小説家

第71回・元気100エッセイ教室=作品の勝負は結末で決まる

 エッセイにしろ、小説にしろ、読者が作品を手にしてから、読んでもらえるか、ポイされてしまうか、それは書き出しで決まります。

 私の友人に、エッセイと小説の双方の「応募作品の下読み」を糧の一つにする作家がいました。かれの話では、100~200編の原稿が送られてきて、約10日間か半月でAからDのランクをつけて、依頼先に返す。C以下は(評価一覧表に記載のみで)、原稿は返さず、廃棄処分にすると話していました。

 AとBは評価理由のコメントをつける。

 
「最初の1-2枚を読んで、ダメなものはどんどん棄てていくんですよ。後でじっくり読みたい作品を別に置いておく。8割くらいは書出しで、ポイしておかないと、これはと思う作品をしっかり読んでコメントする時間が無くなりますからね」
 その友人だけでなく、評論家に聞いても、8割の作品は読むに堪えない、と話す。それらは文章が見劣りする、拙い(C)、基本の文法もわかっていない(D)。8割をはじき出す、アウトにするのは実にかんたんな作業だという。

 作品を最初から最後まで読ませれば、一応の合格点である。(A-B)。一次選考通過、二次選考通過していく。
 そして、編集者が候補作品を選ぶ。

 小説でいえば、どこの文学賞に応募しても、一次選考通過すら、まったく名前が出ないのは、小説を書く以前の状態で、文章を学ばずして、ストーリーで作品が生まれると勘違いしているからです。


 私は何かにつけて「書出し」にこだわり、文章の添削につとめるのは、友人や評論家の話が真実だろう、と考えるからです。
 夢と希望を持って、時間をかけて数か月も、1年以上もかけて作品を仕上げても、ものの3分でポイだと、あまりにも惨めだからです。

 最終候補作品に選ばれると、完成度の高い作品です。あとは選考委員会で、選者の好み、運なども左右します。それはそれとして、決定打はなんでしょうか。作品のエンディングです。

「これは読後感がいい。良い作品だな」
 そう感動させるのは、最後の数行。つまり、作品の評価は「結末」で決着するのです。

『結末に強くなる。結末の力量を高める。結末の落としどころを磨く』
 まず結末まで毎回書かずして、上達などのぞめません。

 作品を勢いよく書きだしても、途中で、あれこれ悩み、投げ出す。別の作品に手を出す。こういう作者はいずれ、書きたい想いばかりで、作品が創れなくなります。
 結末の訓練など覚束きません。あげくの果てには、結末を書く呼吸すらつかめず、失望や創作活動のとん挫で終えてしまいます。

 「書き出したら、何でもかんでも最後まで書く」
 これが身につけば、時どきの出来ばえに甲乙があっても、長い目で見て、確実に作品力が挙がってきます。


【結末のテクニック】

①初稿は多めに書いておいて、うしろの数行、数枚を切り棄てる。カットした先が読後感になる。

②結末は説明文でなく、描写文で終わらせる。映画のシーンのように。

③結末と書き出しと、いちど入れ替えてみる。すると、双方が良くなることがある。

④結末の推敲は念入りにする。誤字・脱字とか、難しく読めない漢字とかがあれば、読後感が悪くなってしまう。


【勝負できる結末】

 ①全体をしっかり受け止めている

 ②作者の言いたいテーマが凝縮している。

 ③導入部(リード文)と、結末がリンクし、題名とも関わっている。

 ここに力量が到達するには、どんな作品でも、途中で投げ出さないことです。そのうえで、結末は何度も書き直して、①~③に近づけることです。

歴史上の人物の描き方=早乙女貢著『世良斬殺』より

 実在した歴史上の人物を小説で描く、その場合はなにが大切か。どんな人間でも長短もあり、裏表もあり、良し悪しの両面が必ずある。それを大前提におくことだろう。作者の先入観、価値観だけで、人物を悪者だ、非道だと決めつけて書くと、歴史観のミスリードになってしまう。

