小説家

最大級で楽しめる・読売新聞掲載『人生案内』366編(上)=出久根達郎

 私は家事となると、無精者で「炊事、洗濯、掃除」はいっさいやらない。出来るかできないか、それを試す以前に、やろうとしない。妻が一日外出の時は、食卓のうえに、2-3食の料理メニューが書かれている。
 そのうえ『冷蔵庫から出して温めて食べて』『鍋のものを温めて』『電気ポットは使ったら、コンセントはかならず抜いて』などと添え書きしている。

 冷蔵庫のドアを開けてのぞき見るのが面倒だから、近くの商店街に出かける。安くておいしい牛丼、天丼、中華料理、ラーメンなど好みのものを食べる。ともかくキッチンの前に立たないですむから楽だ。


 私が食べないとわかっていても、妻は作る。数十年間も続いてきた。結局はその翌日に食べることになるのだが……。


 夫婦だから、些細なことから口論に発展する。「せっかく作ったのに、どうして冷蔵庫のものを食べないのよ」、「家事は何ひとつ手伝ってくれない」。妻に感謝の気持ちがあっても、一言、ありがとう、と口からすんなり出てこない。以心伝心で解っているだろう、と思いがち。
 これが日本人の夫の特徴の一つだろう。そう認識しているが、私だけかもしれない。


 妻は、顔見知りの出久根さんが回答する『人生案内』をよく読んでいる。口論した後の背中をみると、「あなたも、読売新聞に投稿してあげるからね」と言いたげだ。

 このたび、出久根達郎が答える366の悩み『人生案内』が出版された。白水社(1400+税)。帯は【わかりあえない時代の教科書】である。回答者歴14年・直木賞作家が大人の心得まで伝授!とある。
 投降者は中学1年生から92歳まで、あらゆる悩みに答えます、と明記されている。

 
 私は出久根達郎著『人生案内』を手にすると、まず妻が投降したか否か、妙に気になった。
「まさか、そこまでしないだろう」
 と思いながらも、該当しそうな質問を追う自分を知った。


「自分自身の悩み」「両親の悩み」「夫婦間の悩み」、もし投稿したとなれば、ここらだろうな。質問内容をみる 

≪夫が女性と頻繁にドライブ≫夫は他人にやさしく八方美人ですが、逆に私には激しく当たります。
≪女性とのメール妻に見られた≫社内の女性とのメールを家に忘れて、妻に見られたのが発端です。子供が成人したら離婚だといわれています。
≪妻と会話のない日々≫今の状況は不愉快です。早く、もとのやさしく明るい妻に戻ってほしいのですが。


 ここらは該当しない。さらにページをめくってみる。
                                 【つづき】

第86回・元気に100エッセイ教室=書き出し、結末、勇気について

『なにをどう書いても良い』
 そう語る指導者がいる。その実、自由気ままに書けるものなら書いてみろ、という奢りが根底にある。

『話すように書きなさい』
 ベラベラ喋るように書かれたら、読み手はたまったものではない。お付き合いで負担を感じながら読んで、結末で下手な演説を聞かされた気分になり、作品自体に失望してしまう。


 おなじ素材でも、名文もあれば、駄文もある。

 小中学生のとき、我流で作文を書いた。
『書き出しで、読者に逃げられるな。結末では失望させるな』
 この基本が教師から教えてもらっていない。それなのに、エッセイや短文が書けると、世の多くは錯覚している。

 創作技法が身についていなければ、連続して良品は書けない。次が期待されても、我流で書いて失望させてしまう。


 エッセイを学ぶ。つきつめると、「書き出し」と「結末」の達者な技法の習得と、「勇気」である。
 人間は誰しも恥をかいている。失敗もしている。罪悪もある。それを本音で赤裸々に描く精神がなければ、感動作品をかく技量は身につかない。

 読者は利巧だから、小手先の嘘やつくり話は文脈で見破られる。


【読者を引きこむ書き出し】

 ① 動きのある描写シーンから書く(映画を見るように)

 ② 最初の一行で、次が知りたくなる。二行目で、さらに次が知りたくなる

 ③ 思わずエッセイ空間に引き込まれていく。(同じ体験の境地にさせる)

 ④ 私の履歴、家族の説明、初めから結末がわかる(退屈感を与えてしまう)


