A020-小説家

一丁櫓(いっちょうろ)の感動

 私は、瀬戸内海の大崎上島(広島県)の出身である。父親が教員で、この島に赴任してきた。村上水軍(因島)の血筋を引く島娘と結ばれた。その子どもとして私は生まれ育った。
 高校時代までは島っ子だった。夏には全身が真っ黒に日焼けしていた。中学時代の黒んぼ大会で、トップになったことがある。小学校から最大の遊び道具が、一丁櫓の伝馬船だった。


 ジャーナリストとして取材中に、私事にふかく関わる話題が出ることがある。学校や出身地がおなじ、趣味が共通している、身内が近いところにいると、話題として提供したい衝動に駆り立てられる。だが、決して口に出さず、聞き手に徹する。それは長くモットーにしてきた。

  旅先で伝馬船の漕ぎ手をみるたびに、漕いでみたいな、と思う。住まいに近い江戸川の河岸・柴又にいくと、渡し舟の船頭が対岸の矢切(松戸市)にむけて、リズミカルに櫓を漕ぐ光景がある。『やってみたいな』と常づね考えていた。他方で、島を離れてから久しいし、一丁櫓はもう漕ぐことはないのだろう、という思いがあった。

 亡き祖父は島随一の釣り道楽人間だった。しごとは祖母任せで、嵐以外は毎日釣りにでていた。1本釣り漁師よりも多く釣る、と島人から言われていたものだ。私が夏休みになると、祖父は待ち構えていたように、沖合まで釣り船(伝馬船)の漕をさせるのだ。
 潮の流れで、魚の群れの回遊がちがう。潮をどう読むか。櫓をどのように漕ぐか。祖父から怒られたり、煽てられたりしながら、ずいぶん教わった。

 小学生高学年の頃、ある友人との忘れられない思い出がある。ふたりは伝馬船で沖合いの無人島まで、遊びにいった。(小学校では禁止)。海峡の潮流は速い。帰り舟は櫓を漕いでもこいでも、目指す大崎上島の岬から離れていく。仲間が、「怖いよ、泣く」。こちらもべそをかきながらも、歯を食いしばって漕いだ。速い流れから脱出できた、という安堵はいまだに忘れられない。
 
 8月6日は原爆記念日だ。出身地の広島が思い起こされる。この日は、東京都教育委員会主催の『新・大江戸探検倶楽部』の木場門仲コースに同行取材した。メインの一つが、「和船の櫓漕ぎ体験」だった。
 私は小学生とともに乗船した。櫓を漕ぐ小学生を撮影しながら、自分の小学生時代が思い起こされた。むしょうに漕ぎたくなった。
 小学生3人の櫓漕ぎが一巡すると、船頭に代わった。
「漕がしていただけますか」
「どうぞ」
 船頭が、私の側で指導しようとする。
「大丈夫、ひとりで漕げます。瀬戸内の島出身ですから」
 私は、出身地という私事を口にしていた。聞き手に徹する、というモットーから外れたな、と苦笑する自分を知った。


 一丁櫓の取っ手にかかる紐は、私の身長にあわせて長くしてもらった。漕ぎはじめた瞬間、「身体がしっかり覚えているな」と自分に感激した。子どもの頃は片手でも櫓が漕げた。それは島っ子のなでも、自慢できる技だった。それをやってみた。
「さすが、瀬戸内育ちですね」
 船頭にf妙に感心された。
「どこの島ですか」
 同乗していた『江戸東京ガイドの会』の越智さんが聞く。すなおに、大崎上島ですと答えた。越智さんは、目のまえの大三島(愛媛県)が父の出身地ですという。戦時中には疎開していましたと話す。
私とは櫓を漕ぎながら、話が弾んだ。
 
 下船すると、一丁櫓の体験できた感動は胸の奥にしまい、取材へと気持ちを切り変えた。

 同行取材の記事は近々、PJニュースで掲載する予定である。 

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