A055-フクシマ(小説)・浜通り取材ノート

破れた横断幕「がんばろう東北」=埼玉・加須市

 加須市の騎西(きさい)高校まで、遠かった。電車で向かうには交通の便が悪かった、というべきだろう。
 JR鴻巣駅からバスが1時間に1~2本だった。車の免許を持っていれば、住まいの葛飾から1時間ていどで到着できる距離だ。同駅前からバスに乗り込むまで、2時間半は要している。さらに、ここからバスは20ぐらい先のバス停・騎西1丁目へと向かう。
 車窓には、田園の風景が広がった。
 私は頭のなかで、一度にあれこれ考えるタイプだから、一つ物事に神経が集中しない。もし自ら車を運転していれば、遠い昔に交通事故死していただろう。あの世では、こうした福島・浜通りの取材活動も、小説の執筆もできない。

 電車の不便さを感じる私は、自分にそう言い聞かせながら、最寄のバス停に降りた。そこからも廃校になった騎西高校まで、徒歩で1キロ先にある。

 3・11大震災から2年経った。福島県・双葉町の町役場や住人が、騎西高校で避難生活をしている。東日本大震災で、住民がいまなお避難所生活をするのは、ここだけだとも聞いている。(他は仮設住宅に移っている)

 同教育委員会の吉野学芸員から、電話で、バス停からの道順を聞いていた。山で鍛えた脚だから、徒歩は苦痛ではない。3月26日ともなると、民家の庭先の桜は満開だ。それを横目で見ながら、同校に向かった。
 高校の広い敷地を取り囲むフェンスには、破れた横断幕『がんばろう東北』が掲げられていた。それが目に飛び込んできた。
「日本人はとくに熱しやすく、冷めやすいし……。ボランティアは風化しやすいからな」
 私は立ち止まり、そんな想いで凝視した。東北へボランティアに行ったと語る人は多い。一過性の同情だけの行動なのに、いまなお自慢げに語る。あるいは、3・11は飽きたよ、と話す顔などが重なり合った。

 フクシマ・東電原発事故はどのように収束するのか。まだ確固たる見通しはない。住民の不安、望郷の気持は推し量ることができない。
 一時帰宅がくりかえされた後、どういう展開になるのか。破れた横断幕を見る、住民の心境はどんなものなのか。

 災害文学の小説3・11『海は憎まず』の第2弾は、福島・浜通りを舞台にした、テーマ『望郷』である。歴史小説と現代小説をオーバーラップさせるものだ。ジャンルが違うだけに、小説の技法としては高度だけど、チャレンジする。

 戊辰戦争で芸州(広島)藩が猛烈に浜通りから仙台に向かう。相馬藩・伊達仙台藩を落とすために突っ込んでいった。他藩は王政復古の義理で戦うし、不利となれば、すぐに逃げる。
 芸州藩だけは多くの戦死者を出しても、やみくもに戦っている。なぜなのか。それでいて幕末史から消えていく。
 歴史小説はある程度、事実で近いところで書く必要がある。広島市は原爆投下で歴史的資料も殆んどない。フクシマ原発で、浜通りは立ち入りが出来ず、現地調査はできない。双方にはとてつもない高い壁がある。取材の難易度が高いだけに、やりがいを感じている。

 いまは福島側の歴史家から、芸州藩の戦いの詳細とか、兵士の望郷の念とか、言い伝えとか、資料とか、こうした小説の素材を求めているさなかである。1月からはいわき市、浪江町(二本松)、楢葉町(会津美里町)へと出向き、そして双葉町(加須市)へと足を運んできた。

 戊辰戦争で亡くなった兵士たちは、浜通りの寺に埋葬されている。
「官軍とはいえ、敵の戦死者の墓がなぜ、ほぼ全員存在していたのか」
 それは疑問の一つだった。
 双葉町教育委員会の吉野学芸員は、そのあたりは詳しそうだ。

 現・住民からの『望郷』感の取材はもっと先においている。それにしても、フェンスのこんな大きな横断幕が平然と張られたまま、だれも修理に来ない。これで、頑張れというのか。かつてのボランティアの熱気はどこへ行ったのか。
 破れた横断幕を毎日見る、住民が気の毒に思えた。フクシマ原発で故郷を追われたうえ、これでは心が荒んでしまう。心がなおさら破かれた想いだろう。
 ボランティアに抗議しない、あるいはできない住民がいかに暗い気持ちに陥っているか。直接、ことばで聞かずしても、作家の想像力で脳裏に描くことができた。

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