【巧い結末のつけ方】
 ① 最後まで、糸がぴんと張っている。

 ② 続きがあるように、後方は思い切って切り捨ててしまう。

 ③ 言いたいことは書き切らず、腹八分目で留める。

 ④ 形を整えて締め括ると、「作品よ、さようなら」読後感がない印象を与える。

【講演・案内】 朝日カルチャー・千葉で公開講座。3月7日13:00~

 朝日カルチャー千葉で、3/7(土)13:00~15:00、公開講座を行います。タイトルは『幕末歴史小説「二十歳の炎」の講演』です。(有料・関連情報を参照)

 2月1日に、葛飾鎌倉図書館で、講演した内容の概略が葛飾ケーブルテレビ(YouTube)で、紹介されています。
 過去3回の同講演では、ほとんどの参加者が「目からうろこ」と称しています。

 天明・天保 ~ 安政の開国 ~ 幕末 その歴史的な流れが、教科書で習ったことがない、新しい視点としっかりした体系で理解できます。


 ナポレオンが19世紀にオランダを占領した時、『オランダ国』が消えてしまった。これは歴史的事実である。日本はどこか欧米との窓口を必要とし、オランダの代わりに、長崎でアメリカと貿易をはじめた。だから、当時の浮世絵、三味線、草履、下駄、扇子などが米国博物館に豊富にある。

 日本はこのとき日英辞典ができた。ペリーが来航した時には、英語の通詞(通訳)はたくさんいた。だから、黒船来航からわずか1年後でも、英文による条約調印が可能だった。

 なぜ、教科書で教えてくれなかったのだろうか。


 文明開化は鎖国から解き放たれた、安政の開国からである。「明治維新」とは嘘の表現である。「安政維新」が正しい。
 蒸気機関車は幕府が発注し、新橋=桜木町で開通したのは明治だった。こうした実例を知ろう。


  禁門の変で、朝敵になった長州藩は、倒幕に殆どかかわっていない。第二次長州征伐で、現・山口県から幕府軍を追い出したにすぎない。
 「薩長同盟」なんて、その実、後世の作家の造りごとにすぎないものだった。


 江戸幕府は260余年戦争しなかったのに、明治時代になると、10年に1度は戦争する国家になった。明治政府がいかに嘘の歴史をおしえて、国民を軍国主義へと導いたか。


「歴史の真実は、やっぱり隠されていたんだな」
 だれもが、新たな価値観が得られます。


【関連情報】

① 朝日カルチャー千葉で、3/7(土)13:00~15:00の講演案内。詳細のチラシはこちらをクリックしてください。


② 葛飾鎌倉図書館で、講演した内容の概略が葛飾ケーブルテレビで紹介されています。YouTube

『幕末歴史小説を語る』(下)=葛飾鎌倉図書館で、講演

 明治時代から77年も軍事政権がつづいた。が、昭和20(1945)8月15日の無条件降伏で終焉(しゅうえん)した。その実、昭和天皇の決断で、軍事国家は終了した。


 もし、昭和天皇が断を下さなければ、「日本人・全員の玉砕(自決)」と声高に叫んでいた軍部に引っ張られただろう。米軍の空爆で廃墟になった日本領土。そこに欧米連合軍が日本列島に上陸し激しい戦いを展開していただろう。狂気の戦場となり、双方の犠牲者数は想像がつかない。


 薩長の下級藩士が明治初年に権力欲で天皇を利用した軍事政権を作りながら、最後は尻拭(しりぬぐ)いができず、天皇にすがって終焉した。この事実はだれもが消すことはできない。


 こんな悲惨な77年に誰がした。私はあえてなんども叫ぶ。『薩長の下級藩士が英雄気取りで軍事国家をつくったからだ』と諸悪(しょあく)の根源(こんげん)をそこにおく。


 1600年の徳川政権樹立から、2015年までの約400年余のスパンでみれば、許されない77年だ。もう維新志士だと、かれらを英雄扱いにするのは、作家も市民も止めようではないか。そんな気持で、講演で語らせてもらった。

 400年中の77年の戦争国家は異常である。怪しげな「明治維新」という言葉をもういちど疑ってみよう。江戸時代の長期の鎖国後の、開国から西洋文化が導入されて、政治・経済・文化が根底からすっかり変わった。
 『安政維新』が最も正しい表記である。


