小説家

第11回歴史文学散策=江戸城は武将たちの盛衰すらも消えた。春は盛り

 文学・作家仲間の「歴史散策」は第11回目となった。メンバーは7人(日本ペンクラブの広報委員会、会報委員会の有志)である。初回からおなじ仲間である。

 山名さん(歴史作家)、清原さん(文芸評論家)さんが解説役だ。2人はともに歴史関係の雑誌執筆の常連で、これまでも江戸城の歴史を書いている。同時に、公開講座などでも、歴史散策ツアーの講師として活躍する。

 吉澤さん(日本ペンクラブ事務局長)、井出さん(事務局次長)、新津さん(ミステリー作家)、相澤さん(作家兼ジャーナリスト)も、そして私を含めた5人は歴史好きである。

 こんかいは夜の呑み屋が決まっていない。これがいきなりの課題(話題)だった。



 地下鉄・大手町から5-6分で、「大手門」に着く。集合場所では、山名さんの自筆『名城をゆく・江戸城』が配布された。
 その冊子には弓矢を持った太田道灌像がトップを飾る。
 そして、江戸城の年表や特徴が明記されていた。


 江戸城の入園は無料だ。ありがたい。入園の参観札をもらう。(出口で返す)。

 ひとたび城内に入ると、喧騒とした大都会から、別世界に入る。

 相澤さんは、長年この近くの大手通信社(千代田区)に勤務していたのに、初めて江戸城に来た、と妙に感激していた。

 江戸城といえば、すぐに徳川家と結びついてしまうが、1603年、家康が江戸幕府を開く以前の、江戸城の歴史は一般にあまり知られていない。

 1457(長録1)年に、太田道灌によって築城されている。

 道灌は暗殺される。やがて、上杉氏、北条氏などの支配下になる。そして、1590(天正18)年になると、豊臣秀吉が小田原・北条氏を滅ぼし、家康が関八州をたまわり、江戸城を領する。

 ここらは山名さんが詳しく説明してくれる。


 三の丸尚蔵館から、同人番所の屋根瓦に、徳川の象徴・葵の御紋が残っていた。さらに進むと、「百人番所」で、本丸の最大の検問所だった。
 鉄砲百人組の与力・同心が交代で詰めていた。

 大名たちが登城する行列はここで終る。この先に供侍は入れなかった。

 現在はこの先、本丸、二の丸、三の丸(一部)が一般公開されている。

 身分制度の厳しかった江戸時代を想うと、隔世の感がある。


 大手中の門跡、富士見楼は現存する3楼の一つ。

 どこから見ても、おなじ形に見える。江戸初期には、ここが海辺だったという。

 現在では考えられない、海が真下にあったなんて。 

 その後、江戸城の周辺が、どのように造成されてきたか。それが7人の話題となった。

 松の廊下跡にきた。かつては畳敷きの大きな廊下だったらしい。

 ボランティアガイドが団体さんを相手に、「浅野内匠頭と吉良上野介の刃傷事件」を語っていた。

 吉良は名古屋に行けば、良い殿様だ。

 「忠臣蔵」が大好きなひとは、おおかた浅野に肩を持つ。それが歴史のおもしろさだろう。

 歴史の看板がなければ、「松の廊下」があったとは思えない。周囲はうっそうとした樹林帯だった。

 江戸城の石垣の大半は、伊豆の石切り場から運ばれてきた。

 これら資金、労力を投入した藩などの家紋が、城石に入っている。

 「丸に一」の島津家もあった。

 

 
 二の丸の雑木林は昭和天皇の意向で、武蔵野の面影が残されている。

 クスノキ、ケヤキ、クヌギ、コナラの森がある。そのなかに、シャクナゲが咲いていた。


 桜が満開だったので、女流作家の記念撮影です。

 人気の女性作家だけに、どこか輝いている。
 


 梅林坂、平川門、書陵部、それぞれの掲示板の前で、皆が食い入るように眺める。

 さすがプロ作家たちだ。一字一句も見逃さず、それを読み込んでから、話題にする。

 何ごとも関心度が高く、好奇心がなければ、執筆はできないから、当然だろう。

 江戸城にはなぜ天守閣がないのか。多くの人には疑問だろう。

「天守台は3度、5層の天守閣が建設されたの。面積は大阪城の2倍以上だった。でも、1657年の大火で、全焼してしまった。加賀前田家がいまの天守台まで築いた」と山名さんは話す。

