寄稿・みんなの作品

【孔雀船97号 詩】 「眠れぬ夜の百歌仙夢物語 八十三夜」= 望月苑巳

 うっかりマグロの女房どのに「アイロンで顔のシワをとれば」と言ったら、
「あなたの足のニオイを先に取りなさいよ」と言い返された。
 天に召されたばあちゃんもさぞかし笑い転げているだろう。笑い過ぎて落ちてこないといいけどな。
 痒いのでふと腕を見たら真ん中に赤い切り取り線がある。
「それは蕁麻疹でしょ。バカな事言わないで」
 またばあちゃんに笑われるかな。
相変わらず焼肉定食、失礼、弱肉強食の我が家である。楽しいな。

 朝日新聞に掲載されているピーター・マクミランの詩歌翻遊「星の林に」は目からうろこ、なるほどと感心させてくれることが書いてある。日本人が見落としてしまう事をちゃんと発見してくれているからだ。例えば、

 梅の花誰が袖触れし匂ひぞと春や昔の月に問はばや
                (新古今和歌集、春上、源通具)

 この歌について「もののあわれ、儚さなどは日本の美学としてよく言われるが、連想についてはあまり言及されないような気がする。しかし私は、連想が日本の美学の基礎にあると思う。今回の歌はまさにごちそうのような作品だ」と書いている。

                     【つづく】

全文はこちらをクリックしてください


【関連情報】

孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳

〒185-0031
東京都国分寺市富士本1-11-40
TEL&FAX 042(577)0738

イラスト:Googleイラスト・フリーより

         

【孔雀船97号 詩】 ビスケット謀反す = 望月苑巳

ふわっ、
と、ひと吹き
素肌を駆け巡る
春の風はひとり旅
おちこちに孤独が降り積もっている
花びらのように
空には気難しい
オゾンの穴
取り返しのつかない人間の業
ぼくの武蔵野夫人は天を仰いで
ビスケットを一枚
カリリと噛んだ
仲直りした夫婦が垣根越しに
手をつないで通り過ぎる
永遠とは瞬間のことなのだと
悟る
もうすぐ穀雨ね、と
えくぼを作る
「奥さん、お届け物です」
玄関で配達人の明るい聲
春の風を払いのけ
素肌を脱ぎ捨てて
夫人が出てゆく
春の風は嫉妬して
テーブルの上のビスケットを吹きとばす
謀反は起きた
「あらあら大変」
夫人は掃除機と格闘する
慌てて地球が傾ぐ
時間が永遠を噛み砕く
春のひととき
ふわっ、と。

縦書き  ビスケット謀反す

【関連情報】

孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳

〒185-0031
東京都国分寺市富士本1-11-40
TEL&FAX 042(577)0738

イラスト:Googleイラスト・フリーより

【孔雀船97号 詩】 軍艦島の春 =  淺山泰美

わだつみの深い青のただなかに
睡る島がある
かつて 遠くから
人々が集い ともに暮し
栄えた 島
人呼んで
「軍艦島」

すべての住民が退去して
四十年余り
樹木のない島だったというが 今
朽ち果てた鉄筋コンクリートの壁と険しい崖の間に
人知れず
一本の桜の木が満開の刻を迎えている
幻影のようなこの風景を
いったい誰が見ているというのだろう

かつて
この島の住民たちは 春
舟をしたて
よその島に花見に出かけたという
何組もの家族の
若い父親と母親と子供たち
さぞかし賑やかな花見船であったことだろう
今はとおい昔のこと

何度ものコンクリート住居の屋上で
住民は草花を育てていた
そこにはどんな花が咲いていたのだろう
絶海の孤島の陽を浴びて

島で唯一の映画館の名は「昭和館」
それは今 かろうじて建物の外側だけを残し
遠い西陽を浴びている

小学校の名は「端島(はしま)小学校」
そこで学んでいた子の影が揺れる
残された住居の壁に
見おぼえのあるシールが貼られていた
かつて
私のセルロイドの文具に貼られていたものと
同じ時代のものだ
子供たちは 皆どこへ行ったのだろう
今でも 夢に
この島での記憶が
潮風のように吹きこむことはあるのだろうか