 当時の文部官僚が作った「明治維新」は、やがて修正されて歴史から消されていくだろう。


 私たちはなぜ歴史を学ぶか。日本人が歩んできた過去を正しく知り、将来の指針にしていく必要があるからだ。

 415年のスパン(歴史の範囲)で見れば、日本人は338年間も、戦争のない国を支えてきた。災害列島でも、日本人は助け合って平和に生きてきた。世界を見渡しても、77年を除けば、戦いを好まぬ稀有な民族だ。
 戦後70年は戦場で一兵も死んでいない事実を大切にしながら、この先も、平和国家を一年ずつ更新し、未来に向けてさらに伸ばしていく。

「それが歴史から学ぶことです」
 と私は心から語った。
                                             
                        写真:滝アヤ
                                               【了】

関連情報:幕末歴史小説『二十歳の炎』


 今回の講演は写真撮影、ICレコーダーの録音、さらにテープ起こしは自由にしました。つきましては、 【転載は自由です】ただし、商用目的や非反社会目的、及び誹謗、中傷などは禁止いたします。


     
                       

                  【了】

  

『幕末歴史小説を語る』(中)=葛飾鎌倉図書館で、講演

 葛飾区立鎌倉図書館で、『幕末歴史小説をかたる』の講演で、とくに明治政府の欺瞞(ぎまん)に焦点を当てた。薩長土肥。「肥ってなあに?」。多くが知らない。肥前(佐賀)が文部官僚を占めた。かれらは歴史のねつ造が得意だった。

 明治維新。こんな言葉こそは欺瞞の造語だ。正確には、「明治軍事政府の樹立」なのだ。


 大政奉還で平和裏に京都に明治新政府ができた。ところが、薩長の下級藩士たちが、鳥羽伏見の戦いを機に軍事クーデターが起こし、遷都(せんと)もなく、明治天皇を東京に移したのだ。

 戦後の東南アジアでもよく見られた、民主政権ができると、すぐさま軍事クーデターが起きる。それとまったく同じ構図である。


 日本は天皇制である。古代から、天皇がお住まいになる京都・皇居に兵を挙げ、そして天皇に承認してもらえば征夷大将軍、あるいは国家の頂点に立つと考えてきた。平家、源氏、足利、織田信長、今川、上杉謙信、武田信玄、誰もが天皇のいる京都へと兵を挙げた。

 織田信長の天下統一も、天皇が認めたからで、蝦夷(えぞ)から薩摩まで、武力制圧したわけではない。簡略に言えば、「天皇を掌中にした方が勝利者である」という認識だ。それが天下統一だ。

 自民党の党首が選挙で勝てば、天皇の承認が得られる。現代にも通じる、皇国の国家なのだ。


 戊辰戦争後、明治天皇が東京移されると、天皇のいない京都の明治新政府はもぬけの空になった。それは脱皮したセミの殻(から)と同じだった。

 薩長の下級藩士たちは、天皇を東京に移したあと、次に何をやったのか。天皇を利用した軍事国家づくりだ。若き10代の明治天皇もきっと本意でなかったはずだ。むしろ、楯(たて)つけなかったと見なすべきだろう。

 明治軍事政権の施策の一つが、廃藩置県である。これは徳川家が天皇に政権をもどした大政奉還とおなじ。戦国時代に武勲(ぶくん)をたてた大名が藩主になり、そのまま268年も利益を得るのはおかしい。全国諸藩の藩主たちも、天皇に権力をもどすべきだという考えだ。


 幕末に、広島藩の辻将曹(つじ しょうそう)が各藩に呼びかけた。それが実行されたものだ。その詳細は拙著の幕末歴史小説『二十歳の炎』に展開している。


 次なるは、廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)だった。それは仏教徒とキリスト教徒の弾圧だった。山伏の活動も禁止したうえで、山岳の山頂には鳥居や社(やしろ)を作った。仏教徒から奪ったのだ。そのうえで、天皇を神とした。


 さらなるは徴兵制(ちょうへいせい)だった。これは最悪である。国民はだれかれなく召集令状(しょうしゅうれいじょう)1枚で、武器を持たされた。文部官僚は学校教育の教科書を通じて、幼い軍国少年をつくりあげた。これは紛(まぎ)れもない歴史的な事実だ。

 そして、海外の戦場や南方の島々へ送り出された。若者たちの意志に関係なく、『天皇のために死ぬのが、国家に対する忠義だ』と玉砕(ぎょくさい・全員の死)させられた者も多い。
 
 東郷元帥や山元五十六になった気分で戦争をみれば、英雄史観になってしまう。私たちは戦局など見れる高所の立場にはなれないのだから。つねに二等兵、一等兵の眼で、戦いの場を見ないといけないのだ。


