人して日本山岳会・会員だけに、読み方の微妙な違いは判っていた。

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PJニュースは奮闘する。写真展の報道の、写真枚数に限界も

 PJニュースとは、市民記者やフリーライターが、ウエブで世に記事を提供するものである。PJとは(Public Journalist)の略である。
2005年2月に発足し、4年半の歳月が立つ。
発足の経緯にふれると、ライブドア(当時・堀江貴文社長)はネットニュース時代がくると予見し、市民によるニュースを提唱した。と同時に、全国から市民記者として多彩な人材が集められた。


 新聞社、TVの報道記者、雑誌社のライターなどプロジャーナリストから、大学院生(冶金工学)、大学生、銀行員、ITコンサルタント、小説家まで。一人優秀な高校生もいる。

 小田光康編集長の下で、ジャーナリスト論を学び、試験を受けて合格した人たちによって、記事が世に送られはじめた。商業主義の新聞、TVでは報じられない、斬新さが受けた。他方で、各メディアがネタ探しに利用してきた。

 その後、ライブドア事件が起きた。PJニュースの牽引車のひとりだった、堀江さんが退陣した。『ホリエモン』人気で集っていた市民記者の数多くが去った。あるいは書かなくなった。相対的にアクセス数の減となった。

 堀江貴文さんがいないライブドアで、小田光康編集長は奮闘してきた。むろん、ライブドアとしてもいまなお媒体提供、技術面、資金面の支援を続けている。ただ、アクセス数の減は市民記者への報酬の減となった。ここでも、数多くの人がかかなくなった。

 他方で、ライブドアの幹部は、PJニュースは辛らつな意見や過激な批判報道があるので、「いずれ誹謗中傷として、裁判が起きるのではないか」、という危惧を持ち続けていた。そんな背景も一つとして、今年の春には㈱PJニュース(小田光康社長)、として独立法人となった。記事の全責任を背負う。むろん、報道媒体としてライブドアのサポートに変動はない。

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国際ペン・東京大会には、環境の記録映画が上映予定

 日本ペンクラブは、2010年9月に国際ペン大会・東京大会を開催する。東京での開催は、第1回が川端康成会長(1957年)で、テーマ「東西文学の相互影響」)だった。第2回は井上靖会長(1984年)で、「核状況下における文学-なぜわれわれは書くのか」をテーマにした。

 今回は25年振りで、東京大会のテーマは【環境と文学】である。

 日本ペンクラブ環境委員会(中村敦夫委員長)の活動は活発で、月1回は会員向けのミニイベントを行っている。
 今回は8月3日、日本ペンクラブ(東京・中央区)3階会議室で、映画監督の岩崎雅典さんを招き、映画『平成 熊あらし ~異常出没を追う』を上映した。定員の30人が満席だった。

 同映画の狙いは、「2006年にはツキノワグマが4000頭以上も捕殺された。なぜ、熊は人里に出没したのか。人は熊とどう付き合えばいいのか」という問題提議である。マタギ(猟師)の文化、熊の生態、保護活動など、三者の立場から描いている。

 岩崎監督は「人と熊がどう共存できるか、と考えてもらうために制作した」と述べた。日本列島に熊はどのくらい生存しているのか。頭数調査する学者はほとんどいない。一説には数万頭だという。それは定かではない。九州の熊はすでに絶滅し、四国も絶える寸前、という事実は確かだという。


 質疑応答に入った。質問に応えて、「06~09年3月にかけて作成しました。文部科学省選定(少年、青年・成人向き)の受けました」と岩崎監督は語る。

 森が拡大造林で、熊の住む場所がなくなった。ダムができると、熊の棲む場所が分断されて、人里に出てくるようになる。
 映画のなかで、「かつてマタギと熊との緊張関係があって、人間との境界線ができていた」と、マタギが語る。

「この100年間に人間は4倍増えた。熊よりも、これが問題かもしれない」という質問が出た。岩崎監督は、100年前の熊の生存データはないという。

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フランス国営放送が流した、8月15日とは?

