古都・奈良を歩く「神さまと戦争」を考える=真の黒幕はだれか
年末・年始は、山岳歴史小説「燃える山脈」の執筆で、私なりに全力投球していた。新聞連載小説と、単行本と両面で書きつづけた。分量がちがうから、2本立てになってしまう。
祝「山の日」はことしの8月11日だから、それまでに単行本は書店に並んでいなければならない。逆算すれば、1月下旬までに完全原稿にしておかないと間に合わない。
連日連夜、根を詰めていたから、ふらっと旅したくなった。古都・奈良に行ってみよう、と決めた。目的がなければ、なにかしら出会いがあるものだ。
春日大社・春日山原始林はユネスコの世界遺産になっている。なんどか行っているが、森林浴くらいの気持だった。鹿が群れて遊ぶ。最近は、山岳の色彩豊かな高山植物が、1輪たりとも花がなくなるほど、鹿に荒らされている。
だから、私の目は鹿にたいしてあまり好意的ではなかった。
春日大社の参道の左右には、灯籠がならぶ。参道入り口から、平成、昭和、大正とだんだん古いもの順となる。それは当然で、奥にいくほど、古くに寄贈した灯籠になる。苔のつきぐあいも濃緑になってくる。 私は灯籠の背面の建立日をみていた。
明治時代になると、灯籠が一気に増えた。
「時代を映しているな」
私の頭は德川政権と明治政府のはざ間に立っていた。
仏教は江戸時代において優遇された。しかし、明治に入ると、廃仏毀釈(神仏分離令)で、その地位を失っていく。
奈良の興福寺などは売りに出される。その一方で、春日大社などは武勲の武将を祀る神社としておどりでてきた。
戦争はとかく宗教は結びつきやすい。明治政府は神教をことごとく利用してきた。
「日本には蒙古襲来以降、神風が吹く。建国以来いちども負けたことがない、神代の国だ」
政治家・軍人のことばが連日に飛び交う。
ほとんどの日本人が信じ込まされてしまった。結果を先に言えば、大ウソだった。東京は大空襲、沖縄は悲惨、あげくの果てには広島・長崎の原爆投下だ。
これが神代の国なのか、というほど叩きのめされた。黒幕は誰なんだと、考えてしまう。
明治時代に、山縣有朋が主導し、徴兵制ができた。ここから、すべての日本人が悲惨な戦争の犠牲になっていった。
日清戦争、日露戦争、日中戦争、太平洋戦争、と段々と神々がつかわれ始めた。……聖戦、玉砕、国民総動員、総力を結集、お国のために死ぬ、戦死者を英霊、軍神としていった。生きても、死んでも、神と結びつけられた。これらはいまとなれば、虚しくひびく。
銃を持たない女子においても、家族のだれかれをなくし、学校では学べず、工場で勤労動員させられた。これらも戦争犠牲である。
「太平洋戦争では神風は吹かなかった」
政治家も軍人も、大嘘をついていた。
『日本の国の安泰と国民の幸せを願い、尊い神々をお祀り申し上げ~。神さまのありがたさがしみじみ感じられる』
春日神社のパンフレットをみながら、そうなのかな、とおもいながらも、参道をいく。
『古事記』『日本書記』の神話の世界をタテにした、神々の一本調子は危ないな、とおもう。日本人は「お上に従う」という従順型の民族だから、黒幕には好都合なのだろう。
「神々は崇高なのに、利用した黒幕がいるのだ」
聖戦、軍神と書いたのは新聞だ。筆の怖さも思い知る。
大社の奥から古い順であり、江戸時代あたりは神仏習合(しんぶつしゅうごう)だから、寄進された灯籠は少ない。
日本人には「神と仏が一体」になっている方がよい。宗教は多彩で、自由なほど、戦争の少ない国家になるのではないかな。
「戦争と宗教は結びつきやすいが、国境問題でも戦争は火がつくからな」
私は春日山山ろくの森林の道を歩きながら、そんな思慮をしていた。