 師範学校、高等師範学校出の教員たちが、子どものたちを職業軍人の美化へと洗脳(せんのう)した。軍国主義の教育の怖さだ。

 軍人はつねに勝った負けた、それが主眼になる。結果として昭和20(1945)年まで、数百万人の日本兵が海外で死んだ。むろん、9割以上が一般市民だ。外国人はそれ以上に犠牲になった。

 こんな国家は良いはずがない。
            

  写真:郡山利行  

                                【つづく】

『幕末歴史小説を語る』(上)=葛飾鎌倉図書館で、講演

 26年度かつしか区民講座の「区民記者養成講座」の受講生に、葛飾鎌倉図書館勤務の方が参加されていた。幕末歴史小説「二十歳の炎」が出版されたので、「講演をしましょうか」と持ちかけて話がはずんだ。
 ことし(2015年)2月1日(日曜)の午後2時から2時間にわたり、表題『幕末歴史小説を語る』の講演を行った。
 80席が開演前には満員になっていた。

 德川政権には三つの大きな節目がある。

① 天明の大飢饉(だいききん)による、大坂、江戸の打ち壊しで、無政府状態になった。德川政権は天皇から政治を委託(いたく)されている、という皇国思想が生まれた。

 講演では、『尊皇(そんのう)と攘夷(じょうい)とは、まったく別ものですよ』と知らしめた。歴史作家でも、尊王攘夷はひとつものだと考えている。これは歴史認識が間違っているからだ。

 尊皇とは天皇を敬(うやま)うことだ。攘夷は外国排除の戦争思想だ。これを合体させると、天皇が戦争好きに思わせる、危険な思想なのだ。


② 鎖国から開国へと、世の中が変わり、ここから文明が大きく飛躍した。『安政維新』が正しい。


③ 幕末の経済危機「ええじゃないか」運動が京・大坂から広がり、15代将軍慶喜は外交に強いが内政に弱く、コントロールできなくなり、政権を天皇にもどした。
 その大政奉還から、明治新政府ができた。


 京都に明治新政府ができた。しかし、薩長の下級武士が軍事クーデターを起こした。鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争、そして天皇を遷都(せんと)もなく東京に移し、明治軍事政権をつくった。

 京都の明治新政府と、東京の明治軍事政権とは別ものである。かれらは広島・長崎の原爆投下まで77年間、10年に一度は海外と戦争をする国家にした軍人支配だった。


 軍事国家をつくった明治政府は、見せかけの正当化を図(はか)るために、偽りの表記をしている。最たるものは「明治維新」という言葉である。


 維新とは新しく世が変わることである。250年からの鎖国から、老中首座・阿部正弘は開国への道を選んだ。維新はここから始まる。

 海外留学生を送りだす。横須賀に製鉄所、長崎に大型船建造の造船所ができる。大量の蒸気船を発注する。パリ万博では日本文化の良さと美しさを欧米諸国に伝える。白い肌の技師が日本国内に沢山やってきた。
 庶民の畳の生活には、机やテーブルが入ってくる。

 これこそが庶民レベルの生活様式まで変えた文明開化であり、日本が新しくなった「安政維新」である。15年間は上向きにつづいた。

 明治時代は、それを15年後から引き継いだだけである。単純に考えても、「明治維新」でなく、「安政維新」が正しい。


 明治政権を樹立した政治家は、もともと外国排除の攘夷だった。「維新」とか「文明開化」のスタートを使うとは、まるきし虚偽である。
 軍事思想の顔を隠し、政権が文化・進歩的だとオブラートするためのものだった。蒸気機関車にしろ、德川時代に発注されて、新橋・桜木町間の開通が明治時代なのだ。


                  写真:郡山利行

                                 【つづく】


 今回の講演は写真撮影、ICレコーダーの録音、さらにテープ起こしは自由にしました。つきましては、 【転載は自由です】 ただし、商用目的や非反社会目的、及び誹謗、中傷などは禁止いたします。
  

第85回 元気に100エッセイ教室 = 筋立て(プロット)

 エッセイや短編小説を書き慣れてくると、筋立てに一定の原理が見えてくる。
 素材・材料の処理が巧くなってくる。身近な小さな出来事でも、「赤の他人の読者でも一気に読ませる」という筋立てになってくる。

