寄稿・みんなの作品

【寄稿・推薦図書】 アンナ・カレーニナの法則=三ツ橋よしみ

『作者紹介」  三ツ橋よしみさん:薬剤師です。目黒学園カルチャースクール「フォト・エッセイ」の受講生です。

 東京近郊の「田舎暮らし」がはじまりました。いまは見るもの聞くものが新鮮だそうです。読書好きで、田舎暮らしに、読書とは贅沢ですね。



  アンナ・カレーニナの法則 三ツ橋よしみ   

                    
 歴史学者、ジャレド・ダイヤモンド博士の著書「銃・病原菌・鉄」(発行:草思社 倉骨 彰訳)は、ピューリッツァ―賞を受賞し、2010年に、朝日新聞「ゼロ年代の50冊」の第1位となり話題になった。
 昨年には文庫本化されたが、上下巻あわせて800ページに及ぶ大著だ。手に入れたものの、なかなかスラスラと読みすすめない。

 この夏の暑さに外出を控え時間ができたので、ようやく上下巻を読み終えることができた。


 ヨーロッパ大陸には多数の文明国が存在する。一方、オーストラリア大陸や南米大陸、アフリカ大陸の先住民族は、文字を持たず、近代文明を発展させることができなかった。アメリカ先住民やインカ帝国は、旧大陸からの移住者たちに、やすやすと征服されてしまった。

 なぜヨーロッパは文明化され、旧大陸は、文明化されなかったのだろうか。

 そんな世界史の疑問を、生物地理学者のダイヤモンド博士が、生物学、人類学、地理学、言語学などの知識を駆使し、といていく。知的興奮に満ちた本だった。
 約700万年前に、人類は、類人猿から枝分かれした。長いこと狩猟採集生活をしていたが、1万1000年前に、野生動物を飼いならし、植物を栽培するようになった。
 ヤリをもって獲物を追いかける暮らしから、定住し家畜や作物を食べる暮らしに変わった。多くの人々が養えるようになり、人は集まって住むようになった。食糧生産をするようになった人々は、技術を発展させ、人口を増やしていった。


 第9章は「なぜシマウマは家畜にならなかったか」というサブタイトルだ。章はこんな文からはじまる。
 「家畜化できている動物はどれも似たものだが、家畜化できていない動物はいずれもそれぞれに家畜化できないものである」と展開する。

「おや、どこかで聞いたことがあるような?」
 そうです。お気づきの通りこの一文は、トルストイの「アンナ・カレーニナ」の有名な書き出し「幸福な家庭は似通っているが、不幸な家庭はそれぞれに不幸の内容が異なるものである」をもじっているのだ。
「アンナ・カレーニナの法則」ねえ。わたしは、初めてききましたよ。

 なるほど、「幸福な家庭」では、必要不可欠な多くの要素、たとえば愛、経済、親戚関係、性格、宗教、価値観などで、夫婦の意見が一致しているか、まあまあ一致していなければならない。そして、そのうちのいくつかが欠けた場合に「不幸な家庭」ができるというわけである。

 それじゃあ、ダイヤモンド博士のいう「家畜化できる動物」とは何か。

 馬、牛、羊などの大型哺乳類をさす。家畜化できる動物を、大陸内に持っていた国々は、農耕作業をさせ、輸送手段にし、肉や乳製品を手に入れ、経済発展を遂げていく。
 一方、アフリカ大陸のシマウマは、気が荒く、近づく人間は蹴飛ばしてしまう。家畜にならない動物なのだ。アフリカ大陸には、人間生活に役立つ働き者の動物が存在しなかった。それがアフリカの経済発展をさまたげる一因ともなったという。
 様々な要因を重ね、世界の「地域格差」が広がっていった。

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【寄稿 詩】  夜間飛行 = 結城 文 

作者紹介=結城 文(ゆうき あや)さん
 
日本ペンクラブ(電子文藝館委員)
日本比較文学会、
埼玉詩人会、日本詩人クラブの各会員
日本歌人クラブ発行
『タンカジャーナル』編集長

日英翻訳家



夜間飛行 結城 文


 夜間飛行  結城 文 

            

零時五分発成田行き
まどろむともなく目を閉じていたが
眠れぬままに機窓を覗く

稲妻のように赤い光が
一定の間隔をもって 
翼に閃く
地上で見るよりたくさんの大きな星が
みずみずしい光をもってきらめく
地上のオレンジ色の灯
点々と小さな灯をともして
そこにかしこに人は暮らしているのか――