 保科正之(ほしなまさゆき、家光の弟・会津初代藩主)が、もはや平和の世のなかになったことだし、天守閣の再建費用よりも、焼失した庶民の復興につとめるべきだ、と進言した。

 それが受け入れられたから、江戸城には天守閣がない。

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【書籍紹介】明治~昭和のおもしろ記事・発掘エッセイ=出久根達郎

 豊富な雑学は、知識とみなすか、教養とみなすか、物知りとみなすか。すくなくとも、雑学は人間生活の潤滑油になることは確かだ。では、雑学はどこから得られるか。品質を問わなければ、テレビ、新聞、雑誌、人の話など、アンテナを張っておけば、いくらでも得ることができる。

『人間を学ぶには、雑誌が一番である』
 直木賞作家の出久根達郎さんが、最近の著書『雑誌倶楽部』(実業之日本社・1600円+税)で述べている。同書には明治から昭和の雑誌から、面白い記事が盛りだくさんだ。
 覚えても何にも役立たない。だから、この世には「雑」が必要だ、と出久根さんは強調している。

『雑誌は面白いか否かだ。パラパラと適当にめくって、目に止まった題名から読んでみる』
 それはまさに『雑誌倶楽部』そのものを言い表している。庶民の暮らし、偉人の素顔、艶笑な話、珍事件など、38冊の雑誌の1月号から12月号まで、月ごとに紹介されている。
 ユーモラスだったり、エッチな内容だったり、おどろきの事実だったり、よくぞここまで「発掘」できるものだと驚かされてしまう。
 さすが古書店の目利きだ。半世紀にわたり、あらゆる雑誌、書籍、冊子を見てきて、値段をつけてきた出久根さんの眼力だから、なせる技だろう。

 パラパラめくっていると、山手樹一郎の活字が目に止まった。中学生時代の私(穂高)は、貸本屋通いで、小遣いのほとんどをつぎ込んでいた。大衆小説を片っ端から読み漁っていた。そのなかで、山手が最も好きな時代小説作家だった。理由は簡単で、思春期の少年にとって、ちらっと色っぽい描写が必ず一度は出てくるから、それがたまらない昂揚感になるからだ。

『大衆文藝』(昭和24年3月)に載った、山手作品が紹介されている。
「一度家の若い女中に、いきなり唐紙をあけられたことがある。……」
 男女のいとなみが見られた瞬間が展開される。実にうまい描写だな、と感心させられる。
 いとなみ。こんな安易なことばでなく、山手は絶妙なことばで展開しているのだ。そのうえ、短編小説でありながら、小田原戦争のさなか、斬首寸前の主人公へと及ぶ。ぎりぎりで助かる英知は実に巧妙で、見事だ。作家として、よくぞ、ここまでリアルに書けるものだと感心させられた。それを紹介する、出久根さんもすごい作家だ。

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共通一次試験「国語」、作者が解けず腹が立った=黒井千次(作家)

 『青い工場』は現代国語の試験問題に、よく取り上げられるんですよ。大学入試・共通一次の現代国語の設問でも、その作品が取り上げられました。私は(新聞に出た)入試問題を解いてみたんです。
 『これを書いた時の作者の気持で、一番正しいと思うものを選べ』
 黒井さんは、おかしな設問だな、という気持ちで向い合った。手を離れた作品だし、あまり覚えていない。マークシートだから、おおかた解答3-4から選択する方式だろう。

「一つひとつ答えを読んでみたけれど、どれも、私の気持ちに合致していない。まじめに解答を考えているうちに、私はだんだん腹が立ちましたよ」
 挙句の果てには、答えは違っていた。
「私の作品なのに、私が答えを出せない」
 そう笑いながら話すのは、黒井千次さんだ。

 日本文藝家協会が主催による「文芸トークサロン」が、文藝春秋ビル新館5階で、午後6時から2時間、月一度のペースで開催されている。参加者はいつも20人程度で、大半が熱心な文学愛好者だ。作家の本音がボロボロ出てくるから面白い。

