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高橋千劔破(ちはや)さんの「名山シリーズ」三部作の完結を祝う会

 表題の出版記念会が7月17日の夕刻から、東京・千代田区の如水会館で盛大に行われた。発起人は阿刀田高、浅田次郎、新井満、加賀彦、黒井千次など各氏、あわせて12人。世話人は版元の河出書房である。

 
 高橋千劔破(ちはや)さんは日本ペンクラブの常務理事である。かつて歴史物の出版社の名編集長で、歴史物の著作に関しては第一人者だ。と同時に、著作には、『歴史を動かした女たち』『赤穂浪士』『江戸の旅人』『忠臣蔵銘々伝』など多数ある。

 立教大学時代には山岳部に所属し、登山のエピソードは多い。高校時代も修学旅行をすっぽぬかして、奥多摩・川苔山に登った、と私に教えてくれたことがあった。まさに学生時代から山男だ。


 今回の作品は、「北海道から九州まで、名山の歴史と文化と民族を掘り起こした、名山シリーズである。三部作で、百名山が完結した。それを祝う会である。


  (写真・右:高橋千劔破さん。09年6月の日本ペンクラブ・年次総会で)

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報道写真展の取材について

「世界報道写真展2009」が、東京都写真美術館(東京・目黒区の恵比寿ガーデンプレイス)の地下1階展示室で開催されている。

 3年前の同展2006は、PJニュースで紹介したことがある。タイトルはhttp://news.livedoor.com/article/detail/2127972/

この報道写真があなたに何を訴えているか?3回連載だった。

 その写真展で、強く印象に残っているものがある。イラク戦争で死亡した米兵が家族のもとに帰るまで、それを追った組み写真だった。その時の記事を抜粋してみると、
『旅客機の機体から柩が下ろされているが、乗客はまったく何も知らされていない日常の顔だ。このさき兵士の遺体が家族のもとに着く。妊婦の妻が臨月のような、目立った腹部を柩に当てている写真がある。
「戦争は、この家族になにを与えたのだろうか」。生まれてくる子どもの将来を考えると、あまりにも哀れだ』と私は記している。

 この写真が私の記憶から消えることはなかった。同一の取材ネタは極力避けるようにしているが、同展2009を観てみたい、強い衝動に駆り立てられた。

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美しく旅する「中欧周遊」=久能康生(1)

「穂高健一ワールド」1000コンテンツを記念して、新たな取り組みをはじめる。記事、作品、写真の門戸を広げた。
 トップバッターは学友の久能康生さん。彼は北陸の某大学の経済教授を早々と引退し、夫婦で世界中を旅する。そのために、犬好きだが、犬を飼うのをやめたという。

 今回はヨーロッパに旅した写真を提供してくれた。彼は高校時代、某市の写真屋に4年間住み込み、そこで働きながら学校に通っていた。苦学時代の10歳代で、プロから写真技術を叩き込まれている。その下地があるので、とても良い写真を撮る。


 「主要4都市で、それぞれ1~1.5日のフリータイムがあり、ツアーの安直さと個人旅行の気まま、その両方を味わえました」というコメントがあった。

 3回のシリーズです。
 第1回目は「古城街道とロマンチック街道」で、ライン河から、ノイシュバインシュタインまで。



     

  ドイツ南部のライン河下り。このロマンチックな建物は、元通行税取立て所つまり強盗の巣。(写真:右)

             
          


ドイツ、ハイデルベルグ。向こう岸左方向に行けば、ゲーテの小道だったか散歩道だったかがある。(写真:上)

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1000コンテンツを達成。3年半にして。

 穂高健一ワールドは2005年12月7日にスタートした。最初の記事はPJニュース「東京下町冬の風物詩! 中川沿いの巨大ユズ」だった。この記事の写真がいきなり「フォーカス」から転載の申し出があった。
 1000本目のコンテンツは2009年6月23日に掲載された「東京随一の水郷で遊ぶ、20万本の花ショウブを楽しむ=東京・水元公園(下)」である。私は葛飾区在住で、同区の取材記事だった。


