寄稿・みんなの作品

【寄稿・エッセイ】 去年のさくら=久保田雅子

【作者紹介】

 久保田雅子さん:画家、インテリア・デザイナー。長期にフランス滞在の経験から、幅広くエッセイにチャレンジしています


           昨年のさくら 縦書きPDF

           作者のHP:歳時記 季節と暦の光と風・湘南の海から

去年のさくら  久保田雅子

 昨年、私とクリスティーヌは、3月の終わりに目黒川でお花見ランチの約束をしていた。
 そこに東日本大震災が発生した。翌日12日の原発爆発事故が起きて、在日外国人にはそれぞれの国から国外退避勧告が出された。彼女も家族と共に香港に避難した。
 それから約1か月後、避難勧告が解除になったことから、日本に戻ってきた彼女と会った。
 桜を見ながらのランチだったはずが、目黒川の桜は花も終わっていて食事をする気分にもなれず、コーヒーだけになってしまった。

 話題は国外退避時の話になった。
 急な勧告に危険を感じた彼女はわずかな時間のなかで、荷物の準備もそこそこに、家族と共に大渋滞の高速道路を成田空港へ向かった。空港内も大混乱の中、やっとの思いで出発できたと語る。
 震災では外国人も大変な思いをしていたのだ。

 日本に戻ってからも、日本語が読めず食品の安全については、不安な思いで毎日を過ごしていると話していた。私は無責任に「危険なものは販売禁止になるはずだから大丈夫よ」とアドバイスした。
                                (目黒川24年4月11日撮影)

 この頃に『トモダチ作戦』のニュースを聞いた。アメリカ軍が大がかりな日本救援作戦を展開していた。使用不可能になった仙台空港が、あっという間に復旧できたのは、日本の自衛隊に協力した米軍のおかげだ。
 私は日本の苦境を助けてくれた『トモダチ作戦』の全容を知りたいと思っていた。
 今年3月11日夜、テレビ朝日でドキュメンタリー番組『3・11映像の証言トモダチ作戦全容』を見ることができた。

 東日本大震災で自衛隊松島基地は、津波にヘリや航空機を流されて全滅状態になった。活動不可能になったのだ。
 アメリカでは日本政府の要請がある前に救援準備に動き出していた。
緊急指令―「日本を救出せよ」と横田空軍基地に作戦司令部が置かれた。

 すべての艦隊に全速力で日本を目指すように指令がでた。
 西太平洋を航行中の空母ロナルド・レーガンも進路を変えて日本に急行する。
「同盟国としてトモダチだ、困ったときには助けよう」
 約2万4千の兵士が日本の救援活動に動いた。

「陸の孤島、SOSを探せ」
 U-2偵察機が被災地の情報を集め、交通が遮断されてしまった所を、空から探して救援活動を開始した。

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【寄稿・エッセイ】田舎へ行こう=三ツ橋よしみ

【作者紹介】

三ツ橋よしみさん:薬剤師。目黒学園カルチャースクール「小説の書き方」、「フォト・エッセィ」の受講生です。

             田舎へ行こう  縦書き PDF


田舎へ行こう  三ツ橋よしみ

  


 一昨年、同居していた母がなくなった。一年かかって、実家の後片付けをすませた。 今年になって、やっと一息つくことができた。気付くと、娘は彼氏の元に去り、家は私たち老夫婦と犬のタローだけの暮らしとなった。
「田舎暮らしがしたい」と夫が言いだした。畑をたがやし、米を作り、自給自足をするのが、かねてからの夢なのだそうだ。
「東京の狭い家では犬がかわいそうだ。ストレスがたまって、病気になってしまう」と犬をなでる。

 東京生まれ、東京育ちのわたしは、渋谷、恵比寿が遊び場だった。夜の街に繰り出すわけではなかったが、夜、真っ暗になるような場所には住みたくないし、不安だ。土いじりも、観葉植物の手入れもするが、それ以上の興味はない。
 