 私は同協会の会員であり、時間が許すかぎりトークサロンに出向いている。
 
 こんかいは24回で、4月18日(金)、トークは著名作家の黒井千次さん(2002年−2007年 同協会理事長)で、題目は『小説家として生きて』だった。
 

 小説は体験+虚構によって成立する。どんな体験だったか。それを知ってもらう必要がある、と前置された黒井さんは、人生の前半で、小説家を目指したころに話を集中させていた。

 1945年の春に、小学校卒業式があり、全員が集まったところで空襲警報が鳴りひびいた。卒業証書を貰わず、逃げた。府立中学の入学試験は、大勢が集まると危険だと言い、書類選考だったと思う。(黒井さんの推測)。
 中学生になったときから、11人が同人誌活動を行った。(いま現在亡くなった人は5人だから、もう一人出ると、生存者の方が少なくなる)。そこが小説家活動一筋のスタートだった。

 学制改革で、府立中学が都立高校になった。だから、入学試験は大学(東大・経済学部)だけだったと語る。
 父親がずーっと役人(最高裁判事)だったから、生産する民間企業に勤めたかった。地方にはいきたくなかった。東京・もしくは近郊の会社を狙った。日産を受験したが、マルクス経済学の学生の身には、近経の設問は難しくて、不合格だった。

 中島飛行機の解体後にできた「富士重工業」に入り、太田工場など勤務した。ベルトコンベアーの前で働く労働者がめずらしく、かれらとの対話(雑談)などが小説の材料になった。5年ほど経つと本社勤務で、マーケットリサーチが主な仕事だったという。
 勤務のかたわら同人誌活動を展開してきた。最初のうち、黒井さんは会社内で小説活動は隠していた。やがて、どこからか知れ渡ってしまった。
「小説とは良い趣味ですね」
 このことばが一番腹立たしかったという。
「趣味で、こんなものが書けるか」
 黒井さんはつよい反発を覚えていた。

 小説は書きたいモチーフや衝動だけで、作品を書けるものではない。「何を書くか」、それを「如何に書くか」と考え、創作していくものだ。それは趣味をはるかに超えたものだ。
 小説家になってからも、小説ひと筋で、余裕がなく、世間でいう趣味らしいものはなかった、と話す。

 20代で『青い工場』を発表して注目される。36歳の時には、『聖産業週間』で芥川賞候補になった。38歳のときに発表した「時間」で、芸術院奨励賞をもらった。この段階で退職した。
 退職してから、食べることが大変で、ルポ、ノンフィクション、なんでもやったという。

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第77回元気100エッセイ教室 = 日常生活を書くポイント

 エッセイを書くうえで、過去の出来事、思わぬ事件や事故の体験、あるいは現役時代の歩みを書きつづる。それだけでは執筆が息詰まってきます。そうそう特別な出来事、特殊なネタが創作上で想い浮かばないものです。

 平凡と思われがちな日常生活にこそ、作者と作品がふかく関わってくるエッセイの神髄があります。私の日常には「ネタ」がいっぱい詰まっています。


 書き手の一人ひとりの感じ方、考え方、見方、視点の捉え方、切り口、そして描きかたは微妙に違います。
 その微妙な違いこそが、エッセイの味です。積極的に、『きょうの私』を書いてみてください。

 作者にとって当たり前の日常でも、私を対象した、私自身のしっかりした観察がなされていると、良いエッセイの書き手になります。


【ネタの探し方】
  ①日常生活を語るなかで、「こんなことで、ひと様から驚かれた」という実話を取り上げる。(私の小さな特ダネ)。

  ②あらゆるものに、負の「私」をつけてみるとヒントになる。(他人はひとさまの負を知りたがる・それが作品の求心力になる)

    私の弱い科学知識
    主婦の私の経済感覚
    私の貧弱な法律知識
    私のお粗末な科学力
    私のスポーツ音痴
    私の未熟な趣味
    私の芸能音痴

 このように、やたら難しい事柄に、『負』『無知』『未熟』『お粗末』をつけると、頓珍漢(とんちんかん))でも、実に面白く、楽しいエッセイが提供できます。読者は自分と同じだと、共感してくれるのです。


  ③日常のありきたりの素材でも、二つ、ないし三つを組み合わせる。作品が成立し奥行きがでる。(重層化)。
   料理、掃除、郵便物、風呂、宅急便、習い事
   ベランダ、茶の道具、庭木、買物、調味料
   電球、位牌、落書き、襦袢、夕立