 3年半で1000本だから、単純に1日1本の作品の創作されていたことになる。

 穂高健一ワールドはITコンサルタントの肥田野正輝さん(横浜市)が制作してくれたものだ。
PJニュースを中核においたうえで、ジャーナリスト、小説家、登山家、ランナーからはじめた。やがて、「東京下町の情緒100景」に取り組んだ。
 下町の素朴な生き方、古い街並み、昭和の名残りなど、写真とエッセイの組み合わせで展開した。ふだんの生活の見慣れた光景だけに、ネタの取り上げ方には苦労した。取上げる人物、商売など領域を広げてながら展開し、100情景(コンテンツ)が達成できた。
『TOKYO美人と、東京100ストーリー』は、「心は翼」で止まっている。撮影済みのモデルの方には心苦しいので、早め執筆を再開したい。

                           (写真・左が肥田野正樹さん)


 私の執筆は、伊藤桂一(直木賞作家、日本芸術院賞・受賞)氏に学び、約30年にわたり小説一辺倒だった。取材に裏づけされた小説を書く。それをモットーにしてきた。(作者が頭脳の中で、登場人物を都合よく書く、そんな小説は味がないと思っている)。

 北海道・根室の密漁経験の漁船員に取材に行ったり、鹿児島や奄美大島に出向いて歴史物の取材をしたり、二年余り死刑囚と向き合っていたという、拘置所の元副所長から話を聞いたりした。下岡蓮杖を書きたいと下田にも通い詰めた、佐々成政を書くために富山にいった。過去からの累積で、1都2府43県を回りきったのは、いまから15年前だった。


私はともかく取材が大好き人間だった。「会ってくれるかな、断られるかな」と緊張し、アポイントの電話を入れる。了承が取れると、緊張が解けて、未知の人から話が聞ける、という期待が膨らむ。それは心踊るものがある。

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入梅前の低気温で、沢登りは断念。尾根歩き=川苔山

 6月10日、PJニュース・小田編集長と、二人して奥多摩の本仁田山(1224m)と川苔山(1363m)に登ってきた。
 当初は川苔山の逆川(さかさがわ)の沢登りだった。シャワークライム(頭から水を被る)、泳いで対岸に渡るルートだから、気温が低いと、全身ずぶ濡れになる。冷水では凍えてしまう。
「当日の気温によって決めましょう」という二段構えだった。

 当日は朝から曇り空で、気温の上昇が望めなかった。夕方からは雨の予報だ。
「沢はむずかしいですね」
 ふたりは尾根歩きに変更した。

 奥多摩駅(標高343m)からは町役場の前を通り、本仁山の登山口に着く。山葵(わさび)田が多いから、水はきれいだ。ここから一気に急登。途中、山葵田の農道に迷い込んで、10分ほどロスをした。ジグザグの登山道がどこまでも登っていく。すれ違う登山者は一人もいない。標高差が約800メートルの急登つづきだから、一般には下山ルートとして利用されている。

 小田さんは東大(本郷)、早稲田大の講師もされている。自宅から大学まではサイクリング車で通う。脚力は十二分にある。ふたりはハイペースで登る。多少は息が荒くなっても、PJニュースについて諸々と語り合う。登山者とは山頂まで、ひとりもすれ違わなかった。

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北朝鮮の核兵器って、いつ、どのように使うの?

