第78回 元気100エッセイ教室=おしゃべりとエッセイ
エッセイの源泉はすべて体験と経験である。
人生の部分的な復元でもある。日常会話のおしゃべりもおなじ。自然発生的に、頭に浮かんだ事柄を口にすれば、おしゃべりである。
おしゃべりは話す相手によって内容を微妙に取り換えられる。直前の事柄から遠い過去の出来事などに及ぶ。話しの組み立て方、話し方など、脈絡などはさして評価されない。曖昧な表現でも通じてしまう。
多くのおしゃべりは、相手を見て、必要な事柄だけを口にすればよい。事実を伝えてから、「私」はどう考えたか、どう感じたか。相手の顔色とか反応とかを見ながら、感情のおもむくままに話しても、多くは成立する。
相手がそれを嫌えば、適宜、話題を切り上げれば、すんでしまう。
それをいざエッセイで書こうと身構えても、文章にはなかなかできない。
素材があるのに書けない。芸術的、文学的なものは要求されていないにもかかわらず、過剰になりすぎ、途中でとん挫が多くなる。
経験や体験が豊富な人でも、エッセイは量産できない。おしゃべりは冗漫さが許容されるが、活字では嫌われるからだ。事実に向かい合って簡素に書いてしまえば、メモとか、日記とか、作文とかになってしまう。エッセイはたんなる備忘録ではない。
「さらさらと書いた」
多くの場合は嘘が多い。事実だとしても、口にしない方が賢明だ。文章の上手下手は別としても、エッセイの形式で書くとなると、文章を念入りに仕上げる、その工程は必然であるからだ。
『おしゃべりで話しを感動させても、文章にすると駄作になる』
エッセイには創作力が必要である。
・テーマ(主題)
・構成(ストーリー)
・表現力の工夫。
これが作品を読ませる力の三大要素だろう。
作者はひとつくらい感動作品をまぐれでも書ける。だが、連続となると、書く経験と、文章力や表現力が必要だ。おしゃべりのくり返しは嫌われるが、エッセイ作品は時間をおいて、くり返し見直しすれば、磨かれてくる。それが筆力になる。