ともす灯のまばらなところをすぎて
都市の在り処をしめすか
豪華絢爛にちりばめたトパーズのビーズ
光のなにも見えない暗黒は海

機窓の右手上方 やや明るんだ空が見え
一筋さっと刷いた薄紅
東方からのわずかな光をうけ
彫刻家の奔放なオブジェのような
雲の林
東天の薄紅は赤みをまし
次第に空は白みはじめる
星はつねに同じ位置に輝いているのだが
見下ろす地上は暗黒になったり
トパーズの明かりになったり
つつましいひとつひとつの灯の点在になったり

天に流れているのは
あるかなきかの移ろいの時間
地に流れているのは
目まぐるしい移ろいの時間

狭い機窓のなか 
錯綜し流れる
広大な空間と時間――
恍として
闇と光の饗宴のなかを漂う

【転載・詩】 睦月にくるまれて =  望月苑巳

 望月苑巳さん:日本ペンクラブ会報委員会の副委員長です。現在はジャーナリスト、詩人、映画評論家として活躍されています。


「孔雀船82号」頒価700円(2013年7月15日発行)より転載
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳

〒185-0031
東京都国分寺市富士本1-11-40
TEL&FAX 042(577)0738

睦月にくるまれて 縦書き PDF



【関連情報】

★スポーツ新聞で活躍の現役映画評論家グループが運営する★

映画専門のウェブサイトシネマ銀河


  睦月にくるまれて  望月苑巳

 夕立を匂う
 実朝の匂う。
 やわらな梨花
 その下で夏のような命がながれ
 しなだれる。
 その日は雪曼荼羅の睦月だったが
 小路からは手毬唄が沿うようにながれていた。

 花弁から溢れだすあなたは
 いくら絞っても
 焦点がぼけてゆくよ
 あつもの
 思惟の雑踏に踏みにじられ
 あつもの
 おだやかに舞い降りた
 実朝よ。

 定家がゆっくりと言葉の弓をひけば。
 手毬唄を教えながら
 夕立の、しめやかに虹の橋を渡ってゆく。
 後鳥羽院の弔辞
 どこまでもきなくさい弔辞
 春まで待てないと気は遣って。

 定家は舞ながらうたう
 梨花にくるまれて泣きながら
 燃え尽きるよ
 水の国から
 あなたは言の葉へ。

【寄稿・詩】 いつの日か= 結 城  文

作者紹介=結城 文(ゆうき あや)さん
 
日本ペンクラブ(電子文藝館委員)
日本比較文学会、
埼玉詩人会、日本詩人クラブの各会員
日本歌人クラブ発行
『タンカジャーナル』編集長

日英翻訳家



いつの日か=結城文 縦書きPDF

 いつの日か  結城 文 

いつの日か思い出すだろう
この山桃の並木道を――
冬の日はこんもりと暗く
緑に押し黙って
梅雨の頃には
赤紫の実を路にまき散らした
路ゆく人に踏まれ
心の痣のような染みを印した
 
いつの日か思い出すだろう
この山桃の並木道を
夏の日は
くっきりと木蔭をつくって
強い陽射しから私をかばった 
 
いつの日か思い出すだろう
この山桃の並木道を
とある春の日
葉むら深く
巣作りした鳩の
くぐもった啼き声を
駅へと急ぐ私に聞かせた

おお 帰らない日々の――
ノスタルジーは
人のもつ
もっとも高貴な感情といったのは
ロシアの音楽家だったろうか?
忘却に沈みゆく日々の 
いつの日か思い出すだろう
この山桃の並木道を
                        

【寄稿・フォトエッセイ】 地球儀=久保田雅子

【作者紹介】

 久保田雅子さん:インテリア・デザイナー。長期にフランス滞在の経験があります。(作者のHPでは海外と日本のさまざまな対比を紹介)。
 周辺の社会問題にも目を向けた、幅広いエッセイを書いています。

「週末には葉山の夕日と富士山を狙っています」。その写真は毎月、ブログの巻頭・巻末で紹介されています。心の憩いになります。

         作者のHP:歳時記 季節と暦の光と風・湘南の海から

    地球儀    久保田雅子    

 わが家の子供たちが小学生のころ、クリスマスプレゼントに地球儀を贈った。
 広い世界を知る素敵なプレゼントだと思ったのだが、かなり不評でがっかりした。子供部屋の棚の上に長いこと置いてあったが、まったく使わない様子を見て、とうとうある日処分した。そのころの私はゆっくり地球儀を見る時間などなく、毎日をあわただしく過ごしていた。

