寄稿・みんなの作品

【寄稿・詩】 夢明かりの果て = 望月苑巳

 望月苑巳さん:日本ペンクラブ会報委員会の副委員長です。現在はジャーナリスト、詩人、映画評論家として活躍されています。

詩集「ひまわりキッチン」(2011年10月10日発行)より転載
発行所 砂子屋書房

著者:望月苑巳
〒185-0031
東京都国分寺市富士本1-11-40
TEL&FAX 042(577)0738

夢明かりの果て 縦書き  PDF


【関連情報】

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       夢明かりの果て  望月苑巳   

               
袋小路に踏み込んで
あやうく踏みくだきそうになってしまった思い出。
赤ちょうちん、ドブ板を渡る下駄の音
木洩れる奥居のかすかな天女の香
おまけに、釣瓶井戸辺の少女が、地球に話しかけている。
心の傷口に風がたわむれ
それが嫌で諸葛采の顔色をうかがい

新聞ひろげて井戸の中の蛙の棲み処を知ることになる
そんな春、印刷所の堀の向こうに
刷り上がったばかりの夕陽がはじかれていた
袋小路から順に日が暮れると
灯籠の灯りが人に媚びた鬼灯の悔いを見習う
明るすぎる夢は、目の前の卯の花が息をするせいだ。
夜半には時雨、明け方の燭光
なだらかな女の肩にも似た一日がまた始まるのだ。
夢の中では
湖のような水溜りに語りかける水鳥が
釣瓶井戸辺の少女だったことに気づく
旅の終わりに駄馬が戯れ唄を
うたうのはそのさきにせつない水が
あるのを本能的に知っていたからだろうか。

老婆に呼び止められ
すすめられたサィダアの
なんと思い出の窪みにしみ込むことか。
レントゲンには映らない心の棘が
旱魃のように広がるから
妻よ、その湖を見つめるな
湖に系図を問うな
あれは夢のなれの果て
涙のなれの果てだ。 

【寄稿・写真エッセイ】 同期のナデシコ=野本 浩一

 作者紹介・野本浩一さん:シニア大樂「写真エッセイ」講座の受講生です。
 
 1951年長崎県生まれ。1975年に三菱重工業㈱に入社し、2000年から6年間はフィリピンに駐在勤務しています。2011年9月に定年退職しました。
 ユーモアやジョーク愛好家とともに「ジョークサロン」を結成し、20年以上にわたり、笑文芸作品を持ち寄り、発表する会を楽しんでいます。
 現在はエアロビインストラクターとして活躍しています。
       


   同期のナデシコ  野本 浩一


 2013年のゴールデンウィーク明けに友人からメールが届いた。
「あと一年は勤務する積りだったが、6月末に定年退職となった。残念だが、仕方がない。貴兄が60歳で打ち切られた時の気持ちが分かる気がする。後ろ髪引かれる気持ちを早く鎮静化し、第二の定年後を迎えたい」
 と書いていた。

 久しぶりに貰ったそのメールから、悔しいとつぶやく彼の声が聞こえてきた。

 今回のメールは、いつもの飲み会の誘いに比べると長いものだった。普段の彼は愚痴っぽいことなど書ないだけに、本音が最後に書かれていたと思う。
「定年後の人生に、どんなことをすればいいか考えている。付き合うべき方々と付き合い、見聞したいものごとには素直に手を伸ばしたい。では、また」
 わたしは何度も彼からのメールを読み返した。そして、正直な気持ちを返事した。
「小生は退職後、失業保険を受給する手続きの為に、半年ほどハローワークに通った。職探しを続け、一か所だけ某財団に応募した。予想以上に長く待たされた揚句に、受け取ったのは不採用の通知だった。気持の切り替えには、数ヶ月かかった。
『団塊の下だから、仕事回って来ないよね』と言っていた。

