寄稿・みんなの作品

【寄稿・エッセイ】 去年のさくら=久保田雅子

【作者紹介】

 久保田雅子さん:画家、インテリア・デザイナー。長期にフランス滞在の経験から、幅広くエッセイにチャレンジしています


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           作者のHP:歳時記 季節と暦の光と風・湘南の海から

去年のさくら  久保田雅子

 昨年、私とクリスティーヌは、3月の終わりに目黒川でお花見ランチの約束をしていた。
 そこに東日本大震災が発生した。翌日12日の原発爆発事故が起きて、在日外国人にはそれぞれの国から国外退避勧告が出された。彼女も家族と共に香港に避難した。
 それから約1か月後、避難勧告が解除になったことから、日本に戻ってきた彼女と会った。
 桜を見ながらのランチだったはずが、目黒川の桜は花も終わっていて食事をする気分にもなれず、コーヒーだけになってしまった。

 話題は国外退避時の話になった。
 急な勧告に危険を感じた彼女はわずかな時間のなかで、荷物の準備もそこそこに、家族と共に大渋滞の高速道路を成田空港へ向かった。空港内も大混乱の中、やっとの思いで出発できたと語る。
 震災では外国人も大変な思いをしていたのだ。

 日本に戻ってからも、日本語が読めず食品の安全については、不安な思いで毎日を過ごしていると話していた。私は無責任に「危険なものは販売禁止になるはずだから大丈夫よ」とアドバイスした。
                                (目黒川24年4月11日撮影)

 この頃に『トモダチ作戦』のニュースを聞いた。アメリカ軍が大がかりな日本救援作戦を展開していた。使用不可能になった仙台空港が、あっという間に復旧できたのは、日本の自衛隊に協力した米軍のおかげだ。
 私は日本の苦境を助けてくれた『トモダチ作戦』の全容を知りたいと思っていた。
 今年3月11日夜、テレビ朝日でドキュメンタリー番組『3・11映像の証言トモダチ作戦全容』を見ることができた。

 東日本大震災で自衛隊松島基地は、津波にヘリや航空機を流されて全滅状態になった。活動不可能になったのだ。
 アメリカでは日本政府の要請がある前に救援準備に動き出していた。
緊急指令―「日本を救出せよ」と横田空軍基地に作戦司令部が置かれた。

 すべての艦隊に全速力で日本を目指すように指令がでた。
 西太平洋を航行中の空母ロナルド・レーガンも進路を変えて日本に急行する。
「同盟国としてトモダチだ、困ったときには助けよう」
 約2万4千の兵士が日本の救援活動に動いた。

「陸の孤島、SOSを探せ」
 U-2偵察機が被災地の情報を集め、交通が遮断されてしまった所を、空から探して救援活動を開始した。

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【寄稿・エッセイ】田舎へ行こう=三ツ橋よしみ

【作者紹介】

三ツ橋よしみさん:薬剤師。目黒学園カルチャースクール「小説の書き方」、「フォト・エッセィ」の受講生です。

             田舎へ行こう  縦書き PDF


田舎へ行こう  三ツ橋よしみ

  


 一昨年、同居していた母がなくなった。一年かかって、実家の後片付けをすませた。 今年になって、やっと一息つくことができた。気付くと、娘は彼氏の元に去り、家は私たち老夫婦と犬のタローだけの暮らしとなった。
「田舎暮らしがしたい」と夫が言いだした。畑をたがやし、米を作り、自給自足をするのが、かねてからの夢なのだそうだ。
「東京の狭い家では犬がかわいそうだ。ストレスがたまって、病気になってしまう」と犬をなでる。

 東京生まれ、東京育ちのわたしは、渋谷、恵比寿が遊び場だった。夜の街に繰り出すわけではなかったが、夜、真っ暗になるような場所には住みたくないし、不安だ。土いじりも、観葉植物の手入れもするが、それ以上の興味はない。
 
 夫は、うれしそうにネットで物件をさがしはじめた。郊外の不動産業者に予約を入れ、家を見に行く手配をした。家族の一員だから、家を見に、愛犬タローも一緒にいくことになった。

 東京から車で一時間あまり、千葉県佐倉市の住宅街に案内された。中古住宅だが、しっかりした作りの家だった。東京にはない広くて気持ちのいい庭があった。リードをはなすとタローの目が輝いた。走り回る犬に、夫はにこにこ顔だ。
「ここに決めよう」という。
 不動産屋に居合わせた地元の人が、畑がやりたいなら、一反(300坪)ぐらいどうですかとすすめる。坪一万円だという。いえいえ、ほんのお遊びですからと、夫は顔を赤くした。

