寄稿・みんなの作品

【寄稿・写真エッセイ】手づくり絵本ってなあに~人材バンク~=桑原妙子

 作者紹介

 桑原妙子さんはシニア大楽「写真エッセイ教室」の受講生です。
 S30年生れ。わが子が1才の頃より、手づくり絵本をはじめる。サークル活動中に公民館、生涯学習館、子ども会、保育サークル等で、手づくり絵本&ポップアップカードを教える。


【関連情報】

絵本クリエーター『エクリエ』

作者・ブログ


 

手づくり絵本ってなあに~人材バンク~ 桑原 妙子


 人それぞれと思いますが、あなたは、何にいきがいを感じていますか。

 夫の転勤先の横浜に引越し、荷物の片づけも済んだ頃だ。何もかも、やる気が起きずぼんやり過ごしていた。
 かつての名古屋には仲間がいた。横浜では、絵本のサークルを作るにしても、簡単に人は集まらない。その上、知り合いもいない。名古屋に居残りたかったと、いつまでも未練がましく考えてしまう。そうだ、手作り絵本をつくることは私のいきがいだったのだ。

 春のある日、そう思い立って、横浜の鶴見区役所へ行った。
 広いロビーのラックの中には沢山のチラシや会報誌がある。それらを丁寧に一枚一枚見た。その中に『子育て子育ちフォーラム』があった。鶴見区のいろいろな団体が集まり、子育て関連のイベントや活動を行う会だ。
「ここなら何かできるかもしれない」
 そう思い立ち区役所横にある、区民支援センターに行ってみた。
 担当職員の話を聞き、『子育て子育ちフォーラム』に入会することに決めた。ここでは、私も様々なイベントに参加させてもらった。クリスマスには、子どもたちと一緒にカード作り、春には、親子の飛び出すしかけ絵本作り、バザーや、フリーマーケットなどにもボランティアで参加した。

 この区民支援センターには『人材バンク』制度がある。私は「手作り絵本とポップアップカード」で登録をした。人材バンクからは少しずつだが、公民館や、子ども会、高校から活動の依頼がくるようになった。

 平成16年春には区民支援センターから『夏休みの親子絵本講座』の仕事の依頼がきた。
 逗子市教育委員会からで、講座は親子25組、約50名である。夢のようで、飛び上がるくらい嬉しかった。フォーラムで知り合いになった境さんにアシスタントになってもらい、一緒に講座を受持った。

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【寄稿】 祖父の梅の木 =結城 文

作者紹介=結城 文(ゆうき あや)さん
 
日本ペンクラブ(電子文藝館委員)
日本比較文学会、
埼玉詩人会、日本詩人クラブの各会員
日本歌人クラブ発行
『タンカジャーナル』編集長

日英翻訳家



祖父の梅の木=結城文 縦書きPDF

 祖父の梅の木  結城 文 

おじいさんの梅の木が倒される日
朝早くから
ギーイッ ギーイッと尾長が鳴いた

はじめに白加賀が倒された
鬱蒼と幾重にもかさなった深緑の葉むらが消え
ぽかんと隣家の裏口までの空間があいた
根だけで二トンもあったそうな

年毎に薄紅色の花をつけた豊後梅が
次に倒される
フェンスの向こう
逆光に黒ずんだ葉むらが
痙攣するように空にゆれた
それがおじいさんの梅の木を見た最後

尾長が二羽やってきて
戸惑ったように我家の庭木にとまってた
おじいさんの野梅に
群をなしてきていた尾長たちは
その後姿をみせない
もうここに寄ってもしかたがないと知ったのだ

ひらり ひらりと水平に
青灰色の線を描いて飛んでいた尾長たちよ
お前の黒いボンネット
喪ったのは梅の木だけではなかった
尾長も鵯も椋鳥もみんな姿をみせなくなった

木がなくなって 鳥がこなくなって
ぽかっと
ひらいた空間に
まだなじめない私がのこった

【転載】<むかし外国へ渡った日本人>川上貞奴=久保田雅子

【作者紹介】

 久保田雅子さん:インテリア・デザイナー。長期にフランス滞在の経験があります。(作者のHPでは海外と日本のさまざまな対比を紹介)。
 周辺の社会問題にも目を向けた、幅広いエッセイを書いています。