 早乙女貢さんは満州生まれで、生れたふるさとを喪失した、と生前に語っていた。戊辰戦争で、会津落城(開城)で、藩士たちは斗南(青森)に流されて過酷な生活を強いられた。
 会津の悲劇をもっとも世に訴えた作家のひとりだろう。代表作が長編小説『会津士魂』(直木賞受賞作)である。


 私は「戊辰戦争・浜通りの戦い」を執筆することになった。ここ数年、歴史小説から遠ざかっていたので、多少なりとも勘を取り戻すために、江戸時代により近いところで生きていた世代、海音寺潮五郎、村上元三、山岡壮八などの作家の短編集に目を通していた。


 早乙女貢さんが亡くなった年、私は2時間に及ぶロングインタビューをしたことがある。(写真)「薬を飲んだことない、病院に行ったことがない」など元気な語調だったのに、数カ月で逝ってしまった。
 その後、鎌倉・早乙女邸で開かれる「ミニ講演会」も、何度か出向いていたし、会津の早乙女さんの墓参りもした。親しみがある作家だった。

 早乙女貢『世良斬殺』を読みすすめると、言いようのない嫌悪感に襲われた。たとえ悪行に対する批判があったにしろ、地獄の底から現れた人物のように書いたらいけない。それはむしろ作者の偏狭性にすら思えてしまう。

 幾つか取り出してみると、
「世良修蔵は人柄も荒々しく、声も大きく、人相も険悪だった」(世良の写真を見てもそうは思えない)
「長州奇兵隊は狂犬の集まりのようなものだ」
「明治になって、天下を取った長州人の人材の大半が幕末に死んでしまって、残ったのはカスだけだった」
「大島の漁師あがり」(萩の藩校・明倫館に学び、江戸で儒者・安井息軒に学び・塾長代理をつとめる)
「島の荒風と、血のあらしの中で、世良修三という冷酷非常、残忍な性格が醸成されていった」
「世良修蔵の暴虐な行為」
「生り上り者の猛々しく、情の一片もない男であった」
「犬畜生」
 ここまで来ると、もはや文章を拾いたくなくなる。

「東北人は、雪の深い冬を耐えてきている。耐え忍ぶことを知っている」と対比させる。このバランス感覚の悪さはなんだろう。

 世良はなぜ会津の松平容保を憎み、許そうとしなかったのか。早乙女さんは、世良の生まれ故郷・周防大島に脚を運んで、郷土史家たちから話を聞いていない、と推量できる。歴史作家として最も大切な現地取材を放棄した作品だと思う。

 世良が総督府下参謀で、仙台に来たあと、仙台藩士たちが、「会津の松平容保公の武力攻撃はやめてほしい」とくり返し、嘆願した。しかし、世良はいっさい応じなかった。かれの言い方にも態度にも問題があり、仙台藩士らは勘にも触った。世良の悪評がいっきに広がったのだ。


 世良が抱いた松平容保にたいする憎しみは、そのすべては第二次長州征討にある。強引な宣戦布告で、周防大島が突如として、艦砲射撃の砲弾を無差別に撃ち込まれたうえ、幕府陸軍と松山藩に占領されたのだ。占領軍の兵卒は島民に強奪、略奪、婦女の強姦と、惨殺などをくり返す。

 長州藩は、この周防大島に軍勢をまったく置いていなかった。なおさら、占領軍は連日、無抵抗の島民の食料を奪い、抵抗するものは殺し、婦女子を裸にし侮蔑の限りを尽くした。近世日本史の中でも、あまり例がないほど人民を侮蔑し、恐怖に陥れたのだ。