 娘を佐倉に案内した。
「遠いいね」
「刺激が少なすぎて、お母さん、ボケちゃうんじゃない?」と心配する。
 世田谷に住む姉は「そんなに遠くに行ちゃうと、めったに会えなくなっちゃうじゃない」と電話口で涙ぐんだ。
 夫の友だちは「三日であきるんじゃないの?」と言った。
 知り合いのおばさんは「キュウリがたくさん取れたら送ってね。おいしいキュウリ漬をつくるから」とはげましてくれる。
 週二回、勤めている会社の同僚は、
「佐倉から所沢に通う気なんですか。えっ、それって小旅行じゃないですか」
 とあきれられた。
 

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【転載・詩集・花鎮め歌より】原爆のことをはじめて聞いた日 =結城 文

作者紹介=結城 文(ゆうき あや)
       日本ペンクラブ(電子文藝館委員)、日本比較文学会、
       埼玉詩人会、日本詩人クラブの各会員
       日本歌人クラブ発行「タンカジャーナル」編集長


             作品・縦書き PDF


関連情報

結城文詩集『花鎮め歌』

発行所:(株)コールサック社
     〒173-0004
     東京都板橋区板橋2-63-4-509
     ☎03-5944-3258  FAX03-5944-3238 


原爆のことをはじめて聞いた日 結城 文

わたしは それを
父の遺骨が帰った日
母から聞いた
母と叔母とは四国の善通寺までゆく
父の赴任するはずだった善通寺には
師団があって
骨はそこへもどってくる
幼いものは 祖父母と
父の帰りを
ひたすら待った

二人とも
疲れきって帰ってきた
  「まともに 乗り降りできゃしない
  人間が 汽車の屋根にまで乗っている
  窓からいきなり 荷物を投げ込み入ってくる
   屈強な者ほど 悪い
  英霊だなんて 誰も考えてくれない」
  「新兵器の爆弾が落ちたそうだ
    一瞬に 体の皮が
   ぺろんと 剥けてしまうんだって」


疎開先の 離れの床の間に
白布で包まれた 四角い木箱が置かれる
この中にあるのが
ほんとうに
父の骨かどうかは 分からない
けれど 同じ飛行機で 最後の瞬間を共にした
十人の人たちの骨のどれか――
何万 何十万の
骨さえ帰らない戦死者にくらべれば
遺骨と思われるものが帰ってきただけでも
ありがたいこと


あの時 母に同行した叔母は もう亡き人
母は この世にまだいるけれど
脳裏にとどめたものは 滅んでしまった
あの時 母たちが聞いた
新兵器の爆弾は
たぶん 広島の原爆

人間の皮膚がぺろんと剥ける
新兵器の爆弾は
長崎にも落ちて
戦争が終わった


遺骨を引き取りにいったのは
終戦の日の前なのか 後なのか
もう 確かめられないが
わたしが原爆のことを はじめて聞いたのは
父の遺骨が帰った
その日のことであった 


                【写真はイメージです 撮影:穂高健一、2011年11月7日】   

【転載】『詩集・花鎮め歌』 わが父祖の地 石巻 =結城 文

作者紹介=結城 文(ゆうき あや)
       1934年東京・杉並区生まれ
       日本ペンクラブ(電子文藝館委員)、日本比較文学会、
       埼玉詩人会、日本詩人クラブの各会員
       日本歌人クラブ発行「タンカジャーナル」編集長
            
        著書 2006年 詩と短歌による組詩集『できるすべて』(砂子屋書房)   
            2007年 『原爆詩181人集 英語版』共訳  
            2010年 詩集『紙霊』(北猽社)
            2012年 詩集『花鎮め歌』(コールサック社)
            他に歌集7冊、評論集1冊、訳書8冊など

             
縦書き PDF「わが父祖の地 石巻」はこちら


わが父祖の地 石巻 結城 文   『詩集・花鎮め歌』より 

 


戦死した父のうぶすな産土(うぶすな) 石巻
旧北上川に沿った古くからの港町
私の知らない父方の親族が住んでいたかもしれない町
津波で
大きな被害をだした町


旧北上川の河口まで歩いたことがあったことがあった
海を見下ろす日和山からの夕景
青い霧の底にきらめく
漁船の灯火


広濟寺──
禅宗──臨済宗の寺には
千葉家代々の墓があった
墓誌には
私の知らない先祖の名の後に
「昭和二十年七月十日 千葉 敏雄 四十二歳戦死」
と刻まれていた