半年程経ったあたりから自分自身の中にあったプライドは捨てて徐々に再活動を始めた。何をしたか、おいおい話す機会を作るよ。以前君に話していたエアロビは忙しくなってきた。いろんなことを試みながら、『とにかく楽しもう』、と気持ちを切り替えた」

 彼は、定年退職を迎えるのはまだ2、3年先と楽観的に考えていたのだろう。だから、今回の肩叩きでショックを受けたのだ。
 彼にはできるだけ早く気持ちを切り替えて欲しいと願っている。

 その2日後の5月10日、わたしはエアロビインストラクターの講習会に出向いた。猛特訓の末、昨年11月に講師認定試験に合格し、ほっとしたのも束の間、毎月2回の講習があり、より一層忙しくなってきた。本音を言えば、定年後にこれほどエアロビ漬けになるとは全く想像すらしていなかった。

 同期の講師合格者は9人で、男性は2人、女性が7人だ。5月10日の講習にはその9人中5人が出席した。ハードな練習の後、都合が悪い1人を除いた4人で飲んで語り合おうと、駅前にあるファミレスを目指した。

 この同期で語り、食べたり飲んだりすることがとても楽しいものになってきた。何故なのだろう。
「エアロビ教室に通い始めた頃の野本さんを思い出すと、インストラクターに合格するなんて、想像すらできなかったわ」
 と笑いながらあけすけに言う人がいる。
「我が家で、インストラクター試験の9人のビデオを見ると、生真面目に取り組む野本さんのシーンで娘たちが大笑いするのよ」
 と、さらに辛辣なことをいう人がいる。
「でも、今では一番頑張って、試験の後、どんどんレベルを上げているって、評判もあるわよ」と優しくフォローしてくれる人もいる。
 

 定年退職するまではどっぷりと浸かっていた会社生活である。それも男性だけの会合では、誰も言わなかったようなコメントをあっけらかんとにこにこ笑いながら投げかけてくる。想像を絶するお喋りや舌戦にたじたじとなり、僕は気おされてしまう。それでも、エアロビ同期との語らいの場は笑顔があふれとても楽しい。

 わたしにとって、定年後の世界は学業成績とか仕事の実績や肩書きとかが関係ない異次元の世界である。その異次元の世界に、かつての会社同期の面々よりも、いち早く溶け込まざるを得なくなった。
そこから這い上がった今は、すっきりしている。

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【寄稿・取材記事】 「お上」に楯突き続けるフクシマ牧場主=石田貴代司

石田貴代司さん=シニア大樂の「写真エッセイ」の受講生
         東京・世田谷区に在住
         「アマチュア天文家」として、
         同区の地元プラネタリウムが主催する星空観測に出向いています。 

あの男、ふたたび>                           

 福島第一原発の事故により、牧場の放棄と家畜の殺処分を政府から指示された。さらには半径20キロに、当該区域への立ち入り禁止と退去を命じられた。いわゆる「警戒区域」である。被ばくして売り物にならなくなった家畜や、人体の被ばくを省みず、守り続けている農家がある。

’12.5..28付けで「穂高健一ワールド」に投稿した「福島原発14kmからの訴え」の主人公である吉沢正巳氏(59)である 。


 その後も彼は全国を股にかけて説得を続けている。私が昨年出会った渋谷にも、月に1回は登場して街頭演説をしている。彼に興味を持ち続けて、調べるうちにいろんなことがわかった。

吉沢正巳の支援者たち

 まず前与党の国会議員だったT氏である。福島や被災地と無関係の地盤の議員だが、原発事故の後、約50日間にわたって、被ばく地域を(議員特権を利用し)視察してまわった。畜産農家の実態など、20キロ圏を一番よく知る政治家と言われた。
 もう一人は、針谷(はりがや)勉氏(39)だ。映像ジャーナリストでAPF通信社所属(2007年ミャンマーで射殺された長井健司記者の同僚)の彼は、原発の水素爆発の当初から取材を行い、この地域で活動中である。当時のT議員とも知り合った。

