A010-ジャーナリスト

『皇国の興廃この一戦にあり。~』は秋山真之の名言にあらず。2番煎じ

 明治に入ると、芸州広島藩は長州閥の政治家から、徹底して封印されたり、ねつ造されたりしている。
 広島藩主の浅野家はいまなお資料を公開していない。長州の刺客に狙われるとでも思っているのだろうか。そう疑いたくなるほどだ。実物は広島市中央図書館に眠っている。歴史研究者はのどから手が出るほど欲しいのに。
 
 浅野藩主の末裔が代々隠しても、当時の有能な学問所メンバーが編纂した資料が現存していた。だから、私は芸州広島藩からの幕末歴史小説を書くことができた。


「長州が倒幕に寄与した。そんな作り事は、司馬遼太郎が書いてはいけませんよね」
 山口県のある著名博物館の、主任学芸員がふいにそう発言した。取材で訪ねた私が作家だったから、そう示唆してくれたのだ。

 それには「えっ」と驚いたものだ。
 4年前のその言葉が、私の脳裏には強く焼き付いている。だから、こんかい長編幕末小説を書き上げた。とくに、司馬史観の誤り、事実に反するところ、作り話は明確にするべきだ、その一念で書き上げた。随所にはかなり織り込んでいる。
 6月には刊行予定だ。

 最大のポイントは、「薩長の倒幕」など、常識的に考えても、あり得ないし、事実に反していることだ。

「禁門の変」で、長州藩は朝敵となった。長州人が京都に入れば、新撰組などに殺されていた。幕府から「殺せ」という命令なのだから、当然、殺す。

 大政奉還から、小御所会議で京都に新政府ができるまで、長州は軍隊を京都にあげていない。主要な会議にも出ていない。長州藩は徳川家の倒幕にまったく役立っていない。どんなに折り曲げても、それが事実だ。

 新政府が樹立した後、長州の軍隊が戊辰戦争で暴れまわっただけなのだ。


 長州・政治家が、薩芸(さつげい)の徳川倒幕を「薩長の倒幕」へと巧妙にすり替えた。「薩長土芸」すら、「薩長土肥」に変えられている。『肥』って、なあに、という人も多い。

 慶応4年8月1日に、神機隊・高間省三砲隊長が20歳で、戊辰戦争・浪江の戦いで死んだ。かれは頼山陽以来の広島藩きっての秀才だった。
 死を予期したのか、かれは死の直前に、父親(武具奉行・築城奉行)に手紙を書いている。『絶命詩並序』というタイトルで、七言絶句を添えている。まさに、学問所・頼山陽の後輩らしい。

 高間省三は軍人必読『忠勇亀鑑』で紹介されている。それだけに、高間省三の手紙は明治時代から昭和(終戦まで)の軍人たちの手記や遺書でずいぶん引用されている。

「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」
 秋山真之は、ロシア・バルチック艦隊との日本海海戦の名言とされている。しかし、それは高間省三の手紙文の引用であり、秋山が考え出した言葉ではなかった。

 高間省三は手紙には、こう書き残している。 
『天皇は明徳を想い、純心に武士や民を赤子のごとく愛す。皇国の興廃は今日の戦いにありです。この徳に報るためにも、男児の死ぬべき時は今です』
 慶応4年7月末である。約38年前だ。

 広島出身の内閣総理大臣・加藤友三郎は、さかのぼること、明治38年1月、第1艦隊兼連合艦隊参謀長となり、5月27・28日の両日の日本海海戦に旗艦「三笠」艦上で作戦を指揮した。そして、バルチック艦隊と同航しつつ、「わが半ばを失うとも敵を撃滅せずんばやまず」との捨て身の「丁字戦法」(敵前180度回頭)を展開させた。
 ロシア・バルチック艦隊との戦いで功績を挙げた。やがて総理にまでなった。

 幼くして父を亡くした加藤友三郎は、8歳ごろから、実兄の加藤種之助に一切の面倒を見てもらって育っている。
 その種之助は芸州藩・神機隊の中心人物のひとり。隊長格どうしで高間省三と一緒に戦っている。高間が戦死すると、遺品・遺髪をすべて持ち帰ってきた。

 友三郎は、兄の種之助から高間省三の武勇とか、手紙とか、碑文とか、浪江の壮絶な死を聞いて知っているはずだ。まして、友三郎は学問所・修道学園の関係からすれば、高間省三の後輩にあたる。
 皇国の興廃は今日の戦いにありです。「秋山真之」の名言でなく、加藤友三郎の発案だろう。遡れば、高間省三の名言だった。

 加藤友三郎は現職の総理で死す。こうなると、ますます歴史のねつ造には都合がよくなる。長州閥の政治家は、幕末の芸州藩にからむと、ともかく消したいから、高間省三でなく、「秋山真之」の名言とした。むろん、後世の作家もおおきく関与している。

 名言の真実となると、東郷平八郎司令長官は知っていただろう。秋山の言葉でない、と。東郷元帥だって、軍人勅語が載っている『忠勇亀鑑』だってポケットに入っていたはずだから。
 なにしろ、徳川家康、日本武尊、前田利家、加藤清正、楠正成など、そうそうたる人物のなかに、20歳で死んだ文武に優れた高間省三が「軍人武勇を尊ぶべし」の項目で、並列で記載されているのだから。

『皇国の興廃この一戦にあり。~』の「秋山真之」の名言は、すくなくとも高間省三を模している。2番煎じは当人の名言と言わないのがふつうである。作家が、書き立ててはダメである。

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