『幕末歴史小説を語る』(中)=葛飾鎌倉図書館で、講演
葛飾区立鎌倉図書館で、『幕末歴史小説をかたる』の講演で、とくに明治政府の欺瞞(ぎまん)に焦点を当てた。薩長土肥。「肥ってなあに?」。多くが知らない。肥前(佐賀)が文部官僚を占めた。かれらは歴史のねつ造が得意だった。
明治維新。こんな言葉こそは欺瞞の造語だ。正確には、「明治軍事政府の樹立」なのだ。
大政奉還で平和裏に京都に明治新政府ができた。ところが、薩長の下級藩士たちが、鳥羽伏見の戦いを機に軍事クーデターが起こし、遷都(せんと)もなく、明治天皇を東京に移したのだ。
戦後の東南アジアでもよく見られた、民主政権ができると、すぐさま軍事クーデターが起きる。それとまったく同じ構図である。
日本は天皇制である。古代から、天皇がお住まいになる京都・皇居に兵を挙げ、そして天皇に承認してもらえば征夷大将軍、あるいは国家の頂点に立つと考えてきた。平家、源氏、足利、織田信長、今川、上杉謙信、武田信玄、誰もが天皇のいる京都へと兵を挙げた。
織田信長の天下統一も、天皇が認めたからで、蝦夷(えぞ)から薩摩まで、武力制圧したわけではない。簡略に言えば、「天皇を掌中にした方が勝利者である」という認識だ。それが天下統一だ。
自民党の党首が選挙で勝てば、天皇の承認が得られる。現代にも通じる、皇国の国家なのだ。
戊辰戦争後、明治天皇が東京移されると、天皇のいない京都の明治新政府はもぬけの空になった。それは脱皮したセミの殻(から)と同じだった。
薩長の下級藩士たちは、天皇を東京に移したあと、次に何をやったのか。天皇を利用した軍事国家づくりだ。若き10代の明治天皇もきっと本意でなかったはずだ。むしろ、楯(たて)つけなかったと見なすべきだろう。
明治軍事政権の施策の一つが、廃藩置県である。これは徳川家が天皇に政権をもどした大政奉還とおなじ。戦国時代に武勲(ぶくん)をたてた大名が藩主になり、そのまま268年も利益を得るのはおかしい。全国諸藩の藩主たちも、天皇に権力をもどすべきだという考えだ。
幕末に、広島藩の辻将曹(つじ しょうそう)が各藩に呼びかけた。それが実行されたものだ。その詳細は拙著の幕末歴史小説『二十歳の炎』に展開している。
次なるは、廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)だった。それは仏教徒とキリスト教徒の弾圧だった。山伏の活動も禁止したうえで、山岳の山頂には鳥居や社(やしろ)を作った。仏教徒から奪ったのだ。そのうえで、天皇を神とした。
さらなるは徴兵制(ちょうへいせい)だった。これは最悪である。国民はだれかれなく召集令状(しょうしゅうれいじょう)1枚で、武器を持たされた。文部官僚は学校教育の教科書を通じて、幼い軍国少年をつくりあげた。これは紛(まぎ)れもない歴史的な事実だ。
そして、海外の戦場や南方の島々へ送り出された。若者たちの意志に関係なく、『天皇のために死ぬのが、国家に対する忠義だ』と玉砕(ぎょくさい・全員の死)させられた者も多い。
東郷元帥や山元五十六になった気分で戦争をみれば、英雄史観になってしまう。私たちは戦局など見れる高所の立場にはなれないのだから。つねに二等兵、一等兵の眼で、戦いの場を見ないといけないのだ。
師範学校、高等師範学校出の教員たちが、子どものたちを職業軍人の美化へと洗脳(せんのう)した。軍国主義の教育の怖さだ。
軍人はつねに勝った負けた、それが主眼になる。結果として昭和20(1945)年まで、数百万人の日本兵が海外で死んだ。むろん、9割以上が一般市民だ。外国人はそれ以上に犠牲になった。
こんな国家は良いはずがない。
写真:郡山利行
【つづく】