 先日、娘に「誕生日プレゼントになにか欲しいものある?」と聞かれたのですぐに<地球儀>を希望した。最近、地図帳をみていて、シベリアや北極付近などが、ほんとうはどんな形なのか知りたくなっていたからだ。地図帳では赤道付近は正しいが北極や南極に近づくほど、その形は不正確になってしまう。それも目で確かめたかった。
 
 希望した地球儀が誕生日に届いた。さっそく箱から出してデスクに置いてみる。直径30センチぐらいのベージュ色系のおしゃれな地球儀だ。
 斜めに傾いた地球を見て、この斜めは地図帳ではわからないことだと気付いた。23,4度の傾きで、なぜ地球に四季があるのかを、再確認できた。
(そうか…)誰でも知っていることなのに、私はよく理解していなかった…。


 フランス行きの飛行機に乗ると、座席のポケットに入っている小冊子には、飛行経路の地図が載っている。機内のテレビ画面には飛行経路が映しだされて、現在どのあたりを飛行中かわかるようになっている。東京を出発するとすぐに北へ向かい、ロシアの上空を西へ飛行して行く。フィンランド付近からドイツを通ってフランスへ下りていく。その都度(なぜ遠回りするのかな、中国上空を西へまっすぐ行けば、フランスはもっと近いはずなのに…)と思っていた。


 だが、地球儀を手にしておどろいた。東京・パリを直線で結ぶとロシアを通るのだ。中国は通らない。飛行機はちゃんといちばん近いコースを飛んでいたのだ。(地図帳で東京・パリを直線で結ぶと中国を通るのに…)

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【寄稿・フォトエッセイ】切り干し大根はいかが=三ツ橋よしみ

『作者紹介」  三ツ橋よしみさん:薬剤師です。目黒学園カルチャースクール「小説の書き方」、「フォト・エッセイ」の受講生です。

 東京近郊の「田舎暮らし」がはじまりました。いまは見るもの聞くものが新鮮だそうです。「見慣れてしまうと、感慨が薄まりますから」とシリーズで書かれています。


  切り干し大根はいかが   三ツ橋よしみ   


 佐倉の畑で、大根が150本ほど採れた。友人、知人、ご近所さんに配りました。すくすくと育った姿のいい大根だと、皆さんに喜んでいただきました。
 でも、たこのように枝分かれしてしまった大根は「嫁に出す」には、ちょっと気が引けます。十分耕さなかった土に育つと、ごろ土にあたった根が別れてしまい、たこのようになるそうです。家庭菜園一年目は、そんなことも知りませんでした。

 そんな、たこ足大根が5、6本、家に残りました。
そうだ、切り干しにしたら、たこ足も気にならなくなると、思いつきました。

 さっそくホームセンターに「切干突(きりぼしつき)」を買いに行きました。
 その名も「切干突 羽子板」です。
 羽子板ほどの板の中央に、ぎざぎざの刃をつけただけの簡単な道具で、板には「羽衣」と焼印まで入っています。

 都会では見たことのない道具ですが、この辺りでは簡単に手に入ります。
 見てくれの悪い大根を、千切り大根にしました。

 おっととと、気をつけて。指を削っちゃわないようにね。 

 盆ざるに広げた千切り大根を、玄関先で干します。茶色は、干して2日目。
白いのが、この日干した大根です。3日でからからになりました。

 種から育てた我が家の切干大根です。黄金色に輝いています。
干しあがったばかりの切干大根はどんな味かしら。1本つまんで、食べてみました。まだ太陽の暖かさが残っています。ほんのりとした甘さが口の中に広がりました。

 切干大根を甘酢和えにしましょう。作り方はとっても簡単。切干大根を水に10分ほどつけます。柔らかくなったら軽く水気を切り、甘酢をかけて出来上がりです。切干大根をかむと、はりはりと元気のよい音をたてました。

