小説家

歴史の真実はとかく消される 「元気に百歳・エッセイ教室」80回の序文より

 江戸時代の260年間は国内外で、一度も戦争しなかった。しかし、明治時代に入ると、約10年に1度は海外で戦争する国家になった。広島・長崎の原爆投下まで77年間も軍事国家となった。外国から、日本人は戦争好きな国民に思われてしまった。

 だれが、こんな軍事国家にしたのか。さかのぼれば、戊辰戦争にたどり着く。それが幕末歴史小説「二十歳の炎」の執筆の動機だった。


 大政奉還、小御所会議で、天皇を頂点とした明治新政府が誕生した。世界に誇る平和裏の政権移譲だった。民主的な国家ができると、とかく軍事クーデターが起こりやすい。1か月もたたずして、鳥羽伏見の戦いが起きた。

 それは薩摩と長州の下級武士が、政権略奪を狙う軍事クーデターだった。

 戊辰戦争が終われば、かれら下級藩士らは東京に政権を樹立し、遷都もなく明治天皇を行幸の名のもとに江戸城に移した。
 京都の明治新政府は抜け殻になった。まさに軍事クーデターの成功で、ここに明治軍事政権が誕生した。そして、10年に一度は外国で戦争する軍事国家が生まれたのだ。

 京都の明治新政府と、東京の明治軍事政府とは別ものだと明瞭に教えないから、軍国主義への切り換えがわかりにくいのだ。


 歴史の真実はとかく消される。
 薩長土肥の明治政府が、広島浅野家の史料を封印してしまった。そのうえ、原爆で広島城も武家屋敷もなくなった。なおさら德川倒幕の真実が隠れてしまった。
「長州は、倒幕に役立つ藩ではなかった」
 禁門の変で長州藩は朝敵となった。

 京都に入れば、新撰組、会津・桑名の兵士に殺された。大政奉還はカヤの外だった。小御所会議の王政復古の大号令で、明治新政府ができた。ここまで朝敵の長州は関わっていない。それは自明の理である。それなのに、薩長倒幕だという。

 薩長同盟すら怪しげだ。木戸準一郎(木戸孝允)が薩摩藩との会合内容を手紙に記し、坂本龍馬に裏書させた、単なる備忘メモをもって強い薩長同盟が結ばれたかのように描いて誤認させてきたのだ。
 これまで歴史作家は、反戦・平和主義の広島藩を抜きにして、薩摩、長州、土佐の視点で小説を書いてきた。
 多くの歴史作家は、維新志士の美化に夢中だった。鳥羽伏見の戦いを軍事クーデターと捉えていない。かれらがその後の軍事国家をつくった危険な思想の持主だったという批判すら殆どなされていない。だから、日本人全体が、あやしげな幕末史に酔っていたのだ。


 龍馬伝説にも酔いすぎている。「船中八策」という表現は、幕末から明治時代の史料や文献に一言も出てこない。
 肉筆の「船中八策」も、あえていえば、偽物の「船中八策」も実在しない。

 坂本龍馬が船将で乗った「いろは丸」が紀州の大型軍艦と衝突し、沈没した。長崎奉行所の海事審判で、龍馬、後藤象二郎、岩崎弥太郎などは「金塊と西洋の最新銃を数百丁積んでいた」と脅し、徳川将軍のおひざ元の紀州藩から、8万3千両の賠償金をとった。
 最終的には7万両が支払われた。「龍馬だから正しい。嘘はつかないだろう」と学者も歴史作家も、

 紀州藩を悪者にして書いてきた。平成に入ると、沈没船・いろは丸の潜水調査が行われた。一言でいえば、船員の持物のガラクタばかり。

 いろは丸の船主だった大洲藩には1両も支払われた記録がない。龍馬や後藤は大うそつきだった。大政奉還は、その龍馬と後藤象二郎が知恵を絞ったとされてきた。広島浅野家の膨大な史料「藝藩志」から、でたらめな作り物だとわかった。

 私の小説の狙いは、歴史作家への批判だった。武器を売り歩く「死の商人」龍馬や、外国と武力で解決を図った(下関砲撃)(薩英戦争)、かれら薩長がまたしても鳥羽伏見でも戦う軍事思想を美化すると、私たちは歴史から学べず、将来の軍事への危うさが見えなくなる。
 こうした警告でもある。

【補足】

 元気に百歳が主催する:「エッセイ教室」がことし(2016年)6月で、100回になります。1年間に10回です(8、12月は休み)。10年間はいちども欠かさずに、教室が開講してきました。