   ……無秩序な組み合せをしてみる。


  ④短詩系の作品から、ヒントを取りに行く。(材料をいただく)。
    サラリーマン川柳、詩、新聞の短歌欄、他


  ⑤現代のブーム、流行、それに「私」を結び付ける。(私の主張)


  ⑥外出はネタの宝庫である。散策、旅行、ウォーキング、鑑賞……。(観察力)

 
  ⑦「伴侶のいつもの小言」。私にはありきたりでも、赤の他人には興味深い。そこには人間生活で共感、共鳴、共通するものがあります。(普遍性)


 【陥りやすいミス】

 エッセイの読者は見ず知らずの他人です。『作者が解っていても、読者が解らない』。視えるように書く。この推敲が大きな留意点のひとつです。つまり、地名、年齢、などはしっかり書くことです。

第10回文学仲間たちと、雪の「世田谷を歩く」

 文学仲間の歴史散策がちょうど10回目を迎えた。日本ペンクラブの広報委員、会報委員、事務局長、同次長など7人が、2011年8月9日の猛暑の葛飾立石に集まった。下町を歩いて、そして飲もう。そんなかるい気持ちだった。「次はどこか別の場所を歩こう」
 ごく自然発生的に、浅草だの、川越だの、横須賀だの、と候補が上がった。

 
 3-4か月に一度くらいは、歴史散策、歴史研究、知識の提供・共有化など、というほど大げさなものではないけれども、皆で、街を歩いて愉しんでいる。

 7人はそれぞれ文筆にたずさわる。出かければ、なにかと取材という役目を背負うことが多い。しかし、この歴史散策だけは別に出版社に原稿を出すわけでもないし、締め切りもない、取材で眼を光らせるわけでもない。開放感に満ちている。ひたすら、「好きな歴史」を楽しんでいる。そして、ほどほどの知識(飯のタネ?)を仕入れている。

 今回は『世田谷歴史散策』で2014年2月19日(水)だった。夜の飲み会は、南米のワインの話で盛り上がった。ちょっとワイン通になれた雰囲気があった。

 1週間前の天気予報だと、当日は雪だった。

 今年の大雪が多い。やきもきさせられた。なにしろ、1か月半前頃から日程を絞り込み、調整し、ピンポイントで決めた日だ。ながれたら、2カ月先になってしまう。

「交通機関が動いているならば、決行としましょう。雨ならば傘を差せばよい」
 と前日に決定となった。

 理由の一つには、吉澤さん(日本ペンクラブ事務局長)の提案で、南米料理店が予約されている。

「順延では店に負担がかかり過ぎますので……」
 相澤さん(同・理事、広報委員長)の配慮があったから、ともかく決行の決意だった。雨や雪はふらなかった。ただ、積雪の街歩きだった。
 2月だから、気温が低くて、風が吹くと、寒さが身体に堪える。それは仕方ないし、計算のうえだ。

 ルートは山名美和子さん(同・会報委員、歴史小説作家)が立案し、清原康正さん(同理事・会報委員長・文芸評論家)が監修である。
 新津きよみさん(推理小説作家)、井出勉さん(PEN・事務局次長)、私・穂高健一のいつもの7人である。

 東急世田谷線・三軒茶屋駅の改札前が集合だった。田園都市線駅と同名だが、乗り換えルートがわかりにくい場所だった。集合場所の改札には、「えっ、誰もいない?」となると、日にちを間違ったのか。そんなことはない。駅員に聞けば、改札口はここしかなかった。

 駅ビル内で、寒さ除けで皆が避難して待っていた。やはり、私が10回連続して、ビリの集合だった。ほとんど遅刻だったけれど。

 世田谷線の車両はカラフルでおしゃれだ。情緒にあふれている。車窓から「目青不動」の教学院を見ながら松陰神社前駅に到着した。
  車道と歩道が区分けされていない商店街を進む。新旧の店が混在していた。足を止めたのは酒屋の前である。『吉田松陰ビール・370円』である。物書きは酒とたばこが切り離せないようだ。

  松陰神社は、幕末の吉田松陰の墓所である。松陰は処刑後に小塚原の回向院に埋葬されたが、高杉晋作らによって同神社に改葬されている。同社の境内の随所には、幕末史に残る長州志士たちの名前がある。松下村塾を模した建物もあった。
 近代史フアンにとっても、たまらない魅力の場所だろう。
 