 世良にすれば、「俺たちの島民は何を悪いことをしたというんだ。ふるさとを目茶目茶にされた」という強い恨みがあった。


 第1次長州征討では、幕府が要求した通り長州藩は3人を切腹し、首実検に応じた。これで禁門の変は解決したのだ。
 しかし、一ツ橋慶喜と松平容保は違った。幕府の威厳、意向を見せたくて、その後において、長州藩主・親子を後ろ手に縄にして(罪人として)江戸に連れてこい。なおかつ七卿都落ちの公家もつれてこい、と要求したのだ。

 そんな無理難題は長州が絶対に飲めるはずがないし、拒否をつづけた。さらには桂小五郎と高杉晋作を差し出せ、と要求したのだ。これも拒否する。これは狙い通り戦争への環境づくりだった。一ツ橋慶喜と松平容保は、要求をのまないならば、と帝から長州征伐の「勅許(ちょっきょ)を取って宣戦布告したのだ。(帝は半年間も出ししぶった)。
 大義のない戦いだといい、薩摩、広島、宇和島藩などは出兵拒否だった。

 長州藩は広島藩を通じて、10数回も「戦いを回避してくれ」と願い出ている。
 慶喜と容保のふたりは、権威が失墜してきた徳川家の威厳を取り戻すためだけの戦争だった。
 渋しぶ戦いにやってきた諸藩の兵卒の士気のなさに、如実に表れていた。
 幕閣は一方的に攻撃日を決めると、4か所から討ち入ったのだ。これが第2次長州征討だった。

 世良にしてみれば、「徳川慶喜と、松平容保が一方的に戦争を仕掛けてきて、罪もない島をめちゃくちゃにした。会津は絶対に許さない」と敵意と復讐心に満ちていたのだ。第2次長州征討から戊辰戦争まで、わずか1年半だ。

 現代的に言えば、原発事故でふるさと福島がめちゃくちゃにされた住民にとって、「東電は憎い」。1年半経ったから、まわりから「東電を許してあげください」、と言って許せるだろうか。

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夏のPEN例会で、「思想・表現の自由」の重要性を再認識する

 日本ペンクラブ七月例会が7月16日午後5時30分から、千代田区の東京會舘で開催された。
 浅田会長は冒頭の話題として、7月の35度が4日間もつづいた猛暑を取り上げた。昭和元年から同20年まで35度の日は1回しかなかった。さらに昭和時代はわずか数日で、それも連続35度は一度もなかった。平成時代に入ったいまの異常気象を語る。
 浅田さんはパソコン(ネット)をやらない。書斎にはそれらの知識を引き出せる本が積まれている口ぶりだった。

 毎回、例会では20分間のミニ講演がある。佐藤アヤ子さん(明治学院大学教授)がタイトル『国際会議に参加して』のスピーチを行った。日本の文学作品がもっと海外に翻訳出版される、そうした体制を作るべきだと強調していた。

 パーティーに入ると、野上暁さん(常務理事・写真右)と、6月21日の日本ペンクラブ「憲法九十六条改変に反対する」声明と記者会見の内容について語りあった。
「野上さんの説明はとても解りやすかったです。中学生、高校生でも理解できるように……」
 その会報記事(写真・文)を担当する私は、記者会見の場を取材していた。

「総選挙の低い投票率を考えると、全有権者の3分の1くらいで議員に当選している。その議員が3分の2で憲法改正を発議しても、国民の総意からすれば少ないくらい。それなのに、議員の半数で拳法が改定なんて、暴論ですよ。国民の総意をまったく反映していない」
 野上さんはそう強調されていた。

 憲法と法律の違いについて、吉岡忍さんの説明も解りやすかった、と2人して話す。

『憲法は国家権力がどういう範囲内で、行政、立法、司法をやってよいか、と政治の枠組みを定めた、為政者の行動を規定するもの。法律とは国民の行動を規定するもの』
 一般の法律のように、議員の半数で憲法が改定される、とハードルを下げてしまえば、衆参の半分以上の議席を取った与党がそれだけで、憲法改正の発議ができる。時どきの政府が自由に憲法を変えれば、社会の根幹を変えてしまう、と吉岡さんは記者会見で説明していた。

