A020-小説家

幕末歴史小説 穂高健一著『二十歳の炎』が全国で販売を開始しました

 芸州広島藩から書かれた幕末小説は、皆無だった。これまで幕末史は、小説家や歴史家が薩摩藩、長州藩、土佐藩の視点から書かれたものばかり。
 どんな著名な歴史作家でも、広島藩を組みしていない。なぜか。理由はかんたんだ。原爆でお城や武家屋敷などが総べて消滅してしまったからである。

 もう一つある。明治政府の政治家は薩摩出身、長州出身が主体で、広島が目立たないように、と芸州広島藩の浅野家が編纂した『藝藩志』を発禁処分にした。なぜ、発禁か。薩長の恥部を知っているからだ。それを暴露されると、不都合だからだ。

 二つの理由から、広島藩の史料はないのが定説だった。しかし、私は150年前はまだ史実が見つかる。その想いで、約4年半の歳月をかけて取材してきた。
 
 ここに穂高健一著『二十歳の炎』を発刊することができた。
   

            『二十歳の炎』 表紙

 出版社は日新報道で、定価は本体1600円+税。6月24日から全国書店やアマゾンなどネットで販売されている。

 第二次征長(幕長戦争)、大政奉還、鳥羽伏見の戦い、そして戊辰戦争・浜通りの戦い(相馬藩・仙台藩)へと2年間に絞りこんだ。登場人物はすべて実在である。

 史料がないのは芸州広島藩だけではなかった。戊辰戦争といえば、白虎隊の会津中心に考えてしまう。
 しかし、新政府にとって東北の雄・仙台藩が最大の敵だった。平将門の血を引く相馬藩と2藩が、福島・浜通りを北上してくる官軍と熾烈の戦いを行った。
 
 仙台藩を落とさずして、会津だけ攻めても、新政府の勝利とはならない。この単純な構図が、現代では作家にも歴史家にも理解されていない。ましてや、現地の住人も「ここで戊辰戦争があったのですか」と聞くくらいだ。

 明治政府のトップにすれば、仙台藩や相馬藩の戦いがこれまた目立っては不都合。これまた、歴史事実から消されてきた。

 
 会津城と比べると、浜通りの戦の研究者は少なく、実に薄い資料だった。
 
 それでも、楢葉町、富岡町、双葉町、浪江町、南相馬町、相馬市の各教育委員会の歴史専門員が協力してくださった。
 原発事故で、まだ立ち入り困難区域だった。役場職員だから、一次帰省で、市役所や公民科の資料室から該当資料を運び出してきてくれた。頭が下がる思いだった。 

 広島側と福島側の資料がそろったのが、昨年末である。そして、ことし(2014年6月)に「二十歳の炎」が世に送り出された。

 髙間省三は満20歳で浪江で戦死した。そして、広島護国神社の筆頭祭神に祀られた。明治20年代の「軍人龜鑑」には、英雄として、加藤清正、山田長政、徳川家康などと並んで表記されている。
 軍人・武勲ではなく、頼山陽(広島)の皇国史観の延長上で、若くして死んだ高間省三を評価しているのだ。

 江戸時代260年間は国内外で一度も戦争がなかった。明治時代になると、軍事国家となり、10年に一度は海外で戦争する国家になった。日本人の庶民の多くの血を流させてきた。戊辰戦争が平和国家から軍事国家になった。ここが原点となった。

 これまで歴史小説作家たちは、明治維新を生み出した薩長の立場で書かれていた。このスタンスで読めば、平和国家がなぜ軍事国家になったか、という教訓は得難い。この後、私たちが平和国家か、戦争国家か、それを判断させれるときに、戊辰戦争から、学んでほしい。

 それが執筆の最大目的です。

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