彼らは知っているだろうか
誰もいないあの島で
一本の桜の木が
来年も また次の年の春も
花を咲かせつづけることを


縦書き 軍艦島の春


【関連情報】

孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳

〒185-0031
東京都国分寺市富士本1-11-40
TEL&FAX 042(577)0738

イラスト:Googleイラスト・フリーより

【孔雀船97号 詩】   この単純さで = 坂多瑩子

「カタチをかかえていくしかないんだよ
私たち にんげんって」
なんという詩的なことばと
耳を傾けていたら
「昨日さ あちこがね」


あちこ と聞こえ
ちがうかな
なんかぐじぐじしながら
空白の輪郭が
あいまいになり
彼らの話は
とつぜん小声になり
よくある愚痴が続いている
よくあると思ったことに
ちがう
なにかが違うはずだ
ときれいにまとめようとすると
あちゃこ
花菱アチャコ あちゃこが出てきて
にぎにぎしい風が吹き
こみあげてくる愉快さに
バスの窓をたたく
バスが走っている
その正当性に笑いをこらえる
どうしてかね
にんげんらしい
そう聞こえたかどうか
にんげんたちはちゃんと歩道の上をあるき
あたしもあとを追う この単純さで
夕飯の支度にとりかかり
家族で
豆ご飯をたべる


縦書き この単純さで


【関連情報】

孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳

〒185-0031
東京都国分寺市富士本1-11-40
TEL&FAX 042(577)0738

イラスト:Googleイラスト・フリーより

【孔雀船97号 詩】   床屋で = 松下育男

お客さん

ウチの犬が生きていたときにね
どうしても面倒をみられない時には
おふくろの所に時々
預けていたんですよ

おふくろ
はじめは面倒くさがっていたんですけどね
だんだん
可愛がるようになってくれて
引き取りにいくと
ずいぶんさびしそうな顔をするように
なってきたんです

それでね
こないだ話をしたように
犬が突然死にましてね
もちろんおふくろも
ひどく驚いていたんです

でもまあ
仕方がないかと
思っていたんですけどね

こないだおふくろが
電話をかけてきて
「一晩犬を預からしてくれないか」って
言い出したんです

あっ
これはまずいなと
思いましてね

だって
ウチの犬が死んだことを
知っているはずなんですよね

だから
とうとうおふくろ惚けたかなと
覚悟をしまして

来たら様子を見て
病院に連れて行こうかと思っていたんです
それでね

来ました

来たんですけどね
おふくろ
犬の骨壷と写真を大きな袋にいれて
さっさと帰って行ったんです

翌日
返しに来ましたけどね

一晩
骨壷と一緒にいたんだなと
思いましてね

それで何をしていたんだろうと
思いましてね

一晩で
いいのかなと
思いましてね

たまらなくなってきたんですよ


縦書き*床屋で


【関連情報】

孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳

〒185-0031
東京都国分寺市富士本1-11-40
TEL&FAX 042(577)0738

イラスト:Googleイラスト・フリーより

頼りの車だが   廣川 登志男

「たまには、中の島大橋の公園でも行ってみようか」
「あら、呑気なこと言ってるわ。バラで忙しいのよ。だけど天気も良いし、たまにはワンコを連れての散歩も悪くないわね」

 こうして年末の小春日和のなか、いつものように「キャンピングカーもどき」の車に一家総出(夫婦二人とワンコ2匹)で乗りこんで、西に開けた木更津港に設けられた、赤い橋桁のきれいな大橋へ向かった。

 今では、主人の私と同じように耳が遠く足下もおぼつかない老犬の「イングリッシュ・スプリンガー・スパニエル」という長い名前の犬種である「ジャン」と、喘ぎながら高さ27mの橋をなんとか渡りきった。