         作者のHP:歳時記 季節と暦の光と風・湘南の海から


 同HPには、<むかし外国へ渡った日本人>シリーズを展開しています。今回が14回目です。


<むかし外国へ渡った日本人>川上貞奴 サダヤッコ 久保田雅子

 1900年のパリ万国博覧会で公演、一躍パリで大人気になった日本女性がいました。

<川上貞奴 サダヤッコ>1871~1946年

 貞は日本橋の越後屋(質屋)で12番目の子として生まれました。
 7歳で芳町の芸妓置屋「浜田屋」の養女になり、やがて「貞奴」を襲名。日舞その他の芸に優れた貞奴は、芳町一番の売れっ子芸者となったのです。伊藤博文、井上薫、黒田清隆、西園寺公望などの上客が貞奴をひいきにして集まっていました。

 明治27(1894)年、貞奴(23歳)は芸者「奴」を廃業して、自由民権運動の活動家で書生芝居をしていた、川上音二郎(30歳)と結婚します。(写真右 貞奴と音二郎)
 音二郎はオッペケペ節で社会風刺をして、大流行します。やがて滑稽演劇家として川上一座を結成、新築開業しました。
 政治家としての野望を捨てられない音二郎は、国会議員に2度立候補しましたが落選。そのうえ川上座の負債が膨らみ、借金とりから逃れようと、二人はボートで築地の海岸から国外脱出?を試みますが、最終的には淡路島に漂着。一命を取り留めました。

 明治32(1899)年、政治活動をあきらめた音二郎は、新演劇芝居に専念。一座はアメリカ興行に出発します。サンフランシスコ公演で女形が死亡したため、急きょ貞奴が代役を務めて大当たりします。ところが公演の報酬を興行師に持ち逃げされて、一行は無一文になってしまいました。

 餓死寸前の状態で次の公演先シカゴにたどりつきます。死に物狂い?の演技が観客にうけて、ここで貞奴の舞と美貌が評判になりました。翌年ロンドンでの興行を経て、パリの万博会場で公演します。彫刻家ロダンは彼女に魅了されてモデルをしてほしいと申し出ますが、貞奴はロダンの名声も知らず断ります。

 パリ社交界のトップレディとなった貞奴をピカソやドビッシーも絶賛、フランス政府からは勲章が贈られました。
 明治35(1902)年1月に帰国した川上一座は、4月に再渡欧して1年間ヨロッパ各地を巡業しました。(イギリス・フランス・ベルギー・ドイツ・オーストリア・ハンガリー・ユーゴスラビア・ルーマニア・ポーランド・ロシア・イタリア・スペイン・ポルトガルなんと69街78劇場)

 帰国後は日本全国を巡業して舞台に立ちますが、まだ女優というものの価値が認められていない日本では苦労の連続でした。
 日本は長い演劇の歴史で女は女役の男性が務め、女性が舞台に立つことはなかったのです。俳優という職業も最低の身分の時代でした。
 明治40(1907)年には劇場視察と女優養成学校の研究のため渡仏。翌年には帝国女優養成所を創立しました。

  明治44(1911)年、音二郎が病死(47歳)。貞奴は彼の意志をついで公演活動を続けますが、1918年、演劇界やマスコミの攻撃についに女優引退を決意します(47歳)。大阪中座で引退興行終演後、名古屋市双葉町に移住します。

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【寄稿・詩】 夢明かりの果て = 望月苑巳

 望月苑巳さん:日本ペンクラブ会報委員会の副委員長です。現在はジャーナリスト、詩人、映画評論家として活躍されています。

詩集「ひまわりキッチン」(2011年10月10日発行)より転載
発行所 砂子屋書房

著者:望月苑巳
〒185-0031
東京都国分寺市富士本1-11-40
TEL&FAX 042(577)0738

夢明かりの果て 縦書き  PDF


【関連情報】

★スポーツ新聞で活躍の現役映画評論家グループが運営する★

映画専門のウェブサイトシネマ銀河


       夢明かりの果て  望月苑巳   

               
袋小路に踏み込んで
あやうく踏みくだきそうになってしまった思い出。
赤ちょうちん、ドブ板を渡る下駄の音
木洩れる奥居のかすかな天女の香
おまけに、釣瓶井戸辺の少女が、地球に話しかけている。
心の傷口に風がたわむれ
それが嫌で諸葛采の顔色をうかがい