 10回ごとに、記念誌を発刊しています。私は記念誌の序文を書いています。それを随時取り上げてみます。 

 こんかいは元気に百歳:「エッセイ教室80回記念誌」 平成26年7月より

故郷を想う、広島と福島と 「元気に百歳・エッセイ教室」70回の序文より

 真夏の太陽が海面にかがやく。波静かな海には富士山に似た大崎上島が浮かぶ。竹原港から乗った中型フェリーが、私の故郷の島に向かっている。この島には橋が架かっていない。瀬戸内海では数少ない離島の一つだ。

 東京に出てきたころ、「島育ち」は田舎者の代名詞のようで、人前で語るのは嫌いだった。故郷が恥ずかしいとさえ思ったものだ。

 本州や四国との間で橋が架かると、離島ではなくなる。大崎上島はいま瀬戸内海で最も大きな離島になった。淡路島、小豆島も離島でなくなったからだ。

 船を使わなければ渡れず、近代化や文化が遅れた、過疎の島と形容できる。しかし、不便さが却って人気となり、メディアに何かと取り上げられている、と島民が教えてくれた。不便さが今後の期待につながっている。故郷は静かに変貌しているのだ。


 大崎上島には血筋の身内がいない。それでも私は故郷に足を運ぶ。若いときには、あれほど帰省すら嫌だったのに、と思う。

「故郷は心の財産だな。精神的な支えだ」
上陸すれば、なおさらその想いが強まった。


 3・11東日本大震災から、2年半が経った。三陸の大津波の被災地は『海は憎まず』として発刊することができた。その後は、原発事故関連の取材で集中して福島に入り込んでいる。私の故郷に対する、見方、価値観がごく自然に変わってきた。

 双方を取材して、私なりに導いた定義がある。

『三陸は大津波による物理的な破壊、福島は精神的な破壊だった』
 福島・浜通りの住人は原発事故直後、恐怖ともに故郷から追い出された。そして流浪の民になった。

 原子炉の底から沈降した核燃料がメルトアウトしている可能性がある。地下水に触れているかも、と住民はそれを恐れる。
 数年先、数十年先に、高濃度の放射線に襲われるかもしれない。それすら現状では予測できない。住民はもはや故郷に帰りたくても、帰れない、流浪の民となってしまったのだ。

 年配者やお年寄りは故郷に帰って死にたい、と考える。若者は幼い子を放射線のなかで育てられない、と見限る。親子でも連帯感が失われる。夫婦においても考え方の違い、温度差から、離婚が増えている。
 故郷を失くした人の心はしだいに廃っていく。


 これら福島の人たちと取材で接すると、故郷がいかに大切なものかと解る。と同時に、広島県の離島が、私の人生の根っ子なのだと再認識させられた。

 このたび70回記念誌が発行できた。それぞれ創作の力量は高まり、完成度の高い作品や、生き方を味わえる良品が多い。実に、読み応えがある。

 エッセイは作者の体験・経験がベースになっている。だから、当事者の作者しか知り得なかった、貴重な証言であり、将来は研究資料、史料的な価値も予測される作品もある。
 滑稽なエピソードが、読み手としては楽しく愉快な作品もある。さらには夫婦、家族愛、人間愛から胸にジーンと響き、涙する作品もある。

 作者側から見れば、創作作品が冊子になっていると、いつでも読み返せる。人生を回帰できる。作品そのものが「心の故郷」になっているのだ。
 この意義は大きいと思う。


【補足】

 元気に百歳が主催する:「エッセイ教室」がことし(2016年)6月で、100回になります。10回ごとに、記念誌を発刊しています。私は記念誌の序文を書いています。それを随時取り上げてみます。 
 こんかいは元気に百歳:「エッセイ教室90回記念誌」 平成25年7月より