 吉田松陰は、思想家でもあり、大勢の幕末志士たちを育てた教育者でもあった。志半ばにして、安政の大獄で処刑された。
「現在は熱狂的な松陰フアンがいるよ」と井出さんが教えてくれた。
 皇国思想に惚れているのか、指導者としての魅力なのか? 過激な倒幕思想が心にひびくのか。フアンの当人は松陰と直接に接したことがない。突き詰めれば、歴史書や小説上で惚れ込んだはずだ。(あるいは映像化されたもの)。
 物書きの筆の影響力を感じさせられた。


 東京聖十字教会に行った。山名さんが「レイモンド設計の合掌造り風建物」と紹介する。教会の中に入るか否か。「帽子は脱げ、コートは取れとうるさいよ。牧師の話は20分はある」という話から、だれもが躊躇(ちゅうちょ)し、外観見学に終わった。

 山名さんは朝日カルチャーで公開講座『歴史散策』の講師をしている。彼女はわりに速足だ。「どのくらい受講生がいるの?」
「だいたい30人くらいかしら」
「山名さんの足だと、後ろが遅れないの?」
「事務局が最後尾にいるけど、はぐれたこともあるわ」
 とエピソードとして語っていた。

『ボロ市通り』に入ると、世田谷の大イベントだけに、皆が感心を持つ。だが、これだけは熱気を肌で感じ取るしかない。12月には個々に行ってみよう、と話になった。

 世田谷代官所が残されている。隣接するのが、「世田谷区立郷土資料館」である。古代から昭和まで展示されている。

 全員が歴史に専門的な関心度が高いだけに、じっくり見学した。 館内は撮影できたので、山名さんにタイムカプセルに入ってもらった。
 こんなふうに、私はけっこう写真を楽しんでいる。

 新津さんと私が約1年半前iに関根稔さん(ライフ)の案内で世田谷を回った。同館が終了間際に飛び込み、入れてもらったエピソードを語っていた。
 その続きになるが、
 世田谷八幡宮には『江戸三大奉納相撲』の土俵がある。コロシアム風の観覧席だ。その折、私がカメラを構えて、「古関雅仁さん、佐藤恵美子さん。写真を撮りたいから、土俵で相撲を取ってみて」とモデルをお願いした。
 男女ががっぷり四つだった。
「まさか、二人が結婚するとは、びっくりよね、おどろきよね」と新津さんが語る。

「それを世間に発表すれば、『縁結びの土俵』になるよ」と清原さんが真顔で語っていた。

 

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第76回 元気100エッセイ教室=書けなくなった時、書く法

 ある知人がいきなりに胸を張った人がいる。
「わたしには一生書き切れないほど、題材がいくらでもある」
 そういう人は文筆経験がないか、さほど書いた実績がない人です。

 一生書き切れないほど題材があっても、処理できる能力がなければ、結果として、1-3作品を書けば、もうやめてしまう。あるいは、無限にあった材料が枯渇してくるのです。
 それが創作作品の宿命です。

 作品を一つ書き終わる。脱稿する。すると、頭のなかはすべで絞り出したから、もう書くものがなくなります。少なくとも、そんな気持ちに襲われます。
 次はなにを書くか。何も出てこない。考えても、ネタ切れで、かぎりなく心細くなります。それが普通です。

 どんなプロ作家でも、脱稿すれば、つねにもう書くものがない心境に陥るものです。まして、連載など持っている人は、書き続けるほどに、類似的なネタになってしまう。過去の作品に似てくる。それから脱却しようと、苦しみに苦しむものなのです。

 釣り上げる素材は考えてもなにもない。でも、書くべきなのです。毎日、なにかしら書くことです。99%ないと思えば、手紙でも、ハガキでも書くべきなのです。

 それが「書けなくなった時に、書く方法です」
 極論ではありません。手を止めてはだめです。作品まで及ばなければ、日々、手を休めずに、文字を書き続ける。文字を書けば、かならず新作の道が開けてきます。


