ジャーナリスト

戊辰戦争「会津の悲劇」の真相を求めて(1)

 歴史上のちょっとした疑問から、それを掘り起こしていくと、従来の認識とはまったく別の史実や、事実などが出てきたりするものだ。
 会津と長州は仲が悪い。かつて両藩の子孫は結婚も認めなかった。それは世間一般の認識で、疑いもなく受け入れてきた。

 私は戊辰戦争の関連書物に目を通していた。某著「会津戦争……」の書物には長州藩・木戸孝允が会津を徹底的に憎んでいた、と明記した上で、

『(落城後)会津若松城の内外に散乱する遺体は、放置されたままで、野犬に食い荒らされ、カラスについばまれるままだった。中略。会津戦争では、死者の埋葬を禁じる異例の処置がとられた。これが大きなしこりとなって、(長州との間に)長く尾を引くことになる』と明記している。『これも一種の見せしめである』と追記している。
 著者は福島県在住の放送ジャーナリストで、会津の視点と立場で書かれている。

「本当かな?」と疑問が起きた。

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炎天下でも、意欲がいっぱいの課外活動=かつしか区民大学

 9月18日(日)は陽射しが強く、気温が30度を超す、真夏日に戻った。帽子を被って歩いているだけでも、汗が噴きだす。
 かつしか区民大学・主催は葛飾教育委員会の「写真と文章で伝えるかつしか」第6回の課外活動が朝10時から夕方5時まで実施された。炎天下で四つ木と亀有に出向き、意欲的な取材活動が行われた。

同講座は区民がみずから地元情報の提供ができる、ミニ記者の養成講座である。講師は穂高健一、受講生は20人。年間8回にわたる講座を通して、
  ①取材の仕方、
  ②報道写真の撮り方
  ③記事の書き方
 この3点を学ぶ実践講座である。

 昨年の卒業生は「かつしかPPクラブ」を立ち上げ、区内で活発な活動を展開している。

 通常は夜7時から9時まで2時間。提出作品の講評を通した指導を行っている。うち2回は1日を通した課外活動で、写真取材・インタビューを実践している。前回は6月に、堀切菖蒲園・しょうぶ祭りで行われた。


 今回の参加者は17人。午前中はアポイントのある取材活動である。
 シャッター街となった葛飾・四つ木で、町の再生・活性化を目指す、ユニークな取り組みを行う「ミルクショップワタナベ」の社長・渡辺浩二さん(42)への取材である。

 葛飾・四つ木の往年は荒川の海運の荷揚げ場で、千葉方面に物資を運ぶ基地として栄えていた。奥戸街道の両側には、多種多様な商店が延々と並んでいた。複数の映画館も、病院も、娯楽施設も、飲食店も多くあり、同区内では最も活気ある商店街だった。

 昭和40年代からトラックで物資が運ばれる陸路の時代になると、四つ木は急に衰退した。現在はその7割が店舗営業を停止している。まさにシャツター街の町だともいえる。
 同ショップの渡辺社長から、森永牛乳の配達屋さんから脱皮した、その経緯の説明がなされた。「老人の孤独死に気づかず、牛乳を配達し続けていた。死を知ったときはショックでした。何で、気づいてあげられなかったのか、と」、コミュニティーに取り組んだ動機を話す。

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2人が殺された、と警察に通報があった=どんな仕事も大変だな

 東京都内のM警察署に、9月8日、ある用向きで足を運んだ、玄関に入った待合室の長椅子で、私は腰かけていた。時間がかかりそうなので、私はノートパソコンを開いていた。他には誰もいなかった。

 すぐ横が受付カウンターで、電話の交換台にもなっている。

「はい。こちらはM署です」
 50代の男性係官が、外線電話を受け付けている。
 内容によって交通課とか、刑事課とか、地域課とか、あるいは交番へと、取り次いでいる。警察の特殊性から、相手を長々と待たせるわけには行かない。ベテランしかできない業務だ。