 作品を書き慣れていない(初期の)人は、着想(思いつき)は良かったが、書き出してみると、筆が途中で思うように進まず、悩んだり、投げ出したりする。
『頭のなかは名作だが、書けば駄作』
 見取り図通りに書けないものだ。

『着想から結末』

① 創作のコツは、まず素材を頭のなかでしっかり濾過し、熟成させる。そして、テーマを決めていく。
 テーマが決まると、それを作中のどこに置くか、思慮する。書き出しか。後半のクライマックスか。結末の数行のなかに置くか。
 そこへ「読者を導いていく」のが、よい筋立てである。

 テーマが不鮮明だと、ムダの多い文章で、筋立てや運びが悪くなる。


②冒頭では、ゆっくりと人物や出来事の一端を紹介する。
 筋や構成が整う。あまり緩慢過ぎない。
 次は筋を掘り下げながら、スピードを速めていく。流れが速すぎると、表現が荒く、軽薄になる。ひどい場合は箇条書きになってしまう。
 書き慣れてくると、ここらが緻密に計算できてくる。

 後半はこれまで伝えてきたものを収集しながら、結末に向かって急速になる。


③能の喩から「序破急(じょはきゅう)」とも呼ばれている。
 冒頭で速く舞いすぎると、観能の気分を壊す。破は表現(エピソード)が細かく砕かれて、緻密になってくる。
 最後の急は、スピードを高め、筋を集めて結末とする。

 エッセイは自分の体験と経験を書くだけに、とかく独りよがりになりやすい。それを解消するには、作者と主人公「私」との間に距離感を持つことだ。
 そして、読者の心を引っ張りながら、自分とおなじ疑似体験させる。

 良い筋立てとは、読み手の心理を計算しながら書くことである。

【推薦図書】 本と暮らせば = 出久根達郎 (直木賞作家)

 2015年の元旦は、単行本を1冊、最初から最後まで一気に読もうと心していた。なにしろ、遅読だから、そう決意して、除夜の鐘の後からでないと、一日で読み切れない。
 手にしたのが、出久根達郎著「本と暮らせば」(草思社・1600+税)である。「本との出逢いが、人生だ」という帯が気に入っていたからだ。

 出久根さんは古書店主にして、直木賞作家である。「平たく、わかり易く、それでいて濃密」が特徴だ。エッセイの場合、どこから読むか。サブタイトルから、拾い読みしても、まったく問題ない。むしろ、その方が読み手の負担がない。楽しんで読める。


 サブタイトル「職業当て」で、出久根さんは『最も楽しい読書、というのは、私の場合、蒲団に腹這って好きな本を読むことである』と記している。

 私は時間が経つほどに手と腰が痛くなるし、これはやらない。もし、私がそれが出来て、早々と寝てしまったら、それは書き手の出久根さんの問題だ。
 そんな余計なことも考えながら、読み進む。面白い小説ならば、読みだしたら止められない。だけど、エッセイはどこでも止められるのが特徴だ。時には一気に読んでしまっては勿体ない気持ちにもなる。

 「下街と下町」で、私の名前が出てきた。えっ、と驚き、目が一段と冴えてきた。吉岡さん、轡田さん、新津さん、吉澤さん、と並んでくれば、あの日のあの情景か、とすぐさまわかった。

 私の名前が出ているから、推薦図書にする、どうも心の中がややこしくなったな。実は、元旦はここで打ち切った。中おいて、3日に読むことにした。


 第2部で、『ちょんまげ』があった。きっと新宿で上演された、夏目漱石のあの劇だろうな、と閃いた。まさしくズバリだった。楽しい劇だった。
 出久根さんは、夏目漱石の書物、関連事項の知識では抜群だ。完全消化(昇華)されている。漱石のエピソードなどは、漱石先生の作品を読まずして、知識が身に着いた気分にさせられるから、出久根さんは不思議な作家だ。

 75編のエッセイが次々に魅了してくれる。小説家、文学者の名まえが数多く出てくる。それは当然だ。「本と暮らせば」がタイトルだから。

 おなじくり返しになるが、同書の読み方の秘伝があるとすれば、パラパラっとめくって、自分の好きな作家が目につくと、そこは精読する。たとえば、2日間ほど空腹で、目の前におにぎりが差し出されたように、美味しく味わえる。

「源氏物語」の活字が眼に入れば、パスする人はいるだろう。その実、私はそうだった。「最初から最後まで一気に読もう」と決めておきながら、スルーだ。それは出久根さんのせいではない。

