寄稿・みんなの作品

【かつしかPPクラブ】2012 初夏を感じる=鈴木會子

 作者紹介:鈴木會子さん。住所は福島県双葉郡楢葉町山田岡(フクシマ原発から約20キロの地点)です。原発事故で、故郷を追われ、いまは東京・葛飾区で仮住まいしています。
『詩・一時帰宅』の寄稿などがあります。



2012 初夏を感じる  鈴木會子

 山野草

  都会の中で

   春をつげ


 初夏に咲く

  クリスマスローズ

      これいかに?
 


  ぱっと散る

   桜は大地に

     又、咲きぬ


   早朝の

    芽ぶきの雨は

       花、ちらし
    

  光受け

   今日の命を

     生き生きと

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【寄稿・フォトエッセイ】フクシマ原発14キロからの訴え=石田貴代司

石田貴代司さん=シニア大樂の「写真エッセイ」の受講生
         東京・世田谷区に在住
         「アマチュア天文家」として、
         同区の地元プラネタリウムが主催する星空観測に出向いています。 
             

フクシマ原発14kmからの訴え  石田貴代司

 日差しが強い土曜日の午後、渋谷スクランブル交差点の一角に、小型バンに檄文看板を立てて訴えているのは浪江農場の吉沢正巳氏だ。

「農家が飼っていた家畜の商品価値はゼロ、自分の家にはもう帰れない、チェルノブイリになってしまった。絶望の淵で農家の仲間5人が命を絶ちました」

「警戒区域に取り残された家畜の多くが餓死した上に放置されミイラ化していることをご存知でしょうか」


若者の関心に感激した

 若者の街といわれる渋谷で、立ち止まって聞き入るのは、ほとんど若者だ。趣意書にサインをし、吉沢氏に激励の握手を求め、100円玉を箱に入れた。そばの写真は牧場で繋がれたまま餓死、ミイラ化している牛の列、そして爆発でグチャグチャになった原発建屋の拡大写真だ。

 改めてこれらを見聞きして、私もその場に立ちすくんだ。

 立ち入りできない吉沢氏の牧場には、今も300頭の牛が生きている。


この償いは東京電力と国に対し>           

 生き残った家畜についても政府は殺処分を下した。吉沢氏は続けて訴えた。

「被ばく覚悟で世話し続けてきた私には「殺せ」は納得できない。被ばくした家畜かもしれませんが、必死に生きているその命を、生かす方法はないのでしょうか」

 さらに「政府や自治体に対し警戒区域の家畜を被ばくの研究、調査に活かしてほしいと訴えています」と結んで、額の汗をぬぐった。

                  
 

【被災者・写真提供】廃墟の陸前高田市で生きる=大和田晴男

 私が3.11小説の取材を開始したのが11年11月からです。それ以前の被災地は自分の目で見ていません。それだけに、被災者自身の目で撮影した写真は、(報道機関の写真とは違い)、それぞれ想いが籠っているし、貴重なものです。

 陸前高田市を取材する折り、同市在住の大和田晴男さんから、被災当時から1年間にわたる写真を提供してもらうことができました。
 プライベートなものは割愛し、被災地のカキ業者の視点から掲載させていただきます。



 3.11の大津波で、大和田晴男さんの持ち船は陸に打ち上げられた。カキ養殖業にとっては、最大の生産道具です。
 その失意は計り知れないものがあったようです。

 