                          西原健次

第97回 元気100エッセイ教室 = 隠れ主語と大和ことばについて

 日本人には、主語や目的語がなくても、推察できる能力があります。その面では、古来から他民族に比べて、優秀だと言われてきた所以(ゆえん)があります。


「あれ、どうだった?」
「結構、いけるわよ」 
 こんな会話でも、前後の情況から、私たちの会話はながれていきます。

「よかったわよね、きのうのあれは」
「感動よね」
 手ぶり、身振り、顔の表情も入るので、主語がなくても、読み取れます。

「ちょっと、頼んでも、いい?」
「いいけどさ。いまはやめたほうがいいわよ」
 こんな会話もごく自然に成立します。


 古来から大和ことばの言いましにおいて、主語を抜いたほうが心優しくひびきます。

「なにとぞ、お聞き届けください」

「お返事を、心待ちにしております」

「身のほど知らずで、生意気なことを言うようですが」

 欧米人の方、あるいは東洋系の大陸のひとたちとの会話で、こうした大和ことば、隠れ主語の展開では意味が取れないケースがあります。


「なにとぞ、私のねがいをお聞き届けください」
「あなたのご返事を、私は心待ちにしています」
「身のほど知らずで、私は生意気なことを言うようですか」


 大和ことばならば、やはり主語のない方ほうが、流麗な心優しい表現になります。

 随筆はこうした大和ことばで書かれてきました。欧米からエッセイ手法が入り、主語・述語の文体が中心になりました。
 
 エッセイは「私」を中心において描かれます。少なくとも、日本人には、英語のように、「I」、「it」「there」と、主語を書かなくても、文意は読み取れます。
 と同時に、隠れ主語のほうが、大和ことばの手法から、文章が美しく、輝くときが多いのも事実です。

 それが昂じて「エッセイには、『私』は要らない」と指導する方もいます。しかし、これもていど問題です。
 初級の方にはは、文章力向上のためにも必要でしょう。

 上級になっても、すべて隠れ主語で、『私』が皆無になってしまうと、作品全体が平板に陥りやすくなります。盛り上がりに欠けてくるし、なにを強調したいのか、読み手には伝わりにくくなります。

 『強調したいところで、あえて私を挿入る」そうすれば、読み手の心を響かせられます。

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石川達三著「生きている兵隊」を読んで=招集兵で、戦争を考えよう

 戦争はひとたびおこると社会システム、個人生活、私的財産までも破壊してしまう。わたしたちにとって、戦争とは何か。太平洋戦争の戦場体験の日本人は、もはやほとんどいない。書物や写真で、戦争の実態を知り、読書で擬似体験しながら、戦争とはなにか、と常に自分自身に問いかける必要がある。
 
 西郷隆盛や山本元帥になった気で、わたしたちは歴史小説を読んでいる。敵と味方の戦力のちがい、戦術・戦略の頭脳の優劣を問う、そんな大将の立場にわが身をおいている。

 しかし、庶民のわたしたちは逆立ちしても、そんなお偉い人にはなれっこない。現況、大臣経験者でもないのだから、太平洋戦争にわが身をおいたところで、陸軍大臣、海軍大臣、首相なんて、とてもなれるはずがない。
 

  わたしたちは、冷酷無比な殺し合いの戦場にかり出された一等兵である。せいぜい小隊長くらい。敵兵と味方の兵の死体がごろごろ横たわる戦場で、弾薬や食料を運ぶ兵士くらいだろう。ときには慣れない銃を敵にむけて、不正確に発砲する。
 敵弾が頭上や周辺で破裂する。あすは死か。わが身をそこにおいて、戦争を考える。このたび石川達三著『生きている兵隊』(中央公論新社・571円+税)を読んで、招集兵のわが身を想像させられた。


 同書を教えてくれたのは、「かつしかPPクラブ」の郡山利行さんである。さかのぼること、約2年半前だった。
「戦前に、こんなすごい作家魂の芥川賞作家がいたんですね」
 感慨した郡山さんが、新聞記事のコピーを送ってくれた。 それは、朝日新聞(2013/07/29)夕刊に載った、石川達三「のんきな国民に不満」という見出しの記事だった。

『日中戦争を現地取材し、残虐性を持つ兵士の本当の姿を伝えようと石川達三(1905~85)が書いた小説「生きている兵隊」は、38年に発禁処分になった。「安寧秩序ほ乱す」として、有罪判決まで出た言論弾圧事件から75年』と書きだす。

 その裁判記録が遺族から、秋田市の記念堂に寄贈されたという内容だった。

『ふたたび戦争を是認するような世の中になったきた。戦争の過程で、真実を伝えようとする言論は必ず弾圧される。こういう事件があったことを知ってほしい』と、達三の長男・旺さんは記事のなかで語っている。