 
 私事だが、2月1日、葛飾鎌倉図書館で講演を予定している。80人くらい収容できるらしい。現地打ち合わせて、1月11日に出むく。
 同担当者から、「穂高さんの推薦する作家を教えてください」と言われている。講演当日に、会場の一角にならべ置いてくれるという。
 恩師の伊藤桂一氏と、出久根達郎さんは頭においている。共通するのは、ともに作品に深みがあり、読みやすい作家だ。読者を裏切らない。 
 
 

第84回 元気に100エッセイ教室 = 段落:改行の分け方

 エッセイ作品は小さな出来事ごとに段落を付けながら、組み立て、全体を構成していきます。

 文章は改行ごとに、一つのブロック(パラグラフ)、一つの意味合い、新たな話題(出来事の小単位)でくくるのが理想です。それは気分や思いつきでなく、計算づくで段落をつけていくと、作品が際立ってよくなります。

① 作者の呼吸にもよりますが、センテンスは3~5個くらいがちょうど手頃です。(センテンスの文字数の理想は42字平均として)。
 読みやすさにもつながります。


② 話題の料処理においても、200字以内でまとめた方が切れ味は良くなります。
 一つブロック内にセンテンスが多いと、内容が捉えにくくなります。


③ 視覚的な長短の工夫も必要です。
 一つセンテンスごとに改行すると、詩的な雰囲気になり、叙述文としては文章や視点が荒っぽく見えてきます。読み手の感じ方、捉え方が散漫になってきます。


④ 一つ出来事でも、延々と文章がつづいて改行が無ければ、「べた書き」と言い、圧迫感から読みづらく、苦痛になります。


⑤ つねに作品の流れによる緩急とリズムで、ブロックの長短をつけていくと、変化と勢いが出てきます。作者の文体づくりにも役立ちます。


          【ポイントとコツ】

① 初稿が書きあがった後、全体を通すよりも、まず段落ごとに統一感から加筆と削除をしていくと、焦点がハッキリします。


② 書き出しから次の段落まで、さりげなく疑問形(あるいは自問など)の文章を入れておくと、作品の求心力がつきます。そして、全体を見直す。


③ テーマの統一感からも手を入れていく。時にはブロックごと捨ててしまう。内容が引き締まります。


④ 結末の段落は1~3センテンスで止めると、読後感が良くなります。

第13回 歴史散策 築地・月島・佃島

 もう3年半になるだろうか。第1回が、真夏の立石散策と飲み会だった。集まったのが、作家仲間で歴史好きなメンバーだった。「次回もどこかへ行こう」

 そんな気楽な集まりだった。これまでどこに行ったのか。ミステリー作家の新津きよみさんが、手帳に克明に書きとめてくれている。1人が記載すれば、まあ、過去の流れは解ることだし、ここで述べる必要はない。
 こんかいの集合場所は11月13日午後1時で、メトロ・日比谷線の築地駅だった。出口1番の改札を出て、階段を上がると、
「いま、遅刻魔の穂高さんがこんかいも遅れたら、置いて行こうね、と相談していたところよ」
 歴史作家の山名さんが開口一番に言った。
「そんな予感がしたよ」
 こればかりは病気かな。出かけ間際にあれこれやりすぎるのだ。そんな言い訳もせずに済んだ。なぜか。早め着きすぎたジャーナリスト兼作家の相澤さんが、昼食を取りに行って、まだ帰っていなかったからだ。私の3分遅れは救われた。こんなことで安堵をしてはいけないのだが。

 散策のコーディネートは、文芸評論家の清原さん、歴史作家の山名さんである。まず築地本願寺に出むく。外観はどこかカトリック建築を思わせる重厚感に満ちている。
 親鸞聖人の生誕を祀る大きな法要の最中だった。寺院の厳かな内部では、ミサならぬ釈迦の歌がコーラスで歌われていた。
「写真撮影は、大丈夫ですよ」
 新品の袈裟をきた僧侶が、愛想よく応えてくれた。
 このメンバーでかつてロシア正教の教会に出むいた。バッグは背負うな、帽子はダメ、そのうえ撮影禁止だった。つい、それに比べてしまう。
(日本の仏教は開けているな)
 日本ペンクラブは表現の自由をうたう団体だ。
 写真による伝達、歴史的な記録には映像が不可欠だと考える。やたら個人の肖像権を振りまわす風潮は困りものだと思う。集団のなかに、己の顔が大きく写っていたにせよ、それによる不都合な面が、どのくらい生じるだろうか。一兆分の1の不都合など生じないはずだ。
 最近では、メディアの報道の自由よりも、優先すると考えている輩が多い。大半は自意識過剰だ。
「あんたは写したくなかった、どいてほしかった」
 そんな嫌味の一つも言いたくなる。