 陸前高田市は一瞬にして、廃墟となり、約2000人の方々が尊い命を亡くしました。家屋も、町も、すべて失なったのです。


 大津波の大災害から、難を逃れた子供たちは将来の希望です。

 写真の刻まれた日にちから、まだ1か月も経っていないのに、カメラむけると、ガレキの前で戯れる子どもたちです。
 とても、印象深く、貴重な写真です。

背後の白い建物が高台の中学校で、家屋を失った住民たちの避難生活場所です。この学校すらも、あと1メートル水位が高ければ、大津波に飲み込まれるところでした。


 陸前高田市はあらゆるものが廃墟となり、病院は一軒も残っていませんでした。


 撮影日:11年5月13日

 海から見た陸前高田市。同市の最大の高級ホテル『キャピタルホテル』が見えます。まわりの建物はすべて廃墟です。

 震災からわずか2カ月後の撮影です。また来るかもしれない、大津波の恐怖が残り、余震も多発してさなか、『海の男』漁師でなければ、とても沖合から撮影できません。

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【寄稿・エッセイ】 去年のさくら=久保田雅子

【作者紹介】

 久保田雅子さん:画家、インテリア・デザイナー。長期にフランス滞在の経験から、幅広くエッセイにチャレンジしています


           昨年のさくら 縦書きPDF

           作者のHP:歳時記 季節と暦の光と風・湘南の海から

去年のさくら  久保田雅子

 昨年、私とクリスティーヌは、3月の終わりに目黒川でお花見ランチの約束をしていた。
 そこに東日本大震災が発生した。翌日12日の原発爆発事故が起きて、在日外国人にはそれぞれの国から国外退避勧告が出された。彼女も家族と共に香港に避難した。
 それから約1か月後、避難勧告が解除になったことから、日本に戻ってきた彼女と会った。
 桜を見ながらのランチだったはずが、目黒川の桜は花も終わっていて食事をする気分にもなれず、コーヒーだけになってしまった。

 話題は国外退避時の話になった。
 急な勧告に危険を感じた彼女はわずかな時間のなかで、荷物の準備もそこそこに、家族と共に大渋滞の高速道路を成田空港へ向かった。空港内も大混乱の中、やっとの思いで出発できたと語る。
 震災では外国人も大変な思いをしていたのだ。

 日本に戻ってからも、日本語が読めず食品の安全については、不安な思いで毎日を過ごしていると話していた。私は無責任に「危険なものは販売禁止になるはずだから大丈夫よ」とアドバイスした。
                                (目黒川24年4月11日撮影)

 この頃に『トモダチ作戦』のニュースを聞いた。アメリカ軍が大がかりな日本救援作戦を展開していた。使用不可能になった仙台空港が、あっという間に復旧できたのは、日本の自衛隊に協力した米軍のおかげだ。
 私は日本の苦境を助けてくれた『トモダチ作戦』の全容を知りたいと思っていた。
 今年3月11日夜、テレビ朝日でドキュメンタリー番組『3・11映像の証言トモダチ作戦全容』を見ることができた。

 東日本大震災で自衛隊松島基地は、津波にヘリや航空機を流されて全滅状態になった。活動不可能になったのだ。
 アメリカでは日本政府の要請がある前に救援準備に動き出していた。
緊急指令―「日本を救出せよ」と横田空軍基地に作戦司令部が置かれた。

 すべての艦隊に全速力で日本を目指すように指令がでた。
 西太平洋を航行中の空母ロナルド・レーガンも進路を変えて日本に急行する。
「同盟国としてトモダチだ、困ったときには助けよう」
 約2万4千の兵士が日本の救援活動に動いた。

「陸の孤島、SOSを探せ」
 U-2偵察機が被災地の情報を集め、交通が遮断されてしまった所を、空から探して救援活動を開始した。

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【寄稿・エッセイ】田舎へ行こう=三ツ橋よしみ

【作者紹介】

三ツ橋よしみさん:薬剤師。目黒学園カルチャースクール「小説の書き方」、「フォト・エッセィ」の受講生です。

             田舎へ行こう  縦書き PDF


田舎へ行こう  三ツ橋よしみ

  


 一昨年、同居していた母がなくなった。一年かかって、実家の後片付けをすませた。 今年になって、やっと一息つくことができた。気付くと、娘は彼氏の元に去り、家は私たち老夫婦と犬のタローだけの暮らしとなった。
「田舎暮らしがしたい」と夫が言いだした。畑をたがやし、米を作り、自給自足をするのが、かねてからの夢なのだそうだ。
「東京の狭い家では犬がかわいそうだ。ストレスがたまって、病気になってしまう」と犬をなでる。

 東京生まれ、東京育ちのわたしは、渋谷、恵比寿が遊び場だった。夜の街に繰り出すわけではなかったが、夜、真っ暗になるような場所には住みたくないし、不安だ。土いじりも、観葉植物の手入れもするが、それ以上の興味はない。
 