 港に聳えるこの大橋が有名になったのは、「木更津キャッツアイ」というテレビドラマによるものだった。
 2002年に放映されたもので、現在では、このドラマ上の伝説が実際に話題となり、「恋人の聖地」に選定されている。今でも多くのアベックがこの橋を渡っている。我々もワンコ連れのアベックとなって散歩を楽しんだ。


 帰ろうと大橋の頂上に差しかかると、富士山の黒いシルエットがひと際はっきりと夕日に浮かび上がっているのが目に入った。

「西に富士山があるのは知っているけど、どのくらいの西なのだろうね。まさかぴったり西にあるとは思えないけどね」
「そうね。富士山が噴火したら、偏西風の影響で木更津にも相当な被害がでるって聞いたことがあるけど、あまり西にぴったりだと嫌だわね」
 興味がわいて、自宅と富士山の位置関係を調べてみたくなった。



 富士山の位置を、山頂の最高峰である剣ヶ峰とした。ここは北緯35・3607度にある。自宅は北緯35・3575度なので、富士山からみて緯度で0・0032度と、ほとんどゼロに近いところに位置する。

 これほどまでぴったりの東にあるとは想像もできなかった(byグーグルマップ、下7桁計算)。

 この角度差を距離に換算するには、35度付近の地球の半径6370kmに角度差0.0000559ラヂアンを掛ければよい。
 答えは南にたった363m離れたところが自宅となる。驚くほど富士山の真東に自宅が位置していることになる。
 363mというと、歩いて5分ほどの距離だ。同じように、東西方向の距離を計算してみると、自宅と富士山は134km離れていることがわかった。

 これほどまで我が家が富士山の真東にあるということは、富士山噴火時の灰が偏西風に乗ってまともに我が家に到達することになる。


 その影響を調べると、2004年6月に報告された「内閣府 富士山ハザードマップ検討委員会 報告書」に詳細に記載されていた。木更津近辺の降灰厚さは10センチ程度となっている。
 これによる影響は、道路・鉄道・電力・水道・下水道・建物・人体 等、多くの住環境に及び、実生活に支障を来すことが記されていた。

 噴火の前提になっているのは、1707年12月の宝永大噴火である。その規模の噴火を前提にしたシミュレーション結果では、80キロほど離れた横浜でも時間あたり1~2ミリ程度の断続的な降灰があり、最終的には10cm程度積もると予想されていた。

 木更津でも同様な降灰が想定され、最終的には8cm前後積灰するとの結果がでていた。

 この程度の厚さでも被害は甚大で、過去データを元にした影響の度合いは、道路では5cmも積もると10キロ以下の速度でも危ないし、10cmでは走行不能に陥る。加えて降雨があれば3cmでも走行不能とのことだ。

 鉄道ではレールに3㍉も積もると走行不能になるし、電力においては3㍉程度の積灰に雨があるとショートして送電不能となる。

 建物も10cm程度の積灰で平米あたり100キロの重さとなるため、木造はもとより、大屋根の体育館などでも倒壊の危険が高まると言われている。降雨が加われば「推して知るべし」なのだ。

 遠い富士山の噴火と侮ることはできない。真東の木更津は、本気になって災害対応の施策を検討しなければならないのだろう。
 専門家によると、富士山噴火は過去のデータから、近い将来高い確率で起こると予測されている。


 こうしてみると、現在の「コロナウィルス災厄」に加え、関東大震災、東海地震、くわえて可能性のある「米中戦争(+尖閣日中衝突)」などの人災も含めると、いかに対策を講じる必要性が増しているかをひしひしと感じてしまう。
 
 大きな災害が発生しても「キャンピングカーもどき」の愛車で、ワンコも入れた全員でただちに遠くに逃げれば問題ないと考えていたが、そんな悠長な考えは捨てなければならないのかも知れない。
 だとすると何を準備すれば良いのか。まったく見当がつかない。


イラスト:Googleイラスト・フリーより

朝風呂  青山貴文

 新年の真っ青な空に、温かそうな太陽が光り輝いている。今年の正月三が日は、コロナ禍のためにどこへ行く当てもない。朝から実業団や大学対抗東京―箱根間往復駅伝のテレビ中継を観ながら、酒の強くもない私がよく飲んだ。

