第86回 元気100エッセイ教室 『書き出し、結末、勇気』について
「なにをどう書いても良い」
と語る指導者がいる。
その実、自由気ままに書けるものなら書いてみろ、という奢りが根底にある。
「話すように書きなさい」
ベラベラ喋るように書かれたら、読み手はたまったものではない。お付き合いで負担を感じながら読んで、結末で下手な演説を聞かされた気分になる。
そして、作品自体に失望してしまう。
おなじ素材でも、名文もあれば、駄文もある。
小中学生のとき、我流で作文を書いた。
……花は美しい。河口湖に映る富士山はきれいだ。10月の空は抜けるような青空だった。土佐の海は広い。木の枝で蝉がミンミン啼いている。
こんなありきたりの表現で、独創性が低い文章でも、先生は上手ねと誉めてくれる。これで、作文が巧いと信じ込んでいる人は多い。
『書き出しで、読者に逃げられるな」
この基本が教師から教えてもらっていない。
「結末で、読者を失望させるな』
読後の余韻のつけ方すら、教えてもらっていない。それなのに、作文が上手だったから、エッセイや短編小説が書けると、世の多くは錯覚している。
作者の心が表現できる、創作の勇気がなければ、良品など書けない。一度巧い作品がかけても、それだけのことだ。次が期待されても、我流で書いて失望させてしまうのがオチだ。
エッセイを学ぶ。つきつめると、「書き出し」と「結末」の技法の習得と、自分の過去の醜さや失敗など包み隠さずかく「勇気」である。
人間は誰しも恥をかいている。失敗もしている。罪悪もある。それを本音で赤裸々に描く精神がなければ、感動作品をかく技量は身につかない。親せき・縁者、妻子に、恥部を読まれても、「これが私だよ」という勇気である。
読者は利巧だから、小手先の嘘やつくり話は文脈で見破ってしまう。巧くごまかせたと思った瞬間から、それは駄作なのだ。
【読者を引きこむ、書き出し】
① 動きのある描写シーンから書く(映画を見るように)
② 最初の一行で、次が知りたくなる。二行目で、さらに次が知りたくなる
③ 思わずエッセイ空間に引き込まれていく。(同じ体験の境地にさせる)
④ 私の履歴、家族の説明、初めから結末がわかる(退屈感を与えてしまう)
【巧い結末のつけ方】
① 最後まで、糸がぴんと張っている。
② 続きがあるように、後方は思い切って切り捨ててしまう。
③ 言いたいことは書き切らず、腹八分目で留める。
④ 形を整えて締め括ると、「作品よ、さようなら」読後感がない印象を与える。