 郡山さんが勧めてくれた同記事は2年余り、脳裏のどこかに残っていた。

 石川達三は昭和35年に、第一回芥川龍之介賞に「蒼茫(そうぼう)」で受賞した。太宰治が第一回の同賞の選者に、ぜひ受賞させてほしい、と手紙を執拗に送っている。受賞作よりも、そちらの出来事の方が有名である。
 石川達三は戦後、日本ペンクラブ会長(第7代 1975 - 1977)も歴任している。


 ことし2月22日(月)に、日本文藝家協会で、文芸評論家・川村湊さんの講演があった。二次会で、山本源一さん(P.E.Nクラブ環境委員長)から、石川達三著「生きている兵隊」はすごいの連発で勧められた。
 とりあえず買っておいた。

「燃える山脈」の執筆の区切りがついたので、「生きている兵隊」を読んでみた。

 作中の日本人の兵隊が、非人道的な不法な行為に及んでいく。逃げる女を裸にし、暴虐し、刺し殺す。掠奪・強奪する。中国の非戦闘員にたいする殺戮などが次々に展開している。

 20代女性の乳房を軍刀で斬り取る。兵士が夜寝るときに、石を枕にするよりも、中国人の死体の腹部を枕にしたほうが柔らかくて寝心地が良いと記す。
 僧侶の兵士が、左手に数珠をもち、右手の鉈(なた)で敵兵の頭蓋骨を叩き割る。
 政府や軍部がつくった皇軍、聖戦、英霊という表現には、ほど遠い戦場描写である。

『作中の事件や場所はみな正確である』
 達三は後日述べている。

 戦前の言論弾圧が忍び寄る暗黒時代に、よくぞ、これだけの勇気ある文筆ができたものだ、と感心されるというか、おどろきである。官憲や軍部の影の力による達三抹殺、暗殺すらも、覚悟の上で執筆したのだろう。すくなくとも、達三は軍部のタブーはいっさい考慮していない。
 

 当時でも、現代でも、『言論・表現の自由』とは言いながらも、報道は真実を伝えていない面がある。自分たちメディアの不都合はタブー視している。為政者や権力者たちに迎合した画一的なものしか書かない傾向がある。
 戦争という真実を知らせるために、ここまで書ける達三の執念はすさまじい。これぞ、本物の作家だ。
「石川達三の作家魂。それが作家精神の基本である」
 大先輩を越えられるとは思っていないが、「生きている兵隊」を座右の書にし、フクシマ原発の取材・執筆へとむかう。

 

「二十歳の炎」が3刷で発刊=『幕末史のわい曲は国民のためにならない』

「歴史ものは腐らない」と出版業界で言われている。現代小説は時代を背景として展開される。時代の進歩は速く、作品がすぐに劣化していく。文学作品など顕著なものしか、読み継がれていかない傾向にある。
 
「歴史から学ぶ」という格言どおり、歴史小説は時代を問わず、読み継がれる。どんな時代になっても、古代から近代史まで、なにかしら学び取るものがある。

「二十歳の炎」が3刷として、ことし(2016年)3月25日に、重版となった。

 この作品が、広島を中心に読まれている。この先、全国へと広がれば、さらなる増刷も期待できるだろう。

 明治新政府は広島藩が目立ってもらったら困ると言い、広島浅野藩の「藝藩志(げいはんし)」を封印した。そして、薩長閥の政治家が、幕末史を歪曲した経緯がある。

 昭和53(1978)年まで、封印されていたから、過去の小説、歴志学者の論文、教科書すら、幕末広島藩は殆ど無記載だった。

 司馬遼太郎「竜馬がいく」すらも、昭和41年の刊行だから、広島藩はまったく加味していない。龍馬が芸州広島藩の軍艦を借りて、長崎から土佐に1000丁の最新銃を運んだ。
 龍馬がどういういきさつで広島藩から軍艦を借りられたのか。司馬氏すらも、「藝藩志」の存在を知らずして1行文で追求の筆が及んでいない。

 京都で中岡新太郎と坂本龍馬が暗殺された。龍馬と逢う約束で出向いたのが、広島藩の安保清康(あぼ きよやす)だ。もう一刻早ければ、と悔やまれる。かれが目にしたのは血の海だった。
 最初の発見者となった安保は、医者を呼び、厚く手当した。彼は霊山神社に遺体を埋葬した。