 四日目に正気に戻ろうと、朝風呂に入る。静かな朝の冷気の中、ゆったりと澄んだ湯に身を沈める。湯面から白い湯気がたち昇っている。
 腹を大きく膨らませながら肺一杯に清々しい冷気を鼻から吸い込んだ。次に、腹を思いっきり凹ませながら、口から肺の中の空気を全て残らずゆっくり吐き出す。いわゆる複式呼吸を繰り返す。体の芯から、アルコール分が抜けていくようだ。



 一方で、ここで朝風呂で飲んだら、どんな心持になるだろう、と誘惑にかられた。
 それというのも、若いころ何かの小説で知ってお燗をした徳利とお猪口をお盆に載せ、自宅の朝風呂に浮かべた、という作品を思い浮かべたからだ。作者も題名も忘れた。

 たしか35才の時だったと思う。それを温泉地の露天風呂で試してみた。しかし、お猪口一杯で気持ちが悪くなった。もともと酒は強くないし、なおさら風呂酒は私には向いていないと思った。


 あれから数十年経った。酒にも強くなった。いまならば、何か風流で日本酒も美味く飲めるだろう、と朝風呂のなかで、誘惑はなおも強まった。

 日本酒と言えば、思いだすのは生前の父親である。ふだん静かな父が呑むと元気になり多弁となった。

 父は、若い頃、東北大の金属材料研究所に勤めていた。研究所の安月給では結婚できないと、東京高周波(株)の熱処理技術者になった。戦後、高周波(株)が縮小され、退職し、大崎の町工場を転々とする。
 町工場に行くようになって、社長と意見が合わず、コップ酒を飲むようになった。家人には分からない何か難しげな話をする。コップの酒が無くなると、ニヤッとして一升瓶からコップに新たな酒を注ぎ際限なく呑み不平を呟く。

 家人が止めると大声を出して反抗し、遂には目が座ってくる。「日本酒は父を狂わす氣ちがい水」と思い、私は好きになれなかった。
 
 父は酒の力でなんとか定年まで勤め、私を私大に行かせてくれた。

 父が亡くなり、二十数年経ったころから日本酒の旨さがわかるようになった。「父を狂わせた日本酒」という呪縛から解き放され、私は後期高齢者となっていた。

 日本酒はビールやワインなどの洋酒よりも香りとコクがあって美味い。夕方になり周囲が暗くなると、あの芳香といい、喉元を過ぎる豊醇な味覚を無性に味わいたくなる。

 昨年の暮れ、正月のお屠蘇用に高価な4合瓶「久保田」を購入し妻に渡した。

 それとは別に、数日後、清酒や吟醸酒の種類の異なる一升瓶3本を、時間をかけて選びぬいた。余った熊谷市商工会のプレミア付き商品券(1枚千円、13枚1万円)7枚全部を使って購入した。それらを二階の書斎の隅に隠し置きした。
 

 とりたてて、隠す必要もないが、一度に一升瓶3本は多すぎる。年取った亡き父が、家人に分からないように一升瓶を隠し飲んでいた。
 その気持ちが分かるようになってきた。一人こっそり飲むのは何とも言えずうまい。
 そのうちの一本目の吟醸酒「越後桜」や二本目の清酒「剣菱」を飲み干した。今は3本目の清酒「越の寒梅」を呑んでいる。私には二本目が一番合っているようだ。


 話が脇道に逸れてしまったが、朝湯にどっぷりつかっていると、昔のことがいろいろ思い出されてくる。

 小学4年生の頃だったと思う。
 立川市曙町の集合住宅に住んでいた。父は、その頃、大崎の街工場に勤めていたが、数年して失業したから、心労も多かったのであろう。休日には、そのストレスを和らげるべく、昼間から家人に内緒で日本酒を飲んでいたらしい。けれどもその頃は、まだ飲む量も少なく、顔に呑んだ形跡も表わさず、静かなものだった。