 夫は、うれしそうにネットで物件をさがしはじめた。郊外の不動産業者に予約を入れ、家を見に行く手配をした。家族の一員だから、家を見に、愛犬タローも一緒にいくことになった。

 東京から車で一時間あまり、千葉県佐倉市の住宅街に案内された。中古住宅だが、しっかりした作りの家だった。東京にはない広くて気持ちのいい庭があった。リードをはなすとタローの目が輝いた。走り回る犬に、夫はにこにこ顔だ。
「ここに決めよう」という。
 不動産屋に居合わせた地元の人が、畑がやりたいなら、一反(300坪)ぐらいどうですかとすすめる。坪一万円だという。いえいえ、ほんのお遊びですからと、夫は顔を赤くした。

 娘を佐倉に案内した。
「遠いいね」
「刺激が少なすぎて、お母さん、ボケちゃうんじゃない?」と心配する。
 世田谷に住む姉は「そんなに遠くに行ちゃうと、めったに会えなくなっちゃうじゃない」と電話口で涙ぐんだ。
 夫の友だちは「三日であきるんじゃないの?」と言った。
 知り合いのおばさんは「キュウリがたくさん取れたら送ってね。おいしいキュウリ漬をつくるから」とはげましてくれる。
 週二回、勤めている会社の同僚は、
「佐倉から所沢に通う気なんですか。えっ、それって小旅行じゃないですか」
 とあきれられた。
 

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【転載・詩集・花鎮め歌より】原爆のことをはじめて聞いた日 =結城 文

作者紹介=結城 文(ゆうき あや)
       日本ペンクラブ(電子文藝館委員)、日本比較文学会、
       埼玉詩人会、日本詩人クラブの各会員
       日本歌人クラブ発行「タンカジャーナル」編集長


             作品・縦書き PDF


関連情報

結城文詩集『花鎮め歌』

発行所:(株)コールサック社
     〒173-0004
     東京都板橋区板橋2-63-4-509
     ☎03-5944-3258  FAX03-5944-3238 


原爆のことをはじめて聞いた日 結城 文

わたしは それを
父の遺骨が帰った日
母から聞いた
母と叔母とは四国の善通寺までゆく
父の赴任するはずだった善通寺には
師団があって
骨はそこへもどってくる
幼いものは 祖父母と
父の帰りを
ひたすら待った

二人とも
疲れきって帰ってきた
  「まともに 乗り降りできゃしない
  人間が 汽車の屋根にまで乗っている
  窓からいきなり 荷物を投げ込み入ってくる
   屈強な者ほど 悪い
  英霊だなんて 誰も考えてくれない」
  「新兵器の爆弾が落ちたそうだ
    一瞬に 体の皮が
   ぺろんと 剥けてしまうんだって」


疎開先の 離れの床の間に
白布で包まれた 四角い木箱が置かれる
この中にあるのが
ほんとうに
父の骨かどうかは 分からない
けれど 同じ飛行機で 最後の瞬間を共にした
十人の人たちの骨のどれか――
何万 何十万の
骨さえ帰らない戦死者にくらべれば
遺骨と思われるものが帰ってきただけでも
ありがたいこと


あの時 母に同行した叔母は もう亡き人
母は この世にまだいるけれど
脳裏にとどめたものは 滅んでしまった
あの時 母たちが聞いた
新兵器の爆弾は
たぶん 広島の原爆

人間の皮膚がぺろんと剥ける
新兵器の爆弾は
長崎にも落ちて
戦争が終わった


遺骨を引き取りにいったのは
終戦の日の前なのか 後なのか
もう 確かめられないが
わたしが原爆のことを はじめて聞いたのは
父の遺骨が帰った
その日のことであった 