寺はどうなったのだろうか?
墓はどうなったのだろうか?
そこで生活していた人々の安否さえわからない今
墓のことなど
尋ねることさえははばかれるが
日にいくたびか


思いは
石巻に立ち返る
父の眠る広濟寺の墓地に
旧北上川の満々たる流れに
川水の渦まく
石巻石に *
川に沿った潮の香りのする町に

・*旧北上川の河口の近く水面に先端のみを見せる石の名。
地名の由来はこの石からと思われる


【写真はイメージです:穂高健一、宮城県内の被災地で撮影】

【寄稿・エッセイ】 片づける=三ツ橋よしみ 

【作者紹介】

三ツ橋よしみさん:薬剤師。目黒学園カルチャースクール「小説の書き方」、「フォト・エッセィ」の受講生です。

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片づける=三ツ橋よしみ 三ツ橋よしみ

  
 
 昨年、母がなくなった。遺品を前にして、姉とふたりで整理した。家の二階に、衣装箱が40個ほどあった。洋服、セーター、上着、コート、着物などがぎっしりだった。値札のついたまま、衣装箱のなかで流行遅れになってしまったワンピース。黄ばんだ絹のブラウス。箱を開けるたびに、20年、30年の時がよみがえった。
 作業のはじめは、リサイクルが出来る服はないか、一つひとつ傷み具合をチェックしていた。ところがあまりの品数に、目と心が疲れた。結局、目をつぶって、機械的にゴミ袋に詰めこんだ。

「お母さん、なんでこんなに洋服を、買ったのかしら。同じようなものばっかりじゃない」
 とわたしが言うと、姉が母のかたをもった。
「人のことはいえないのよ。わたしたちだって似たようなものよ。洋服ってなぜか増えちゃうのよ。お母さんの遺伝かしら。街へでかけるでしょ。デパートに立ち寄る。ショーウインドウによさそうな服がならんでいる。近くによってながめる。値札をちらっと見ると、おもったより高くない。店員さんが寄ってきて、『お買い得ですよ』とか、『今年の流行なんです』とか、耳元で言う。そして、ちょっと身体にあわせてみようかしらと思う。鏡をのぞく。『よくお似合いですよ』とかなんとか言われる。『そうかしら』とまんざらでもない気分。『こんど旅行に行くときに着ようかな』と思う。そして気がついたときは、もうデパートの紙袋をかかえて家にかえる途中。はな歌なんか歌ちゃってるのよ」

「それって衝動買いじゃない?」
 と言うと、姉が首を振る。
「ぜんぜん違うとおもうけど。だって大切なのはプロセスなの。洋服を見つけて鏡をみる。そのときにいろいろなことを考えるでしょ。この服にはあの靴はどうか、あのバックはどうか。お友達と行く海外旅行にはどう? クリーニングはできる? 縫製は大丈夫? 服を選ぶとき、頭の中をかけめぐる様々なおもい。すごく脳を使ってる感じがするわ。すごく集中してるの、服を選んでいるときって。その時間の興奮が、たまらないのよ」
 
 その後、今年になって、姉夫婦が引越しをした。
 一軒家を手放し、世田谷のマンションにうつった。長年住みなれた一軒家には愛着もあったが、六十五才をすぎて、庭の手入れが億劫になったらしい。買い物や病院が遠く不便だったこともあって、狭いが便利のよい都会のマンションを選んだのだ。バリアフリーで小さなテラスがついていた。老夫婦にはこれで十分よと、姉は言う。

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【寄稿・エッセイ】「幸せの黄色いリボン」=久保田雅子

【作者紹介】

 久保田雅子さん:画家、インテリア・デザイナー。長期にフランス滞在の経験から、幅広くエッセイにチャレンジしています


           幸せの黄色いリボンPDF

           作者のHP:歳時記 季節と暦の光と風・湘南の海から


「黄色いリボン」 久保田雅子


 私のはじめてのライブ体験は、もう40年以上も昔だ。そのころはまだライブという言葉もなく生演奏と言った。

 六本木の交差点に近い『ジェームス』だった。地下の店内に向かう階段から音楽が響いてきて、入る前からわくわくしたものだ。
私は初めての生演奏の雰囲気にすっかり興奮して、友人たちとその後もよく通った。
 カントリー・ウエスタンが専門で、店員たちはウエスタン・ハットをかぶりバンダナを首にまいて、演奏がはじまると手拍子で盛り上げた。
 それにあわせて観客も手拍子で、店内はいつも大いに陽気に盛り上がった。リクエストをすることもできたので、私は大好きな『幸せの黄色いリボン』を毎回リクエストして楽しんだ。