新聞ひろげて井戸の中の蛙の棲み処を知ることになる
そんな春、印刷所の堀の向こうに
刷り上がったばかりの夕陽がはじかれていた
袋小路から順に日が暮れると
灯籠の灯りが人に媚びた鬼灯の悔いを見習う
明るすぎる夢は、目の前の卯の花が息をするせいだ。
夜半には時雨、明け方の燭光
なだらかな女の肩にも似た一日がまた始まるのだ。
夢の中では
湖のような水溜りに語りかける水鳥が
釣瓶井戸辺の少女だったことに気づく
旅の終わりに駄馬が戯れ唄を
うたうのはそのさきにせつない水が
あるのを本能的に知っていたからだろうか。

老婆に呼び止められ
すすめられたサィダアの
なんと思い出の窪みにしみ込むことか。
レントゲンには映らない心の棘が
旱魃のように広がるから
妻よ、その湖を見つめるな
湖に系図を問うな
あれは夢のなれの果て
涙のなれの果てだ。 

【寄稿・写真エッセイ】 同期のナデシコ=野本 浩一

 作者紹介・野本浩一さん:シニア大樂「写真エッセイ」講座の受講生です。
 
 1951年長崎県生まれ。1975年に三菱重工業㈱に入社し、2000年から6年間はフィリピンに駐在勤務しています。2011年9月に定年退職しました。
 ユーモアやジョーク愛好家とともに「ジョークサロン」を結成し、20年以上にわたり、笑文芸作品を持ち寄り、発表する会を楽しんでいます。
 現在はエアロビインストラクターとして活躍しています。
       


   同期のナデシコ  野本 浩一


 2013年のゴールデンウィーク明けに友人からメールが届いた。
「あと一年は勤務する積りだったが、6月末に定年退職となった。残念だが、仕方がない。貴兄が60歳で打ち切られた時の気持ちが分かる気がする。後ろ髪引かれる気持ちを早く鎮静化し、第二の定年後を迎えたい」
 と書いていた。

 久しぶりに貰ったそのメールから、悔しいとつぶやく彼の声が聞こえてきた。

 今回のメールは、いつもの飲み会の誘いに比べると長いものだった。普段の彼は愚痴っぽいことなど書ないだけに、本音が最後に書かれていたと思う。
「定年後の人生に、どんなことをすればいいか考えている。付き合うべき方々と付き合い、見聞したいものごとには素直に手を伸ばしたい。では、また」
 わたしは何度も彼からのメールを読み返した。そして、正直な気持ちを返事した。
「小生は退職後、失業保険を受給する手続きの為に、半年ほどハローワークに通った。職探しを続け、一か所だけ某財団に応募した。予想以上に長く待たされた揚句に、受け取ったのは不採用の通知だった。気持の切り替えには、数ヶ月かかった。
『団塊の下だから、仕事回って来ないよね』と言っていた。

半年程経ったあたりから自分自身の中にあったプライドは捨てて徐々に再活動を始めた。何をしたか、おいおい話す機会を作るよ。以前君に話していたエアロビは忙しくなってきた。いろんなことを試みながら、『とにかく楽しもう』、と気持ちを切り替えた」

 彼は、定年退職を迎えるのはまだ2、3年先と楽観的に考えていたのだろう。だから、今回の肩叩きでショックを受けたのだ。
 彼にはできるだけ早く気持ちを切り替えて欲しいと願っている。

 その2日後の5月10日、わたしはエアロビインストラクターの講習会に出向いた。猛特訓の末、昨年11月に講師認定試験に合格し、ほっとしたのも束の間、毎月2回の講習があり、より一層忙しくなってきた。本音を言えば、定年後にこれほどエアロビ漬けになるとは全く想像すらしていなかった。

 同期の講師合格者は9人で、男性は2人、女性が7人だ。5月10日の講習にはその9人中5人が出席した。ハードな練習の後、都合が悪い1人を除いた4人で飲んで語り合おうと、駅前にあるファミレスを目指した。

 この同期で語り、食べたり飲んだりすることがとても楽しいものになってきた。何故なのだろう。
「エアロビ教室に通い始めた頃の野本さんを思い出すと、インストラクターに合格するなんて、想像すらできなかったわ」
 と笑いながらあけすけに言う人がいる。
「我が家で、インストラクター試験の9人のビデオを見ると、生真面目に取り組む野本さんのシーンで娘たちが大笑いするのよ」
 と、さらに辛辣なことをいう人がいる。
「でも、今では一番頑張って、試験の後、どんどんレベルを上げているって、評判もあるわよ」と優しくフォローしてくれる人もいる。
 