                【写真はイメージです 撮影:穂高健一、2011年11月7日】   

【寄稿】 エッセイって?=斉藤永江

作者紹介:斉藤永江さん

栄養士で、製菓衛生士です。チョコレート製作を始め、洋菓子作りと和菓子作りに携わっています。

傾聴ボランティアとして、葛飾区内および在宅のお年寄りを訪問する活動をしています。

2011年度・かつしか区民講座「記者養成講座」を終了し、卒業生たちの自主クラブである「かつしかPPクラブ」に所属し、現在は積極的な活動をしています。

朝日カルチャーセンター・新宿で22年4月から開講した『フォトエッセイ入門講座』に一期生になりました。

明るくてエネルギッシュな女性です。

作者HP
  

エッセイって?=斉藤永江

 エッセイって何ですか? それを正しく答えられる人は、どれくらいいるだろうか。少なくとも、私には即答できない。

 そんな私が、「フォト・エッセイ入門講座」を受講することになった。

 講師は、尊敬する穂高健一先生だ。太鼓持ちではないが、作家であり、ジャーナリストであり、カメラマンであり、登山家であり、良き父親、良き夫(たぶん)でもある、スーパーマンみたいな方だ。
 それでいて、田園調布でも六本木の住まいではない。私と同じ下町の葛飾なんてところに住んでいる、そのところがまた憎い。

 私は昨年、葛飾区民記者の養成講座(教育委員会主催)を終了し、先生が指導される「葛飾区民記者(葛飾PPクラブ会員)」となった。

 いま、その過程を振り返ってみた。
「文章のプロから、エッセイも同時に学びたい」
 と言う欲張りな私に対して
「君は、報道向きだよ。報道一本で行った方がいい」
 先生はそうおっしゃった。

 実際に取材現場へ出向き、インタビューを取り、写真を撮り、さらに記事にまとめる作業は楽しかった。むろん、いまも活発に街に飛び出して、嬉々として取材活動をおこなっている。

 今回は、あの学びたいと考えていた「エッセイ講座」なのである。ところが、「エッセイを書かねばならぬ」と、とたんに身構えてしまった。

 受講申し込みの段階で、「エッセイって?」そのものがわからなくなった。調べると、『形式に拘わらずに個人的な観点から物事を書いた散文・感想・見聞。随筆ともいう』とある。

 講座がはじまると、穂高先生は冒頭に、「何気ない日常の小さな出来事を大切にしよう」と話す。説えられた、とも思えた。

 極ごく平凡な私。そんな人間の些細なことを書いて、何が面白いのか。あれだけ、エッセイに魅力を感じていたのに……。

 「無駄な文章は思い切って削り取ろう。そうすると、書きたいことの本質が見えてくる」
 先生は強調する。

 陳腐で未熟で無駄だらけの私の文章。切り捨ててしまったら、何も残らない。この時点で、すでにエッセイではない。

「おなじ言葉を前後して使ってはいけない。同意語を上手に使おう」
 そんなに厳しい指導に入っていく。

 これだけの文章を一通り書いてみて、読み直してみた。

「初稿はかんたんに力を抜いて書きなさい」
 そう指導を受けている。

 第1回教室で学んだ、同義語に置き換えてみた。なにが同意語なのかすらわからなくなった。すぐに限界がみえてきた。

 つぎなるは、『何気ない』、『些細な』、『削り取る』、『切り捨てる』に取り組む。

 報道……、エッセイ……、無駄……、これらの言葉が重複したままだ。添削する先生の呆れた顔が目に浮かぶ。

    

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【転載】『詩集・花鎮め歌』 わが父祖の地 石巻 =結城 文

作者紹介=結城 文(ゆうき あや)
       1934年東京・杉並区生まれ
       日本ペンクラブ(電子文藝館委員)、日本比較文学会、
       埼玉詩人会、日本詩人クラブの各会員
       日本歌人クラブ発行「タンカジャーナル」編集長
            
        著書 2006年 詩と短歌による組詩集『できるすべて』(砂子屋書房)   
            2007年 『原爆詩181人集 英語版』共訳  
            2010年 詩集『紙霊』(北猽社)
            2012年 詩集『花鎮め歌』(コールサック社)
            他に歌集7冊、評論集1冊、訳書8冊など