①新作の手がかり発見法

 何でもよい。なにかしら「一つ言葉」を書き出してみる。パソコンに『車』こんな単語を打ちこむ。関連する言葉を拾う。
「友人の車」は赤く派手だったな。
「黒」だと、霊柩車だな。縁起が良くない。赤い車を乗り回していた友人は画家志望だったが、会社員になった。『絵』といえば、わが家に飾られた油絵は『富士山』だ。『カレンダー』とは違った味だ。
 富士山に登ったな。山小屋から真夜中にライトをつけて登った。夜風が寒くて震えた。でも、眼下に甲府盆地の微細な光が点在して神秘的だった。これを素材にして書くか。


②題材の掘り下げ方

 登山体験や経験の記憶だけで書くと、作文的な作品に陥りやすい。そこで、富士山の関連する材料を集めてみる。標高は3776メートル、山梨県か静岡県か。世界文化遺産、浮世絵の富士山、休火山、最後の噴火はいつか、修験者たちは仏教徒。山頂はなぜ鳥居なのか。
 富士講、富士山麓の湖、遭難死、なぜ二等三角点か、風呂屋の絵、飛行機から見た富士山、


③考察(組立て)
 それら富士山の関連素材と登山体験と織り交ぜると、作品が厚くなる。『山頂の標高は3776メートルで、見た目にはなだらかな山容だ。
 8合目表示の山小屋がやたら多く、しだいに北斎の浮世絵の富士山に似てそそり立ってきた。寒いし、顎があがるし、子どもすら登ってきて追い抜くし。……』


④題名とテーマ
 この手法の場合は「仮題」で書くのがコツです。


 最後まで書いてみて、ラストの数行から、『一言で言い表せる』テーマを拾いだす。そして、正式に書く気持ちで作品に向かい合う。すると、作品が濃く楽に欠けていけます。

第75回 元気に100エッセイ教室=ユーモア作品について

 硬い話、まじめな話、深刻な話の作品がつづくと、ユーモアのある作品に出合うと心が和むものです。人間の本音、本心を突いていると、思わず笑ってしまいます。納得もさせられます。

 日常生活でなにかと他人を笑わせる、ユーモアの体質を持った人がいます。共通するのは、平気で失敗談や恥部を語れるのが特徴です。文章でもコミカルな笑いの文体を持った人もいます。人間の本音や機微を突いています。

 落語など話術は、訓練すれば人を笑わせることができます。だからと言って、落語を文章にしても、さほど面白くない。それはなぜでしょう。落語や漫才は手ぶり、身ぶり、顔の表情など、からだを使った視覚からの表現の補完があるから、愉快な気持ちになれるのです。


 文章で笑わせるジャンルとしては小話、川柳、ショートショートなどがあります。コツをつかみ、書き慣れてくれば、ちょっとした寸言で、意識的に笑わせることは可能です。

 しかし、エッセイの場合は、笑いを取る意図的なものは案外つまらないものです。ダジャレの文章は笑わせたつもりでも、読み手には面白くもないし、笑えない。ユーモア作品の訓練としては、平気で、日常生活の失敗、失策を作品化することです。
 考え違いとか、錯覚とか、思い違いとか、男女の気持ちのすれ違いとか、それらは読み手を愉快な気持ちにさせます。そこにはだれもが共通するおかしみと人間の本質があるからです。


「私は思わず抱腹絶倒した」
 そう書かれても笑えるものではありません。地の文ではなかなか笑えません。活字自体にことばの響きの抑揚がないからです。
 会話文にユーモアがあると、単純でも思わずクスッと笑ってしまうものです。それは読者が頭のなかで、無意識に声を出して読んでいるからです。

『ユーモアの知恵を持っているのは人間だけです』
 猿や犬は笑わないのか。その論議は別にしても、ユーモアは作品に厚味がつきます。作者はときには心底から裸になって、ユーモラスな作品にもチャレンジしてみてください。人生の本音の研究、人間探究にもなります。

【書籍紹介】茂吉のプリズム=齋藤茂吉歌集 150首妙

 日本文学の原点ともいえる短歌が英訳されて、海外で広まっている。
 結城文さんは、歌人であり、日英翻訳者である。日本ペンクラブの会合でお会いした時、「茂吉の英文・和文の短歌を発刊しました」と話された。翻訳自体よりも、茂吉の短歌が読んでみたくなった。その旨お話すると、彼女から『茂吉のプリズム』(ながらみ書房・定価2100円)が届いた。