 このさき憲法を改正し、「公共の秩序の維持」、という甘い言葉で法律までもが変えられたら、まさに官憲の弾圧を招いた、戦前の治安維持法の暗黒の時代に逆戻りする。九条とともに、重要な問題である。それは野上さんと私の共通認識だった。

 日本ペンクラブの約1800人には、多種多様な考え方、見方、思想がある。思想信条の自由がある限り、それぞれが自身の意見を述べていくべきだろう。それが作家の役目の一つだと考える。

 夏場のパーティーは毎年、出席者が少なめである。およそ200人くらいだろう。国際弁護士の斎藤輝夫さん(ニューヨークにも事務所)から声をかけられた。
「ネットで日本ペンクラブを検索していたら、穂高さんのHPにヒットしました。多彩な活動で読み応えがありますね」と妙に感心された。
 斎藤さんはこのたび国際委員会に任命されたという。同委員長とはまだ面識がない、と話す。ミニ講演の佐藤アユ子さんが同委員長である。私はよく知る人だ。
「ご紹介しますよ」
 彼女のいる場所に案内した。二人は国際通だから、すぐに打ち解けていた。


 その場を離れると、吉岡忍さんが声をかけてきた。
「2、3日まえに、(穂高)着歴があったけど?」
「轡田さんが立石に来るから、ひと声かけてみようか、と思っただけですよ」
 すぐに返事をもらえる吉岡さんだけに、忙しさは読み取れたと話す。
「いまメチャメチャ忙しくて。電話をかける余裕すらなくてね。実はTVドキュメントとの審査委員長で、ずっと映像を見っぱなし。9月の立石の飲み会は10月にしてよ」
「9月末か、10月に設定しましょう」
 弁護士の斎藤さんも、講談師の神田松鯉さんも楽しみにしている。

「海は憎まず」の話題が吉岡さんから(帯を書いてくれた)出てきたので、私はいまフクシマ取材をしていると近況を話した。
 先日は飯舘村の村長に取材しましたよ、と補足した。
「ぼくもあの村長に会ったよ。飯舘はしっかり追いかけると、これまでにない作品が生まれるよ。日本人が誰も描かなかったものが……」
 時代の切り口が鋭い吉岡さんだ。フクシマ小説に対するいくつかのヒントを頂いた。


 ととり礼二さんに会ったので、先月は幕末因州藩の取材で鳥取市に出向きましたよ、と戊辰戦争の一部を語った。

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第70回元気100・エッセイ教室=「光る文章」について

 創作エッセイは、同じ素材、似た内容を取り上げても、書き手の技量によって作品の完成度が違ってきます。
 全体の骨組みがしっかりした作品であることが前提ですが、「きらっと光る文章」が2か所以上あれば、評価の高いエッセイになります。

 「光る文章」とはなにか。一言で言えば、読者の心を一瞬にしてつかむ、気のきいた文章です。思わず『巧いな』と呟くのが常です。と同時に、読者はくすっと笑ったり、思わず涙したり、ジーンと胸にひびいたり、文章自体が強く印象に残ります。

 もう一つは観察の目が鋭い描写の場合です。「なるほどな」という説得力が織り込まれています。このように「光る文章」は、文体と観察の2つの面で要約されます。


文章面で光るとは

①ふつうは考え付かない、素晴らしい表現がある。
②独自の想像力が働いた、巧みな言い回しの文がある。
③何度も書き直し、練り直し、文を磨いた切れ味の良さがある。


観察の面で、光るとは

①人間の言動の一瞬を巧くつかまえている。
②対象物が正確なぴたり見合った言葉で書かれている。
③丹念に観察したうえで、限りなく短い言葉で言い表している。

 文章は書き慣れてくると、職人芸に近づいてきます。
 文章の技量が増すほどに、やさしい言葉で文章を光らせます。それが読者の共感や共鳴を誘い、感動作品を生みだす道になります。

