A020-小説家

第13回『元気100エッセイ教室』作品紹介

 エッセイ教室は、人生経験豊富な、いい素材を持つ受講生たちの集まりだ。さらには熱意に満ちている。講座はスタートしてから一年余りで、文章、文体の基礎を学んできた。

『何のために、エッセイを書くか』という点も、それぞれが会得してきた。このさき、公募エッセイで受賞作品を狙う。機関紙などに寄稿する。多くがエッセイストの道を進むだろう。
 それには他と比べて秀でる、差をつけることだ。その技法を凝縮して一言で語れば、作品の求心力と遠心力の違いにある。

 エッセイを求心力で書いた作品は読者がのめり込み、完成度の高い作品になる。
 遠心力の作品はあれもこれも書き散らすために、作品に山場がなくなり、平板になる。分裂、冗漫、散漫な3悪の印象の薄い作品になってしまう。
 教室のレクチャーでは、技法としての求心力と遠心力の二点について説明した。

 今回の提出作品は16編である。良作が多い。一作ずつ紹介していく。


塩地 薫   一 等 三 角 本 点


「私」には変な性癖がある。「えっ、ほんとかな」「どうして」「どうなってるの」と思うと、無性に確かめたくなる。確かめたからといって、どうということもない。書き出しから、探究心の強い「私」をのぞいて見る。

 ふだんの散歩コースには「天王の森公園」がある。石碑には標高165米で、多摩市で一番高い所だ、という。その説明には驚く。
「一等三角本点」という標石があり、日本には400個しかないという。その数の少なさに、「ほんとかな?」と疑問を持った。
 調べてみると、東京都では、日本最東端の南鳥島と、日本最南端の沖ノ鳥島とわずか3ヵ所なのだ。「天王の森公園」の貴重な三角点も、多摩の人はほとんど違いない、と思いを新たにするのだ。

 この公園で、「明治天皇御野立所」と刻まれた記念碑を見つけた。明治15年同17年の2回、明治天皇が兎狩りに来て、ここに立たれたと記す。天皇の行ったところを聖蹟という。昭和5年には、多摩聖蹟記念館が造られた。昭和12年には京王線の駅名が聖蹟桜ヶ丘に変更された。

 正確な地図を作る測量には多摩で一番高い、見晴らしがよい場所は好都合である。「私」はそれだけでないと考える。公園の石碑と資料から解析、分析をおこなった結果として、
「東京都の本土にある唯一の一等三角本点は、明治天皇の兎狩りが重要なキーポイントになった」と信じるのだ。
 地図が好きな人には、妙味のある作品だ。「私」の性癖とはいえ、取材力と観察力がよく利いている。一つひとつの新発見と、解析と、そして性癖とがうまく描かれている。
 地図と数字に弱い読者でも、「私」が抱いた疑問で、つぎつぎに引っ張ってくれる作品だ。


藤田 賢吾   メビウスの輪


「浜までは 海女も蓑着る 時雨かな」。
 雨が降る浜辺へたどり着くまで、時間はかからないはず。海女は殆ど裸同然で海にもぐる。しかし、蓑を着て歩いていく。この句は、「私」の妻が、作品の美学、心意気がいいと気に入っている。

 妻はベッドメーキングもしっかり。ガラス窓もしばしば磨く。時間がない、と言いながらも、懸命に身体を動かす。次々に片づけ、きれいにしていく。「どうせ夜寝るときに、また掛ければいいじゃないか」と夫の「私」は、ベッドメーキングの妻の行動を見ている。
 そこには海女の句に共通するものをみる。

 入社研修で、仕事の仕方を習った。「一番重要なことを、まず、なんとしてもやり遂げるように」と、効率よく仕事をする指導があった。嫌いな仕事よりも、好きな仕事を先に進めてしまう。すると、重要度の高い仕事がおろそかになる。「何を、もたもたしているんだ」と、お叱りが飛んでくる。

「私」は食後の皿洗い、掃除の手伝いをするようになった。職場勤めが身についており、何が重要か、効率的にやるには、という「左脳」の観点から始める。
 しかし、妻は「家事はメビウスの輪だ」という。朝使った食器を洗っても、お昼には、また同じように汚れている。フライパンの底を磨き上げても、それで終わりとはいえない。家事に進歩や発展、終わりがない。