 定年退職するまではどっぷりと浸かっていた会社生活である。それも男性だけの会合では、誰も言わなかったようなコメントをあっけらかんとにこにこ笑いながら投げかけてくる。想像を絶するお喋りや舌戦にたじたじとなり、僕は気おされてしまう。それでも、エアロビ同期との語らいの場は笑顔があふれとても楽しい。

 わたしにとって、定年後の世界は学業成績とか仕事の実績や肩書きとかが関係ない異次元の世界である。その異次元の世界に、かつての会社同期の面々よりも、いち早く溶け込まざるを得なくなった。
そこから這い上がった今は、すっきりしている。

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【寄稿・取材記事】 「お上」に楯突き続けるフクシマ牧場主=石田貴代司

石田貴代司さん=シニア大樂の「写真エッセイ」の受講生
         東京・世田谷区に在住
         「アマチュア天文家」として、
         同区の地元プラネタリウムが主催する星空観測に出向いています。 

あの男、ふたたび>                           

 福島第一原発の事故により、牧場の放棄と家畜の殺処分を政府から指示された。さらには半径20キロに、当該区域への立ち入り禁止と退去を命じられた。いわゆる「警戒区域」である。被ばくして売り物にならなくなった家畜や、人体の被ばくを省みず、守り続けている農家がある。

’12.5..28付けで「穂高健一ワールド」に投稿した「福島原発14kmからの訴え」の主人公である吉沢正巳氏(59)である 。


 その後も彼は全国を股にかけて説得を続けている。私が昨年出会った渋谷にも、月に1回は登場して街頭演説をしている。彼に興味を持ち続けて、調べるうちにいろんなことがわかった。

吉沢正巳の支援者たち

 まず前与党の国会議員だったT氏である。福島や被災地と無関係の地盤の議員だが、原発事故の後、約50日間にわたって、被ばく地域を(議員特権を利用し)視察してまわった。畜産農家の実態など、20キロ圏を一番よく知る政治家と言われた。
 もう一人は、針谷(はりがや)勉氏(39)だ。映像ジャーナリストでAPF通信社所属(2007年ミャンマーで射殺された長井健司記者の同僚)の彼は、原発の水素爆発の当初から取材を行い、この地域で活動中である。当時のT議員とも知り合った。

 多くの畜産農家が自宅や家畜を放棄して避難している中で、立ち入り禁止の牧場に密かに出入りして、約300頭の牛たちに水や飼料を与え続けていた吉沢正巳のことも、自然に彼ら二人の知るところとなった。
(針谷氏に今回電話取材できた。近く道玄坂事務所で面談予定)

 T議員(当時、後に方向転換のために、離党、議員辞職)は、法律的な知恵を貸したり、立場を使って吉沢を後押ししたりする。針谷勉は取材の入り、吉沢の情熱と魅力に共鳴して、「希望の牧場・ふくしま」の人間になって、月の半分は餌やり、掃除など社員として働き、事務局員となった。そして針谷が、吉沢の生き様を書いた「原発一揆」が昨年暮れに上梓された。

吉沢正巳の主張

 「いま国は、私たちベコ屋に牛を殺せと言っています。国は殺処分とともに、原発被害の証拠を隠滅したいのでしょうが、私は絶対に殺処分には同意しません」(「原発一揆」から)

「福島は東京に何十年も電気を送り続けてきました。なのに、いまでは『放射能ばい菌』とか、『福島から嫁はもらうな』とか、そういう深刻な差別が現実に起きています。みなさん、考えようじゃありませんか。福島を犠牲にして、この東京は便利な暮らしが成り立っているという事実を」
「憐れんでほしいのではない、一緒に考えてほしい」
 と訴えた。(渋谷の街頭演説で)

 東京農大を卒業して、この渋谷にも通じている彼には、東京は第二のふるさとの感慨もありそうだ。

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【寄稿・詩】干潮の砂洲  統一展望台にて = 結城 文

作者紹介=結城 文(ゆうき あや)さん
 
日本ペンクラブ(電子文藝館委員)
日本比較文学会、
埼玉詩人会、日本詩人クラブの各会員
日本歌人クラブ発行
『タンカジャーナル』編集長


日英翻訳家


干潮の砂洲  縦書き PDF

 干潮の砂洲  統一展望台にて = 結城 文 

                                  
満面を日に曝して 国家が横たわっていた
てらてらと照る干潮の砂洲
北のイムジン川と南のハン川が出会い
西の海に入るところ
十一月朔日晴れ
ガラス張りの統一展望台の前にひろがる明るい空間
飛ぶ鳥の姿もなく
どちらの方向に流れているのかわからない
銅鏡色の水