 日曜日の午後になると、明るいうちに、歩いて5分くらいにあった銭湯に、父とよく出かけた。
 昼間の明るい銭湯の洗い場は、大勢の人で混んでいた。私は胡坐をかいた父の大きな背中に、石鹸を塗りたくったタオルを両手で持ってこすっていた。頭を垂れて気持ちよさそうにしていた父が、ぐらりと横になり洗い場のタイルの上に寝込んでしまった。

 当時、私は瘦せた貧弱な体をしていて、父を抱き起こす力もなかった。
 動転して、頭が真っ白になった。急いで服を着て番台のおばさんに一言も言わずに、母親を呼びに駆け戻った。その後、父母たちがどのようにして帰宅したか定かでない。ただ、あの出来事は、未だに脳裡にこびりついている。


 正月四日、いま朝風呂のなかで、徳利とお猪口を載せたお盆を浮かべ、ゆっくり酒でも飲もうと思った。
 考えるに、ここは残念であるが、止めておこう。朝風呂で倒れるのを恐れてまで、酒を飲むことはないだろう。妻子に迷惑を及ぼす。

 思い起こせば、父と一緒に杯を交えたことは一度もなかった。あと数年して、亡き父のところに行ったら、二人してお湯の中で杯を交わしたいものだ。

イラスト:Googleイラスト・フリーより

荻外荘(てきがいそう)通り  井上 彦清

 フーテンの寅さん風に言えば、
「わたし、生まれも育ちも現在も、東京杉並荻窪です。祖父の頃から数えて三代目です」

 令和三年・コロナ二年が始まってもう一月中旬です。今日一六日は、日本で初めてコロナ感染者が出てからちょうど一年が過ぎました。

 昨年四月七日に新型コロナイルス防止のため緊急事態宣言発出があって以降、我が家は、巣ごもり生活を余儀なくされている。今年に入ってから感染爆発を受け、政府はやっと年明け七日に再度七都府県に緊急事態宣言を発出した。
「とにかく国のやることは遅い」とテレビの前でいつも怒っている。


 家に居続けることで、注意しなければいけないのは、体力、筋力が落ちることだ。いざ歩こうと思ったら思ったように歩けないでは情けない。

 その危険を察知した我が家のコロナ検疫官である妻は
「あなた、今日は、天気がいいから散歩をしなさい」
 と勧める。

 彼女には、先を読む能力があるようで、絶えず先回りしてくるので、ときには、癪に障る。
一日合わせて一時間のヨガ・真向法、テレビ体操などを、メニューを時々入れ替えながら半世紀近く続けている。

 朝晩の瞑想も、三十年を越える。
 しかし、これだけでは、十分ではない。外に出て、新鮮な空気を吸い、陽射しを浴びながら自転車を漕いだり、歩いたりすることが重要なことを、コロナ下で嫌というほど痛感している。


 コロナ前は、自宅からの散歩の方角を、東西南北まんべんなく決めていた。しかしコロナ後は、我が家から南の方角、最寄りの荻窪駅の南側が定番の散歩コースとなっている。最近、妻から「また南側なの」とよく言われる。

 
 北側方面は、最近大規模の老人ホームの建設がアチラコチラで進んでいる。わたくしも八十歳に近づき、老人ホームが身近に迫ってくるみたいで気分が重くなる。
 妻からも朝刊の折込広告を見ながら
「この辺って、老人ホームだらけになっちゃうわね」
 とよく言っている。
 なんとなく北の方角は暗い感じがして、散歩の足が遠のいている。



 それに比べ、荻窪駅の南側は、荻外荘・大田黒公園・角川庭園の三庭園や、昨春、新装なった杉並区の中央図書館もある。
 荻窪は、百年前は「西の鎌倉、東の荻窪」と呼ばれた、別荘地のイメージだった。関東大震災後、文化人を含む多彩な人々が暮らす、緑豊かな郊外の屋敷町に変貌を遂げた。