 しかし、書く量は多いけれど、光る文章がない(殆どない)人もいます。なぜでしょうか。それは一つ作品に対する推敲する回数が低いからです。
 2、3度の推敲では、光る文章どころか、意味不明で首を傾げたくなる文も混在しています。これでは文章上達はさほど望めません。(中級止まりで、上級は難しい)

 文章が上手な人ほど、プロほど、一つ作品にたいして推敲する回数が多く、一字一句もおろそかにしない態度で臨んでいます。推敲の重要さを認識しています。
 だから、「巧い文章だな」、という光るものが根気で生みだせるのです。

推薦図書 出久根達郎著「七つの顔の漱石」(エッセイ)=文豪の素顔

 夏目漱石といえば、日本を代表する大文豪である。東京帝国大学教授、作家、朝日新聞の記者。ここらは多くの人が知る。あとはどんな顔があるのだろうか。

 夏目漱石をこよなく愛し、漱石の生き方まで研究しているのが、直木賞作家の出久根達郎さんだ。「漱石に七つの顔があった」。それは七変化のように、作家から素早く、身を変える正体不明な人物ではない。漱石は多彩な人物で、幅広い能力を持った人だという。

 学生時代は器械体操の名手であったと、同級生が証言している。富士登山は2回、ボートは東京から横浜間、乗馬やテニス、相撲観戦などと多彩である。
 漱石のイメージといえば、胃病に苦しむ憂うつな表情である。それだけに、スポーツマンの漱石はおよそ従来のイメージと結びつかないものがある。

 これらをエッセイで楽しく読ませせてくれるのが、5月20日に発行された、出久根達郎著「七つの顔の漱石」(晶文堂・1600円+税)である。

 第一部は「七つの顔の漱石」である。

 漱石が大好きの出久根さんは、漱石に関連ある書籍、手紙、掛け軸などは片っ端から集めた。これら資料から、漱石の七つの顔を一つずつ丁寧に紹介している。

 多くの漱石研究書は内容が良くても、論文調でなかなか作中に溶け込めない。しかし、同書はユーモアたっぷりのエッセイで、とても読みやすい。単なる偉人紹介でなく、七つの顔が解き明かされていく、楽しさがある。と同時に、ごく自然に漱石の人物像に近づくことができる。


 漱石の本は『漱石本』と称し、装丁の図柄、色彩、品格などが同時代の書籍に比べて抜きんでている。古書界において、カバー自体にも美術工芸品としての高価な値がつく。漱石が単なる作家でなく、美術評論家、装幀家の顔があった、と同書で記す。
 出久根さんは古本屋稼業が長かっただけに、古書の価値となると、説得力がある。

 漱石がソバが好きだったか、饂飩(うどん)が好きだったか。
 それにまつわる数々のエピソードが同書で紹介されている。「吾輩は猫である」の内容からすれば、ソバだろう。
 漱石がなぜ松山中学の教師に赴任したのか。それはいまだに謎である。漱石は松山への都落ちを受け入れた理由は饂飩党だったからかもしれない。
「好物が人生を変えた」
 出久根さんはそう愉快に推論する。

 漱石は友人らに、いまでいう自筆の絵手紙を送っている。自画像のスケッチもあれば、日露戦争の時に、裸婦の絵も送っている。官制はがきだから、役人から不謹慎だとクレームがつきそうだが、漱石は堂々と差し出している。

『吾輩は猫である』
 夏目家に迷い込んだ捨て猫は、育てられながらも、名前が付けてもらえなかった。その猫が死んだ。漱石は門下生に、はがきに黒枠の猫の死亡通知を出した。漱石の機知か、猫への愛情か。
 出久根さんも、それを真似て愛犬が死んだときに、「ご会葬には及び申さず」と死亡通知を出したところ、花や悔み状が届いたという。
 読んでいて、思わず吹き出してしまう。