 会社の仕事は、仕上げれば完成、契約が取れたら、「それっ」と祝杯をあげる。終わったら、「打ち上げ」だとスタッフや、クライアントを交えて、盛大に飲み明かす。

 いまの「私」はフライパンを磨き上げている手を、ふと止めて、底を磨いてどんな役に立つのだろうかと考える。なべ底は料理に関係ないし、単なる自己満足でしかない。「つかの間の美しさ」を、誰に見せるわけでもない。
「私」はやがて急ぐことよりは、きれいで、気持ちのいい方がうれしくなることにも気づいた。家事において重要なことは、効率や責任よりも、心地よい気分を優先する「右脳」の働きなのだと発見する。
『いつの間にか、ビジネス感覚から、少し変わってきている自分に、思わず苦笑した』と結ぶ。

 退職後の「私」の日常のありふれた素材を使いながら、結末まで一気に読ませてしまう。夫婦間の小さなエピソード、会社時代と重ねあわせた対比が妙味な作品である。


森田 多加子   身の丈の家


 昭和30年代の新婚時代。練馬・小竹町に住む。大きな家の離れで四畳半二間と、キッチンである。『一歳の長男を中心にした、親子三人がままごとのような生活を充分に楽しんだ』と情感から書きだす。
やがて、吉祥寺の社宅に移った。六畳、四畳半、三畳とキッチンだった。「わあ、広くなったわねえ」と思わず歓声をあげた。

 同じ頃、九州にいる夫の母と、半身不随の父親の同居となった。二番目の子どもが生まれ、家族は一挙に六人になった。広いと感激した家は狭い家に変身した。各部屋は満杯で、布団二組を敷くのがせいいっぱい。布団を出した空いた押入れが三歳の長男のベッド代わりになった。

 勤め人の夫は絵を描いていた。場所がないので、風呂場の焚口のところで身を細くして描く。描いては庭に持ち出し、眺めて、また焚口まで運んで直す。当時の画家の登龍門であった安井賞展に入選したのだ。

 広島に転勤になった。元役宅が薦められた。松ノ木が二十数本植わっている300坪の敷地の家であった。いままでは家具が邪魔になっていたのに、
「うちの家具って、たったこれだけ?」
 とみんなで顔を見合わせた。
 広い家に住むのに、家族四人、六畳の部屋に固まって寝た。広い部屋では寝付けないのだ。家族の絆というものを感じさせる。

 半年後、父が亡くなり、葬式には、九州などから親戚や知人が集まってきた。亡父の弟が夫に言った。
「兄は、こんな広い家に息子と住めて幸せだったなあ。本当に孝行してくれたよ。ありがとう」

 広島からまた東京に転勤。母は九州の一人暮らしを希望した。親子四人で吉祥寺に戻った。前の社宅より少し広くなった。
「このくらいの大きさの家が丁度いいわねえ」
「落ち着くねえ」
 夫婦で語り合う。

 サラリーマン夫婦には、住居問題が重要な課題だ。長い変遷を経て、『身の丈の家に住んで、身の丈にあった生活をする。精神衛生上こんないいことはない』と、結末へと運ぶ。作者は『家』と『家族』という対象を正確に見つめ、それをしっかり描き切っている。転居のたびの心理描写が作品の質を高めている。


中 村 誠  紫煙は紫雲にならず ―タバコの煙はめでたい雲にならない

               
「私」は五年前に肺気腫と診断された。医者からは、まず禁煙だといわれた。」むしろ、恐れていた肺癌でなくほっとした。帰宅後の本で、肺気腫の何たるを知り、身震いした。それでも、50年近く親しんだタバコとの別れも辛く、喫っていた。

 1ヶ月後の診断で、医師から、禁煙しましたねと念を押された。今日からです、と答えると、「的確な治療もない病気です。ご自分の命ですから、お大切に」と言われ、ゾオーとなった。禁煙が始まった。

 同じ高校、大学の仲間8人ほどが月に一度集まる。マージャンをやってから、飲み会だった。ある夕刻、五時からの打ち上げの飲み会で、「私」はストレートな言葉でKに、「お前、タバコを吸っているのか」と指摘した。
「よく言うよ。禁煙したようだが、何時まで続くやら」
 とKから、カウンターがもどってきた。
「私」は、タバコの恐ろしい体験を語る。「私」の尽きない指摘に、Kも呆れていた。以前は二、三箱も吸い、『煙突』、とまで言われたのだから。『やはり命が絡んでくると、人さまは変われば変わるもんだ』と、Kは呆れ顔だった。