 私は目黒カルチャースクールで、「上手なブログの書き方」を教えている。ブログは読みやすく、ビジュアルに、と指導している。文字ばかりで日記風に書いたならば、誰も連続して読んでくれない、と。

 写真を貼り付けなさい。文章も磨きなさい。取材を入れなさい。この3項目が指導の最大ポイント。そこで毎回、文章教室のように課題を与え、短文を提出してもらい、添削している。

 受講生の一人・久保田雅子さんは絵画に精通した方だ。同教室には、写真を学びたい、と入ってきた。「文章は苦手です」と言いながらも、文章の課題(宿題)に対応している。作中には芸術的な鋭い感性が見て取れる。

 彼女は2年前の8月15日に、フランスにいた。同国の国営放送が同日に、アメリカ制作の「日本の終戦」(タイトルは推量)を放映していた。彼女は思わずデジカメで撮影し、そこに深い関心を寄せたのだ。


 どの国の人もそうだろうが、異国で母国の報道や雑誌にふれると、望郷の念に駆り立てられる。彼女の場合はそれとはやや違う。

「フランスの第2次大戦終戦記念日は5月8日。8月15日はカトリックの祝日で、聖母の被昇天の祭日である。フランス放送局が、あえてアメリカ制作の「日本の終戦」を流したのか、と疑問を持ったのだ。

 作品は疑問のままで終っている。私は「最近は日本国内で、こうした報道が少なくなってきたな。日本国民が背負った、戦争の痛みは避けて通ってはならない。メディアは積極的に、勇気をもって語り継がないといけない」という思いを強く持った。

 久保田さんには転載を依頼し、【ジャーナリスト】で、全文を掲載させていただいた。


(写真提供:久保田雅子さん、フランス国営放送のTVより)

報道写真展の取材について

「世界報道写真展2009」が、東京都写真美術館(東京・目黒区の恵比寿ガーデンプレイス)の地下1階展示室で開催されている。

 3年前の同展2006は、PJニュースで紹介したことがある。タイトルはhttp://news.livedoor.com/article/detail/2127972/

この報道写真があなたに何を訴えているか?3回連載だった。

 その写真展で、強く印象に残っているものがある。イラク戦争で死亡した米兵が家族のもとに帰るまで、それを追った組み写真だった。その時の記事を抜粋してみると、
『旅客機の機体から柩が下ろされているが、乗客はまったく何も知らされていない日常の顔だ。このさき兵士の遺体が家族のもとに着く。妊婦の妻が臨月のような、目立った腹部を柩に当てている写真がある。
「戦争は、この家族になにを与えたのだろうか」。生まれてくる子どもの将来を考えると、あまりにも哀れだ』と私は記している。

 この写真が私の記憶から消えることはなかった。同一の取材ネタは極力避けるようにしているが、同展2009を観てみたい、強い衝動に駆り立てられた。

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1000コンテンツを達成。3年半にして。

 穂高健一ワールドは2005年12月7日にスタートした。最初の記事はPJニュース「東京下町冬の風物詩! 中川沿いの巨大ユズ」だった。この記事の写真がいきなり「フォーカス」から転載の申し出があった。
 1000本目のコンテンツは2009年6月23日に掲載された「東京随一の水郷で遊ぶ、20万本の花ショウブを楽しむ=東京・水元公園(下)」である。私は葛飾区在住で、同区の取材記事だった。


 3年半で1000本だから、単純に1日1本の作品の創作されていたことになる。

 穂高健一ワールドはITコンサルタントの肥田野正輝さん(横浜市)が制作してくれたものだ。
PJニュースを中核においたうえで、ジャーナリスト、小説家、登山家、ランナーからはじめた。やがて、「東京下町の情緒100景」に取り組んだ。
 下町の素朴な生き方、古い街並み、昭和の名残りなど、写真とエッセイの組み合わせで展開した。ふだんの生活の見慣れた光景だけに、ネタの取り上げ方には苦労した。取上げる人物、商売など領域を広げてながら展開し、100情景(コンテンツ)が達成できた。
『TOKYO美人と、東京100ストーリー』は、「心は翼」で止まっている。撮影済みのモデルの方には心苦しいので、早め執筆を再開したい。