             
縦書き PDF「わが父祖の地 石巻」はこちら


わが父祖の地 石巻 結城 文   『詩集・花鎮め歌』より 

 


戦死した父のうぶすな産土(うぶすな) 石巻
旧北上川に沿った古くからの港町
私の知らない父方の親族が住んでいたかもしれない町
津波で
大きな被害をだした町


旧北上川の河口まで歩いたことがあったことがあった
海を見下ろす日和山からの夕景
青い霧の底にきらめく
漁船の灯火


広濟寺──
禅宗──臨済宗の寺には
千葉家代々の墓があった
墓誌には
私の知らない先祖の名の後に
「昭和二十年七月十日 千葉 敏雄 四十二歳戦死」
と刻まれていた


寺はどうなったのだろうか?
墓はどうなったのだろうか?
そこで生活していた人々の安否さえわからない今
墓のことなど
尋ねることさえははばかれるが
日にいくたびか


思いは
石巻に立ち返る
父の眠る広濟寺の墓地に
旧北上川の満々たる流れに
川水の渦まく
石巻石に *
川に沿った潮の香りのする町に

・*旧北上川の河口の近く水面に先端のみを見せる石の名。
地名の由来はこの石からと思われる


【写真はイメージです:穂高健一、宮城県内の被災地で撮影】

【寄稿・エッセイ】 片づける=三ツ橋よしみ 

【作者紹介】

三ツ橋よしみさん:薬剤師。目黒学園カルチャースクール「小説の書き方」、「フォト・エッセィ」の受講生です。

             片づける 縦書き PDF


片づける=三ツ橋よしみ 三ツ橋よしみ

  
 
 昨年、母がなくなった。遺品を前にして、姉とふたりで整理した。家の二階に、衣装箱が40個ほどあった。洋服、セーター、上着、コート、着物などがぎっしりだった。値札のついたまま、衣装箱のなかで流行遅れになってしまったワンピース。黄ばんだ絹のブラウス。箱を開けるたびに、20年、30年の時がよみがえった。
 作業のはじめは、リサイクルが出来る服はないか、一つひとつ傷み具合をチェックしていた。ところがあまりの品数に、目と心が疲れた。結局、目をつぶって、機械的にゴミ袋に詰めこんだ。

「お母さん、なんでこんなに洋服を、買ったのかしら。同じようなものばっかりじゃない」
 とわたしが言うと、姉が母のかたをもった。
「人のことはいえないのよ。わたしたちだって似たようなものよ。洋服ってなぜか増えちゃうのよ。お母さんの遺伝かしら。街へでかけるでしょ。デパートに立ち寄る。ショーウインドウによさそうな服がならんでいる。近くによってながめる。値札をちらっと見ると、おもったより高くない。店員さんが寄ってきて、『お買い得ですよ』とか、『今年の流行なんです』とか、耳元で言う。そして、ちょっと身体にあわせてみようかしらと思う。鏡をのぞく。『よくお似合いですよ』とかなんとか言われる。『そうかしら』とまんざらでもない気分。『こんど旅行に行くときに着ようかな』と思う。そして気がついたときは、もうデパートの紙袋をかかえて家にかえる途中。はな歌なんか歌ちゃってるのよ」

「それって衝動買いじゃない?」
 と言うと、姉が首を振る。
「ぜんぜん違うとおもうけど。だって大切なのはプロセスなの。洋服を見つけて鏡をみる。そのときにいろいろなことを考えるでしょ。この服にはあの靴はどうか、あのバックはどうか。お友達と行く海外旅行にはどう? クリーニングはできる? 縫製は大丈夫? 服を選ぶとき、頭の中をかけめぐる様々なおもい。すごく脳を使ってる感じがするわ。すごく集中してるの、服を選んでいるときって。その時間の興奮が、たまらないのよ」
 
 その後、今年になって、姉夫婦が引越しをした。
 一軒家を手放し、世田谷のマンションにうつった。長年住みなれた一軒家には愛着もあったが、六十五才をすぎて、庭の手入れが億劫になったらしい。買い物や病院が遠く不便だったこともあって、狭いが便利のよい都会のマンションを選んだのだ。バリアフリーで小さなテラスがついていた。老夫婦にはこれで十分よと、姉は言う。