 写真は、大根といっしょに干したキュウリを、加えて和えたものです。
ビールのおつまみにもぴったり、すっきり夏向きの一品になりました。

【寄稿 詩】 道 = 結城 文

作者紹介=結城 文(ゆうき あや)さん
 
日本ペンクラブ(電子文藝館委員)
日本比較文学会、
埼玉詩人会、日本詩人クラブの各会員
日本歌人クラブ発行
『タンカジャーナル』編集長


日英翻訳家

道 縦書き PDF


  道   結城 文 


小鳥の目になって飛行機から俯瞰する

ひとすじの道がとおっている

おぐらい緑のなかを
ほの白く ほそく 
どこまでもつづいている道は
――女のよう

道には 
往還するものがあるはずなのに
人の子ひとり
トラック一台の影さえもない
街路樹もなくむきだしの道は
完全に空無――
道は
完全な無をのせたまま 
カーブしながらしなやかに前へ前へとのびる
そう 白い道には終りがない

道は 
上をゆくものの時間を刻みながら
道は 
上をゆくものの生の重みを受けとめながら
青い球体の上をほそほそと
どこまでもどこまでもつづいて
ほのかに白い円環となる

道に 
人間の姿が車が現れないことを
なぜともなく祈る

夕闇は
地表の森にもっとも深い
闇は
空からおりてくるのではなく
地上から立ちあがる――
道は
すでに森に没した

かなしいまでに明るい余光のなか
うすずみいろが ぼあっとにじんで 
麗江古城が見え出す

【寄稿・写真エッセイ】手づくり絵本ってなあに~人材バンク~=桑原妙子

 作者紹介

 桑原妙子さんはシニア大楽「写真エッセイ教室」の受講生です。
 S30年生れ。わが子が1才の頃より、手づくり絵本をはじめる。サークル活動中に公民館、生涯学習館、子ども会、保育サークル等で、手づくり絵本&ポップアップカードを教える。


【関連情報】

絵本クリエーター『エクリエ』

作者・ブログ


 

手づくり絵本ってなあに~人材バンク~ 桑原 妙子


 人それぞれと思いますが、あなたは、何にいきがいを感じていますか。

 夫の転勤先の横浜に引越し、荷物の片づけも済んだ頃だ。何もかも、やる気が起きずぼんやり過ごしていた。
 かつての名古屋には仲間がいた。横浜では、絵本のサークルを作るにしても、簡単に人は集まらない。その上、知り合いもいない。名古屋に居残りたかったと、いつまでも未練がましく考えてしまう。そうだ、手作り絵本をつくることは私のいきがいだったのだ。

 春のある日、そう思い立って、横浜の鶴見区役所へ行った。
 広いロビーのラックの中には沢山のチラシや会報誌がある。それらを丁寧に一枚一枚見た。その中に『子育て子育ちフォーラム』があった。鶴見区のいろいろな団体が集まり、子育て関連のイベントや活動を行う会だ。
「ここなら何かできるかもしれない」
 そう思い立ち区役所横にある、区民支援センターに行ってみた。
 担当職員の話を聞き、『子育て子育ちフォーラム』に入会することに決めた。ここでは、私も様々なイベントに参加させてもらった。クリスマスには、子どもたちと一緒にカード作り、春には、親子の飛び出すしかけ絵本作り、バザーや、フリーマーケットなどにもボランティアで参加した。

 この区民支援センターには『人材バンク』制度がある。私は「手作り絵本とポップアップカード」で登録をした。人材バンクからは少しずつだが、公民館や、子ども会、高校から活動の依頼がくるようになった。

 平成16年春には区民支援センターから『夏休みの親子絵本講座』の仕事の依頼がきた。
 逗子市教育委員会からで、講座は親子25組、約50名である。夢のようで、飛び上がるくらい嬉しかった。フォーラムで知り合いになった境さんにアシスタントになってもらい、一緒に講座を受持った。

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【寄稿】 祖父の梅の木 =結城 文

作者紹介=結城 文(ゆうき あや)さん
 
日本ペンクラブ(電子文藝館委員)
日本比較文学会、
埼玉詩人会、日本詩人クラブの各会員
日本歌人クラブ発行
『タンカジャーナル』編集長

日英翻訳家



祖父の梅の木=結城文 縦書きPDF

 祖父の梅の木  結城 文 

おじいさんの梅の木が倒される日
朝早くから
ギーイッ ギーイッと尾長が鳴いた

はじめに白加賀が倒された
鬱蒼と幾重にもかさなった深緑の葉むらが消え
ぽかんと隣家の裏口までの空間があいた
根だけで二トンもあったそうな

年毎に薄紅色の花をつけた豊後梅が
次に倒される
フェンスの向こう
逆光に黒ずんだ葉むらが
痙攣するように空にゆれた
それがおじいさんの梅の木を見た最後

尾長が二羽やってきて
戸惑ったように我家の庭木にとまってた
おじいさんの野梅に
群をなしてきていた尾長たちは
その後姿をみせない
もうここに寄ってもしかたがないと知ったのだ