 安保は薩摩藩の海軍を育てた人物だ。明治以降は、陸軍=長州、海軍=薩摩、といわれる。安保は薩摩にとっても、日本海軍にとっても重要な存在だった。

 薩摩=龍馬と広島藩との関係は濃密だ。それが解らずして、「龍馬暗殺の真犯人は誰か」と問うても、殺害の動機とか、背景の理解には及ばないはずだ。
 

「二十歳の炎」の副題は『広島藩を知らずへして、幕末史を語るべからず』としている。
 
『幕末史のわい曲は国民のためにならない』
 この理念のもとに、私は「藝藩志」から幕末の事件や場所をより正確に書いた。

『幕府と朝廷と2カ所から政策が出てくるような、こんな国家はいずれ崩壊する。「朝敵の長州・毛利家をダシにして、薩長芸の6500人の軍隊で京都に挙がり、軍事圧力で徳川家を倒す」。広島浅野藩の最強のエリート志士たちは、それを見事に完遂させた』

 だれもが薩長同盟という。しかし、薩摩側の史料として、島津藩主が2藩の同盟に関わったとか、認めたとか、そんな証しは存在しない。トップが関わらずして(当時)国の同盟などあり得るはずがない。

 歴史的事実としては「薩長芸軍事同盟」が成立している。幕末に6500人の兵が広島藩・御手洗港から京都に向けて発進した。

 長州閥(山口)の政治家とすれば、広島浅野藩が「朝敵の長州・毛利家をダシにして倒幕した」という小ばかにした表記の「藝藩志」など、抹殺さなければ、明治政府のなかでいい恰好はできないのだ。

 隣りの広島はもともと毛利元就の出生地・聖地だ。広島城も、毛利家が築城した。広島がつねに高い位置に居て目障りの存在だったのだ。

 明治新政府は、「薩長芸軍事同盟」から、芸州広島を抜いて、薩長同盟に仕立てあげた。後世の小説家らが薩長を誇張したことで、独り歩きしてしまったのだ。

 長州閥が政治の中心に座ってきたのは明治新政府が東京にできた数年後からである。大村益次郎は暗殺される。山縣有朋が富国強兵の実権をもってから長州閥が強くなったのだ。

 最近の傾向として、鎌倉幕府が成立した年号が修正されたり、諸々史実が書きかえられたりしている。「薩長同盟」すらも、怪しげなものだと修正されてくるだろう。

 明治政府によってわい曲された幕末史。「二十歳の炎」はより史実に近い道筋をつける役目だと考えている。

【推薦作品・小説】 鮮やかな記憶 = 長嶋公榮

 同人誌「グループ桂」(非売品)の長嶋公榮さんが、「鮮やかな記憶」「鮮やかな記憶」を発表された。その作品は後世に伝えるべき内容なので、このHPに全文の掲載をお願いしたところ、快諾してくれました。
 
 「戦争のむごたらしさ」。それらを後世の人びとに伝えていく。それは「戦争抑止」につながる大切な言論・表現活動である。

 戦争とは、理由のいかんを問わず、人間どうしが殺し合うことである。日本は明治時代から10年に一度は海外と戦争をしてきた。記録や写真などで残されてきた。そこから、私たちは戦争のむごい本質を読みとることができる。

 小説の場合は、過去の戦争を取材や史料・資料で掘り起こし、読者に戦争の疑似体験をさせられる。主人公を通したストーリーが脳裡に焼き付いた読み手は、心から戦争の残酷さを感じとる。
 読者の考え方、将来への行動までも変えることができる。それが小説の使命だと思う。少なくとも、それを目指すべきだと考える。「鮮やかな記憶」「鮮やかな記憶」はその使命をしっかり感じさせてくれる作品である。

 昭和20(1945)年5月29日年の横浜大空襲では、B-29爆撃機とP-51戦闘機による、無差別攻撃(焼夷弾攻撃)で約8千人から1万人の死者を出した。

 主人公・花枝は17歳、横浜大空襲の時、横浜駅でB29の大規模な空爆に遭う。弟は旧制中学2年生だった。家族の生と死を分けてしまう空襲の凄さ、死体の惨さが克明に描かれている。

 戦禍の下で生きのびたひとたちも、戦後の悲惨な食糧事情が惨くの圧しかかってくる。
 都会生活者は自給手段をもたず、飢死、餓死の手前まで追いやられる。「物資移動禁止令」をかいくぐる。法にふれなければ、食べ物が入手できない状態がつづいた。

 必死に生きる過程を通して、花枝には物品を粗末にできない「勿体ない精神」がしっかり宿るのだ。


 戦後70年経った現代は、使えるものでも、簡単に捨ててしまう。「物余り時代」、「使い捨て時代」である。
 88歳となった花枝の「勿体ない精神」は、隣り近所や自治会と軋轢(あつれき)を生じるのだ。

 町内会役員は戦後育ち70歳前後である。花枝とはわずか10数歳ちがいでも、価値観に大きな違いと断層がある。
 作者はここにも鋭い視線をむけた作品である。


【関連情報】

①作品はPDFでお読みください・印刷(A4:13枚)

「鮮やかな記憶」

②著者の作品

「国家売春命令」の足跡  昭和二十年八月十五日 敗戦国日本の序章


赤い迷路―肝炎患者300万人悲痛の叫び!