 多くの畜産農家が自宅や家畜を放棄して避難している中で、立ち入り禁止の牧場に密かに出入りして、約300頭の牛たちに水や飼料を与え続けていた吉沢正巳のことも、自然に彼ら二人の知るところとなった。
(針谷氏に今回電話取材できた。近く道玄坂事務所で面談予定)

 T議員(当時、後に方向転換のために、離党、議員辞職)は、法律的な知恵を貸したり、立場を使って吉沢を後押ししたりする。針谷勉は取材の入り、吉沢の情熱と魅力に共鳴して、「希望の牧場・ふくしま」の人間になって、月の半分は餌やり、掃除など社員として働き、事務局員となった。そして針谷が、吉沢の生き様を書いた「原発一揆」が昨年暮れに上梓された。

吉沢正巳の主張

 「いま国は、私たちベコ屋に牛を殺せと言っています。国は殺処分とともに、原発被害の証拠を隠滅したいのでしょうが、私は絶対に殺処分には同意しません」(「原発一揆」から)

「福島は東京に何十年も電気を送り続けてきました。なのに、いまでは『放射能ばい菌』とか、『福島から嫁はもらうな』とか、そういう深刻な差別が現実に起きています。みなさん、考えようじゃありませんか。福島を犠牲にして、この東京は便利な暮らしが成り立っているという事実を」
「憐れんでほしいのではない、一緒に考えてほしい」
 と訴えた。(渋谷の街頭演説で)

 東京農大を卒業して、この渋谷にも通じている彼には、東京は第二のふるさとの感慨もありそうだ。

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【寄稿・詩】干潮の砂洲  統一展望台にて = 結城 文

作者紹介=結城 文(ゆうき あや)さん
 
日本ペンクラブ(電子文藝館委員)
日本比較文学会、
埼玉詩人会、日本詩人クラブの各会員
日本歌人クラブ発行
『タンカジャーナル』編集長


日英翻訳家


干潮の砂洲  縦書き PDF

 干潮の砂洲  統一展望台にて = 結城 文 

                                  
満面を日に曝して 国家が横たわっていた
てらてらと照る干潮の砂洲
北のイムジン川と南のハン川が出会い
西の海に入るところ
十一月朔日晴れ
ガラス張りの統一展望台の前にひろがる明るい空間
飛ぶ鳥の姿もなく
どちらの方向に流れているのかわからない
銅鏡色の水

今は干潮――
ところどころに現れた川床は
濡れた光を鈍く返し
徒歩渡ろうとすればできそうな距離
対岸の
同じ規格の白く四角い家々は
警備の兵士らの集落
望遠鏡をくまなく動かしても 
人っ子一人見えない
何を焼いているのか
川べりに白い煙がゆるく立ち昇り
低く流れて
わずかに人の在り処をしめす

両岸には歩哨のブース
身を隠す木蔭も草蔭もない空間に
サーチライトのように
交差するひそかな監視の視線
北への望郷が
南との分裂の恨(ハン)が 
ぎっしり
見えぬ人魂となり浮遊しうごめく

この上もなく平和に
この上もない緊張の
空っぽの空間
てらてらと照る干潮の砂洲に
満面を日に曝して 国家が横たわる

【寄稿・フォト・エッセイ】 今日は五月晴れ=三ツ橋よしみ

 気持ちのいい朝だった。五月の空の青さに誘われて散歩に出た。近所の農家でこいのぼりを見かけた。都会ではめったに見られない立派なこいのぼりだ。

 鯉のぼりは真新しかった。一家の希望をになった男の子が、今年生まれたのか、去年だったのか。その子が、今にもよちよちと庭先に歩きだして来そうな気がした。
 家をのぞいてみたが、外出中なのか、暗くひっそりとしていた。庭すみで寝そべっていた犬が、不審におもったのか、立ち上がり吠えだした。私はあわてて首をひっこめ、素知らぬ顔をした。