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【寄稿・エッセイ】「幸せの黄色いリボン」=久保田雅子

【作者紹介】

 久保田雅子さん:画家、インテリア・デザイナー。長期にフランス滞在の経験から、幅広くエッセイにチャレンジしています


           幸せの黄色いリボンPDF

           作者のHP:歳時記 季節と暦の光と風・湘南の海から


「黄色いリボン」 久保田雅子


 私のはじめてのライブ体験は、もう40年以上も昔だ。そのころはまだライブという言葉もなく生演奏と言った。

 六本木の交差点に近い『ジェームス』だった。地下の店内に向かう階段から音楽が響いてきて、入る前からわくわくしたものだ。
私は初めての生演奏の雰囲気にすっかり興奮して、友人たちとその後もよく通った。
 カントリー・ウエスタンが専門で、店員たちはウエスタン・ハットをかぶりバンダナを首にまいて、演奏がはじまると手拍子で盛り上げた。
 それにあわせて観客も手拍子で、店内はいつも大いに陽気に盛り上がった。リクエストをすることもできたので、私は大好きな『幸せの黄色いリボン』を毎回リクエストして楽しんだ。

                         (写真:赤坂カントリーハウス店のHPより引用)        

3年の刑期を終えた男が 家路に向かうバスの中だ
彼女には手紙で伝えた まだ僕を愛していてくれるのなら
家の樫の木に 黄色いリボンを結んでおいてくれないか
もし黄色いリボンがなかったら 僕はバスを降りずに通り過ぎるよ
バスの運転手さん リボンがあるかどうか僕のかわりに見てくれないか
自分じゃ怖くて見られない
バスの乗客が騒いでいる 目の前の光景が信じられない
古い樫の木いっぱいに たくさんのリボンがゆれている
                                        (訳詞:久保田)            
          

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【かつしかPPクラブ】小菅探訪~塀の町の歴史の残影~ =小池和栄

【作者紹介】
 小池和榮さん:2010年「葛飾区民大学」の区民記者・養成講座を経て、「かつしかPPクラブ」の発起人の一人となりました。緻密な取材力と、葛飾の歴史の再発見など、特別ルポの記事を得意としています。
 最近は川柳にも興じています。

小菅探訪~塀の町の歴史の残影~PDF

小菅探訪~塀の町の歴史の残影~ 平成24年 3月1日

 荒川から見た小菅の東京拘置所である。一般人には無縁な場所であり、屋上にヘリポートを備え近代的な要塞のように見える。
 対岸の荒川河川敷では若者たちが、フットボールのフォーメーション練っていた。冬の日の午後の陽射しに足許の影が長い。

 Ⅰ.東京拘置所 ・・・・・・・・・・・・ 3

 Ⅱ.関東郡代屋敷跡・・・・・・・・・・・4

 Ⅲ.小菅(千住)御殿・・・・・・・・・・5

 Ⅳ.小菅銭座跡・・・・・・・・・・・・・6

 Ⅴ.明治維新と小菅縣・・・・・・・・・・7

 Ⅵ.名縣知事 川瀬秀治・・・・・・・・・8
 
 Ⅶ.わが国初の煉瓦工場・・・・・・・・・9

 Ⅷ.こすげろの・・・・・・・・・・・・・10

 人の周りを□で囲むと、囚(とら)えるとなる。
 檻に容れ自由を奪う形は象形文字としても頷ける。
 葛飾区の西端に位置し、荒川と綾瀬川に挟まれた「小菅」は、塀のある町として全国に知られる。
 今は東京郊外の静かな町である。しかし、それだけではない。
 川沿いのその一郭は、かつて時の流れの中で輝き、人々は己が人生を紡いだ歴史の町である。