ひらり ひらりと水平に
青灰色の線を描いて飛んでいた尾長たちよ
お前の黒いボンネット
喪ったのは梅の木だけではなかった
尾長も鵯も椋鳥もみんな姿をみせなくなった

木がなくなって 鳥がこなくなって
ぽかっと
ひらいた空間に
まだなじめない私がのこった

【転載】<むかし外国へ渡った日本人>川上貞奴=久保田雅子

【作者紹介】

 久保田雅子さん:インテリア・デザイナー。長期にフランス滞在の経験があります。(作者のHPでは海外と日本のさまざまな対比を紹介)。
 周辺の社会問題にも目を向けた、幅広いエッセイを書いています。

         作者のHP:歳時記 季節と暦の光と風・湘南の海から


 同HPには、<むかし外国へ渡った日本人>シリーズを展開しています。今回が14回目です。


<むかし外国へ渡った日本人>川上貞奴 サダヤッコ 久保田雅子

 1900年のパリ万国博覧会で公演、一躍パリで大人気になった日本女性がいました。

<川上貞奴 サダヤッコ>1871~1946年

 貞は日本橋の越後屋(質屋)で12番目の子として生まれました。
 7歳で芳町の芸妓置屋「浜田屋」の養女になり、やがて「貞奴」を襲名。日舞その他の芸に優れた貞奴は、芳町一番の売れっ子芸者となったのです。伊藤博文、井上薫、黒田清隆、西園寺公望などの上客が貞奴をひいきにして集まっていました。

 明治27(1894)年、貞奴(23歳)は芸者「奴」を廃業して、自由民権運動の活動家で書生芝居をしていた、川上音二郎(30歳)と結婚します。(写真右 貞奴と音二郎)
 音二郎はオッペケペ節で社会風刺をして、大流行します。やがて滑稽演劇家として川上一座を結成、新築開業しました。
 政治家としての野望を捨てられない音二郎は、国会議員に2度立候補しましたが落選。そのうえ川上座の負債が膨らみ、借金とりから逃れようと、二人はボートで築地の海岸から国外脱出?を試みますが、最終的には淡路島に漂着。一命を取り留めました。

 明治32(1899)年、政治活動をあきらめた音二郎は、新演劇芝居に専念。一座はアメリカ興行に出発します。サンフランシスコ公演で女形が死亡したため、急きょ貞奴が代役を務めて大当たりします。ところが公演の報酬を興行師に持ち逃げされて、一行は無一文になってしまいました。

 餓死寸前の状態で次の公演先シカゴにたどりつきます。死に物狂い?の演技が観客にうけて、ここで貞奴の舞と美貌が評判になりました。翌年ロンドンでの興行を経て、パリの万博会場で公演します。彫刻家ロダンは彼女に魅了されてモデルをしてほしいと申し出ますが、貞奴はロダンの名声も知らず断ります。

 パリ社交界のトップレディとなった貞奴をピカソやドビッシーも絶賛、フランス政府からは勲章が贈られました。
 明治35(1902)年1月に帰国した川上一座は、4月に再渡欧して1年間ヨロッパ各地を巡業しました。(イギリス・フランス・ベルギー・ドイツ・オーストリア・ハンガリー・ユーゴスラビア・ルーマニア・ポーランド・ロシア・イタリア・スペイン・ポルトガルなんと69街78劇場)

 帰国後は日本全国を巡業して舞台に立ちますが、まだ女優というものの価値が認められていない日本では苦労の連続でした。
 日本は長い演劇の歴史で女は女役の男性が務め、女性が舞台に立つことはなかったのです。俳優という職業も最低の身分の時代でした。
 明治40(1907)年には劇場視察と女優養成学校の研究のため渡仏。翌年には帝国女優養成所を創立しました。

  明治44(1911)年、音二郎が病死(47歳)。貞奴は彼の意志をついで公演活動を続けますが、1918年、演劇界やマスコミの攻撃についに女優引退を決意します(47歳)。大阪中座で引退興行終演後、名古屋市双葉町に移住します。

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