 五月の空を心地のよい風が吹きぬける。かたかたと風車が音をたて、しょんぼりしていた鯉のぼりが、風をお腹にためいっせいに舞い上がった。

 吹き流しの長さは5メートルはあるだろうか。8匹のカラフルな鯉がゆったりと空を泳ぐ。うろこが金色にひかり、まばゆい。脇に立つ家紋の入ったのぼり旗が、ぱたぱたと勝鬨をあげた。


 4月の末に、田んぼの脇にあるポンプが開けられ、水路には水が勢いよく流れ始める。
 冬枯れて乾いた土は、日ごとに潤い、やがて水をたたえた水田になった。



 五月の入ると、いよいよ田植えがはじまった。


 散歩から帰ると家の前にハルシオンが咲いていた。
「わたしだってかわいいでしょ?」と言っている。

【寄稿・フォト・エッセイ】 桜を訪ねて=三ツ橋よしみ

『作者紹介」  三ツ橋よしみさん:薬剤師です。目黒学園カルチャースクール「小説の書き方」、「フォト・エッセイ」の受講生です。

桜を訪ねて   三ツ橋よしみ

 千葉県の印西市には、大桜があり、ソメイヨシノよりも一週間ほど後に満開になるという。その時期を見計らって桜見物にでかけた。
 事前に調べてみると、北総線の印旛日医大駅か京成佐倉駅で下車し、バスにのり「教習所前」おり徒歩30分だとある。歩いては大変そうだ。家人をさそって車で行くことに決めた。
 生まれてからずっと東京暮らしだった。都内では、電車に乗り、降りてから10分もあるけば、桜の名所にたどりついた。上野公園、飛鳥山公園、目黒川ぞい、千鳥ヶ淵、どこの桜も駅に近かった。
ところが印西市は東京から50キロしか離れていないのに、桜見物はたどり着くまでにえらく時間がかかる。桜吹雪の下を、一人でそぞろ歩くと言うわけにいかないのだ。

 印旛中央公園近くになると、大桜の矢印があった。車を停め山道を少しのぼる。竹林の間に、農家が数軒並んでいる。ほーほけきょと鶯が鳴く。


 竹林を右に入ると、緑のシートがひかれていた。シートの向こうにはこんもりした桜が見え隠れする。
「ほーこれが、大桜ですか、ほんとに大きい」
 桜の周囲にはロープがはられ、人は近づけない。周りの畑には菜の花が咲いていた。
 桜は「吉高(よしたか)の大桜」とよばれ、樹齢300年以上で、幹の周囲は6.85m、樹高10.6m、枝張りは最大25.8mになる、ヤマザクラである。

 この地は下総の国、印旛郡吉郷の中心にあたる。桜は須藤家の氏神祠に植えられたものだという。
 印旛は沼ばかりかと思っていたから、このような古くからの台地が広がるところもあると知り、自らの無知を恥じるばかりであった。

 桜見物の帰り、山道を少し下った。左にある家は農家だとばかり思っていたが、ひょいと塀の中をのぞきこむと、テーブルでお茶を飲んでいる人がいるではないか。ほかのテーブルには、花瓶やお皿が並べられていた。
 門が開かれている。ポストの上に「アトリエ道」と小さい看板があがっていた。こんな山里で、陶芸をしている方がいるようだ。

 
 店の人に話をうかがうと、この家の娘さんが、益子で陶芸を学び、今はここで作陶しているとのことだった。今でも月に一度くらい益子には土をもらいにいくという。窯はガス窯だそうだ。
 わたしの好きな益子の緑の釉薬を使った、茶碗と皿を買った。
「ハーブティーを入れますから、飲んで行ってください」
 といわれテーブルに着いた。
 何やら言う青い花(名前を聞いたけれど忘れてしまいました)を乾燥したハーブティーだという。

 青いお茶はくせのない、すっきりした味だった。茶色い容器に入ったレモン汁を注ぐと色がピンクに変わった。(写真右)
 さっき見た大桜を想わせるような美しいピンク色が白磁のお茶碗によく似合っていた。