 私が、四季折々に足を運ぶ「大田黒公園」の由来を見てもわかる。戦後、NHKラジオの番組「話の泉」のレギュラーとして知られた音楽評論家の大田黒元雄氏は、昭和八年にこの地に移り住んだ。
 洒落た洋館を建て、八十六歳で亡くなるまで四十七年間音楽活動を続けた。氏の屋敷跡を杉並区が日本庭園として整備し、昭和五十六年に開園した。

 園内には、樹齢百年を超える銀杏並木や、武蔵野の巨木がうっそうと茂っている。桜や紅葉の季節など四季を通じて訪れる人の眼を楽しませてくれる。
 駅から歩いて十分ほどと交通の便も良い。祖父が、神田から移って荻窪の地に家を建てたのも昭和八年だ。幼い時父から、移り住んだ頃は、家がポツンポツンと点在していたと聞いた記憶がある。


 三年前に、自宅近くのゆうゆう桃井館で開催している、「おとこのおしゃべり会」に荻窪地域区民センター副会長をお呼びして講演会を企画した。

 同センターは、設立四十周年記念事業で『荻窪の記憶』とりまとめた。
 今回はその中の「大田黒公園周辺百年の歴史」を、戦前に撮影された貴重なホーム・ムービーの映写を交えながら、興味深い話の数々を聴いた。同センターでは『荻窪の記憶』を伝える道の愛称を公募した。その結果「荻外荘通り」と名称が決まった。


 この地域は、昭和史の舞台になった国指定史跡の「荻外荘(近衛文麿旧宅)」のほか、四つの国登録有形文化財「西郊ロッヂング」(昭和初期に賄い付き下宿として建てられた。現在も形を変え営業中)、「旧大田黒家住宅洋館」、「渡邉家住宅主宅(戦後旧八幡製鐵社長を勤めた渡邉義介氏の敷地にある、建築家吉村順三氏による昭和の名建築)」、「幻戯山房(旧角川家住宅主宅、俳人で角川書店の角川源義氏の旧宅)」が至近距離に集まっている都内でもまれなエリアだ。


 近くを流れる善福寺川が造り出す起伏豊かな地形も魅力の一つだ。

 蛇行する川の両側には、桜並木や、常緑樹、広葉樹の多彩な樹々がそびえる。例年、桜や紅葉の季節には、妻とともにサイクリングで訪れる。
 私は、距離と時間を稼ぐのと、自転車運転の勘を維持するため、自宅から駅前の自転車駐輪場まで自転車を使っている。そこから南側を散歩するのが定番になっている。

                                   
「荻外荘の道」に面したマンションに住んでいる俳句仲間の女性が、季節の折々に、中央図書館横の「読書の森公園に睡蓮が咲いているわよ」とか、「大田黒公園の紅葉が見頃で王朝絵巻みたいよ」と知らせてくれる。

 こうした情報にも助けられ、俳句のテーマや、スケッチのモチーフになったりして、「荻外荘通り」は、私の創作活動の源泉になっている。


イラスト:Googleイラスト・フリーより

似た者どうし  金田 絢子

 103歳の叔母(母の妹)が「水も受けつけなくなって、医師から、もう長くはないと言われた」と、従妹が電話をかけてきた。

 令和2年9月20日のことである。私はちょうどお昼を食べていた。そこへ、電話の音を聞きつけた長女が二階から降りてきた。報告しながら涙がこぼれた。大層高齢であるし、覚悟はしていたはずだのに。

 亡くなった私の母は活発で、叔母はどちらかというと大人しい人だった。私は、その点母より叔母に似ている。



 私と娘三人は、電話があった日の翌日、大田区中央にある叔母の家に出かけた。もともと大きなパッチリした目の叔母が、うっすら目を開けているという按配だったが、私の来たことがわかった様子だった。
 両手を頭の上まであげて、しきりに動かす。私たちはかわるがわる、その手を握った。叔母は、力強く握りかえしてくる。

