A010-ジャーナリスト

伝統職人(47師)の宝庫に住みながらも

 葛飾区には『戦後』という街はもう見当たらない。戦後から一筋という伝統工芸の職人は多い。現在47人が活躍している。国宝級のひともいる。

 終戦直後からの華やかな、最も発達した町は立石だった。葛飾の中心で、葛飾区役所がある。メインの街なのに、いつのころからか京成立石駅には特急が止まらなくなった。
 渥美清さんの「寅さんシリーズ」の映画が上映されると、柴又人気が急上昇した。葛飾を代表する町に思われはじめた。

 私はそのころ全国に旅行する機会が多かった。問われて、東京・葛飾に住むといえば、きまって「柴又ですか」と聞かれた。面倒になって、そうですよ、と言いたいが、「いいえ、立石です」としっかり否定してきた。相手はとたんに興味がそがれた顔をするのが常だった。

 妻の母方の実家が葛飾・柴又だから、決して無縁ではない。だが、葛飾立石にこだわり続けた。いまや寅さんブームが去った。葛飾・立石は『昭和の残る町』として息吹を取り戻してきた。

 PJニュースを書きはじめてから500本を超えた。地域、分野を問わず、自分の知識や活動の領域を広げるつもりで、記事を書きつづけてきた。初対面の人から話を聞くのが好きだから、インタビュー記事も積極的に取り組んできた。他方で、葛飾の地元関連の記事が少なかった。

 地元から目を逸らしていたわけでない。写真エッセイ『東京下町の情緒100景』を執筆し、そちらを中心に回っていた。100景が達成した頃から、葛飾発の記事も積極的に書こう、と決めた。
 それが昨年末で、立石仲見世の凧の取材記事を書いた。これが縁で、仲見世の理事の方々に同事務所に集まってもらい、将来を語る座談会を開いてもらった。それを連載した。

 京成立石駅から2分のところに、葛飾区伝統産業職人会の会館がある。伝統工芸品を売っている。訪ねたことはなかった。身近でいつでも取材できるという立地のよさから遠い存在だった。

 10月に訪ねてみた。予想をはるかに超えた、伝統工芸職人の宝庫だった。職人の方々を、一人ひとりを取り上げてみようと考えた。47人いる。諸般の事情で取材に応じてくれない人もいるだろう。『私の名前を出しても良いですよ』と山中さんからお墨付きをもらった。

 最初の一軒はタイミングが悪かった。釣竿師の職人で、竹の漆塗りのさなか、と同時に都のイベント準備とぶつかっていた。後日あらためて、ということになった。

 12月に入ると、浅草の羽子板市がある。南川行男さん(東京歳之市羽子板商組合長)の取材の約束ができた。26日の午前中に自宅に訪ねた。まずはスタートが切れた。

 葛飾職人衆47人は東京都の貴重な存在でもあり、個々にはなにかしらメディアに取り上げられている。南川さんも来月には、12チャンネルで放映される、2度も撮影にきたと話していた。

 私なりの切り口でPJニュースに書いていく。果たして、職人の方々の取材記事が何人となるのだろうか。丁寧に、一人ひとりと向かい合っていきたい。

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