③プロフィール

 1934年東京生まれ。伊藤桂一氏に師事し、1985年同人誌「グループ桂」の主宰者。
 1997年「温かい遺体」が女流新人賞最終候補
 1998年「はなぐるま」が北日本文学賞選奨
 2002年「残像の米軍基地」で新日本文学賞佳作
 2003年「幻のイセザキストリート」で新日本文学賞佳作

        
        写真提供=横浜市史資料室「横浜の空襲と戦災関連資料」

第96 元気100エッセイ教室 = 観察力と文章スケッチ 

 エッセイにしろ、小説にしろ、読者が作品を楽しむのは、文字を読みながら、自身の脳内スクリーンに映像化して、ストーリーを追っていく行為である。作者の腕が良ければ、文字と映像変換が容易にできる作品に仕上げられる。
 そのためにはどうすればよいか。登場する人や物にたいして観察の優れた文章を心がけることである。借り物の文章、手あかのついた表現などは論外である。

  絵画の世界では、スケッチ力の弱い作品は印象が弱い。文章も、まったくおなじである。作者が頭のなかで考えた説明文では、作品が平面的で、立ち上がってこない。
「できごとは解ったけれど、なにが書きたかったの」 と退屈な作品になってしまう。


『キッチンで食事した』。
 この表現では、読者は自宅の台所しかわからない。テーブル、椅子、流し台、炊飯器、鍋、洗剤、調味料など、多種多様なものがおかれた、自宅の台所だ。

 作者がイメージした台所の空間とは、かなり違ったずれがある。
 作中で「台所」「キッチン」ならば、読者はさほど混乱しない。しかし、屋外に出ると、スケッチの差異が作品力のちがいになる。

『川のそばに、カップルがいた』
 一級河川もあれば、小川もあれば、谷川もある。
 年齢はさまざまである。夫婦か、恋人どうしか。腕を組んでいるのか。散策か、デートのさなかか。情景も書かれておらず、読者任せにすると、読み手の負担になってくる。
 途中で、読むのが嫌にもなってくる。

 とくに長編小説などは、文字だけで、読者の脳裏に情景を浮かベてもらう。次へ次へと導いていく。読者が感情移入し、追いかけたくなるには、具体的な観察力のある文章の連続性が必須である。


『若い女性の顔はそれぞれに違う。老婆になれば同じ』
 この格言は、作品の描写力の優劣を端的に表している。

 18歳の女子大生ならば、体つき、肌、黒髪、表情、癖、趣向なども異なった描き方ができる。細かな描写でも、読者を引き込める。人物がはつらつと立ち上がり、若さにも勢いが加わり、読者にたいしてビジュアルな語りかけもしてくれる。

 彼女が60歳を過ぎれば、白髪の人だけで通過できる。埼玉の女子大生、それだけだと、読者は納得してくれない。細かな観察とは、作品の若さである。

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山岳歴史小説『燃える山脈』・連載150回へ=市民タイムス・特集

 国民の祝日「山の日」制定の記念として、山岳歴史小説「燃える山脈」の新聞連載小説が昨年10月1日から始まり150回になってくる。予定としてはことし5月31日まで約240回である。
 松本市・本社『市民タイムス』において、2月19日に特集号市民タイムス・「燃える山脈」佳境へ熱くが組まれた。

『今年開削200年を迎えた安曇野の「拾ケ堰(じゅうかせぎ)」の開削に取り組んだ人々の姿を生き生きと描いた章から、「湯屋の若女将」、「水の危機」、「伴次郎街道の運命」、「湯屋への危機」へと続き、今後も「飛騨の惨状」、「江戸からきた隠密」へと展開する。