 叔母の顔は皺々ではなく、なめらかであった。私の母が死んだ時夫が「こんなに美人だったかなぁ」と死に顔を評したが、その時母はまだ79歳だった。103歳の叔母の顔には、母と同じ穏やかな表情に加えて仏さまのような清らかさがあった。

 手もよく動かすし、顔には艶があり、わずかだが目もあけている。私たちは“まだ当分大丈夫ね”と目交ぜて語り合い、それでも後ろ髪ひかれる思いで帰途についた。


 あくる日、従妹から叔母が亡くなったとの知らせが入った。よかった!きのうみんなで行って、会って、手を握ったり、すっかり毒気のとれたスッキリと美しい顔にも接したのだったと、思いは盡きなかった。

 この私だって、余生を生きているのだし、よろよろと老いの道を歩んでいる。早く死んでしまいたいと思う日もある。


 叔母が亡くなってひと月余り経った11月9日、食後に食べた柿の皮を、ゴミ容器の足許のペダルを踏んで捨てた。
 次の瞬間、よろめいて尻餅をついた。後頭部が、フローリングの床にあたって音をたてた。

“冷やさなきゃ”と咄嗟に思った。
 幸い転んだのが、冷蔵庫のまん前だった。保冷剤をとり出して、髪の上からあてた。瘤は出来たが、大したことなさそうだ。
 体のそちこちが痛いのに気づくのは、2、3時間経ったころで、ことに右脇腹から背中にかけて、ちょっと体の向きを変えるだけで、えぐられるように痛い。尻餅をついたあと、急いで起きあがろうとしてひねったものか。


 尻餅をついたのは月曜日だった。
 3日後の木曜日、いつものように、糖尿のくすりをもらいにちかくの内科に行った。医師に、尻餅をつき頭を打った話をした。
 すると、「脳外科で診てもらったほうがいい。この足ですぐ行くように。紹介状を書くから」とたたみこむように言われ、びっくりした。

 CTの結果は、頭の骨にも、頭蓋内にも異常は認められなかった。実は、これより二週間ほど前には、包丁を落として、右あしの甲を傷つけ、血が沢山出た。
 この時は、自らすすんでレントゲン検査を受け、結果は問題なしと出た。

 そんなこんなで
「お母さんは百まで生きるわ」
 と長女が言ったら、すかさず次女に
「お姉さん(お母さんを)頼むわね」
 と釘をさされたんだとか。ふふ、娘たちのやりとりが、目に見えるようだ。


 ここらで叔母の話に戻ろう。
 軍医として戦場にも赴いた叔父は大分前に他界したが、どんなに叔母を愛していたことだろう。私も幸せな結婚をした。私は叔母に似ているし、それに叔母と同じ三人の娘を持っている。

 私も仏さまのような顔で、この世に別れを告げる日がきっとくる。しきりにそんな気がする。


イラスト:Googleイラスト・フリーより

感謝のお正月  武智 康子

 テレビから除夜の鐘が聞こえ、令和三年の新年を迎えた。昨年は、コロナで始まりコロナで終わった。さて、今年は、どうなるのだろうか。

 例年ならば、二人の息子達家族と共に三家族で、大晦日から二泊三日で都内のホテルに宿泊していたのだが、今年は無理だ。私は、一人正月を覚悟していた。しかし、二人の息子達の企画で、元日の朝、いつものホテルの京料理の料亭の個室で、祝い膳を食べることになったのだ。

 長男夫婦が私を迎えに来てくれた。私は、夫の写真を手提げにそうっと入れて出かけた。そして、料亭の部屋に入ると、六人掛けのテーブル二脚に七人が距離をとって座り、上座に夫の写真を置いた。私が夫の代わりに新年の挨拶を行い、いつものように皆で祝い膳を囲んだ。

 すると、店主が夫の写真の前にお水とお雑煮を供えてくれた。私は、店主の温かい気持ちに感謝した。久しぶりに家族が皆で顔を合わせたが、大きな声で話すことは出来なかった。
 しかし、皆が健康であることに心から感謝した。きっと、神様になった夫が家族みんなを守ってくれているのだろうと話し合った。