 学友とのやり取りを知った妻が、「以前の貴方は人様のお宅や我が家で皆さんに、ご迷惑を掛けていたのに、最近は禁煙、禁煙、と良くも言えるわね」と呆れ顔だ。それも『今の自分の耳には心地よく響く』と結ぶ。

 喫煙と禁煙というシンプルな素材だが、人間の心変わりの様を描いた作品だ。医者の淡白な忠告。「私」が友人へ粘っこく説諭する。「生命」というテーマが底流にあるので、味わいのある作品だ。


奥田 和美   シニア留学 ─ニュージーランド・ホームステイ─


「私」の『シニア留学』体験記だ。26日間のニュージーランド・ロトルア留学を決めた。ホームステイで、RELAという語学学校に通う。ロトルアは温泉、別府と姉妹都市である。

「私」は高校を卒業してから、三年間専門学校で英語を学んでいた。長く使っていない。「私」の英語がどれだけ通用するのか不安だった。

 現地のRELAではクラス分けのテストがあり、下から三番目のクラスに入った。日本人、サウジアラビア人、タヒチ人と「私」の4人。皆は恥ずかしがらず質問し、先生はわかるまで丁寧に説明してくれた。昔習った英語がよみがえり、単語もつぎつぎ思いだす。授業には追いついていけたと、進歩がリズミカルに描かれている。 

 ホームステイ先は60代のジュディス夫妻。英語はきれいで、ゆっくりとわかるように話してくれるの。「中国から日本に仏教を伝えた人は?」と質問されたが、社会科の苦手だった私は何もわからなくて、恥ずかしかったというエピソードを披露する。

 ロトルアの町の人々は治安も良いし、街並も美しい。温泉もある。フレンドリーで心温かな人たちで、買い物も値切る必要がないし、ボラれることもない。と町の情景も紹介する。『海外でこんな所はめったにないと思う』。若いお嬢さんたちが大勢ホームステイ留学をしていたという。
 カヤック、ゴルフ、乗馬をしたり、森林浴やウオーキングと紹介する。そして、『いろいろな国のいろいろな年代の人達と出会うことができて』と楽しかったを述べる。

 拙い英語力でも留学に挑戦する。エネルギッシュな作者の実像がそのまま描かれている。作者は帰国直後だけに、熟成不足から、留学の動機と決意から、帰国まで、盛りだくさん過ぎている。今後、エピソードを抽出して書き込めば、作者は独特の文体を持つだけに、快活でリズミカルな作品が期待できる。


二上 薆   水との戯れ 歳月の流れとともに


 昭和1桁時代で、小学校に入ってすぐの頃、千葉県・九十九里浜に一家で海辺の民家に滞在した。人影も少なく静かな漁師村で、初めての水と戯れの記憶である。海水浴には不向きの波の荒い外海で、砂浜には白波が寄せては返す。丸裸に近い男女が浜辺に集まり、声を合わせて網を引き、漁から帰った漁船を海から陸に引っ張り上げていた。
 作者が得意とする美文調の情景文が、リード文として格調の高さを示している。

 中学一年生の夏休み。上野駅から夜行列車で、小林一茶の故郷の鄙びた柏原駅に着いた。バスで十数分、美しい碧の湖が現れた。野尻湖である。ここにおいても、水際に鳥居を構えた枇杷島、対岸の緑の山、ホテルらしい建物、点在する異国風の洋館などの情景が描かれている。

 学校寮舎での夏期水泳合宿が一週間おこなわれた。最終日の島巡りの遠泳で、浮板につかまったバタ足で完泳。翌年も参加し、平泳ぎは覚え、金槌から脱却した。『涼風のわたる深碧の湖面から見る夕なずむ飯綱・黒姫・妙高の連峰、わけて宿舎の背面に迫る妙高山の美しさは深く瞼に残る』と、作者の美文は冴えている。
 思い出の野尻寮は戦後、東大運動会の所有となり、昨年惜しくも解体されたと郷愁をつづる。

