A010-ジャーナリスト

『春を訪ねて』あちらこちら=三春から嫁もらうな

 古木桜の名所として、福島県・三春町は全国随一だろう。推定樹齢450年の「三春の滝桜」は豪華だ。この季節にはポスターを通して人の目にふれている。
 ぜひ一度は行きたい、と思う人も多いだろう。
 過去に訪ねた人の感想は、「郡山市内から、大渋滞だった。一度観たら、もうあの大渋滞では行きたくない」と話す。それほど人気だ。

 4月15日(火)に同地に訪ねてみた。3分から4分咲きだった。週末には満開だろう。
 私が訪ねたのは、すこしタイミングが早かったからだろう、車を誘導する数多くのガードマンはわりに暇そうな顔だった。大駐車場まで難なく入れた。

「会津の悲劇」の現地取材に入った、3年ほど前だった。
 「二本松には私の父母の代まで、『三春から嫁を貰うな』という言い伝えが残っていたんですよ」
 と福島県立博物館の学芸員から聞いた。
 それが「三春の滝桜」のポスターを見るたびに脳裏に横切っていた。

 戊辰戦争の時、新政府に反発し、奥羽越列藩同盟が結ばれた。31藩は強く抵抗した。一方で、「裏切った」「寝返った」「手引きした」といわれる脱列藩同盟の藩もある。その代表格が三春だ。
 戦略・戦術的には、西洋式軍隊の「ライフル」と鎧兜の「火縄銃」があった。奥羽越に地の利はあるが、次々に負けて、総崩れになったのが実態だ。

「三春の裏切り」には、二本松の悲劇がある。

 新政府軍は磐城平城を落城させると、白河、そして三春藩へと進撃していった。三春が早々と恭順(新政府に屈する)した。その先へと、進軍した政府軍に対して、二本松藩は徹底抗戦した。同藩の少年隊(12歳~17歳)までも、銃を持って応戦した。

 とくに砲術の木村銃太郎が指揮した少年25名は、「大壇口での戦い」で多く戦死した。木村も戦死した。この悲劇は、「三春が裏切ったからだ」とか、「三春が新政府軍を道案内した」とか語られている。

「裏切り」は史実としては不明瞭だが、近在では単純な三春の敗戦とみなさず、卑怯者だ、卑怯者の子孫から嫁を貰うな、と語り継がれてきたのだ。ある意味で、会津地方まで及ぶ。

 有名な会津白虎隊は会津城が自焼したと勘違いして自刃した。しかし、二本松少年隊(正式名はなし)は銃を持って戦ったのだ。そして、死んだ。戦場で負傷した少年らも重体が多く、収容されても命を落とした。

 現代において、郡山とか、二本松の人たちは心なしか「三春滝桜」にはあまり関心を示さないようだ。ホテルでも、レンタカー屋でも、三春のパンフレットを問えば、「切らしています」と言い、さして補充する気もなさそうだった。
 挙句の果てには、カーナビはどう入れたらいいのですか、とレンタカー屋の事務員に問えば、社員が次々に首をかしげ、ネットで調べてみます、と応える。「さくら湖のダム事務所」でセットしておきますから、そこらに行けば、案内板が出ているはずです。こんな調子だ。少なくとも、最高の旬なのに、三春に肩入れする気などない態度に思えた。
(写真:三春ダム・さくら湖)
 
 郡山駅の構内では「四季の三春」がモニターで流されていた。私は待合せの方が一列車遅れるので、20分間ほど見ていたが、ひとりとして立ち止まり見る人はいなかった。

 郡山から道々の案内板が妙に少ない。こんなに有名なのに? それすらも驚かされた。福島県(県行政)がこぞって「三春滝桜」のPRせず、三春町が単独で頑張っている雰囲気だ。
 まったくの推測だが、近年の市町村合併でも、三春町は嫌われたのかな、市制ではないし、と思ってしまった。

 入場料・300円(1日券・ライトアップに同日再訪もOKだ)で、大駐車場は無料だ。わずかな収益で、ガードマンを雇っているのだろう。
 ちなみに、同駐車場には県外ナンバーがやたら目についた。

 三春町にはがんばって欲しいし、会津・白虎隊だけでなく、二本松少年隊の悲劇にも目を向けてあげてほしい。そんな気持ちになった「三春滝桜」である。

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