 私は一瞬、驚いて顔を上げた。それからの数分間の顛末を再現させてみたい。

「家のなかで、二人も殺されているの。誰と誰?」
 係官は冷静な口調だった。

「もういちど、家の中に入って、死んでいるかどうか、確かめてくれないかね」
 係官は手慣れた態度だった。

「怖くては入れないの。困ったな」
 受付まわりりには、若い警察官とか、年配の警察官とかが5人ほど執務をとっている。
  
「殺した相手はわかっているの?」
  ずばり効いた。
  まわりの警察官は聞き耳すら立てていない。

「そうなの。犯人はいつもの幽霊なのね」
  うんざり顔だ。

「犯人はもう逃げて、家の中にいないと思うよ。入って確かめてみて」
  諭す口調に変わった。

「お巡りさんがいないと、一人じゃ、家の中に入れないのね。交番のお巡りさんはいまね、パトロール中で、出払っているんですよ」
 相手は粘っているらしい。

「家の前の公園のベンチで、お巡りさんが来るまで待っているの。それなら、電話を交番に回すから、もう一度お巡りさんに話してね」
 ベテラン受付係は内線で、交番を呼び出し、その内容を簡略に伝えた。その上で、いつものことだから、家の中まで送り届けてあげて、といった。

 受話器を置いたベテラン係官が、吐息を漏らし、視線が合った私の顔を見て、
「疲れますよ」と苦笑していた。
「警察も、大変ですね」
 私も応えた。
 
                  【記事と写真は無関係です】

寝苦しい夏の夜長に、「会報」をよむ・シリーズ④=シニア大樂

 シニア・ブームの最先端をいく。あるいは口火を切った、それがシニア大樂だろう。
 団塊の世代が60代を迎える。その数年前の、2003年4月に同大樂が発足している。当時から、4大新聞などメディアに、団塊世代の先駆け、指針になると、数多く取り上げられてきた。むろん、いまなおである。

 田中嘉文理事長から発足時の話を聞いた。「シニア・ライフ・アドバイザー」資格を持ったメンバーが、ハワイ大学の加齢学セミナーに出席した。(米国では進んだ学問)。帰国後、呼吸の合った男女6人が、われわれは何ができるか、と半年ほど語り合ったという。
「60歳で赤いチャンチャンコ」という日本人の感覚を打ち破り、欧米並みに豊かな心になれる人生を創りだそう。そういうアドバイザーになりたい。

 リタイアした人は残る人生を有意義に過ごしたい、企業のなかで培われた能力や才能がこのまま廃ってはもったいない、という気持ちがある。それを引き出し、生かす、その手立てのアドバイスをする。
 シニア大樂が立ち上がった。すぐさま、「出前講師をやろう」という藤井敬三副理事長の発案で、同大樂に講師紹介センターが生まれた。

 一般的に、民間の講師斡旋業者に派遣講師を依頼すれば、2時間で数十万円が相場である。なかには100万円台の超著名人もいる。多くはイベントで招かれる。聞き手は「○○」の話しを聞いたよ、見たよ、という自己陶酔に終わってしまう。

 シニア大樂の幹事は、次世代の人たちが安く学べる講師陣を揃えよう、幅広く知識を提供しようと考えた。そこで2時間・数万円で出向ける人材を募った。それがヒットした。
 9年目にして登録講師は500人を超えている。国際空路のパイロット、大使、大手企業の管理職、真打の落語家、建築士、高級官僚、アナウンサーなど枚挙に暇がない。


 同大樂では、【シニア大樂ニュース】を発行している。夏の寝苦しさのなかで、開いてみた。
 講師陣の大道芸人、落語家、手品師などがシニア演芸団 「演多亭」を立ち上げ、毎年、定期公演を行っている。今年の7月7日は6回目を迎えた。文京シビックホール370人の定員が満席で、当日券も売切れだった。
 2011.8.1の第32号には、メインタイトルが『七夕の笹揺れ、演多亭シビック公演大盛況』である。
 第1部は、ヘブンアーティストのオンパレード
 第2部は、落語と漫談とマジック
 公演の成功ぶりを熱く報じている。

 穂高健一ワールドでも、【寄稿・写真】これぞ、熱演・芸人たちの顔=滝 アヤで写真紹介している。

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かつしか区民大学「私が伝える葛飾」。堀切菖蒲園で、取材方法を学ぶ

 東京・葛飾区に、「かつしか区民大学」が正式発足して2年目になった。主催は葛飾区教育委員会。講座の一つ「私が伝える葛飾」は、昨年と同様に、講師は穂高健一で、区民記者の養成を目的とする。11年度の受講生は19人である。