 終戦の翌年、大学卒業を控えた親友四人が飯盒に米をもち、伊豆半島戸田へ海水浴に出かけた思い出が語られている。松林の中にある大学の木造の古臭い寮舎に泊まった。『小さな内湾、寮舎の目の前の海は全く波もなくいくつかの生簀があり、魚が群れ、ちょっと手を出して夕食のおかずと失敬しても文句を言う人もいない』と戦後の食糧事情と大学生が描かれている。

 飯盒一杯、漁師町から名もない小魚を求めて東京へ持ち帰った。『こんなおいしいお魚は食べたことがないとの母親の言葉が今も耳に焼き付いている』と親子の情愛にも筆が伸びている。

 最近き半ズボンをはき自転車で、江ノ島、富士を望める海岸へいく。海水浴場には、よしず張りの仮設の海の家は消え、恒久レストランまがいの立派な建物となり、女性のひだ付水着は消え、男性の褌姿は皆無であろう。

 作者の美文はまさに徳富蘆花、尾崎紅葉、大町桂月など、文豪の格調高い文体をほうふつさせる。
現代は口語体が一辺倒で、話し言葉が重視されている。物事には必ず巻き返しがある。中国数千年の長い歴史の漢文をベースにした、明治からの美文調は廃れるものではない。いつか復活するだろう。作者が後世に書き残している、昭和一桁から自分史が文体とともに輝く日があるだろう。


中澤 映子  動物歳時記 その7 ―避 妊―


 ペットなど動物に対しては、それぞれ好き嫌いがある。人間ことばで喋れない動物に対して、上手な表現方法を用いているから、犬、猫が嫌いの読者にも、動物愛を感じさせる。今回の主人公も3本脚の犬「アイ」で、たぶんにもれず、人間との関係がユーモラスに表現されている。

 アイは足の不具をもろともせず、宙を飛んでいるように走る。公園の草の茂みで、クルクルまわってから大、小便をし、「私」がスッコプで落とし物を取る間「よろしくね」と、横でチョコンとすわって待っている。大きな犬に出会うと絶対勝てないのに、吠えたり、むかっていこうとする。

 アイが淋しそうだったのが、避妊の手術をした時だ。アイにはすでに立派な4人の娘がいる。『我が家に引き取られてきた仔猫の時、オスもメスもみんなこの手術を受けている。これは飼い主のマナーでもある』という。
 獣医で、手術はおとなしく受けた。家に帰り、麻酔が切れはじめた頃、思うように体も動かず、なんともやるせない表情をしていた。

 いまでは、手術のことなど忘れたかのように、元気。最近は庭の芝生でジャンプのトレーニングまでさせている。『退屈そうに寝そべっていても、チョッと玄関の方に見知らぬ人がくれば吠えまくる。「私は主人に忠実な犬よ!」と言わんばかりに』と、観察力の優れた作品である。

 障害ある動物が、避妊手術を受ける、哀れさが作品の底流にある。それを極度に哀れむこともなく、明るく描いているので、読み手に好感を与えている。


山下 昌子   デ モ ―女の生き方を求めて(三)―


 60年安保のとき、反対デモの規模が大きくなっていた。勤務先にも労働組合はあった。「私」は秘書室勤務だったために非組合員。『意思表示をする場所もなく、いたたまれない気持ちだった』と心情を回顧する。

 個人的なデモ参加は心細かったので、高校生の妹を巻き込んだ。JR駅を降りると、デモの波がどんどん押し寄せきた。戸惑っていると、デモ隊の人たちから、「ここ、ここにいらっしゃい」と腕を組まれた。

 デモ隊は「安保反対。岸を倒せ」を繰り返し、国会議事堂のほうへ向かっている。これからどうなるのか、と不安だった。妹を無事に家につれて帰る。自らの口実で、途中でデモを抜けて、もと来た道を帰っていく。『これで良かったのか、自己満足ではないのか、帰りの電車の中でも、私と妹はずっと黙っていた』という。
 
 安保デモで亡くなった樺美智子さん。夫の高校時代のクラスメートだったと知った。夫からの証言をつづる。

『高校三年のとき、当時の京都大学の瀧川総長が、先輩として高校へ来て講演をした。講演が終わるとすぐ樺さんが、瀧川さんに抗議をしに行こうと夫を誘いに来たそうだ。「女性は良妻賢母で良い」という彼の発言が許せないと言った。夫は「彼の意見として、聞いておいたらいいんじゃないか」と断ったら一人で行ったそうだ』。