今は干潮――
ところどころに現れた川床は
濡れた光を鈍く返し
徒歩渡ろうとすればできそうな距離
対岸の
同じ規格の白く四角い家々は
警備の兵士らの集落
望遠鏡をくまなく動かしても 
人っ子一人見えない
何を焼いているのか
川べりに白い煙がゆるく立ち昇り
低く流れて
わずかに人の在り処をしめす

両岸には歩哨のブース
身を隠す木蔭も草蔭もない空間に
サーチライトのように
交差するひそかな監視の視線
北への望郷が
南との分裂の恨(ハン)が 
ぎっしり
見えぬ人魂となり浮遊しうごめく

この上もなく平和に
この上もない緊張の
空っぽの空間
てらてらと照る干潮の砂洲に
満面を日に曝して 国家が横たわる

【寄稿・フォト・エッセイ】 今日は五月晴れ=三ツ橋よしみ

 気持ちのいい朝だった。五月の空の青さに誘われて散歩に出た。近所の農家でこいのぼりを見かけた。都会ではめったに見られない立派なこいのぼりだ。

 鯉のぼりは真新しかった。一家の希望をになった男の子が、今年生まれたのか、去年だったのか。その子が、今にもよちよちと庭先に歩きだして来そうな気がした。
 家をのぞいてみたが、外出中なのか、暗くひっそりとしていた。庭すみで寝そべっていた犬が、不審におもったのか、立ち上がり吠えだした。私はあわてて首をひっこめ、素知らぬ顔をした。


 五月の空を心地のよい風が吹きぬける。かたかたと風車が音をたて、しょんぼりしていた鯉のぼりが、風をお腹にためいっせいに舞い上がった。

 吹き流しの長さは5メートルはあるだろうか。8匹のカラフルな鯉がゆったりと空を泳ぐ。うろこが金色にひかり、まばゆい。脇に立つ家紋の入ったのぼり旗が、ぱたぱたと勝鬨をあげた。


 4月の末に、田んぼの脇にあるポンプが開けられ、水路には水が勢いよく流れ始める。
 冬枯れて乾いた土は、日ごとに潤い、やがて水をたたえた水田になった。



 五月の入ると、いよいよ田植えがはじまった。


 散歩から帰ると家の前にハルシオンが咲いていた。
「わたしだってかわいいでしょ?」と言っている。

【寄稿・フォト・エッセイ】 桜を訪ねて=三ツ橋よしみ

『作者紹介」  三ツ橋よしみさん:薬剤師です。目黒学園カルチャースクール「小説の書き方」、「フォト・エッセイ」の受講生です。

桜を訪ねて   三ツ橋よしみ

 千葉県の印西市には、大桜があり、ソメイヨシノよりも一週間ほど後に満開になるという。その時期を見計らって桜見物にでかけた。
 事前に調べてみると、北総線の印旛日医大駅か京成佐倉駅で下車し、バスにのり「教習所前」おり徒歩30分だとある。歩いては大変そうだ。家人をさそって車で行くことに決めた。
 生まれてからずっと東京暮らしだった。都内では、電車に乗り、降りてから10分もあるけば、桜の名所にたどりついた。上野公園、飛鳥山公園、目黒川ぞい、千鳥ヶ淵、どこの桜も駅に近かった。
ところが印西市は東京から50キロしか離れていないのに、桜見物はたどり着くまでにえらく時間がかかる。桜吹雪の下を、一人でそぞろ歩くと言うわけにいかないのだ。

 印旛中央公園近くになると、大桜の矢印があった。車を停め山道を少しのぼる。竹林の間に、農家が数軒並んでいる。ほーほけきょと鶯が鳴く。


 竹林を右に入ると、緑のシートがひかれていた。シートの向こうにはこんもりした桜が見え隠れする。
「ほーこれが、大桜ですか、ほんとに大きい」
 桜の周囲にはロープがはられ、人は近づけない。周りの畑には菜の花が咲いていた。
 桜は「吉高(よしたか)の大桜」とよばれ、樹齢300年以上で、幹の周囲は6.85m、樹高10.6m、枝張りは最大25.8mになる、ヤマザクラである。

 この地は下総の国、印旛郡吉郷の中心にあたる。桜は須藤家の氏神祠に植えられたものだという。
 印旛は沼ばかりかと思っていたから、このような古くからの台地が広がるところもあると知り、自らの無知を恥じるばかりであった。