 帰り道、民家が少し開けたところから、北総線の線路が見えた。ぼうぼうとした荒れ地の中央を真っ直ぐにつっきって、高架線が伸びている。

 「こんな田舎の電車、たまにしか来ないんじゃないの」と、悪口をいったらその直後に、8両編成の電車が右手から現れ、左手の山影に消えていった。

【読書・感想】 海は憎まず=濵﨑洋光

 小説3・11「海は憎まず」のご出版おめでとうございます。書店で品切になる好評のご様子、何よりです。拝読した私の感想を述べさせていただきます。

 2011年3月11日、机に向かって書き物をしていた私は、その時、小刻みな振動を感じた。と同時に、これまで経験したことのない激しい揺れが家全体を襲った。それが東日本大震災だった。
 多くの死者と大きな災害をもたらし、千年に一度ともいわれている。この自然災害の恐ろしさを感じなかった人はまずいないだろう。当時、マスコミは被災地の状況を連日大きく報じていた。

「海は憎まず」の著者・穂高健一さんは、それらの報道に満足せず、津波災害に焦点を絞り、自分の目と耳で、被災地、被災者の実像に迫った。
 作中の主人公「私」が、インタービユした相手は老父を介護する一庶民から、地域の治安を守る警察署長など、多岐にわたる。取材された場所は、宮城県名取から岩手県陸前高田で、津波災害が大きかったところだ。

 そこで語られた被災者の話には虚飾や誇張が感じられない。作者の表現の巧みさに引き込まれて読み進んだ。人間の生きるたくましさを感じる。とくに藤原中学校長が、
『教員は生徒に夢を与えるのが仕事です。被災は生徒にとって、心の財産なんです。それを引き出すことです』
 という冷酷なまでに冷静、そして未来を見つめる言葉には感動されられた。

 津波災害が発生した時の気仙沼警察署長の話は、警察の任務遂行と部下の生命を守る、という組織の長としての苦悩が胸を打つ。
 その時、警察組織で重要な情報システムの喪失を知り、読者の私は背筋が寒くなる思いをした。それは私だけだろうか。そのうえ、災害直後から、町は無法地帯化していくのだ。

 人間は自然とともに生きている。どんなに危険な土地であろうとも、そこに生きようとする。
 災害の翌日から牡蠣(カキ)の養殖に励む。人間は大自然に抱かれて生きているのだ。しかし、ときに自然は牙をむき人々に襲いかかる。

 小説は女性カメラマン彩との三陸取材の物語として流れる。身近な彩が連れ合いを二度事故で亡くしていた。人間は自分の過去、とくに辛かった過去を容易に口にしないものだ。主人公の「私」が執拗に訊いても、彩は思い出したくもない態度をとり続けてきた。
 やがて彼女の口から、 離別の体験が語られた。辛い心証を小説家に打ち明けた彼女だったが、それを超え、なおも三陸の津波被災者の取材に協力していく。「彩の物語」としても描かれているのではなかろうか。
 一読者として、そのストリーが女性心理の一端を突いていて面白く読めた。

 「海は憎まず」には、巨大津波被災者からの多くの教訓が描かれている。一人でも多くのひとに読まれて、自然との共生を考える絆となればと思った。


           濵﨑洋光さん:「元気に百歳クラブ」のエッセイ教室の元受講生

【寄稿・フォトエッセイ】 あなたらしい夢を = 井出 三知子

作者紹介:井出 三知子さん
      かつしか区民記者、朝日カルチャーセンター「フォトエッセイ入門」の受講生
      海外旅行と海中写真撮影を得意としています。 

PDF あなたらしい夢を

                           

 あなたらしい夢を = 井出 三知子 

                       
 パラオは何処のポイントに行くのも島から1時間ほどかかる。
 その間ボートの上から海を見ていると水色、青、紺、ぐんじょ色、灰色さまざまな色の変化に移動中もあきることがない。
 今年も1月、寒い日本を離れてダイビングに行って来た。