 樺美智子さんは高校生時代から意識が高く、行動的だったと知った。彼女と夫は大学も同じだった。『これからデモに行くという、その日の朝も、大学で彼女と出会った。ベージュの上着を着ていた姿を、今でもはっきり憶えているそうだ』と夫の言葉を通して、彼女の最期の日を紹介する。
 
 60年安保を語るときには、樺美智子さんの死は欠かせない。フランスのジャンヌダルクのように。彼女の性格の一端を知る、貴重な証言が盛り込まれた作品である。


石井 志津夫(しずお) たかがラッキョウされど…… I氏の自給ごっこ③


『自給ごっこ』という、シリーズものの作品。今回はラッキョウ作りである。
作品の冒頭では、
『主役にはなれないが、秀技なる脇役を演ずるのが、自家製の甘酢漬けラッキョウ。豚肉を使ったカレーの付け合せには、貴重である。栄養面での相性もよく、ツンとした独特の香りと、カリカリと歯ごたえのよい食感は食欲をそそる晩酌のおつまみにも最高である』と、自家製ラッキョウの特性をしっかり書き込まれている。

 そのうえで、ラッキョウの耕作から収穫まで紹介する。
 収穫作業中の夫婦の会話などを通して、自給ごっこの真髄に入っていく。土を落としたラッキョウを順次バケツに入れてゆく。そこから自家製ラッキョウづくりのこまかな手順が丁寧に書かれている。夫婦の会話と、作業描写の文章にはスピード感があるので、マニュアル的な冗漫さを感じさせない。

 結末では、
『たかがラッキョウではあるが、玉ねぎ、ニンニクなどにも含まれるアリシンが多い食べ物だ。アリシンはビタミンB1の吸収を助ける効果があるし、血液をサラサラにする』
 と効用にまで及ぶのだ。 

 文章、文体は読みやすく、平明な文章である。観察力のある作品だから、安定感がある。読者にも、ラッキョウ作りの疑似体験を与えている。

 

平田 明美  鎌倉文学館から成就院へ


 鎌倉の情感に満ちた、散策エッセイである。「私」は鎌倉駅で花紀行のメンバー数人と落ち合い、江ノ電で由比ガ浜駅にむかった。駅ホームに咲く紫陽花をバックに写真を撮る。
 総勢24人が、降り出した雨のなかを鎌倉文学館へと向かった。友人が「雨よあがれ」と念力をかけるが、かえって雨脚は強くなった。

 鎌倉文学館は、加賀百万石の前田藩主の別邸で、昼なお暗い木立とゆるやかな石畳の坂。箱根と神戸をあわせたような雰囲気だった。その先に洋館があらわれた。

 芝生の庭を横切ってバラ園で、色とりどりバラを楽しんでから、文学館に入った。そこはかつて佐藤栄作元首相が別荘として静養していたところだった。いまは小林秀雄、大佛次郎、里見惇などの直筆の原稿が展示されている。

 雨は本降りだが、紫陽花を見に成就院まで足を延ばす。石段の両側には紫、白、ブルー、ピンクの花が今を盛りとしていた。振返ると遠く眼下にひろがる由比ヶ浜の景色に思わず目を見張った。

 江ノ電を使ったルート紹介を含めて、鎌倉情緒と情景がしっかり描写されている。由比ヶ浜の散策の紹介文としては、うまくまとまっている。欲を言えば、大勢の仲間内から一人かふたり的を絞り、「私」との関係や絡みなどを書くと、人間ドラマのエッセイがうまれてくる。


高原 眞    虹のゆくえ

  

「私」たち夫婦は、オランダに居住した息子夫婦の招待でその地を訪れた。ある日、二台の車で、文化遺産の風車を見学に往って復ってきた、

夕餉を済ませたあと、息子とその嫁が、車間距離で、口論をはじめた。後に付いた妻が運転する乗用車が、距離を開けるから、他の車が割り込んできた。見失うところだった。
「あなたがスピードをだすから、付いていけないのよ。罰金も心配よ」
 嫁は負けていなかった。
「車間距離を空けるのは、かえって危ないんだぞ」
たわいもない揉め事だ。果てしない言い合いが続いた。日頃の夫婦間の鬱憤が現われた、と「私」は判断した。

 日本にいたころからも、息子の強引ともいえる押しつけや執拗な態度。軽く笑って答えればいいのに嫁もささいなことで妙に口答え。そして、ケンカの種を作る。『家内がケンカの中を割って入ろうとした。それを制止させた。火に火を注ぐ結果となるだけだ』と傍観者の立場を取った。