 夫は、うれしそうにネットで物件をさがしはじめた。郊外の不動産業者に予約を入れ、家を見に行く手配をした。家族の一員だから、家を見に、愛犬タローも一緒にいくことになった。

 東京から車で一時間あまり、千葉県佐倉市の住宅街に案内された。中古住宅だが、しっかりした作りの家だった。東京にはない広くて気持ちのいい庭があった。リードをはなすとタローの目が輝いた。走り回る犬に、夫はにこにこ顔だ。
「ここに決めよう」という。
 不動産屋に居合わせた地元の人が、畑がやりたいなら、一反(300坪)ぐらいどうですかとすすめる。坪一万円だという。いえいえ、ほんのお遊びですからと、夫は顔を赤くした。

 娘を佐倉に案内した。
「遠いいね」
「刺激が少なすぎて、お母さん、ボケちゃうんじゃない?」と心配する。
 世田谷に住む姉は「そんなに遠くに行ちゃうと、めったに会えなくなっちゃうじゃない」と電話口で涙ぐんだ。
 夫の友だちは「三日であきるんじゃないの?」と言った。
 知り合いのおばさんは「キュウリがたくさん取れたら送ってね。おいしいキュウリ漬をつくるから」とはげましてくれる。
 週二回、勤めている会社の同僚は、
「佐倉から所沢に通う気なんですか。えっ、それって小旅行じゃないですか」
 とあきれられた。
 

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【転載・詩集・花鎮め歌より】原爆のことをはじめて聞いた日 =結城 文

作者紹介=結城 文(ゆうき あや)
       日本ペンクラブ(電子文藝館委員)、日本比較文学会、
       埼玉詩人会、日本詩人クラブの各会員
       日本歌人クラブ発行「タンカジャーナル」編集長


             作品・縦書き PDF


関連情報

結城文詩集『花鎮め歌』

発行所:(株)コールサック社
     〒173-0004
     東京都板橋区板橋2-63-4-509
     ☎03-5944-3258  FAX03-5944-3238 


原爆のことをはじめて聞いた日 結城 文

わたしは それを
父の遺骨が帰った日
母から聞いた
母と叔母とは四国の善通寺までゆく
父の赴任するはずだった善通寺には
師団があって
骨はそこへもどってくる
幼いものは 祖父母と
父の帰りを
ひたすら待った

二人とも
疲れきって帰ってきた
  「まともに 乗り降りできゃしない
  人間が 汽車の屋根にまで乗っている
  窓からいきなり 荷物を投げ込み入ってくる
   屈強な者ほど 悪い
  英霊だなんて 誰も考えてくれない」
  「新兵器の爆弾が落ちたそうだ
    一瞬に 体の皮が
   ぺろんと 剥けてしまうんだって」


疎開先の 離れの床の間に
白布で包まれた 四角い木箱が置かれる
この中にあるのが
ほんとうに
父の骨かどうかは 分からない
けれど 同じ飛行機で 最後の瞬間を共にした
十人の人たちの骨のどれか――
何万 何十万の
骨さえ帰らない戦死者にくらべれば
遺骨と思われるものが帰ってきただけでも
ありがたいこと


あの時 母に同行した叔母は もう亡き人
母は この世にまだいるけれど
脳裏にとどめたものは 滅んでしまった
あの時 母たちが聞いた
新兵器の爆弾は
たぶん 広島の原爆

人間の皮膚がぺろんと剥ける
新兵器の爆弾は
長崎にも落ちて
戦争が終わった


遺骨を引き取りにいったのは
終戦の日の前なのか 後なのか
もう 確かめられないが
わたしが原爆のことを はじめて聞いたのは
父の遺骨が帰った
その日のことであった 


                【写真はイメージです 撮影:穂高健一、2011年11月7日】   

【転載】『詩集・花鎮め歌』 わが父祖の地 石巻 =結城 文

作者紹介=結城 文(ゆうき あや)
       1934年東京・杉並区生まれ
       日本ペンクラブ(電子文藝館委員)、日本比較文学会、
       埼玉詩人会、日本詩人クラブの各会員
       日本歌人クラブ発行「タンカジャーナル」編集長
            