                         (写真:赤坂カントリーハウス店のHPより引用)        

3年の刑期を終えた男が 家路に向かうバスの中だ
彼女には手紙で伝えた まだ僕を愛していてくれるのなら
家の樫の木に 黄色いリボンを結んでおいてくれないか
もし黄色いリボンがなかったら 僕はバスを降りずに通り過ぎるよ
バスの運転手さん リボンがあるかどうか僕のかわりに見てくれないか
自分じゃ怖くて見られない
バスの乗客が騒いでいる 目の前の光景が信じられない
古い樫の木いっぱいに たくさんのリボンがゆれている
                                        (訳詞:久保田)            
          

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【寄稿・エッセイ】「家政婦のミタ」を見た=久保田雅子

【作者紹介】

 久保田雅子さん:画家、インテリア・デザイナー。長期にフランス滞在の経験から、幅広くエッセイにチャレンジしています
             
                       

                 「家政婦のミタ」を見た PDF


                 作者のHP:歳時記 季節と暦の光と風・湘南の海から


「家政婦のミタ」を見た 久保田雅子


 昨年の秋に放送された、テレビドラマ『家政婦のミタ』を見た。
 かつて人気シリーズだった『家政婦は見た』という市原悦子さん主演のドラマを連想していたが、まったく別のものだった。
 初回から過激なシーンもあったせいか、漫画チックなわざとらしい展開なのに、なぜか引き込まれてしまった。そして毎週、楽しみに見てきた。
 家政婦・ミタさんは、父親が育てる3人の子供たちのいる四人家族の家庭にやって来る。その家では、母親が父親の不倫を理由に自殺しているのだ。
 子供たちは突然母親を失い、だらしのない父親に失望し、まったくどうしてよいのかわからない。そのなかで、淡々と仕事をする彼女の存在に、バラバラになりかかっていた家族が少しずつ立ちなおっていく過程を描くものだ。
「承知しました」となんでも引き受けるミタさんに、家族みんなでいろいろなお願いをする。自暴自棄になった長女は「死にたいから私を殺して」と頼む。ミタさんはナイフを持って本気で彼女を追いかける。長女はおそろしくなって逃げ回り、自分が死にたくないことを知る。

 暗い過去のあるミタさんは、決して笑わない。仕事は完璧だ。毎回、かならず食卓のシーンがあった。ばらばらになりそうな家族が、彼女の作るおいしい食事に心をなごませる。家族の絆は食卓から…、と伝わってくる。
 業務命令であれば、彼女はどんなことでもする、不思議な人だった。
 いつも黒いカバンを持っていて、必要なものはなんでもそこから魔法のように出てきた。

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【寄稿・写真】気仙沼大島を襲った大津波=伊東勝正

 写真提供者の紹介:伊東勝正さんは、宮城県気仙沼市の『休暇村 気仙沼大島』の営業リーダー。島をよく知り、3.11の大津波を体験した。同島は、3隻のフェリーボートが運航不能になり、本州との交通網、連絡網が断たれた。
 島では山火事が発生した。退路のない炎上である。島民として恐怖のなかで、伊藤さんはシャッターを切った。 メディアも救援隊も入れなかった。この時の大島の惨事を写真で残す。貴重な写真提供である。
 ちなみに、アメリカ第7艦隊「ともだち作戦」で、米軍の兵士が同島に最初に上陸してきたのが、3日後である。日本の救援隊(自衛隊、海保)よりも、数段に早かった。


 写真は気仙沼と大島を結ぶ、係留していたフェリーが桟橋ごと陸に打ち上げられたものです。これで本州との行き来は途絶えてしまいました。(3隻とも被害で使用不可)

 3.11の震源地に近いために、2時46分の揺れはすさまじいものでした。

 地震の被害で『休暇村 気仙沼大島』は数か月間、営業ができない状態に陥りました。


 激しく揺れた地震の後、大津波警報が出ました。津波の高さは6メートルでした。ここからならまず安心、という気持ちで、カメラを持って待ち構えていました。ところが、とんでもない大津波でした。