 翌日は、町にスケッチに出かけた。翌日、急に雨となった。『喫茶店で待つと、すぐ陽が照り始めた。スケッチの場所が決まって描き出すと、また急に曇って雨が降り出した。「駄目だな」と家内に促し、諦めて帰宅した』と簡素にして、いい情景を描写する。

 夫婦ケンカなどなかったように、孫を交えた夕食だった。『急に空が暗くなった。激しい雨だ。ひととき続いた。が、嘘のように強い夕陽がダイニングルームに照り始めた』と、作中で、天候を上手に使っている。
息子が「虹がでるかも知れない」と予想する。

『東の空は褐色地に青黒を混ぜた色で覆われて、それをバックに、南天の端下から北天にかけて色鮮やかな巨大な虹が弧を描いていた。しかもその虹の上に、いささか色は薄いがもう一つの虹があった。二重環である。こんなスペクタクルな虹は、八十年生きてきたが始めて見た』
 と色彩豊かに描写されている

 主虹が下のほうで、上のほうが副虹だ。二つの虹は正反対に色が並ぶ。なぜ、そうなるのかと、息子が「光の魔術」を説明する。誰もが聞き入っていた。
 そこには夫婦喧嘩の尖った雰囲気はなく、「嫁が笑みをたたえて夫の説明を聞いていた」と息子夫婦の情愛へと運ぶ。

 作者は「二重環の虹」が夫婦を仲直りさせたと狙っている。夫婦喧嘩を克明に書きすぎているために、作品が真っ二つに割れている。

 アムステルダム市内のスケッチで雨に降られたところから、「二重環の虹」の出現まで、作者の磨かれた文章で、しっかり書き切っている、圧巻である。ここだけでも十二分に読ませる。


上田 恭子  お金を貸すということ 

 
 友人との金の貸借は難しい。多くのひとは何度か体験しているだろう。それだけに、普遍性がある作品だ。                   
「金沢の女学校で一年後輩の真子」とは、結婚後は年賀状だけの付合いだった。それもなくなった。風の便りで「鬱病で病院通いをしているようだ」と聞いていた。

 おととしの10月、唐突に「一年後輩の真子」から電話がかかってきた。多摩川の近くのマンションにいるようだ。懐かしく、何十年の穴を埋めるような、おしゃべりをした。作者は上手に、簡略に時の流れを処理している。

 一ヵ月後、言いにくそうに借金の申し入れの電話があった。
「私」の脳裏には、人にお金を貸す時は、上げるつもりで貸さないと駄目よ、という過去に聞いた忠告が横切ったのだ。

『私に頼むくらいだから、切羽詰まってると思った。まっ、いいか、と20万振り込んだ。それからお礼の電話が入ったきり。一月ほどして、いろいろ言い訳をして、再度の申し込み』という、

『……今住んでるマンションが十六万、払えないと出て行かなければならない。うーん、十六万のマンションに住んでいるのが大体おかしい』という疑問が出た。差し上げるにしては大きいお金。どうすればいいのだろう? 貸せないと言って、追い払った寝覚めが悪くなる。

 彼女は「私」より苦労して生きてきたようだ、という想いから、結局振り込んだのだ。その後は、自分自身を納得させる言い訳との葛藤が始まる。

 友愛との板ばさみはある意味で、解決のできない世界だ。「私」の心理が悶々と伝わってくる。他方で、心優しい「私」の人柄がよく出ている。
 それだけに気持ちよく読める、読後感がいい作品である。


和田 譲次  ニューヨーク一人ぼっち

 
 30年前のニューヨークの大停電に遭遇した、貴重な体験記である。それも、「私」はエンパイア ステート ビルの展望台にいたのだ。
 午後8時過ぎ。「私」は眼下にひろがる光景に見とれていた。あたりが薄暗くなり、気がつくと展望台の明かりが消えている。外が見やすく、ライトを落としたのかと思ったのだ。

『下を見ると町中が暗い。しばらく待つうちに管理人から説明があった。州北部の原子力発電所が落雷の被害を受けた。只今ニューヨーク市全体が停電で復旧のみとうしがたたない』
 展望台には120名以上の観光客がいた。『夜が更けるにつれ孤独感と不安感に襲われ始めた。ひるまと違い、皮膚の色、そして目の色の違いが気になりはじめた。白人特有の青い瞳が不気味に光る』と緊張が高まっていく。
 