 同講座は5月20日からスタートし、11月25日まで延べ8回の講座を通して、報道写真の撮り方、記事(あるいはエッセイ)の書き方を学ぶ。座学(2時間)は6回、課外活動(一日コース)は2回。受講生は毎回、課題作品の提出が義務づけられている。
 全員が共通認識を持つために、講師が添削した作品は一作ずつ映像器具などを使い、指導していく。


 葛飾は花ショウブで有名である。6月に入ると、花は盛り。同月19日(日)は同区・堀切菖蒲園で、課外活動を実施した。

 当日は全員が10時に堀切地区センターに集合した。教育委員会・生涯学習課からは2人の担当者、「かつしかPPクラブ」からは浦沢誠会長を含めた4人の参加協力が得られた。午前中は写真の撮り方、午後は取材の仕方にウエイトを置いた。

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小さな奇遇が、3つも連続=ご近所から、徳川家茂と和宮の謎まで

 日本写真協会(東京・千代田区)の総会に出席した。2011年4月1日に、同協会は公益社団法人に認可された。
 宗雪雅幸会長をはじめとした執行理事は、安堵の表情で、総会に臨んでいた。事業報告、決議事項とも、会員からは質問も、反対もまったく出てこない。すべて挙手で、原案通り可決だった。

 文芸関係や山岳関係の総会では、質問が立て続けに出てくる。日本ペンクラブなどは発言者が多く、議事の進行が止まってしまう。それら荒れる総会を知るだけに、写真の会員はおとなしいな、と妙に感心してしまった。

 写真はカメラを被写体に向けて、目と心で語りかけて撮るものだ。口は必要ない。そんな勝手な解釈で、自分を納得させた。

 この総会のさなか、右横の席から、不意に肩をたたかれた。鈴木幸次さんだった。
「これはまた奇遇ですね」
 ふたりの驚きの言葉だった。議事進行中だったから、それだけの言葉だった。

 昨年末には、わが家に一枚の展示会の案内・はがきが届いた。鈴木さんが同会に入会し、名簿を見ると、極々近いところに、私の住居(葛飾区)あると知り、連絡してきたものだ。日程の都合がつかず、展示会には参加できず、そのままになっていた

 約半年が経った。
 2011年6月1日の『写真の日』のレセプションで、私が会員のネームプレートから『かつしか写真クラブ』主幹を見つけて、声がけをしてみた。
「よくわかりましたね」
 鈴木さんが感心していた。
「葛飾区東立石で、わずかな番地違いで、同じ会員とは奇遇ですね」
 ふたりはともに住居の場所を確認し、あまりの近さに驚いていた。 

 鈴木さんは、山岳写真からスタートし、現在は花とポートレートだという。私も略歴を語り、一気に親しい会話となった。

 それから半月後、この総会で真横に座っていたのだ。まさに奇遇に思えた。
 総会終了後は、懇親を深めるために、「お茶しましょうか」と誘った。1階の写真展をのぞいてから、近所の喫茶店に入った。

 鈴木さんが主幹のクラブは会員が約20人、月2回の会合を開催している。構図が中心の指導だという。作品提出は数枚だが、300枚近くを出す方がいると聞いて驚かされた。
「数多くの枚数を撮ったうえで、絞り込むのも能力の一つなのに……。それができない方なんですね」
 そんなコメントをさせていただいた。

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それでも死体の写真報道はするべきです=オピニオン

 私のもうひとつのHP「穂高健一の世界」を編集して下さっている方(40代・男性)から、PJニュースの『大惨事の報道はこれでよいのか。大手メディアの自主規制の是非を問う』に対して意見をいただきました。
「(死体を)見る権利もあるが、見ない権利もある。公共メディアではなくインターネットや、有料本の様な物に限るべきだ」という趣旨です。

「海外のメディア(ニューヨークタイムズなど)では、遺体が放送されているようですが、遺体を写したフジテレビがかなりたたかれているようです」という補足がありました。


 大震災の話だけならば、「(死体を)見る権利もあるが、見ない権利もある」という意見は正論かもしれません。
 しかし、なぜ、日本のメディアが死体を見せないのか。その本質(根幹)は明治以降の戦争から培われてきた、危険なものなのです。

