A020-小説家

ノンフィクション・9月学友会 北千住に・1人現れず

 学友5人は毎回、各人のテリトリーである飲み屋、居酒屋などを紹介し、渡り歩いている。人間同士でも、飲み屋でも、初めての場所でも、新たな出会いや新発見は楽しいものだ。

 暖簾(のれん)を潜った飲み屋が安価で美味しい。この学友会のテーマの追求に合致したならば、至上の幸せを感じるものだ。一ヶ所で飲む、という価値観も悪くないが、新発見を得るにはほど遠い。驚きとの出会いは、足で各地を動き回るほどに得られるものだ。ある意味で、酒飲みの口実かもしれないけれど。


 今回は、元教授が約30年前から贔屓にする、東京・北千住の焼き鳥屋の『五味鳥』だった。マスコミの取材はいっさい応じず、その道の「ツウ」が好む店らしい。

 元教授の場合は、飲み屋情報が狂うことはない。前評判に失望されられたことは一度もない。それだけに、今回は期待が高まった。「取材拒否の店」。それだけでも、胸が高鳴り、気持ちがワクワクする。


 ヤマ屋がまたしても大チョンボをやらかした。
『9月27日。この日は元銀行屋がだいじょうぶだから、夕方五時、北千住の丸井・正面玄関に集合』という案内をCCで送った。
 当日の同時間になっても、元銀行屋がただ一人現れなかった。
『五味鳥』は超人気店だから、もたもたすれば座る席がない。5人掛けのテーブルは一席しかないという。元教授の顔には焦りの表情があった。

「先にいって席をとっておく」
一人で五人分の席となると、気が引けるらしい。元教授は元蒲団屋を誘って駅裏の赤提灯街に消えた。

「いけない。おれは元銀行屋に電話をするのを忘れた」
 ヤマ屋がこの場に及んでやっと気づいたのだ。 

 元銀行屋はケイタイをもたず、パソコンを持たず、CC連絡がつかない、現代のアウトサイダーだ。前日までに電話がなければ、元銀行屋はどこに行ったらよいのか、それが判らない。
 集合時間になって気づくヤマ屋の無神経さ。すべてが手遅れだった。それでも、ヤマ屋が銀行屋の自宅に連絡した。細君が出てきた。


「主人は楽しみにしていたのにね。昨夜まで連絡を待っていたのにね。今朝、連絡がないから、学友会は流れたんだといい、職場に出かけた」
 細君から、(不定期勤務の)職場に連絡を取ってもらった。数分後には、当人からこちらに電話がかかってきた。
「埼玉県の蓮田にいる。いまから北千住なんていけない」
 と怒りの口調だった。
「それでも、何とか来いよ」
 ヤマ屋の厚かましさと押しの強さも一級品だ。
「1時間半以上かかる。今回は止めだ」
「顔を見せるだけでも、いいじゃないか」
「行かない」
 強情さは元銀行屋の信条だ。それは五人のなかでも随一だ。
 押し問答の末に、ヤマ屋は説得に失敗した。

  
                     
 そばにいた元焼芋屋がすかさずこういった。
「本当に、おまえはいい加減だな。元銀行屋が怒るに決まっているだろう」
「元焼芋屋から、いい加減だと、それだけは言われたくない」
「まあ、誰でもミスはある。ただ、ヤマ屋は多すぎるのが玉にキズだ」
「仕方ない。『五味鳥』にいこう、なんでも横丁入口から100メートルほどで、右手に看板が出ている話だ」

 ふたりは両側にネオンが輝く裏通りに入った。『五味鳥』の看板は思いのほか、かんたんに見つかった。予想通り間口が狭く奥行きもさほどない。まさに東京・下町の味わいのある店の規模だ。奥の5人用テーブルが、元教授と元蒲団屋で確保されていた。
 周りの客をみると、ネクタイ姿はいない。ほとんどが独り客で、カウンターの席に座る。

 ヤマ屋が元銀行屋への伝達ミスを教える。
「気の毒に。楽しみにしていたのに」
 元蒲団屋がことのほか同情していた。他は無言だった。4人の間ではずっこけた重い空気が漂う。失態から元銀行屋がいないのに、「乾杯」もないが、ともかく生ビールで盃を挙げた。
 この店の特徴は、「梅サワー」とか、「レモンサワー」とかを注文すれば、他との違いがわかる。一般的には、焼酎一本、グラス、レモンなどが出てくるものだ。『五味鳥』は壜(ビン)にブレンドされて出てくるのだ。カウンターやテーブルが狭くても、有効利用できる。なるほど、考えている、と思えた。


 焼き鳥は一級品だ。肉は柔らかく、味付けがことのほか上手い。4人が口を合わせたように、美味しいを連発。それは過去に味わったことがない、まろやかな焼き鳥だ。決して大げさな言葉でない。
 焼き鳥一筋の腕自慢か。壁のメニューもシンプルで、焼き鳥がほとんどだ。冷奴すらなかった。

「次回はここにして、元銀行屋を入れてリターンマッチだ」
 元蒲団屋が暗さを払拭うような口調で、提案をした。全会一致だった。髭のマスターがなおも極上の焼き鳥を提供してくれる。それでいて、値段は高くない。

 元教授が足立区にすむ以前の話し、つまり新婚時代の住いの話題を提供した。妻の実家は資産家だった。援助を断り、『新婚が住める家を求める』という、新聞の二行広告を出したという。タナゴが大家を求める。現代では実にめずらしい。そういう事例すら初耳だった。
 掲載後に、8軒の候補があった。かれは選別し、東京・駒場に決めた。貧しい新婚時代だった。『神田川』という歌が流行ったころか。それを地で行くような、貧困生活だった。見かねた妻側の実家からの援助はどこまでも断りつづけた。
 意地を張れば精神的には強くなるが、物質的には悪化する。見栄を張れば、気持ちは高揚するが、懐は細く萎んでしまう。