 会食後は、密を避けて東郷神社ではなく、地元の氏神様に初詣でをした。そこでも十分ほど並んだが、それぞれに今年の目標の成就やコロナの終息、そして何よりもみんなの健康を願い、新しいお札と破魔矢を頂いて私宅に集まった。
 皆が私宅に集まったのは、本当に久しぶりだった。

 そこで始まったのが、「百人一首」だった。それこそ何十年ぶりだろうか。私は、すっかり忘れていると思っていたが、いざ、始めてみると、私は読み手ではあったが、上の句を一言読むと下の句が自然に頭に浮かんだのだ。

 私自身がびっくりした。若い時に学んだことは、思い出せるのだ。今、八十路で学ぶことはなかなか覚えられないのだ。若い時にしっかり学ぶことの大切さの実証だ。即座に孫たちに伝えた。やはり沢山取ったのは、大学生の孫達だった。
「先に取ったのは私よ」
「いや、僕だよ」と大賑わいのかるた取りだった。

 私も、久しぶりに大笑いした。こんなに笑ったのは何年ぶりだろうか。

 夕食もちゃんと企画されていて、正月は元日だけ店を開ける私達が行きつけの老舗寿司屋にすでにテークアウトが予約されていて、息子たちが取りに行っている間に、お嫁さんたち二人がお吸い物やサラダなど作ってくれた。そしてリビングの八人掛けの大きなテーブルが、久しぶりに一杯になった。


 すると、今春、大学を卒業して大学院に進学する孫が、神殿の前に置いてある夫の写真を持ってきていつもの席に置いた。
 そして、一言ボソッと「僕も研究者になろうかな」と言った。この一言は、私の脳裡に強烈に刻み込まれた。夫の父と私の父の二人から三代続いている研究者魂が、専門は違っても四代目に受け継がれるかもしれないという大きな夢を、私に与えてくれ元気をもらった。夫も喜ぶだろう。
 私は「応援するよ」と答えた。それに続けて、「今日は、皆でいろいろ企画してくれて、本当に有難う。楽しかった」と言って、心から感謝の気持ちを伝えた。


 二つの大きな寿司桶は、あれよあれよという間に無くなっていき、お嫁さんたちが作った料理もなくなり、こんなこともあろうかと、私が用意していた苺とアイスクリームのデザートを食べながら、賑やかで楽しい令和三年の元旦の夜は、更けていった。


 十一時頃、そろそろ帰り支度をはじめ、最後に神前で「おじいちゃん、また来るね」と孫たちは手を合わせていた。
 そして、帰り際に、次男一家の孫は「おばあちゃん、コロナにかからないでね」、お嫁さんは「お母さん、くれぐれも気を付けてください」、次男は「お母さん、早く寝るんだよ」と言って、孫の運転で帰って行った。
 長男のお嫁さんは「お母さん、無理しないでくださいね」、最後に家を出た長男は「御袋さん本当に、気を付けてくれよ。何かあったら、すぐ連絡くれよ」と言って、車を発車させた。私は、自動車がマンションの駐車場を出て行くまで見送った。

 長男夫婦は、私宅から東の方向に車で十五分くらいの所に、次男一家は、私宅から南の方向にやはり十五分くらいの所に住んでいる。

 私は、皆を見送った後、家族皆が、私を心配してくれているのだと、目頭が熱くなった。

 五十代半ばの二人の息子夫婦は、日頃は、それぞれに会社の仕事で忙しくしており、一人暮らしの母親を、せめてお正月くらい賑やかにしてあげようと、二家族でいろいろな企画をしてくれたことが、とてもうれしかった。
 このことは、生前の夫が築いてくれた武智家の家風であり、家族の絆であろうとあらためて、私は夫と家族に心から篤く感謝したのだった。

 私は、今年も十分に健康に気を付けて、コロナ禍を乗り切りたいと心に誓った。

イラスト:Googleイラスト・フリーより