 いま声高に言わないと、日本がもしも戦争に突入したら、メディアはまたしても戦場の若者の屍を見せない報道になるでしょう。これで良いのでしょうか。 

 いま現在でも、ベトナム戦争、イラク戦争、イスラエル・パレスチナ、アフガン戦争など、日本では死体のない兵器戦争しか報道されていません。それはアニメの戦争世界と同じ。死者への痛みなど知る由もなく、戦争を仕掛けた、あるいは背後にいるアメリカに対して、日本はもろ手を挙げて大賛成となるのです。

「えっ、南ベトナムから、アメリカはなぜ全面撤退するの?」
 それが当時の日本人の殆どの感想です。若い米国兵士の戦場死体など、報道写真で見せられていませんでしたから、日本人はピンボケ状態でした。戦場の凄まじさは知らなかったのです。


 世界各地で「世界報道写真展」が毎年、開催されています。日本では、東京都写真美術館などで開催されます。
 世界中のジャーナリストたちの報道写真・10万点以上から優秀作品が100点強選ばれています。
 焼け焦げた遺体、四肢が吹き飛んだ死体、子供の死体もあります。悲惨な死体が写っています。それを見れば、戦争など絶対してはならない、という強い気持ちにさせられます。

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年に1度、ギター演奏を聴く=名曲が心にしみる

 川瀬のり子と教室生徒による、第8回「ギターサロンコンサート」が4月24日、東京・自由が丘チエスナットホールで開催された。小、中学生(男女)から、リタイアして本格的にギターに取り組む60代まで、と幅が広い。


 演奏者たちはそれぞれ真剣な表情で、1小節ずつ楽譜に忠実に弾く。緊張から音が硬くなる。それでも、この日のために、練習に励んだ、という熱意と努力が伝わってくる。



 年に1度、ギター生演奏から、心を癒してもらっている。
 個人的な好みからいえば、より初級者の曲のほうが心地よい。

           

「禁じられた遊び」「グリーンスリーブ」「シェルブールの雨傘」「夜霧のしのび逢い」「枯葉」「鉄道員のテーマ」「ラ・クンパルシータ」など、聞きなれた名曲だけに、心にしみこんでくる。

 中級、上級者になると、ホ短調とか、変奏曲とか、アストゥリアスとか、むずかしくなる。なにも考えず、自然体で聴いている。

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春の郊外を歩く、大震災を考える=作家として、何をなすべきか

東日本大震災から、約1ヵ月たった。日本人が一つになって、復興・復旧へと向かいはじめた。とはいっても、いまなお暗い雰囲気が漂う。

 メディアは相変わらず、政府関係者や東電をバッシングし、妙に利巧ぶっている。為政者を攻撃しなければ、知的集団ではないと、ジャーナリストたちは勘違いしているのではないか。そんな想いが強くなるばかりだ。

 今回の大震災の発生後から、私はどこかジャーナリストでなく、小説家として自分を置きたいと考えている。そんな自分を意識している。


       
 東京・仙台までの新幹線が開通した。被災した現地に足を入れようかなと考えた。いま出向いて、暗い報道ばかりを伝えても、大手メディアの二番煎じになるだけだと思い直した。
 
 状況が落ち着いた頃、ジャーナリストでなく、小説家として被災地に出向きたい。被災地で、人々が経験した「人間とは何か」という根幹を求めて現地を回ってみたい。
 単に事実の伝承、報道の上滑りでなく、災害時の人間の本心、本音、思考をさぐり出したい、浮かび上がらせたいというものだ。
  

 4月末の晴れ間を狙って、東北には向かわず、初めて目にする千葉県・柏市の郊外を歩いてみた。近郊農家もある。あけぼの山農業公園もある。
 田畑や花や土地の匂いを感じながら、いま文学は何をするべきか、何を書き残すべきか、と考えてみたいと思った。

  

 2008年2月、日本ペンクラブ主催の世界フォーラムで、「災害と文化」が行われた。国内外の著名な作家たちの作品が紹介されたり、朗読されたりした。

 大自然はある日突然、巨大なエネルギーで人間に襲いかかる。人間は為すすべがない。脆弱な姿をさらしだすしかない。
 人間が自然災害と立ち向かったとき、いかに弱いものか。そのなかで、人間は何を考え、どんな行動をするか、それらが作品化されていた。