 他方で、周辺から笑い声が聞こえてきた。アメリカ人は陽気な人が多い。何か冗談を言い合っているようだ。厳しい状況下でも、現状に適応して、陽気に振舞う。『このムードが私を少しおちつかせてきた』と、民族の特徴が描かれている。

 多くがベンチや床にごろ寝する。欧米人は靴を脱がない。「私」も横になったが、真っ先に靴を脱いだという。作者の観察力が光っている。
 
 夜が白々と明けた。イースト川の方角から陽がのぼってきた。7時過ぎからは、歩行で降りる人が増えてきた。「私」が動き始めたら、管理人から、後につづ老夫婦の面倒を見てくれと頼まれたのだ。お年寄りのペースにあわせ一時間位かかっただろうか。地上では暖かいコーヒーが待っていた。
『多くの人だちと「ウィーアーハッピー」といいながら握手をしたり、頬をふれあったりしながら別れを惜しんだ』。

 徒歩で、5キロ先のホテルに着いた。「私」の部屋は一九階だ、未だ停電中で階段を上がる気がしない。ロビーのバーがある。冷蔵庫もダウンだから、冷たいビールがあるはずがない。バーテンダーは「私」の昨夕からの経緯を一通り説明すると、「お前は貴重な体験をしたな」と冷蔵庫の奥から氷を取り出し「最後のキューブ」とウィンクし、ジントニックを出してくれた。美味しかった。
 私はアメリカ人が好きになった。
 
 国境を越えたヒューマニティーを感じさせる、力強い、価値ある作品。めずらしい体験で、行動や説明にも説得力がある。心理描写と情景描写のバランスがよい作品である。


長谷川 正夫   原民喜と峠三吉


 88年8月に、「私」は広島を訪れた。『原爆ドームの傍らに小さな碑が立っていた。糸で結ばれた数百の千羽鶴の細長い束がその碑に懸けられていた。廃墟となったドームと、色鮮やかな千羽鶴、この奇妙な不調和が原爆の不気味さを物語っているようだった』と書き出す。

 碑の片側には原民喜(はら・たみき)が作った「碑銘」という短詩、反対側には佐藤春夫の記した「原民喜詩碑の記」が刻まれていた。
 作家・詩人の原民喜は広島市に生まれた、慶大卒。原爆に遭遇し、「夏の花」「廃墟から」「壊滅の序曲」は原爆三部作を遺す。51年に東京で鉄道自殺をとげた。46歳だった。

 原爆ドームの対岸には平和公園がある。数多くの慰霊碑が並ぶ。公園の一隅に、峠三吉(とうげ・さんきち)の「ちちをかえせ」の碑がみえる。『原民喜の碑文とは趣を異にし、こちらは悲痛な叫び声である。広島では十四万の尊い命が奪われたが、その遺族は数十万になろう』と記して、その作品を紹介する。

 17年に大阪生まれの詩人峠三吉は、高校卒業後は寝たきりの生活で短歌、詩を投稿、広島の自宅で被爆した。「原爆詩集」をまとめ出版するが、肺葉切除手術中に死亡した。36歳だった。

 原民喜と峠三吉は少年時代を広島で過ごした。共に被爆した。悲運は本人のみにとどまらず、妻にも及んだ。
 民喜の妻・貞恵は戦時中に結核で死亡した。三吉の妻和子は縊死自殺した。

 作者は広島で見てきた、被爆作家を丹念に書き上げている。凝縮された、無駄のない言葉一つひとつから、被爆後の苦しみと悲しみ、そして原爆の悲惨さが読者に伝わってくる。良品だ。


吉田 年男   痛 い っ


 子どもが亀に噛まれる。貴重な目撃体験で、いい素材である。
 運動着に着替えた「私」は、自宅近くの公園で、朝の体操をしていた。池の周りでは、若い母親が幼児ふたりを遊ばせていた。
 突如、幼児の「痛いっ」という泣き声が、周囲の静けさをやぶった。幼児の指に、一匹の亀がぶらさがっている。池から這い上がってきた亀が子どもの指を噛んだのだ。