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「小説は腐らない」の格言通り。「千年杉」のアクセスが上昇中

 日本ペンクラブの広報委員会の第1回会合が6月10日に開かれた。今回も、私は同委員会の委員に指名されたので、それに参加した。(任期は2年間)
 この会合の後、同事務局の井出次長から、ふいに「電子文藝館『小説』に掲載作品された、千年杉のアクセスがすごいね」と前置きし、「穂高さんが自分で毎日何回もアクセスしているんじゃないの」と冷やかされた。
「まさか。掲載後は一度も開いていませんよ」
 同作品が文学賞を受賞してから18年経った今、多くの人に読まれはじめたことで、新鮮な驚きを覚えた。と同時に、この作品は不思議な運命を持っているな、と感じ入った。

 電子文藝館の作品は日本ペンクラブの歴代会長とか、過去からの著名作家の作品、および現役会員においては書籍、商業雑誌などに掲載された作品が採用される。
 同委員会で採用が決定されると、どんな著名な作品でも、同委員2人による常識校正が行われる。

 「千年杉」を担当した、神山さん(詩人)と眞有さん(大学教授)からは、
「校正の途中から内容に引き込まれ、夢中で読んでしまいました」
 と賞賛のコメントが寄せられた。

 私は原稿が手元を離れると、掲載されても、その作品をまず読まない。それはなぜか。作品はなんど読み直しても推敲しても、その都度、誤字・脱字、言い回しのおかしな点が見つかるもの。作品が世に出回った後で、自分の目でミスを発見すると、自身に失望を覚えるからである。
(自分の掲載作品は読まない、という作家もかなりいる)

 2012年に、同ペンクラブ・電子文藝館に「千年杉」が掲載された。2か月くらい経った後、よみうり文化センター小説講座の受講生から、「先生、続きはいつ出るんですか?」と訊かれた。
「えっ、連載じゃないよ」
 調べてみると、後半の3分の1が不掲載だった。もし、そのまま放置されていたならば、光が当たらず、見向きもされなかっただろう。
「掲載後は、作者がすぐチェックしないと困るな」
 大原雄委員長からは叱責を受けた。
 ITの技術的なミスで、すぐに修正された。

「井出さんもあのトラブルを知っているでしょ。あれ以来、私は千年杉を開いていませんよ。そんなに千年杉が読まれているんですか」
「アクセス数が突出して目立っているよ」
 と教えてくれた。

 千年杉は、第42回地上文学賞の受賞作品(平成7年1月発表)で、4人の選者の満場一致で決まった。当時の編集長が、
「選者全員が同一作品を推すなんて、この賞では稀有ですよ。実は、候補作品を選ぶとき、千年杉は選外でした。農事関係を対象とした賞がゆえに」
 この作品は外せない、と強く主張し、候補作に推したのだという。

 そんなことを思い出しながら、私は改めて18年前の作品「千年杉」を読み直してみた。

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第69回・元気に100エッセイ教室=上手い文章は音読で決まる

『良い文章は密度が高い』
 それは詰め過ぎとはまったく違います。むしろ、正反対です。最も良い文章とは、簡素で、平明で、的確です。それには「省略、圧縮、刈り込み」とで成されていくものです。

 推敲の段階で、作者がセンテンスごとに目を光らせ、無駄な文字の刈り込みが行えば、読み手にも負担が少ない文章になります。良いリズムで読み続けられる作品にもなります。

 どうすればよいか。技法としては「庭園の庭師」を真似るとよいのです。

 庭師はまず庭全体を眺めてから、一本ずつ樹の大枝を鋸で切り、形を整え、次は小さな枝葉までも、鋏でていねいに刈り取ります。その上で、最後は松葉一本でも、不ぞろいを見逃さず、指先でミリ単位で摘み取ります。すると、どの樹も形の良い庭木となり、庭全体のなかで調和がとれているのです。