 夏が大好きな私は、太陽の日差しと時間がゆっくり過ぎていくのが、何とも言えず心地良くて、身も心も解放感で一杯になる。
 パラオには今回で4回目だ。ダイビング歴が6年だから、かなり頻繁に潜っている場所だ。でも飽きることはない。海は広いし同じ所に潜ったとしても、自然は日々変化していて同じ状態で私たちを迎えてはくれない。唯一、ガイドさんの仲良しナポレオンに出くわすと無性に懐かしく、
『今まで敵が多いのに元気で生きていたのね。次に来たときも会いましょうね。』
 と心の中で声をかけてしまう。

 私がダイビングをやり始めたのは、定年まであと1年とせまった頃だった。

 24時間の大部分が仕事にしばられていた生活を卒業して、定年後は新しい自分を見つけながら生きていきたいと考えていた。その頃は仕事がなくなってしまったら、と思うと不安でいっぱいだった。夢中になってやれる物を探していた。
             -1-
 そんな時にたまたま地下鉄で隣に座った人が海の写真集を見ていた。
  覗き込んで見た写真は、海の中に太陽の光が差し込んでいて、キラキラと輝いていて宝石のようだった。
 両親にはいつも海は怖い所だと言われ、海水浴にも行ったことが無かった。そんな私が、何の気なしに見た海の写真がダイビングをやるきっかけになった。
 そんなことで海に係わるようなるなんて今でも不思議でならない。年齢、体力、予算、若者の中に入って楽しめるだろうか、そして最大の難関は海恐怖症だった。

 やり始めるまで、不安材料が多すぎてめずらしく、時間がかかった。
 今では水中カメラを持って、あの時に見た感動に出会いたくて潜っている。肉眼では神秘的な光線も、カメラで撮るとなかなかうまく撮れない。
 今回のツアーメンバーは4名の内、3名の女性はシニアだった。成田空港でインストラクターから「和田さんは70歳から始められて、今回は50本の記念ダイブだから楽しく盛り上がろうね」と紹介された。

(記念ダイブとは、50本、100本、200本潜った区切りの時にお祝いをすること)
 前向きで、若々しくて、生き生きしている彼女を見て、59歳で始めてみんなから、
「すごいよ、頑張っているね」
 と言われて、内心は得意になっていた。そんな自分が一瞬で消滅してしまった。自分自身が恥ずかしくなっていた。

 パラオは1914年から1945年まで日本が統治していた。その関係で日本語がそのまま残って現地の言葉になって使われている。たとえば、煮つけ、休み、雨などたくさんある。 
 それらの日本語はすでにパラオ語になっていて日常生活に溶け込んでいる。
 日本に統治されていたのに親日的で、いつ行っても暖かく接してくれる。日本人にいろんなことを教わった。などと言われると何故か、胸がいっぱいになってしまう。 

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【寄稿・写真エッセイ】 旅のお供=齋田 豐

作者紹介 齋田豊さんはシニア大樂「写真エッセイ教室」の2期生です。
       夏は旅行会社から、世界各国、冬向けの音楽旅行冊子がたくさん送られてくる。彼女はそれを丹念に見るのが大好き。ウイーンの大晦日から元旦ニューイヤーコンサートにも出かけています。


     旅のお供  齋田 豊


旅 の お 供   齋田 豊 

 
 私は、旅行の度に、人より荷物を1個余分に持つ。周囲から、「大変ね。」と言われるが、旅行好きな私にとって、それは喜びである。
 こんなことがあった。楽しい1泊旅行の翌朝、私の隣に寝ていた人から、
「あんたの鼾がうるさくて眠れなかったわよ」
 と言われたのだ。その人は布団を上下逆さに敷き直して寝たという。

 私は40歳を過ぎるまで、あまり、自分の鼾を意識していなかった。
 20代、30代には仲良しの康子さんと国内はもちろん、ヨーロッパ旅行もしているし、小旅行なら色々な人としている。長い間、随分多くの人に迷惑をかけていたことになる。