「男の意地」を貫き通した挙句の果てに、大学時代の奨学金が払えず滞納したという。日本育英会に頭を下げたところ、「規則は守れ」と冷淡な口調で、叱責を受けた。惨めな思い、言いようのない羞恥心が心を乱したという。

 貧乏な新婚さんは東京・駒場から、当時は辺鄙だった足立区でも、さらに竹ノ塚駅からバスの便しかない僻地に移り住んだのだ。それが約30年前だった。安月給の勤め人だったかれは、北千住の路地裏の飲み屋との付き合いを始めたのだ。

「あのころ沖縄のママがいた。沖縄料理を食べさせてくれる、いい店だった」という。沖縄の女性は目がパッチリして美人が多い。料理よりも、美顔に惚れていたのかもしれない。
「実子がハワイに渡ったことから、跡継ぎがいなくて、弊店した」。元教授の秘められた心はそこで終止符だ。
「北千住の裏通りの飲み屋街はここ十年で様変わり。情緒がなくなった」と強調するのだ。それは沖縄のママとは無関係ではないらしい。

 歴史好きのヤマ屋が口を挟んだ。「奥の細道の時代は、北千住は第一日目の宿場だ。遊郭が建ち並んでいた」と話す。当時は男だけで旅する。女は旅芸人など一部をのぞけば、通行手形など発行されなかった。
 大山詣で、富士講、伊勢参り。信仰心は大儀であり、男が女郎屋遊びをする口実だった。だから、江戸時代の東海道の品川宿、中仙道の板橋宿、たぶんにもれず千住も遊郭で栄えていた。地方も同様だ。「富士の女郎衆はのーうえ」という歌にも歌われている。

 他の3人は『五味鳥』の極上、極秘の味に舌鼓を打つ。ヤマ屋の女郎話しの講釈には興味を持たず、ひたすら食べることに精を出す。
 ヤマ屋はあきもせず女郎屋、遊郭、赤線地帯の話題に固執する。全員が売春防止法で遊郭が消えたころ、やっと性に目覚めた年代だ。頭のなかで、遊郭などは時代考証できないらしい。

「実はきょうが目のレーザー手術の日だった」
 元蒲団屋は医者通いが嘘のような飲っぷりだ。『病気は一夜にして治らない。きょうの学友会は一夜にして妙薬になる』そんな類の話ぶりだ。元蒲団屋はもともと中国史学のほかに、『家庭医学百科』が座右の書だ。大病で死にかけては生き永らえている。二度や三度ではない。

 元蒲団屋が病死したら、だれが弔辞を読むか。くじ引きで決めようか。そんな華やかな話題もあった時期がある。元蒲団屋を見ていると、まさに『大病は長生きの源』という格言が生まれてくる。少なくとも、もう学友は元蒲団屋の内臓や眼球の奥まで詮索しなくなった。
「九州に嫁いだ実妹の、その娘が東京にいるんだ。近々結婚する」と話す。だから、元蒲団屋は学友会で、結婚式の酒宴の予行を兼ねているのか。
 かれは過去の経験を買われ、最近はアパレル業界の販促ディスプレーのしごとを手伝っているという。それも早朝から夜まで。ハードで、出張もある。死神もあきれて、もう相手にしたくないのだろう。


「学友会は、年内にも海外でやりたい。実現できていないな」と元焼芋屋が言った。
 こうなると、元教授の出番だ。先月にアラスカにいってきたという。アンカレッジから数万トン級の観光船に乗った。アメリカ人が大半で、日本人は30人くらいだった。
「天候が悪くてどうしょうもなかった」
 寄港地の上陸はぬかるみを歩く、散々な旅だったという。流氷の崩れる情景だけは絶景だったのか、多弁だった。

「オーストラリアは面白くない。学友会で行くときははずそう」と元蒲団屋がいった。理由を聞いてみた。前回、訪問した先がオーストラリアで、元蒲団屋が大好きな博物館、資料館を回ったらしい。結果として、オーストラリアは歴史が浅いから、面白くないと強調した。
「いつの時代に、興味があるんだ」
 ヤマ屋が訊いた。
「中国の宋の時代だ。いい文化が存在していた」
「行く先が間違っている。ヨーロッパの囚人がオーストラリアに流されてきたのはいつの時代だ? 近年だろう。世界で最も歴史が浅い国にいって、中国・宋の時代に伝来した物を探そうとする、その発想がおかしい」と揶揄されていた「オーストラリア行は女房に押されたからだろう?」と訊いても、本人否定する。真相は不明だ。

「佐賀北高校の優勝」の話題に及んだ。名前を忘れだが、満塁ホームランを打った選手には日本中が感動した。公立高校だけに、胸がすかっとした。
 元焼芋屋は佐賀県出身なのに、諸手を上げて賞賛していない。むしろ、なん癖をつけている。どうも、佐賀と唐津は歴史的に敵対関係にあるらしい。羨望、ねたみ、贔屓の引き倒し。そんなところだろう。

 恒例のはしご酒で、二軒目は『さかなや』だった。ここも、メディアの取材を嫌う店らしい。マスターのメニューの字は達筆だ。ほれぼれする。
 マスターはかつてテノールの歌手だったという。それを受けて、元焼芋屋が夜に間違って隣の家に上がりこんだ、そこの婦人と「第九」を年末に歌うという。怪しい関係かと思いきや。どうも別の理由があるらしい。次回には聞いてみたい。

   (アラスカ関係写真提供:元教授) 

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