文章の庭師
 この手法で臨むとよいのです。書き上げた作品は、全体の構成から、冗漫な文章はまず剪定するのです。そして、次は圧縮と省略を行う。さらには無駄な一文字でも見逃さず、刈り込む。
 こうすれば、一つひとつの文章には味が出て、全体のなかで、どれもが必要不可欠な用語となります。

『省略、圧縮、刈り込み』
 そのの最大のコツは音読です。
 作品の推敲は、ただ目で追う黙読だけだと、作者の思い込みで、キズや不自然な文章までも見逃してしまいます。

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日本ペンクラブの会長には、浅田次郎さんが再任

 日本ペンクラブの新理事30人のなかから、浅田次郎さんが第16代会長に再任された。
「私はこう見えても、村上春樹さんより2歳も若いのですよ」
 会場から、えっ、とどよめきが起きた。浅田さんはふだん寡黙な方がだ、壇上に立つと、ユーモアを織り交ぜたスピーチの上手だと常づね思う。

 初代会長は島崎藤村である。

 同総会が5日27日に東京會舘で開催された。議長には山田健太さん(専修准大教授)が選ばれた。2010年に開催された、国際ペン東京大会(当時、阿刀田高会長)で、使途不明金が3500万円ほど出たことから、3年間にわたり、同総会は責任追及で紛糾してきた。

「私たちの会費で、日本ペンクラブが運営されている。執行部には責任があり、事務局も会計がずさん過ぎる」と鋭い批判が飛び、
 この間に、調査委員会ができた。調査結果報告書によると、故意と思われる会計処理や、個人的な不正は、執行部にも事務局にもなかった。それでも、双方の対立は続いた。

「国際ペン大会は会員が手弁当で、国際大会を独自に運営し、(電通などイベント会社に依頼せず)、大成功させた。億円単位の費用で、多少の使い道が不明瞭な金が出たところで、事務局が使い込みしたわけでもないし。目くじら立てることではない」
 会員の大半は鷹揚に執行部を擁護していた。企業ならば1円でも、不明金は許されないけれど、作家や文学者はもともと大雑把な性格で、儲からない文筆でも精魂をこめるなど、金銭感覚が弱い。

 3年間続いてきた対立だったが、総会の議決が終わった後、浅田会長があえて発現を求めて、
「使途不明金という言葉は、悪いことの代名詞に思われる。事務局を含めて、だれも不正などしていない。曖昧、ルーズな金銭処理にたいして、執行部は謙虚に反省し、今後の糧にしたい。もう、この問題には終止符を打ちましょう」
 と述べた。
 大半の参加者たちは拍手をしていた。

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PEN仲間2次会、3次会、神田松鯉(講談師)の話題で盛り上がる

 日本ペンクラブの定例総会の後は、吉岡さん(ノンフィクション作家)、ととりさん(歴史作家)、相澤さん(ジャーナリスト)、古川さん(編集者)たち6、7人と東京會舘から流れ、隣のビルの居酒屋に移った。
 同総会のゴタゴタした話題はさらっと流れた。盛り上がったのは5月27日(土)日本橋亭で開催された、神田松鯉さんの講談・江戸時代の人情ものだった。

 日本橋亭に行っていない人たちのために、吉岡さんがストーリーを語った。

 時は江戸時代。元井伊家の貧しい浪人が、大店の座敷に上がり込んで碁を打っていた。浪人が帰った直後、その部屋から50両がこつ然と消えていた。番頭は浪人を疑う。
「あの人にかぎって、そんなことはない。ぜったいに疑ったことを申してはならぬ」
 と主は囲碁仲間を信じ、番頭に釘を刺していた。