『齋藤茂吉歌集 150首妙は、訳者は北村芙紗子、中川艶子、結城文の各氏で、監修はウイリアム・I・エリオットさんである。同書の「あとがき」を引用させていただくと、

 いま海外で最も知名度が高くて、研究されている歌人は石川啄木であり、与謝野晶子である。日本の伝統定型詩や短歌を紹介していくうえで、齊藤茂吉の歌をすこしまとめて英訳していく必要がある。

 短歌に対する茂吉の終生ひたむきな姿に、訳者の3人は心うたれたという。かつてはドナルド・キーン氏のコロンビア大学の教え子の研究と英訳がある。
 3人氏は日本人の側から英訳をみたい、同じ気持ちから、同翻訳に取り組んできた。

 茂吉は少年時代から、東北から斉藤紀一の養子になり、東京に出てきた。戦時ちゅうには東北に疎開し、終戦後、ふたたび上京する軌跡をたどっている。その身は東京にあっても、みちのくに深く根を下ろしていたといえる。

 茂吉は『万葉集』の研究に傾注した。それをもって短歌には声調をなによりも重じた。もう一つは欧州に滞在体験した、一種のグローバリズムである。
 ニーチェも、ゴッホも、人麻も、芭蕉も、西行も、茂吉のなかでは同じ平面に生きてきた。

 もう一つ特筆すれば、茂吉がこの上なく忍耐の人であった。辛抱づよく、苦難に満ちた、一生を感受しつつ生き抜いた。

 短歌史的にみて、「上海のたたかいと紅い鳳仙花(ほうせんか)」「めん鶏と剃刀研人(かみそりとぎ)」の歌のように、まったく関係ない二物衝突の、今までの和歌にない新境地を短歌の世界にもたらした。つきせぬ泉のような魅力を読者に与える。(同書・あとがきの抜粋)


 上記、説明文にからむ、短歌として、

『たたかいは上海に起り居たりけり鳳仙花紅く散りゐたりけり』

「めん鶏ら砂あび居(ゐ)たれりと剃刀研人は過ぎ行きにけり」


茂吉の人生にからむ

『をさな妻こころに持ちてあり経(ふ)れば赤き蜻蛉の飛ぶもかなしも』

『みごもりし妻いたはりてベルリンの街上ゆけば秋は寒しも』

『終戦のち一年を過ぎ世をおそる生きながらへて死をもおそるる』

『陸奥(みちのく)をふたわけざまに聳(そび)えた蔵王の山の雲の中に立つ』

 これらが同書で英文にて掲載されている。短歌と英訳の関係で、奇妙な現象が起きた。
 茂吉の短歌には母親を詠った平明なものから、内容が読み取りがたい難しいものまである。難解な短歌は知ったかぶり、あるいは読み飛ばしてしまうのが常だ。
 短歌が英文だと、却ってこういう意味なのかとおぼろげながら理解できたりするから不思議だ。
  日本人の訳者3人による、短歌の解釈だとすると、茂吉の短歌が妙に説得力を持ってくる。


【関連情報】

発行所 ながらみ書房
     〒101-0061 千代田区三崎町3-2-13
     03-3234-2926

ウイリアム・I・エリオットさん:関東学院大学・名誉教授

北村芙紗子、中川艶子、結城文の各氏は日本歌人クラブ会員

初戯曲は大好評、『庭に一本なつめの金ちゃん』=作 出久根達郎

 夏目漱石が生誕してから150年が経つ。漱石が五高(現・熊本大学)の教授として赴任してから120年である。熊本で約4年3カ月を暮らす。この間の生活体験が、「草枕」、「二百十日」など名作の題材にもなっている。それだけに、漱石と熊本は深い縁がある。

 直木賞作家・出久根達郎作『庭に一本(ひともと)なつめの金ちゃん』が初の戯曲として、熊本(11月26日)と、東京(12月7日)で公演された。演じるのは熊本在住の劇団員。出久根さんは現役作家のなかで、漱石に関して第一人者だけに、ストーリーの運びがよく、ユーモアが随所にあり、内容の濃い演劇であった。

 東京公演の12月7日(土)「夜の部」の観劇には、出久根さんから、私と面識がある受講生たちが「課外授業として」と招かれた。

 第一場は熊本の古書店が舞台である。時代は明治31年だが、古本屋・河杉書店の主人はいまなおちょん髷(まげ)を結う。容姿そのものが愉快だ。むろん、語りの口調も独特でユーモラスだ。