 すっかり忘れていたが、小学生時代、学童疎開先で、友達から、「鼾をかくね」と言われたことがあった。でも、そのため「睡眠不足になった。」と言われたことはない。
 子供たちは、ぐっすり、寝てしまったのであろう。

          ハムレットの舞台 クロンボー城お祭りで仮装をしている(写真説明)


 旅行が憂鬱になったのは、あれ以来のことだ。
 しかし、元来、旅好きな私、「鼾をかくから」を理由に不参加などできない。旅行では、好きでもない、コーヒーを飲んで、一番後に寝ることに決めた。
 宴会では飲みたいアルコールをひかえ、みんなが酔って早く寝てくれることを願い、もっぱら、注ぐ側に回った。しかし、アルコールを嗜まない人だって居る。仕方なく、宴会が終わると、真っ先に、部屋の一番奥に陣取り、壁に向って休むことで凌いで来た。

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【寄稿】原発に絶対の安全はない=石田 貴代司

石田貴代司さん=シニア大樂の「写真エッセイ」の受講生
         東京・世田谷区に在住
         「アマチュア天文家」として、
         同区の地元プラネタリウムが主催する星空観測に出向いています。 

        PDF:原発に絶対の安全はない


原発に絶対の安全はない=石田 貴代司 

                                             
 <原発事故未だ収束せず> 

 近道するつもりで狭い住宅街を通った。
 曲がり角の小さな民家の駐車場兼門扉に立てかけたポスターに近づいてみた。
 明日、3月10日と11日に「原発ゼロ☆大行動」を日比谷公園で開催というものである。
放射性物質が、この瞬間も撒き散らされています。事故は収束していません
 私が気にしていたことが、ずばり書かれていた。
「行かねばならぬ」
 私は背中を押された。


日比谷公園、2つの集まり

 公園内の特設ステージの両脇には、それぞれ100台くらいの太陽光発電パネルが設置され、双方に積み上げられたスピーカーからの大音響が私を迎えてくれた。
「史上最大の“太陽光発電ステージ”大作戦」と掲示されている。
 なる程、脱原発だな~。司会者の大声に続いて歌手の加藤登紀子が大拍手と共にステージに登場した。歌とトークで東日本大震災の被害者への追悼集会となった。
 南相馬からのご婦人に続いて、陸前高田から商売を再開したという老舗の八木澤商店(醤油屋)の女将さんも登場して、さわやかな口調で体験を話した。少し前に八木沢一家が出演した番組があり、見覚えのある人だ。周囲にはたくさんのみやげ物屋や食べもの屋が並び家族連れも集会を盛り上げている。


幟旗の大集結

 ステージを離れて、もう一方のグループを追った。公園内の有名なレストラン「松本楼」に近い道路には、なんと今まで見た事がない幟旗の大軍団がいた。それぞれが所属する社名や組合、地区の名前が書かれた色鮮やか幟をもった集団が、デモに出る前の隊形を作っている。
「反原発運動」は忘れられたのだろうか、と懸念していた私の気持に勇気をくれた。
 幟旗を持った人に聞いてみた。間隔を取りながら、「東電本社前」を目指すという。この流れに付こうと決めてカメラを握りしめた。


   <隠蔽された数々の情報

 民家の張り紙の話題に戻ろう。前政権で野田総理が明言した「事故は収束した」は、有名になった言葉だ。そして、今では誰もが嘘だと知っている。
 2011年3月の原発事故後の政府広報や国民をパニックに追い込まないため? の嘘を一杯垂れ流してきた。今現在も東電は福島第一原発内での作業員事故やトラブルや作業員の雇い入れ等でも隠蔽をしている。そしてボロが出始めている。
 福島で採れた米や野菜を埼玉県に回し、埼玉産と偽って販売したと新聞で見た。こんなことが、「風評被害」という言葉が未だになくならない原因だろう。国や天下の東電さえ軽々と嘘をまきちらすから。

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