                           (写真・左が肥田野正樹さん)


 私の執筆は、伊藤桂一(直木賞作家、日本芸術院賞・受賞)氏に学び、約30年にわたり小説一辺倒だった。取材に裏づけされた小説を書く。それをモットーにしてきた。(作者が頭脳の中で、登場人物を都合よく書く、そんな小説は味がないと思っている)。

 北海道・根室の密漁経験の漁船員に取材に行ったり、鹿児島や奄美大島に出向いて歴史物の取材をしたり、二年余り死刑囚と向き合っていたという、拘置所の元副所長から話を聞いたりした。下岡蓮杖を書きたいと下田にも通い詰めた、佐々成政を書くために富山にいった。過去からの累積で、1都2府43県を回りきったのは、いまから15年前だった。


私はともかく取材が大好き人間だった。「会ってくれるかな、断られるかな」と緊張し、アポイントの電話を入れる。了承が取れると、緊張が解けて、未知の人から話が聞ける、という期待が膨らむ。それは心踊るものがある。

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北朝鮮の核兵器って、いつ、どのように使うの?

わが家の二階のベランダには、所狭く植木鉢がならぶ。そのなかの一つ、アマリリスが咲いた。見応えがある、真っ赤な大きな花弁だ。

 この日、北朝鮮が核兵器実験をしたと聞いた。アマリリスが妙に血の色に思えた。と同時に、核兵器が使われた瞬間を考えた。街は真っ赤な炎で燃え上がり、火焔が人体の着衣に燃え移り、逃げ惑う人々は熱傷から川に飛び込む。そんな地獄がかんたんに想像できた。

 私は広島県で生まれ育った。小学校の大多数の教師は、広島大学(あるいは広島高等師範)の出身者だった。複数の先生の顔が白いケロイドだった、という記憶がある。「平和教育」という授業がつねに行われていた。
 教師が手作りの紙芝居で、悲惨な地獄絵を見せて語るのだ。一枚ごとに描かれた真っ赤な炎があまりにも鮮明すぎて、怖かった。

「お前たちの頭の上に、ピカドン(原爆)が落ちたら、一瞬にして水蒸気じゃ。だがのう、ちょっと離れた場所だったら、こげえな、真っ赤な火の海を逃げ回ることになる。『水をくれ、水をくれ』と、大人も、子どもも関係なく、泣き叫んでな」と語る。
 被爆体験の教師だけに、毎回、死がリアルに迫ってくる。と同時に、わが身が炎に包まれると、ぞっとさせられた。  

「平和教育」は怖くて気色悪い授業だった。夜は寝床で、布団をかぶっても、怖くて、震えていた。「平和教育」がある日は、小学校に行きたくなかった。そんな理由で、不登校など、親が許すはずがなかった。そして、新たな紙芝居を見せられる。
「原爆は二度と使わせたら、いかん」
 ケロイドだった先生たちは、最期は白血病で血を吐いて死んだことだろう。

 北朝鮮は核を開発した。間違っても自国で使うはずはない。それは自明の理だ。
「あなたがたは核兵器って、いつ、どのように使うの?」と問えば、日本だと答えるかもしれない。核兵器が東京にも炸裂する。街は真っ赤に燃え上がる。私は火焔のなかを逃げ惑い、『水をくれ、水をくれ』と、荒川や隅田川に飛び込むのか。
 それが私でなくても、次の世代の者かもしれない。

マスク族はメディア中毒症か。豚インフルエンザって、そんなに怖いの? 

 マスク族が東京にも現れはじめた。街なかの歩道、電車、お店でも、顔に目立つ大きなマスクがチラホラ目につく。初夏の暑い陽射しの下、かなり息苦しくて辛いだろう、と思ってしまう。

 マスク族は何をそんなに怖れているのか。むろん、豚インフルエンザだ。日本の人口は1億人強だ。5月25日現在で、感染者が348人である。人口比は何%なのかしら? 
 1%未満の数字がどこまで並ぶのか、暗算では見当がつかない。とりあえず電卓ではじいてみた。「0.000348」、という数字が出てきた。
 この数字は何を意味するのか。上手な説明はできないが、感染者を探し出せといわれても、不可能な数字だ。