わが家の二階のベランダには、所狭く植木鉢がならぶ。そのなかの一つ、アマリリスが咲いた。見応えがある、真っ赤な大きな花弁だ。

 この日、北朝鮮が核兵器実験をしたと聞いた。アマリリスが妙に血の色に思えた。と同時に、核兵器が使われた瞬間を考えた。街は真っ赤な炎で燃え上がり、火焔が人体の着衣に燃え移り、逃げ惑う人々は熱傷から川に飛び込む。そんな地獄がかんたんに想像できた。

 私は広島県で生まれ育った。小学校の大多数の教師は、広島大学(あるいは広島高等師範)の出身者だった。複数の先生の顔が白いケロイドだった、という記憶がある。「平和教育」という授業がつねに行われていた。
 教師が手作りの紙芝居で、悲惨な地獄絵を見せて語るのだ。一枚ごとに描かれた真っ赤な炎があまりにも鮮明すぎて、怖かった。

「お前たちの頭の上に、ピカドン(原爆)が落ちたら、一瞬にして水蒸気じゃ。だがのう、ちょっと離れた場所だったら、こげえな、真っ赤な火の海を逃げ回ることになる。『水をくれ、水をくれ』と、大人も、子どもも関係なく、泣き叫んでな」と語る。
 被爆体験の教師だけに、毎回、死がリアルに迫ってくる。と同時に、わが身が炎に包まれると、ぞっとさせられた。  

「平和教育」は怖くて気色悪い授業だった。夜は寝床で、布団をかぶっても、怖くて、震えていた。「平和教育」がある日は、小学校に行きたくなかった。そんな理由で、不登校など、親が許すはずがなかった。そして、新たな紙芝居を見せられる。
「原爆は二度と使わせたら、いかん」
 ケロイドだった先生たちは、最期は白血病で血を吐いて死んだことだろう。

 北朝鮮は核を開発した。間違っても自国で使うはずはない。それは自明の理だ。
「あなたがたは核兵器って、いつ、どのように使うの?」と問えば、日本だと答えるかもしれない。核兵器が東京にも炸裂する。街は真っ赤に燃え上がる。私は火焔のなかを逃げ惑い、『水をくれ、水をくれ』と、荒川や隅田川に飛び込むのか。
 それが私でなくても、次の世代の者かもしれない。

マスク族はメディア中毒症か。豚インフルエンザって、そんなに怖いの? 

 マスク族が東京にも現れはじめた。街なかの歩道、電車、お店でも、顔に目立つ大きなマスクがチラホラ目につく。初夏の暑い陽射しの下、かなり息苦しくて辛いだろう、と思ってしまう。

 マスク族は何をそんなに怖れているのか。むろん、豚インフルエンザだ。日本の人口は1億人強だ。5月25日現在で、感染者が348人である。人口比は何%なのかしら? 
 1%未満の数字がどこまで並ぶのか、暗算では見当がつかない。とりあえず電卓ではじいてみた。「0.000348」、という数字が出てきた。
 この数字は何を意味するのか。上手な説明はできないが、感染者を探し出せといわれても、不可能な数字だ。

 東京の人口は1千万強だ。豚インフルエンザの感染者は3人だ。バカらしくて、電卓で計算する気にもならない。

 全国で、死者はゼロだ。多くの人は過去の冬場に何度かインフルエンザを経験している。今回かりにインフルエンザにかかっても、3、4日伏せれば、自然治癒するようだ。この間は職場や学校を休めばすむことだ。死者0%を信じれば、恐れるに足りない。

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インタビューから、人生を学ぶ

 日本ペンクラブ『ペンの人』、PJニュース『よこ顔』などで、シリーズものとしてインタビュー記事を書いている。ほとんどが人生経験の豊かな人たち。それだけに、単なるインタビュアで終らず、相手の話から生き方、考え方など学ぶ点が多い。

 PJニュース『よこ顔』の場合は、地位や名誉など関係なく、ちょっとした縁、ユニークな人だな、と思うと取材を申し込んでいる。大学関係者、歌手、元タカラジェンヌ、路上ライブ、ボランティア活動、シニアの講師、下町の職人など幅広く求めてきた。