Ⅰ.東京拘置所

 東京拘置所は法務省矯正局に属し、通称「東拘」とか所在地から「小菅」と呼ばれる。敷地は約222,000㎡(66,000坪)と、全国8拘置所(東京・立川・名古屋・京都・大阪・神戸・広島・福岡)の中でも、収容定員3000人は最大規模である。

(明治の面影を残す正門)

(工事が続く高層舎監)

 その歴史は古く、明治11年(1878)に遡る。前年に勃発した西南戦争の捕虜を収容する為、明治政府は煉瓦製造所を買収し、監獄を建設した。それから134年、小菅監獄→東京収治監→小菅刑務所と呼び方は変わった。
 そして昭和45年(1975)に、巣鴨の東京拘置所(現サンシャイン60の敷地)が廃止されてから、東京拘置所となった。
 
 かつての宰相や、大物政治家、オウム事件の首謀者、新聞を賑わした刑事被告人、死刑確定者が収監され、最近では大手製紙会社の御曹司も、一時期ここの住人となった。

 ダメ元で取材を申し入れてみた。電話のガイダンスに従い、操作を繰り返しやっと出た窓口は、ホームページに載っている事が全てだと素っ気ない。東京拘置所の改修工事は平成18年に始まり、今なお真最中である。ヘリポートを備えた高層舎監、その奥に14階建職員住宅が並ぶ。カメラを向けると門衛が飛んで来て制した。

 往時の赤煉瓦塀はほとんど壊され、正門脇に僅か面影を残すのみである。近くで「差入れ品」を販売する商店主は「同業は2店あるが、施設内に法務省の外郭団体が運営する店があり歯が立たない。行政仕分けの対象だった筈が、いつの間にかうやむやになってしまった」とこぼした。
 
 地元の不動産業者は「刑務所だった頃は、腕に技術を持つ受刑者が作った製品を格安で販売した。車検整備も安くやり、地元では好評だった。ただ、出す時は車内の灰皿に「吸殻」が残っていないか厳しくチェックされた」と、当時を振り返り語った。


Ⅱ.関東軍代屋敷跡

 江戸時代の葛飾・葛西一帯は、一部の寺社や旗本の領地を除き幕府の直轄地(天領)であった。幕府はその管理にあたり「代官」を置いた。その郡代代官屋敷が今の「東京拘置所」の場所である。
 水戸黄門でも代官は悪の権化のように扱われるが、事実、権力を笠に着た者が多かったようである。

 徳川家康の功臣本多忠勝は、「代官と徳利の首に縄は付き物」と言ったとか。関東郡代は家康の入府以来、功績のあった伊奈氏が代々あたった。伊奈氏は、歴代、質実で地味な人柄から将軍の信頼が厚く、殊に農政、利水土木に優れ、その手法は「伊奈流」と称せられた。

(代官屋敷跡・後方は塀内の官舎)
                 
 慶長年間に今の、金町、松戸、小岩、市川、栗橋、に在った関所管理の功により、3代将軍家光から西葛西郡小菅村に約10万坪の土地を拝領した。伊奈氏はこの地を開墾し、陣屋を設け、将軍の鷹狩りの「御膳所」に供したというからそつがない。

 順風満帆の伊奈家であったが、寛政4年(1792)に、12代忠尊が家事不行き届き罪で職を解かれ、領地と下屋敷は没収され家は断絶した。しかし、翌年、幕府は伊奈家の先祖伝来の功績を惜しみ、再興を許した。


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【かつしかPPクラブ】「コミニティの可能性を信じて」=斉藤永江

作者紹介:かつしかPPクラブ・正会員(2011年度・かつしか区民大学・区民記者養成講座終了)・栄養士・製菓衛生士。チョコレート製作を始め、洋菓子作り・和菓子作りに携わる。


作者HP
  

コミニティの可能性を信じて ミルクショップワタナベ 渡辺社長奮闘記

  

     目次

1.開店経緯・渡辺社長の熱い思い
2.店内の様子・配達車
3.平日の店内・外観
4.かつしかスポーツフェスティバル
5.取材を終えて・編集後記
  
 