 物語はいよいよ最大の山場へと進んでいき、毎回目が離せない』と紹介してくれている。

「あらすじ・これからの展開」「温知堂の雰囲気 務台さん宅に残る」と紙面を割いている。


 筆者側としては「当時の生活思い描く」(挿絵・中村石浄さん)も顔写真入り。「知ってほしい格差構造」(作者・穂高健一)とつづく。

 トップ写真の槍ヶ岳の写真はとても素晴らしい。山岳写真家なのか、報道写真部なのか。昨年12月撮影と記す。
 

『徳川倒幕は広島浅野藩の主導で成した。なぜ歴史から消されたのか』=広島鯉城ライオンズクラブで講演

 2016年2月18日広島鯉城ライオンズクラブで、幕末史の講演をおこなった。場所は「リーガルロイヤルホテル広島」である。

              
 拙著『二十歳の炎』は、「高間省三」を主人公にしている。戊辰戦争の浪江の戦いで、20歳で死んだ青年が、広島護国神社の筆頭祭神である。同神社(正月三が日は、中国地方で最も多い初詣客)に詣でても、筆頭が高間省三だと知らない人ばかり。


 戊辰戦争の時、広島藩エリートの若者たちが自費で出兵し、かれらを中心にした官軍が、いわき市から相馬・仙台まで福島・浜通り(現在のフクシマ原発街道)で戦った。相馬・仙台藩の主力をあいてにした壮絶な戦いであった。
「奥羽列藩の主力・仙台藩を倒さなくては、戊辰戦争は終わらない」
 それは自明の理であり、双方の戦死者は会津攻めよりも、福島・浜通りの戦いのほうがはるかに多いに。 しかし、明治政府がこの戦いを歴史から抹殺した。他方で、会津の白虎隊を軍国主義に利用した。
 悲しいかな、日本じゅうが教えられていない「福島・浜通りの戦い」なのだ。(明治政府の黒い隠ぺい政策から、私たちすらも逃れられていない現実がある)

 
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 広島県にもっと、奇異なことがある。義務教育の場に、郷土史がない。「毛利元就から、いきなり原爆」で、江戸時代が真空地帯である。これは異常である。なぜ郷土史を教えないのか。
 元高等師範学校(現・広島大学)がありながら。教員や大学関係者らは、江戸時代の広島藩を知らないから、教えようがないのである。

写真提供:広島鯉城ライオンズクラブ(写真の上を左クリックすると、2月18日のクラブ速報が出ます)

 国民を洗脳するには、歴史教育のねつ造が一番だ。明治から77年間、10年に一度は海外と戦争する軍事政府だった。国民を軍国主義に洗脳し、徴兵制をとり、国民皆兵制で海外に送りだした。

 広島・浅野藩が中心となった大政奉還を進めた。つまり、広島の平和主義が明治政府には目障りで仕方なかったのだ。

 「薩芸」倒幕を「薩長」討幕に置き換えた。

 肥前の文部官僚は、「薩長土芸」を「薩長土肥」にすり替えた。

 浅野藩「芸藩誌」も封印された。広島藩の幕末史はこうして歴史から消された。

「芸藩誌」が昭和53年にわずか300冊だけ出版された。それを解読し、解析し、より事実に近いところで小説化している。『二十歳の炎』で、広島藩はこんなに活躍した藩だったのだと、多くに認識してもらいたいと、執筆した。


 幕末史のわい曲は国民のためにはならない。私は、まずは広島県の義務教育の場で「郷土史」を教えようよ、という運動の推進になれば、と願っている。

 広島鯉城ライオンズクラブで講演させてもらい、一つ輪が広がったと感謝している。

 会報の執筆依頼があり、『広島人のつよい結束力は、江戸時代の伝統から』とさせてもらった。会報が出た後に、HPで紹介させてもらう予定である。

歴史散策・目黒周辺=節分だけれど、堪能したのはひな人形

 第16回の歴史散策は、目黒周辺の史跡めぐりである。2016年2月3日(水)13時に、東急目黒線・不動前駅の改札口に集合だった。ガイド役の山名美和子さん(歴史作家)がインフルエンザで、39度の高熱を出して、ダウン。責任感の強い彼女からFAXで資料が送られてきていた。