 東京の人口は1千万強だ。豚インフルエンザの感染者は3人だ。バカらしくて、電卓で計算する気にもならない。

 全国で、死者はゼロだ。多くの人は過去の冬場に何度かインフルエンザを経験している。今回かりにインフルエンザにかかっても、3、4日伏せれば、自然治癒するようだ。この間は職場や学校を休めばすむことだ。死者0%を信じれば、恐れるに足りない。

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軍事政権の残虐な行為、妊婦と幼児に銃弾=4半世紀後の証言

『アルゼンチンの行方不明者の問題』という、タイトルには興味がなかった。地球の裏側の出来事で、遠い国の行方知れない人? そう思うと、まったくの他人事だった。
日本ペンクラブ会員向けの『詩人ファン・ヘルマン氏を囲んで』という懇談会の案内が来たときの、率直な印象である。


 外国人作家には疎いし、どんな経歴の人物かよくわからなかった。アルゼンチン大使館の関係者が参加するので、席の都合上、30人限定だった。私は広報委員して覗いてみるか、という軽い気持ちで出かけた。

 4月30日、懇談会の席で配布された、ファン・ヘルマンさん(79)の略歴をみると、ノーベル文学賞候補にノミネートされていた。会場にはアルゼンチン大使夫人もきていた。「大物作家だな」という気持ちをもった。

 1976年にクーデターで、アルゼンチンに軍事政権ができると、市民の言論弾圧が始まった。「誘拐(連行)、拷問、殺人、遺体の消滅の4つが行われてきました」とファン・ヘルマンさんは話す。

 連行された先は海軍の軍人養成学校で、そこが秘密拘置所だった。拷問の末に、麻酔を投与され、生きたまま海に投棄されて殺害されていた。あるいは遺体が焼かれた。家族たちには行方不明者扱い。現在も、その実態がわかっていない。行方不明者とは、軍事政府の手で殺害された人たちだ、と理解できた。

「息子夫婦は同年8月、朝4時にパジャマ姿で連行されました。息子は拷問の末に殺害されました。妊娠七ヶ月の嫁は、出産した後に、殺害されました」とヘルマンさんは悲しい出来事を打ち明けた。

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インタビューから、人生を学ぶ

 日本ペンクラブ『ペンの人』、PJニュース『よこ顔』などで、シリーズものとしてインタビュー記事を書いている。ほとんどが人生経験の豊かな人たち。それだけに、単なるインタビュアで終らず、相手の話から生き方、考え方など学ぶ点が多い。

 PJニュース『よこ顔』の場合は、地位や名誉など関係なく、ちょっとした縁、ユニークな人だな、と思うと取材を申し込んでいる。大学関係者、歌手、元タカラジェンヌ、路上ライブ、ボランティア活動、シニアの講師、下町の職人など幅広く求めてきた。


 斉藤善久(ぜんきゅう)さんは元電通マンで、獨協大学で教鞭(きょうべん)を取っている。同大学では人気講師だ。
 2年ほどまえ、シニア大樂の講師・ノコギリキング下田さんから、「ユニークな方がいますよ」と紹介された。二人は早稲田大学の後輩・先輩の関係だった。 さっそく善久さんにインタビューし、教壇での指導方法に感銘した。タイトル『こんなユニークな教え方の講師がほしい! うちの大学にも』で、PJニュースに取り上げさせてもらった。

 善久さんはことし1月、NHKラジオ深夜便に出演し、タイトル『カタイ頭をやわらかく』で語った。好評で、3月には再放送があった。そこで、PJニュース『よこ顔』としてインタビューをお願いした。
 北千住で会って取材中に、双方の合意から、学生向けの記事に切り替えた、という経緯がある。

(写真提供:斉藤善久さん)

 日常生活のなかで、「柔らかい頭」、「硬い頭」はよく使う。その定義となると、曖昧だ。「やわらかい頭とは、アイデアが簡単に出せる人です」と善久さんから説明を受けた。なるほどな、と思った。「話題が豊富な人」、それも頭脳の柔らかさに結びつく、と思いながら聞き入った。

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