A040-寄稿・みんなの作品

【寄稿・写真エッセイ】公邸の庭と小泉策太郎=美川 季子

 作者紹介:シニア大樂「写真エッセイ」講座の受講生です。
       
小泉策太郎さんの13番目の実子として生まれました。ところが、出生前に小泉の縁戚の子としてもらわれていく約束事があり、そちらから出生届が出されました。戸籍上は小泉家の子ではありませんでした。

 集合古写真の最前列・和服姿(小泉策太郎さん)の前に立つ、幼い女子が作者です。
     

公邸の庭と小泉策太郎    美川 季子


 小泉策太郎(1872~1937)は、 明冶末期から昭和のはじめに政友会に属した 静岡県伊豆出身の政治家である。
 
 自らは政治の表面には出ず、策士といわれる実力派で、数々の場面で暗躍していた。一方政界きっての文人として、多くの伝記などを上梓している。とくに注目される一点は、保守派の政党に身を置きながら、社会主義者である 幸徳秋水 と刎頸(ふんけい)の友であったことである。秋水が亡きあとも夫人を援助し続けた。さらには秋水の墓の墓碑銘は策太郎の筆になる。
(※大逆事件=幸徳秋水が明治天皇暗殺を企てた首謀者とされ、社会主義者26名が処刑された)

 ドイツ大使館は、港区麻布広尾、有栖川公園横の南部坂の途中にある。敷地は5000坪ほどの土地に大使館と大使公邸が建ち、かなり広い日本庭園である。1937年まで、ここは小泉策太郎の邸宅であった。策太郎の没後は何回か人手に渡った。そして、1960年にはドイツ大使館となる。

 現在の日本の法律では、相続の手続きによって土地家屋は売却し、果てはコマ切れとなり、もとのかたちは見る影もなくなる。しかし、外国の大使館が買い取れば、日本の良き時代の姿がそのまま残るというのは、皮肉なものだ、と私は常々思っている。

 ひょんなことから、「大使ご夫妻が美川季子さんをお茶にお招きしたい」というお手紙が舞い込んできた。
 そのきっかけとなったのが、日本経済新聞が連載する『私の履歴書』に、昨年8月に策太郎の6男の画家である小泉淳作の文章が載ったことからはじまる。
 私はそのコピーをドイツにいる夫の友人に送った。彼のドイツ人の奥さんは、たいへんな日本びいきで、美術に関しても知識が深く、講師として日本のことを教えている。それほど日本通なのである。
『私の履歴書』の中で、小泉淳作は、現在ドイツ大使館になっている、広尾の邸で育ったと記している。

(夫の友人はドイツとつながりがある)
 私は単にそれだけのことで日経の記事コピーを送ったのであった。

 ある日、唐突に、ドイツ大使から「お茶にお招きしたい」と言ってきたのである。何がどうなって、こうなったのか、私には理解できなかった。まさに降って湧いただ。
 公邸の庭に関しては何ら知識もなく、お茶を頂きながら、何の話をお話しをすればよいのやら、考えるほどに戸惑うばかりであった。
 私の全身は好奇心でできている、と言っていいほど、何にでも興味津々人間である。日ごろは縁のない『大使館』である。
「この機を逃す手はない」
 ごたいそうな場所に足を踏み入れる絶好のチャンスだとあって、喜んでお招きに応じることにした。


 写真・左の女性が作者


 私は小泉の家と縁のある人間である。(※実子・13番目。作者紹介参照)。そんなことから、小泉家ゆかりの人たちは、『ドイツ大使館の庭が、小泉の庭である。昔の面影がそのまま残されているらしい。一度見てみたい』と思っている。それら事情の認識から、誰かを誘いたかった。

 策太郎の子どもは(戸籍上)12人姉弟で、11人は既に他界している。残る一人とできることなら、一緒に行ってもらいたかった。
 ところが、心臓の手術をした直後で、外出は難しいらしい。思い切って私一人で出かけて行くことにした。

 ドイツ駐日大使は京都大学で勉強をされ、日本語は堪能である。そのうえ、非常にフレンドリーな人柄であった。奥さまは台湾の方である。
 一目お会いした瞬間から緊張がほぐれ、私は気楽にお話ができた。
 大使夫妻から、小泉の邸宅だった頃について、いろいろ質問された。もとより私に説明できる訳もなく、申し訳なく思った。結局のところ、お庭をご案内して頂き、逆に大使から説明を受けるありさまだった。紅茶とクッキーをご馳走になり、
「小泉の家だったときの資料を集めてもらえないだろうか?」
 という宿題を持ち帰ることになった。

 半年あまり駈けずりまわった。一応そろえた資料を持ち、ふたたび大使館を訪れた。
(古い写真が主で、大使が希望された、小泉邸だった時の図面などはなかった)
  それでも、小泉の一族に公邸の庭を見せて頂く機会を与えて頂きたいと、お願いしてみた。それが実現できた。当日は総勢22名、ちょっとした小ツアーであった。

 当日は、大使ご夫妻はお留守だったが、大使館広報のSさんがユーモアを交えた解説を加えながら、庭園を案内して下さった。
 二度とない機会だから、と孫まで連れてきた人もいた。策太郎からみればひ孫になる。約1時間、一族郎党のお庭訪問は全員が興味深く、写真も撮りまくり、大満足のうちに終了した。
 蛇足ながら、今回の訪問で一番の収穫があったのは、庭園に棲む蚊の一族郎党であったようである。


                         写真は作者提供

【注】
 1931年に策太郎は政友会を脱退した。その心境を策太郎は次のように語っている。
「政党が選挙民に迎合して、無駄な公費を濫用したり、自分の地位、権力を保持するために、公党を私党化したら、国民本位の政治はどこへ行く」
 憂国の情を吐露して孤高清節、敢然として全盛真っ只中の政友会を去ったのであった。既にこんにちの複雑怪奇な政界を予見して、杞憂にたえざるものがあった。信念の乏しい迎合主義の政治家が、いかに国家を毒するか、その警鐘とならんと決心し一身の利害を捨てて政友会を脱退した策太郎が、いまの日本の状況を見たら、何というだろうか。
               (木宮栄彦著 小泉三申 より引用)

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