 漱石が古書店で立ち読みしている。店主が、『北斎漫画』(北斎のスケッチ画集)を近ごろ入手したと言い、誘い込む。私の懐でまかなえる代物じゃない、と漱石が語る。そこからストーリーが運ばれていく。

 もう一つのストーリーとして、漱石が前田卓(まえだつな・2度結婚に失敗した、30歳美人)と河杉書店を利用して密会している、という噂から細君が訪ねてくる展開だ。妻は嫉妬心でカリカリしている。
 ここらは喜劇的な演劇で、書店の娘・東洋子の恋もかぶさってくる。理屈抜きで楽しめた。 

 舞台装置は3D方式で、1階(右手)と2階(左手)が同時進行していく。窓には柿の木が見える。

「渋柿は渋柿のまま、甘柿は甘柿のまま。それが当たり前なので、人間だって、変る人は信用できないわ」
 含蓄のあるセリフだ。

「古本屋は古い思想を売るのだが、一方で新しい考えを買わなくては……」
 出久根さんが長くたずさわった、古書店人生から得られた、本ものの言葉だけにひびく。

 第二場は東京・早稲田の古書店。孫文や宮崎滔天(みやざき とうてん・自由民権運動家)など、中国の革命家たちのたまり場(アジト)である。孫文は清朝(しんちょう)政府から懸賞金つきで追われている人物だ。

 修善寺温泉で吐血した漱石が、東京の入院先から抜けだし、古書店にやってくる。熊本で密会相手だった前田卓が『75歳のばあや』の変装で、警察の目をかいくぐり、中国の革命家たちを支援していたのだ。

 観客のなかには、清朝時代の革命・思想運動を知らない、理解できない人が仮にいたとしても、だれもが漱石の作品名を知るだけに、
「吾輩は猫である」の文豪、夏目漱石先生ですよ、「草枕」で私をダシにした小説家の先生、
 と前田卓が革命家たちに紹介するので、演劇には親しみがわく。

 思想家たちの内容がやや混み入りはじめると、
「吾輩は猫である、という小説で、一つ、お尋ねしたいことがあるのですが」
 と作品の登場人物のモデルを問いただす。さらには、
「知に働けば角が立つ、山路を登りながら、こう考えた」
 と草枕の書き出しが飛び出してくる。

 これらは観客の親しみやすい心理を推し量った、出久根さんの絶妙な呼吸だろう。むろん、演劇者たちも戯曲者の空気・空間を読み込み、コミカルに演じていた。飽きさせない。
 

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74回 元気100エッセイ教室=心にひびく作品

 エッセイは、書き慣れてくると、そつなく器用にまとめられますが、読み手の心にひびく作品は生れ難くなります。
 作者はつねにマンネリを打破する心がけが大切です。それには「どう書くかよりも、内面の何を書くか」と考える。辛くて、勇気がいる、そういう作品ほど、書き終えると、喜びと充実感を覚えるものです。
 悦びに満ちた素材でも、楽に書かず、苦しんで書いてください。

【現在の作風・執筆姿勢をチェックしてください】

①書く前の心構えとして、書きたい素材があっても、すぐに書きださない。それをじっくりあたためる。
「私の何を書くか」を突き詰めていく。

②素材は切り口しだいで、新しさが生れる。あの角度、この角度、となんども思慮してみる。こんな見方や考え方もあるのか。こんな生き方の信念や信条があるのか。

 それは切り口しだい。

③隠したいものを隠さず、飾らず、本音を書く。そこから感動や感激の作品が生まれてくる。これを書いたら、軽蔑されたり、嫌われたり、批判されたりするだろう。そう思う作品ほど、勇気をもって書けば、良い作品である。

④エッセイは自分自身への取材である。矛盾や対立、苦しかった出来事は念入りに取材すれば、読み手の心に響く作品になる。

⑤多めに書いて、読み返して、スパッと切り捨てていく。そして、推敲に推敲を重ねる。もう、これ以上手直しができない、と思っても、4日、5日寝かせると、直すべき何処はいくつも出てくる。

⑥普遍性、共通性を目指す。「人間って、そういうところがあるな」と言わしめる。

⑦他人の作品と優劣を争わない。過去の自作との間で優劣を争う。