   開店経緯・渡辺社長の熱い思い

ミルクショップワタナベは、2007年4月1日に、牛乳の宅配専門だった立石から、四ツ木・マイロード商店街に移転し、店頭販売を始めた。

社長の渡辺浩二さん・(42才・写真左)は、「みどりのおばさんが亡くなっていたのに気付かず、牛乳を配達し続けていてショックでした。地域の人が声を掛け合い、安否を気づかう、コミニティの必要性を強く感じました。」と、その動機を話した。


同商店街は、シャッター街で、ほとんどの店が閉まっている。「それでも、道行く人が気さくに挨拶をしてくれて温かさを感じました。お年寄りや子供が安心して集まれる空間を作りたい。国まかせにするのではなく、自分の力でやってみようと思いました。」
 と、その熱い思いを語った。       

     店内の様子・配達車


 店内には、牛乳・乳製品の他にも、駄菓子や豆腐、米、物産品、非常食など様々な品物が並び、200種類に及ぶ。


『ミルクの日』を作って、販売促進をしている。

「それでも、パック牛乳に比べて割高のびん牛乳は、なかなか買ってもらえない。一度飲んで頂ければ、風味の違いや栄養の違いに気づいて頂けるのですが。」と、その苦労を語った。

 配達の時には、手紙やお知らせを入れ、安否を確認するなど、牛乳ボックスの交流にも努めている。

自らデザインした車を披露する渡辺社長               

     平日の店内・外観


 店内には、子供の絵や、地域の人が撮った写真が飾られ、ベイブレード大会やクリスマス会など子供向けのイベントも開催されている。

営業に出ている社長に代わり、お店を切り盛りしていた父親(写真右)に話を聞いた。

「次男がお店を継いでくれました。地域やお子さんたちに喜んでもらえるようにと様々な活動をしていて、毎日忙しいようです。」と、体を気づかった。

「地井さんが、テレビの撮影で寄ってくれました。
突然やってきてびっくりしましたよ。」


                 かつしかスポーツフェスティバル


 10月10日の体育の日に行われる『かつしかスポーツフェスティバル2011』に出店するというので、準備に追われる渡辺社長を取材した。


           

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かつしか区民大学・特別講演会「福島からのメッセージ」=PPクラブ

 福島は3.11で大地震、大津波、原子力被害、さらには風評被害という四重の被害を受けています。暮らし、健康、仕事などあらゆる困難に直面しています。
 2011年(平成23年)8月に、福島県は復興ビジョンを策定しました。


 かつしか区民大学は2月5日(日)午後2時から、講師・鈴木浩さん(福島大学名誉教授)を招いて、ウィメンズパル4階で、特別講演会が開催された。
 鈴木さんは福島県復興ビジョン検討委員会座長である。テーマは「福島からのメッセージ~福島県の復興の取り組みに学ぶ」。手話通訳も行われた。約70人の熱心な受講生たちが参加した。

 事務局が用意した配布資料が間に合わないほど、多数の受講生だった。会場で声を聞くと、「実際に福島で苦労している人の声を聴きたい」「風評に惑わされない、自分を創出したい」というものが多かった。

 鈴木さんの講演内容の柱として
⑤福島県復興ビジョン
①東日本大震災の時代的特質
②震災があぶりだした生命・生活の軽視
③セーフティネット論と居住権保障
④なぜ「原子力に依存しない社会」をめざすのか
⑥災害救助法と応急仮設住宅問題
⑦福島県における応急仮設住宅
⑧大地震にしなやかに立ち向かうということ
⑨地域社会・地域経済再生の課題
⑩まとめ
 
 基本理念として『原子力に依存しない、安全・安心で継続的に発展可能な社会づくり」である。鈴木さんは、福島県内の現場をくまなく調査し、作成した資料をを基に理路整然と説明した。

【福島県復興ビジョン(全編)】はこちらをクリックしてください

 かつしかPPクラブの区民記者は講演後に、鈴木さんからお話を伺いました。主たる内容としては、  

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