        著書 2006年 詩と短歌による組詩集『できるすべて』(砂子屋書房)   
            2007年 『原爆詩181人集 英語版』共訳  
            2010年 詩集『紙霊』(北猽社)
            2012年 詩集『花鎮め歌』(コールサック社)
            他に歌集7冊、評論集1冊、訳書8冊など

             
縦書き PDF「わが父祖の地 石巻」はこちら


わが父祖の地 石巻 結城 文   『詩集・花鎮め歌』より 

 


戦死した父のうぶすな産土(うぶすな) 石巻
旧北上川に沿った古くからの港町
私の知らない父方の親族が住んでいたかもしれない町
津波で
大きな被害をだした町


旧北上川の河口まで歩いたことがあったことがあった
海を見下ろす日和山からの夕景
青い霧の底にきらめく
漁船の灯火


広濟寺──
禅宗──臨済宗の寺には
千葉家代々の墓があった
墓誌には
私の知らない先祖の名の後に
「昭和二十年七月十日 千葉 敏雄 四十二歳戦死」
と刻まれていた


寺はどうなったのだろうか?
墓はどうなったのだろうか?
そこで生活していた人々の安否さえわからない今
墓のことなど
尋ねることさえははばかれるが
日にいくたびか


思いは
石巻に立ち返る
父の眠る広濟寺の墓地に
旧北上川の満々たる流れに
川水の渦まく
石巻石に *
川に沿った潮の香りのする町に

・*旧北上川の河口の近く水面に先端のみを見せる石の名。
地名の由来はこの石からと思われる


【写真はイメージです:穂高健一、宮城県内の被災地で撮影】

【寄稿・エッセイ】 片づける=三ツ橋よしみ 

【作者紹介】

三ツ橋よしみさん:薬剤師。目黒学園カルチャースクール「小説の書き方」、「フォト・エッセィ」の受講生です。

             片づける 縦書き PDF


片づける=三ツ橋よしみ 三ツ橋よしみ

  
 
 昨年、母がなくなった。遺品を前にして、姉とふたりで整理した。家の二階に、衣装箱が40個ほどあった。洋服、セーター、上着、コート、着物などがぎっしりだった。値札のついたまま、衣装箱のなかで流行遅れになってしまったワンピース。黄ばんだ絹のブラウス。箱を開けるたびに、20年、30年の時がよみがえった。
 作業のはじめは、リサイクルが出来る服はないか、一つひとつ傷み具合をチェックしていた。ところがあまりの品数に、目と心が疲れた。結局、目をつぶって、機械的にゴミ袋に詰めこんだ。

「お母さん、なんでこんなに洋服を、買ったのかしら。同じようなものばっかりじゃない」
 とわたしが言うと、姉が母のかたをもった。
「人のことはいえないのよ。わたしたちだって似たようなものよ。洋服ってなぜか増えちゃうのよ。お母さんの遺伝かしら。街へでかけるでしょ。デパートに立ち寄る。ショーウインドウによさそうな服がならんでいる。近くによってながめる。値札をちらっと見ると、おもったより高くない。店員さんが寄ってきて、『お買い得ですよ』とか、『今年の流行なんです』とか、耳元で言う。そして、ちょっと身体にあわせてみようかしらと思う。鏡をのぞく。『よくお似合いですよ』とかなんとか言われる。『そうかしら』とまんざらでもない気分。『こんど旅行に行くときに着ようかな』と思う。そして気がついたときは、もうデパートの紙袋をかかえて家にかえる途中。はな歌なんか歌ちゃってるのよ」

「それって衝動買いじゃない?」
 と言うと、姉が首を振る。
「ぜんぜん違うとおもうけど。だって大切なのはプロセスなの。洋服を見つけて鏡をみる。そのときにいろいろなことを考えるでしょ。この服にはあの靴はどうか、あのバックはどうか。お友達と行く海外旅行にはどう? クリーニングはできる? 縫製は大丈夫? 服を選ぶとき、頭の中をかけめぐる様々なおもい。すごく脳を使ってる感じがするわ。すごく集中してるの、服を選んでいるときって。その時間の興奮が、たまらないのよ」
 