 人間は自然災害を制御、防御、コントロールできる。そう信じるのは人間の驕(おご)りだと、多くの文学者・作家たちは語っていた。
 予想も、予知もできない。人間の思慮を超えたりするものだ。
 

 災害を被った直後、人間は何を考え、どんな行動をとり、どんな希望へと結びつくのだろう。
 希望が得られない人は絶望になる。

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えっ、中国電力は原発事故と関係ないんじゃないの=広島・山口

 ミステリー小説「海は燃える」第8回目の入稿が終わった。4月第3週に、その写真撮りで、広島に出むいた。と同時に、幕末芸州藩の歴史研究をしている(近い将来・書籍にしたい)ので、幕長戦争との絡みで山口県にも足を伸ばした。
例年ならば、春とともに各地で、中高年層を中心とした旅行客を見かける。だが、どの連絡船も、列車もガラガラだった。広島市内でも、観光客は殆ど見かけなかった。宮島口で降りる乗客も皆無に近い。宿泊したホテルも閑散としていた。

 洞窟写真が欲しいので、新山口駅前から秋吉洞行のバスに乗った。外国人(男子大学生らしい)が1人だった。強い雨が降っているせいかな。その程度に受け止めていた。考えてみると、関西、関東、全国の遠隔地からの旅行者は、雨だからといって鍾乳洞見学をやめることもないだろう。まして、洞内に入れば濡れないのだから、と思い直した。

 
 
 鍾乳洞の巨大さを写真で表示するには、対比として人間の姿が欲しい。先刻の外国人はさっさと先を行ってしまったので、対象の人物がいない。

 それでも、マイカーでやって来たのか、約1000メートルの観光ルートで、数人は見かけた。撮影のタイミングと合ってくれなかった。
 黄金柱の鍾乳岩の観光写真屋は機材を置いたままで、カメラマンはいなかった。商売にはならないのだろう。

 洞窟の出口からバス停まで、軒を並べる土産物屋はどこも無人かと思うほど、店員の姿を見かけない。割りに大きな店の、うす暗い人気のない店内をのぞいていると、女将さんが奥から出てきた。
「お客さんも来ないし、節電しているんですよ」
 と天井を指す。
「えっ、山口県も原発事故と関係あるんですか。中国電力は大震災の影響などなかったのでしょう?」
「東北や関東の人たちがみんな節電しているのに、こっちの人間が煌々(こうこう)と電気は使えないでしょ」
「そういうものですかね」
「苦しみは分かち合わない、と。おなじ日本人ですからね。観光客が来ないのは痛手だけど、津波で家を流された人たちを思えば、家があるだけ贅沢よね」
 と真顔で話す。
  観光客がやってこない。当然のことのように受け止めていた。

 彼女は過去に2度、洞窟の地下水が豪雨で流れ出し、床下浸水を経験したという。それだけでも怖かった。映像でみた、大地震の津波は途轍もなく恐怖に思えたと語る。

 3月11日のあと、節電で、中国地方のJR列車すらも間引いていたような口ぶりだった。(確認はとっていない)。

「こっちにも電池がないし、タバコもないし、いろいろ影響はあるんですよ」
 と教えてくれた。
 ガス台などは「着火マン」でつけられるけれど、風呂釜用などは乾電池がないから、風呂が沸かせられない。数日間はもらい風呂していたという。

 日本人の殆どが地域を問わず、被災地の人たち痛みを分かち合う。と同時に、浮かれた気持になれないので、自然発生的に「自粛」という言葉が全国に広がった。それは従来とは違って、行政指導型ではない。

「自粛」は経済に悪い影響を与える。今年の流行語になるのではないか。そう思う一方で、日本人はやはり単一民族だな、としみじみ思わせられた。

 日本は戦後復興から高度成長期へと、つよい経済指向で突っ走ってきた。他方で、日本の文化を犠牲にし、伝統の良さを見失ってきた。すべてが経済優先だった。

 経済面で「自粛」が悪影響だと叫ぶだけでなく、ここは一度しっかり立ち止まってみる。日本人は復興・復旧の底力をもっている。あわてることもなかろう。
「日本人とは何か」
 日本人の精神文化をじっくり考える、半世紀に一度の機会ではないか、と旅先で思い直した。