『亀はすぐはなれたようだが、指から血がながれでている。若いお母さんは、泣声のおおきさと、出血にも全く動じず、おちついて、幼児を抱き上げた。水のみ場につれてゆき、幼児の指に、水をかけて血をあらいながし、テッシュペーパーでかまれた指を包んだ。そして一言、「亀さんの口はさわってはダメよ」と注意した』
 作者は、母親の言動をしっかり伝えている。

『この落ち着き払った、頼もしさに、幼児はあっけにとられたのだろう、すぐに泣き止んだ。納得しきった顔で、すぐにまた亀と、遊び始めた。幼児の眼は、キラキラとかがやいて、好奇心に満ち溢れている』
 最近の親から何かと、『危ないから、これはやってはダメ、あれはやってはダメ』と規制だらけだ。それが無邪気で、おおらかで、はつらつとした子供らしさを奪ってしまっている。この母親は違っていた。

 こうした事件が起きると、大人たちは、子どもが亀に噛まれて指がちぎれたらどうする?池の水は黴菌がいっぱいいるので、大変なことになる、池から亀を一掃しろ、などといいかねない。

「亀さんの口は触ってはダメよ」と身をもって教える、若いお母さん。「私」は深い感銘を覚えるのだ。
母子の情愛が伝わってくる、快い作品だ。観察力が優れている。そのうえ、世間一般の常識に対する、「私」の批判は効果的である。現代の親への啓蒙的な、価値ある作品だ。


河西 和彦  筵の会「風林火山」の旅


 異業種・勉強会の「筵の会」は6月半ばの2日間、手造りの「風林火山」の旅を企画し実施した。四人である。
 初日は千葉発の特急「あずさ三号」に船橋から乗る。新宿、立川で他の仲間と合流した。石和温泉駅では先ず山梨県立大学に行く。

 市原教授にはキャンパスを案内してもらう。『日曜日で学生は少なく、登校している学生が真剣に討議をしていた。二階の窓から大きな富士山が眺められ、市内の展望も良く、立地条件に恵まれていた』。
 続いて、甲府駅前の武田信玄の銅像、武田神社、信玄の三条夫人の墓所である円光院を見学した。

 ホテル富士野屋夕亭で昼食をとり、甲州名物の「ほうとう」を食べた。『ホロホロ鳥の秘伝の出し汁を使い、よく煮え立ってから、麺や野菜を入れる。煮え上がるまで、時折かき回して待つのが肝心だと教わった』と旅エッセイの妙のほうとうの特徴が書かれている。

 武田信玄の菩提寺・恵林寺、次に勝沼醸造ワイナリーに向かう。ワインの試飲とワイン作りの青年の解説を聞いた。強い志を持ち、自信を持った説明に感服した。

「ほったらかし温泉」を訪ねた。入浴しながら富士山を仰ぎ見て、甲府盆地を見下ろす、展望と星空の夜景が好評だ。年間四〇万人の來湯客があると聞く。湯屋はバラック風でコストは掛けていない。地下一五〇〇メートルから汲み上げている温泉は、「出しっ放し」「年中無休」だった。

『湯場は掘っ建て小屋で、手作りの施設、過剰サービスをしない自然丸ごとの素朴さが好評である。料金はほったらかしではなく、大人600円、子供400円とあった』と旅のユニークな温泉紹介がある。

 夕食を兼ねた、「筵の会」例会が開催された。特別参加の人間接着業の青木匡光さんと市原教授の講話があった。青木さんは「真友こそが後半人生のサポーター」と題し、いまや「自助の時代」だから、自分でシナリオを書き、自分で演出し、自分で興業するべきだと語った。
 市原さんは甲府市・市街地の活性化基本計画の活動を話す。

  2日目は下諏訪に行く。案内役は「私」だ。諏訪大社下社の秋宮を参拝してから春宮に行く。春宮の西側近くに「万治の石仏」がある。近くには岡本太郎の石碑が建つ。「信玄の矢除け石」を見てから、上諏訪に列車で移動した。
 諏訪湖畔の踏切り近くの蕎麦屋の「とみや」で昼食にした。
「そばは一流、お店は二流、惜しい事には 値段は三流、集まるお客は超一流」の壁紙に皆の関心が集中した。おかみさんとの対話が弾み、地元の銘酒「真澄」が旨くて追加注文をした。
 作品の舞台が丁寧に書かれている。ユーモアがあるので、心地よい旅エッセイだ。

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