 その後、今年になって、姉夫婦が引越しをした。
 一軒家を手放し、世田谷のマンションにうつった。長年住みなれた一軒家には愛着もあったが、六十五才をすぎて、庭の手入れが億劫になったらしい。買い物や病院が遠く不便だったこともあって、狭いが便利のよい都会のマンションを選んだのだ。バリアフリーで小さなテラスがついていた。老夫婦にはこれで十分よと、姉は言う。

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【寄稿・エッセイ】「幸せの黄色いリボン」=久保田雅子

【作者紹介】

 久保田雅子さん:画家、インテリア・デザイナー。長期にフランス滞在の経験から、幅広くエッセイにチャレンジしています


           幸せの黄色いリボンPDF

           作者のHP:歳時記 季節と暦の光と風・湘南の海から


「黄色いリボン」 久保田雅子


 私のはじめてのライブ体験は、もう40年以上も昔だ。そのころはまだライブという言葉もなく生演奏と言った。

 六本木の交差点に近い『ジェームス』だった。地下の店内に向かう階段から音楽が響いてきて、入る前からわくわくしたものだ。
私は初めての生演奏の雰囲気にすっかり興奮して、友人たちとその後もよく通った。
 カントリー・ウエスタンが専門で、店員たちはウエスタン・ハットをかぶりバンダナを首にまいて、演奏がはじまると手拍子で盛り上げた。
 それにあわせて観客も手拍子で、店内はいつも大いに陽気に盛り上がった。リクエストをすることもできたので、私は大好きな『幸せの黄色いリボン』を毎回リクエストして楽しんだ。

                         (写真:赤坂カントリーハウス店のHPより引用)        

3年の刑期を終えた男が 家路に向かうバスの中だ
彼女には手紙で伝えた まだ僕を愛していてくれるのなら
家の樫の木に 黄色いリボンを結んでおいてくれないか
もし黄色いリボンがなかったら 僕はバスを降りずに通り過ぎるよ
バスの運転手さん リボンがあるかどうか僕のかわりに見てくれないか
自分じゃ怖くて見られない
バスの乗客が騒いでいる 目の前の光景が信じられない
古い樫の木いっぱいに たくさんのリボンがゆれている
                                        (訳詞:久保田)            
          

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【寄稿・エッセイ】「家政婦のミタ」を見た=久保田雅子

【作者紹介】

 久保田雅子さん:画家、インテリア・デザイナー。長期にフランス滞在の経験から、幅広くエッセイにチャレンジしています
             
                       

                 「家政婦のミタ」を見た PDF


                 作者のHP:歳時記 季節と暦の光と風・湘南の海から


「家政婦のミタ」を見た 久保田雅子


 昨年の秋に放送された、テレビドラマ『家政婦のミタ』を見た。
 かつて人気シリーズだった『家政婦は見た』という市原悦子さん主演のドラマを連想していたが、まったく別のものだった。
 初回から過激なシーンもあったせいか、漫画チックなわざとらしい展開なのに、なぜか引き込まれてしまった。そして毎週、楽しみに見てきた。
 家政婦・ミタさんは、父親が育てる3人の子供たちのいる四人家族の家庭にやって来る。その家では、母親が父親の不倫を理由に自殺しているのだ。
 子供たちは突然母親を失い、だらしのない父親に失望し、まったくどうしてよいのかわからない。そのなかで、淡々と仕事をする彼女の存在に、バラバラになりかかっていた家族が少しずつ立ちなおっていく過程を描くものだ。
「承知しました」となんでも引き受けるミタさんに、家族みんなでいろいろなお願いをする。自暴自棄になった長女は「死にたいから私を殺して」と頼む。ミタさんはナイフを持って本気で彼女を追いかける。長女はおそろしくなって逃げ回り、自分が死にたくないことを知る。

 暗い過去のあるミタさんは、決して笑わない。仕事は完璧だ。毎回、かならず食卓のシーンがあった。ばらばらになりそうな家族が、彼女の作るおいしい食事に心をなごませる。家族の絆は食卓から…、と伝わってくる。
 業務命令であれば、彼女はどんなことでもする、不思議な人だった。
 いつも黒いカバンを持っていて、必要なものはなんでもそこから魔法のように出てきた。

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