 ともかく、仏教徒の開けた撮影許可には感動した。信仰の自由だな、とも思う。

 築地場外市場の狭い路地の買物風景を観てから、「かちどき橋の資料館」に出むいた。実物の電動モーター、太いロープの断片などが展示されていた。無料で、社会科勉強ができる。

「橋が開いてるのを見たひとはいるのかな」
 日本ペンクラブ事務局長の吉澤さんが、訊いていた。東京に生まれ育った人は、小学校の遠足できたようだ。(写真は勝鬨橋の中央部)

 東陽院の十辺舎一九の墓は、時間の都合からカットだった。山名さんは朝日カルチャーの公募・歴史作ツアーで、数日前に歩いたコースだと語る。
 トリトンブリッジ・トリトンスクェアの桜並木の散策道は、みな急ぎ足だ。なにしろ東京海洋大学・明治丸(船内見学)の受付時間が2時半だ。それに遅れたくない。本日のメイン中のメインだから。

 同大学が遠方に見えてきた。ごく自然に小走りになった。
 しかし、残念なことに、明治天皇が乗った明治丸は、大掛かりな改修工事の最中で、見学はさせていなかった。船体の外観はすべて保護シートに包まれていた。
 7人は失望した。

「せっかくここまで来たんだから。説明だけでも聞きたい」
 作家の好奇心は廃(す)れない。工事を請け負う大手建築会社の現場主任に掛け合った。作家7人はヘルメットを持っていないので、現場のそとで、明治丸の精密な設計図をもとに説明を受けた。
 天皇の乗られた場所を問うと、推測ですけど、と前置きしてから、船尾のキャビンが示された。
 

 大学港内は誰しもが、青春をほうふつさせる。黄葉の並木道、赤レンガの建物、われら世代には懐かしい想いがみなぎる構内を散策した。
 大学構内のレストランは閉まっていたが、ウィンドーをのぞき見て、「安い、安いな」と相澤さんがとても感動していた。交通費をかけてでも、食べにきたい語調だった。


 次なるは、月島開運観世音へと向かった。この間に、「もんじゃ焼店通り」を散策しながら、お好み焼きともんじゃ焼きとの談義になった。
 広島育ちの私には、ドロドロしたもんじゃ焼きはどうも苦手だ。かつてどんなものかと一度食べた。その時から、もう食べたくないと思った食品の一つだ。
 とはいっても、周辺には、若いカップルが多かった。

 まだ民間人が住んでいる佃島高瀬家住宅(区文化財)から、佃波除稲荷神社に向かった。皆して、まずはツクダ煮を買った。その上で、歴史散策にもどる。

 家康が関東に来た時、関西から漁師を連れてきた。かれらのために東京湾の埋め立てが行われた。それが佃島だ。
 外洋から打ち寄せる波が強くて、埋め立て地の岸壁の土砂や石が流されてしまう。若い娘の人身御供で、波を鎮めた。そんな悲しい伝説が残っていると、山名さんが教えてくれた。

 佃島渡船場跡(石碑)の近くに、一本の大樹の銀杏があった。神社の天井を打ち破った巨木だ。見応えがあった。これには感心させられた。
 
 住吉神社は大坂から猟師たちが庶民が移り住んだことから、祀られた神社だった。いまでは喧騒とした東京にありながらも、静寂さが漂う。心が休まる趣があった。


 いよいよ井出さん(日本ペンクラブ事務局次長)がセッティングした「月島スペインクラブ」だ。料理は抜群の美味しさである。
 井出さんはヨーロッパに生まれて育った。それだけに、ワインには詳しい。実は、私以外はみなスペインを旅している。荒れ地だからこそ、ブドウの樹が育つと私は教えられた。それぞれがワインの銘柄にこだわっていた。
「ビールしか飲まないの?」
 周りの作家から同情された。

 流れて2次会は居酒屋だった。記憶があいまいだが、「浅田軒」だったと思う。月島が下町だとわかる飲み屋だった。

 次回はからだが寒さになれきった2月になるだろう。