休暇村の直下にあった、「体験四阿」が大津波に飲み込まれていく瞬間です。

「緑の真珠」と呼ばれた、日本でも有数の海水浴場でした。美しい海岸と砂浜が無残に姿になりました。


 島の津波は、太平洋側と、気仙沼湾を襲った後の津波が逆方向からも来ました。島は真ん中で分断されました。
 倒れている電柱の方角が、襲われた場所ごとに違い、逆方向になっていました。

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【寄稿・エッセイ】 タローのご招待=三ツ橋よしみ

【作者紹介】

三ツ橋よしみさん:薬剤師。目黒学園カルチャースクール「小説の書き方」、「フォト・エッセィ」の受講生です。

             タローのご招待  縦書き PDF


タローのご招待 三ツ橋よしみ

  

 正月の早朝だった。飼い犬が玄関ドアをひっかいている。散歩の催促だ。もう少し寝かせてと言い聞かせても、ひっかくのをやめない。しょうがない。起きて散歩の支度をはじめた。犬は一張羅の毛皮だが、私はコート、マフラー、帽子、手袋とたいへんだ。

 タローは柴犬の雑種だ。毛が密生していて、冬が大好きなのだ。引っ張られて公園につくと、犬はうれしそうに草むらをかぎまわる。仲間のにおいがするのだろう。枯れた芝生を駆け回り、からだをこすりつける。霜柱の地面でも平気だ。
 公園の木々は枝ばかりだった。光が地面まで抜けるので、冬の草むらは意外と明るい。丘の茂みから、初日の出がゆっくりと、顔をだした。拝んだ。

 家にもどり、元日の食卓を囲む。娘はお雑煮を食べ終わると、ぴょんぴょんとはねるように、彼氏のもとへ出かけていった。大学は出たが就職が決まらない娘である。心配してもはじまらない。本人が元気なら良しとするか。
 
 夫婦二人の静かな正月となった。
 家の電話がなった。近所のK奥様からだ。一月四日のお昼に、とお誘いを受けた。私たち夫婦とタローを是非にとのことである。
 奥様は、八十才くらい。足が弱って最近は車椅子での生活だ。五人のヘルパーさんが交代でお世話をしている。一人暮らしだが、いつもおしゃれな素敵なご婦人である。

 そんな奥様に、我が家のタローが見初められた。
 奥様は散歩のおり、我が家の前を通る。タローはフェンスから鼻をつきだしていた。奥様はおもしろがってタローに餌をやった。タローは大喜びだ。それからは奥様が通るたびに、しっぽを振り、甘えた声で鳴く。しまいにはフェンスから身を乗り出し、婦人の顔をなめまわす。奥様はいやがらず、たいへん喜ばれた。
「毎日の散歩が楽しくなったわ」と奥様は、おろおろするヘルパーさんに笑顔をむけていた。
 

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【寄稿・詩】 いわきの海 = 村山 精二

【作者紹介】村山 精二さん

1949年 北海道赤平市生まれ

日本ペンクラブ 電子文藝館委員会 副委員長 

日本文藝家協会、日本詩人クラブ、横浜詩人会・各会員

2010年  日本ペンクラブ国際ペン東京大会実行委員

2009年~日本詩人クラブ60周年記念大会実行委員


  詩集・著作は多数あります

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いわきの海  村山 精二


小名浜に巨大岸壁が出現したのは
昭和32年
ぼくが木造二階建ての
湯本第二小学校に上がった年だ
常磐線に乗って
おずおず覗きに行った

ボタ山には夕陽
炭住街には同級生の悪ガキの群れ *
禁じられている坑内に入り込んで
板切れに刺さっていた釘をゴム靴で踏み貫いた

小名浜の海の
岩牡蠣を潮で洗って食べたのは
岸壁ができる前だったろうか
もちろん近くに原発ができるずっと以前だ
親父の自転車に弟と載せられ
ガタガタの砂利道を延々と走ってたどり着いた

それからぼくたちは
北海道・静岡と渡り歩いて
神奈川の片隅に住み着き もう40年
フクシマを思い出すこともまれになったが

踏み貫いた傷とともの半世紀
炭鉱はスパリゾートになってしぶとく生き抜いている
ぼくは電気をたくさん使う化学工場の技術屋になって
定年を迎えた

ぼくの右足が癒えることはない
寒い夜には
今でも疼く

 * 炭住 炭鉱住宅
     炭鉱労働者家族のための社宅