 あの座敷には囲碁を打つ旦那と浪人しかいなかった。犯人は浪人に間違いないと、番頭は確信を持った。
 ここは主には内緒で、と番頭が浪人がすむ長屋に出むいた。疑われた浪人は、盗んでいない、しかし身の潔白を証明する手立てなどなかった。
「ならば、50両は明日まで作ろう。もし後日、その50両が出てきて、清廉潔白の身が証明されたならば、亭主とそのほう番頭は手打ちに致すぞ」
「お受け致します」
 番頭は胸を張っていた。

 このやり取りを隣部屋で、浪人の娘が立ち聞きしていた。
「親子の縁切ってください、父上」と申し出る。家と断絶してから、娘は身を吉原に売り、50両の金を用立てた。泣かせる場面である。
 浪人はそれを大店に届けた。

 月日が流れて50両の事件が忘れかけていた。
 江戸中が年の瀬で大掃除をする12月13日に、大店の家でも恒例で隅々まで大掃除が行われた。鴨居の額の裏側から、50両が見つかったのだ。大騒ぎとなった。店の者が浪人探しを行う。年が明けた梅香る湯島天神で、番頭が浪人と出会ったのだ。
「さようか。50両が出てきたか。約束通り、主とそちを手打ちにいたす」と浪人は妥協しない態度を取る。
このさき素浪人は大店に乗り込む。仁侠で、結末に及ぶのだ。

 江戸時代の武家は『個』の人格尊重よりも、『家』が最優先された。「家にとって不都合な状況下になると、親子、親戚縁者との縁切りが行われていた。家と縁を切れば、もはや赤の他人。わが娘が身を売り、金を作っても、「家」には無関係である」
 現代ではとても考えられない発想だ。日本橋亭に行った、吉岡さん、ととりさん、相澤さん、そして私を含めて、大御所・神田松鯉さんの名演を褒め称えた。

「もう一軒行こう」
 誰かれとなく銀座のバーでPENのたまり場『たかはし』にいく。すでに清原康正さんや菊池由紀さんなど6、7人がカウンター飲んで歌っていた。われわれが到着してから15分ほどすると、賞賛していた神田松鯉がふいに現れたのだ。ふたたび 盛り上がった。

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高齢者にも応分の会費負担を。総会は波風立たず=日本文藝家協会

 5月14日、日本文藝家協会(篠弘会長)の第67回総会がアルカディア市ヶ谷(私学会館)で、午後3時から開催された。
 同協会は、文学者たちの生活権をまもる職能団体で、会員の平均年齢は66歳である。ここ1年間の新入会員の平均年齢は57歳である。
 会員にはどんなメリットがあるのだろうか。おもなものは著作権の管理運営を委託できる、文藝国民健康保険に加入できる(人間ドックが受けられる)、御殿場の富士霊園の「文学者の墓」(墓碑に、作家名と代表作を刻む)が購入ができる。この霊園は多くの文学ファンに人気がある。

 むろん、ほかにも職能団体としてメリットはある。

 「思想信条の自由を守る」という活動をメインおいた、日本ペンクラブとは体質が異なる。

 日本は高齢化社会である。同協会も多分にその渦のなかにある。総会では若返りを図るために、入会金を5万円から3万円に下げた。他方で、「高齢の会員にも、一部会費の負担をお願いしいた」と執行部が提案し、85歳以上の方の会費の無料が、今年度から半額徴収(1万円)と決まった。とくに、反対意見は出ず、すんなり決まった。
 

 総会に先立って、1年間で亡くなった会員59人のお名前・死亡日が1人ひとり読み上げられた。『人間老いて死ぬ』それは避けられない。安岡正太郎さん、丸谷才一さんの名が出てくると、私は若いころ文体を勉強させてもらったな、藤本義一さんは私が受賞した文学賞の選者だったな、とあれこれ想いが甦る。そして、1分間の黙とうになった。

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