 斉藤善久(ぜんきゅう)さんは元電通マンで、獨協大学で教鞭(きょうべん)を取っている。同大学では人気講師だ。
 2年ほどまえ、シニア大樂の講師・ノコギリキング下田さんから、「ユニークな方がいますよ」と紹介された。二人は早稲田大学の後輩・先輩の関係だった。 さっそく善久さんにインタビューし、教壇での指導方法に感銘した。タイトル『こんなユニークな教え方の講師がほしい! うちの大学にも』で、PJニュースに取り上げさせてもらった。

 善久さんはことし1月、NHKラジオ深夜便に出演し、タイトル『カタイ頭をやわらかく』で語った。好評で、3月には再放送があった。そこで、PJニュース『よこ顔』としてインタビューをお願いした。
 北千住で会って取材中に、双方の合意から、学生向けの記事に切り替えた、という経緯がある。

(写真提供:斉藤善久さん)

 日常生活のなかで、「柔らかい頭」、「硬い頭」はよく使う。その定義となると、曖昧だ。「やわらかい頭とは、アイデアが簡単に出せる人です」と善久さんから説明を受けた。なるほどな、と思った。「話題が豊富な人」、それも頭脳の柔らかさに結びつく、と思いながら聞き入った。

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オリンピック(IOC)評価委員会の記者会見記=東京の勝利は疑問?

 IOCは今年10月にコペンハーゲンで、2016年の五輪開催地を決める。現在は4つの都市に絞り込まれている。IOC評価委員会がシカゴに続いて、東京にやってきた。大会会場など技術的な面を調査するためだ。

 東京都招致委員会からは、PJニュースのメンバー4人(小田編集長、吉川編集長代理、安居院(あぐい)東京城西支局長、それに私)に取材許可がでた。4月17日は東京・六本木アカデミーヒルズ49階の記者会見に出むいた。

 小田編集長は通信社時代に、アトランタ・オリンピック大会で取材記事を書いていたという経歴を持つ。大会の舞台や流れなどにもくわしい。今回の記者会見の記事を書くにあたって、切り口のアドバイスがもらえた。

 石原慎太郎都知事が、『ゆりかもめ』の質問に対して、羽田とつながっているとか、頓珍漢な発言をおこなった。石原都知事は自分のお金でに乗ったことがあるのか、神奈川県の在住で東京の姿など熟知していないな、という思いを持った。他方で、ゆりかもめはオリンピック・スタジアム、選手村などを結ぶ大切な交通機関だ。IOC評価委員会に対しても重要な説明事項だ。ある種のなさけなさを感じた。

 プレスセンターで、その日のうちに、『石原都知事さま、珍答「ゆりかもめ」で五輪招致できるの?』という記事を書いた。プロカメラマンの吉川編集長代理には、石原都知事の写真を提供してもらった。

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東京マラソンは完走。結果はワースト記録? 好記録?

 第3回目となる「東京マラソン2009年」が3月22日、9時10分に東京都庁をスタートし、ゴールは東京ビッグサイトでおこなわれた。

 今回は3度目の正直で、初出場できた。ネットタイム(自分の時計)は4時間22分44秒だった。4時間を1分でも切りたいという、念願はかなわなかった。

 過去のフルマラソンは殆どが3時間40分台で、すべて完走。ノロウイルスの食中毒でも完走した「勝田マラソン」、取材しながら走った「かすみがうらマラソン」では、4時間台があるが、記録を意識した走りで、4時間台ははじめてだ。

 結果には不満だった。最大の反省材料は気象の読み違いだった。大会当日の気温は高いと判断し、短パンのみで、防寒スパッツは使わなかった。スタート前の整列段階から、曇天と風に震えてしまった。ストレッチくらいでは、身体が温まらなかった。

 昨年は100キロマラソンで完走した次女から、『4時間22分だってね。あの強風と人混み(ランナー)の中、このタイムは凄いよ。5時間ぐらいかかるかと思ってた』というメールを貰った。やや自分を納得させられた。

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