 桜見物の帰り、山道を少し下った。左にある家は農家だとばかり思っていたが、ひょいと塀の中をのぞきこむと、テーブルでお茶を飲んでいる人がいるではないか。ほかのテーブルには、花瓶やお皿が並べられていた。
 門が開かれている。ポストの上に「アトリエ道」と小さい看板があがっていた。こんな山里で、陶芸をしている方がいるようだ。

 
 店の人に話をうかがうと、この家の娘さんが、益子で陶芸を学び、今はここで作陶しているとのことだった。今でも月に一度くらい益子には土をもらいにいくという。窯はガス窯だそうだ。
 わたしの好きな益子の緑の釉薬を使った、茶碗と皿を買った。
「ハーブティーを入れますから、飲んで行ってください」
 といわれテーブルに着いた。
 何やら言う青い花(名前を聞いたけれど忘れてしまいました)を乾燥したハーブティーだという。

 青いお茶はくせのない、すっきりした味だった。茶色い容器に入ったレモン汁を注ぐと色がピンクに変わった。(写真右)
 さっき見た大桜を想わせるような美しいピンク色が白磁のお茶碗によく似合っていた。

 帰り道、民家が少し開けたところから、北総線の線路が見えた。ぼうぼうとした荒れ地の中央を真っ直ぐにつっきって、高架線が伸びている。

 「こんな田舎の電車、たまにしか来ないんじゃないの」と、悪口をいったらその直後に、8両編成の電車が右手から現れ、左手の山影に消えていった。

【読書・感想】 海は憎まず=濵﨑洋光

 小説3・11「海は憎まず」のご出版おめでとうございます。書店で品切になる好評のご様子、何よりです。拝読した私の感想を述べさせていただきます。

 2011年3月11日、机に向かって書き物をしていた私は、その時、小刻みな振動を感じた。と同時に、これまで経験したことのない激しい揺れが家全体を襲った。それが東日本大震災だった。
 多くの死者と大きな災害をもたらし、千年に一度ともいわれている。この自然災害の恐ろしさを感じなかった人はまずいないだろう。当時、マスコミは被災地の状況を連日大きく報じていた。

「海は憎まず」の著者・穂高健一さんは、それらの報道に満足せず、津波災害に焦点を絞り、自分の目と耳で、被災地、被災者の実像に迫った。
 作中の主人公「私」が、インタービユした相手は老父を介護する一庶民から、地域の治安を守る警察署長など、多岐にわたる。取材された場所は、宮城県名取から岩手県陸前高田で、津波災害が大きかったところだ。

 そこで語られた被災者の話には虚飾や誇張が感じられない。作者の表現の巧みさに引き込まれて読み進んだ。人間の生きるたくましさを感じる。とくに藤原中学校長が、
『教員は生徒に夢を与えるのが仕事です。被災は生徒にとって、心の財産なんです。それを引き出すことです』
 という冷酷なまでに冷静、そして未来を見つめる言葉には感動されられた。

 津波災害が発生した時の気仙沼警察署長の話は、警察の任務遂行と部下の生命を守る、という組織の長としての苦悩が胸を打つ。
 その時、警察組織で重要な情報システムの喪失を知り、読者の私は背筋が寒くなる思いをした。それは私だけだろうか。そのうえ、災害直後から、町は無法地帯化していくのだ。

 人間は自然とともに生きている。どんなに危険な土地であろうとも、そこに生きようとする。
 災害の翌日から牡蠣(カキ)の養殖に励む。人間は大自然に抱かれて生きているのだ。しかし、ときに自然は牙をむき人々に襲いかかる。

 小説は女性カメラマン彩との三陸取材の物語として流れる。身近な彩が連れ合いを二度事故で亡くしていた。人間は自分の過去、とくに辛かった過去を容易に口にしないものだ。主人公の「私」が執拗に訊いても、彩は思い出したくもない態度をとり続けてきた。
 やがて彼女の口から、 離別の体験が語られた。辛い心証を小説家に打ち明けた彼女だったが、それを超え、なおも三陸の津波被災者の取材に協力していく。「彩の物語」としても描かれているのではなかろうか。
 一読者として、そのストリーが女性心理の一端を突いていて面白く読めた。

 「海は憎まず」には、巨大津波被災者からの多くの教訓が描かれている。一人でも多くのひとに読まれて、自然との共生を考える絆となればと思った。


           濵﨑洋光さん:「元気に百歳クラブ」のエッセイ教室の元受講生