 山名さんは『真田一族と幸村の城』(角川新書)を出版しているので、NHK大河ドラマ「真田丸」との関連の話題を楽しみにしていたが、先送りになった。


目黒・雅叙園にて。メンバーは毎回おなじなので、割愛します。

 不動前駅から、成就院にむかった。

 蛸薬師成就院の本堂の『ありがたや、福を吸い寄せる蛸』というキャッチフレーズをみて、思わず苦笑した。なにかのごろ合わせだろうが、愉快な寺だ。

 蛸の由来など知らないほうが、余韻があってよい。


 目黒不動尊は平安時代k創建で、日本三代不動尊である。都内でも、名高い寺だ。

 ちょうど節分の日で、境内は関係者や参拝者で賑わっていた。

 目黒不動尊・龍泉寺の豆まきまも、きっと規模が大きいだろう。どんな豆まきになるのか。ただ、1時間先だった。

「ここで、時間をつぶすのはもったいない」と誰もがおなじ考えだった。


 6人はごく自然に、次なる目的の「五百羅漢寺」にむかった。仏教彫刻の「羅漢像」の一体ずつ不気味で迫力があった。全部で305体がある。撮影禁止だった。

 顔付がそれぞれちがう。内面描写にすぐれた顔の表情だった。すべて松雲元慶禅師ひとりで彫られたときいて、またしても驚愕した。

 われわれ作家でも文章上で、人間の顔の表情を300も違えて描けないだろう。一体ずつを見ながら、そう思えた。


 北一輝は、「国体論および純社会主義」を論じた。「天皇の国民」でなく、「国民の天皇」が明治維新の本質だと批判した。さらに、「天皇の軍隊」から「国民の軍隊」にするべきだと主張した。

 この主張が危険思想だとみなされて、すぐに発禁処分になった。活躍の場を失くした北一輝は、中国の辛亥革命に参加した。

 2.26事件(軍部のクーデター)が勃発した。反乱軍とみなされた青年将校たちの「理論的指導者」だといい。北一輝は逮捕された。そのうえ、極秘の軍法会議で死刑判決を受けて刑死した。

 青年将校と北一輝の思想はまったく違う。むしろ右と左とまるで逆だ。そのうえ、2.26事件には関与しておらず、非公開・弁護士なしで、死刑判決を受けた。

 かれの処刑じたいが、暗黒社会の思想弾圧を象徴するものだった。

 青年将校が起こした2.26事件が、日本の戦争加速となった、おおきな分岐点には間違いない。
「どんなことがあっても、軍人が首相官邸に突入し、政治家を殺してはならない」
 政治家を殺せば、政治家は軍人にものが言えなくなる。兵器を持てば、軍人は使いたがる。シビリアン・コントロールをなくせば、それは戦争への道だと、北一輝の墓前で思った。

 海福寺には『永代橋崩落事故の供養塔』がある。

 文化4年8月19日 (1807年9月20日)、深川富岡八幡宮の12年ぶりの祭礼日だった。当日の午前中には、橋の下を一橋公を乗せた御座船が通過するという理由で、永代橋は通行止だった。祭りの八幡宮に早くいきたい群衆はいらだっていた。

 昼過ぎに橋の通行禁止が解除される。と同時に、左右から群衆が一気に橋の上に押し寄せた。その重みで、木製の橋は崩落した。

 その瞬間の犠牲者だけでなく、後ろから、さらに後ろから、と群衆が押し寄せてきたのだ。止めようがない。当時の人はほとんど水泳ができない。川に落ちれば、次々に水死だ。

 多くの文献は1000人以上の死者・行方不明とする。寺の案内板には、空前の大惨事としながらも、溺死者440名と明記していた(東京都教育委員会)。
「えっ、そんなに少ないの?」。それが最もおどろきであった。

 歴史には史実・資料のあいまいさはつきものだ。


 青木昆陽(甘薯先生)墓

 享保の改革の時代のころ、米の不作から大勢が餓えていた。蘭学者の青木昆陽は琉球、長崎を通して伝わってきた『さつまい芋』の栽培の試作(千葉県)に成功し、農民を飢えから救った。


「目黒川の桜はまだかいな。まただよな。3月末の染井吉野は素晴らしい河岸になる」
 
 桜花情景を想像しながら、大鳥神社にむかう。


 引き返して太鼓橋をとおり、目黒雅叙園へと足を運ぶ。

 


  雅叙園百段階段(実際は99段)では、東北地方のひな人形が展示されていた。踊り場ごとの小部屋で展示。各地の豪商の家に伝わる、江戸時代の京雛が多かった。(1月22日~3月6日まで公開中。入場料1500円である。

 女性は「人形」が大好きだから、目を光らせていた。男性は50段くらいで、飽きた顔つきだった。しだいに、気持ちが 二次会のJR目黒駅付近の居酒屋にシフトしていた。