歴史の真実はとかく消される 「元気に百歳・エッセイ教室」80回の序文より
江戸時代の260年間は国内外で、一度も戦争しなかった。しかし、明治時代に入ると、約10年に1度は海外で戦争する国家になった。広島・長崎の原爆投下まで77年間も軍事国家となった。外国から、日本人は戦争好きな国民に思われてしまった。
だれが、こんな軍事国家にしたのか。さかのぼれば、戊辰戦争にたどり着く。それが幕末歴史小説「二十歳の炎」の執筆の動機だった。
大政奉還、小御所会議で、天皇を頂点とした明治新政府が誕生した。世界に誇る平和裏の政権移譲だった。民主的な国家ができると、とかく軍事クーデターが起こりやすい。1か月もたたずして、鳥羽伏見の戦いが起きた。
それは薩摩と長州の下級武士が、政権略奪を狙う軍事クーデターだった。
戊辰戦争が終われば、かれら下級藩士らは東京に政権を樹立し、遷都もなく明治天皇を行幸の名のもとに江戸城に移した。
京都の明治新政府は抜け殻になった。まさに軍事クーデターの成功で、ここに明治軍事政権が誕生した。そして、10年に一度は外国で戦争する軍事国家が生まれたのだ。
京都の明治新政府と、東京の明治軍事政府とは別ものだと明瞭に教えないから、軍国主義への切り換えがわかりにくいのだ。
歴史の真実はとかく消される。
薩長土肥の明治政府が、広島浅野家の史料を封印してしまった。そのうえ、原爆で広島城も武家屋敷もなくなった。なおさら德川倒幕の真実が隠れてしまった。
「長州は、倒幕に役立つ藩ではなかった」
禁門の変で長州藩は朝敵となった。
京都に入れば、新撰組、会津・桑名の兵士に殺された。大政奉還はカヤの外だった。小御所会議の王政復古の大号令で、明治新政府ができた。ここまで朝敵の長州は関わっていない。それは自明の理である。それなのに、薩長倒幕だという。
薩長同盟すら怪しげだ。木戸準一郎(木戸孝允)が薩摩藩との会合内容を手紙に記し、坂本龍馬に裏書させた、単なる備忘メモをもって強い薩長同盟が結ばれたかのように描いて誤認させてきたのだ。
これまで歴史作家は、反戦・平和主義の広島藩を抜きにして、薩摩、長州、土佐の視点で小説を書いてきた。
多くの歴史作家は、維新志士の美化に夢中だった。鳥羽伏見の戦いを軍事クーデターと捉えていない。かれらがその後の軍事国家をつくった危険な思想の持主だったという批判すら殆どなされていない。だから、日本人全体が、あやしげな幕末史に酔っていたのだ。
龍馬伝説にも酔いすぎている。「船中八策」という表現は、幕末から明治時代の史料や文献に一言も出てこない。
肉筆の「船中八策」も、あえていえば、偽物の「船中八策」も実在しない。
坂本龍馬が船将で乗った「いろは丸」が紀州の大型軍艦と衝突し、沈没した。長崎奉行所の海事審判で、龍馬、後藤象二郎、岩崎弥太郎などは「金塊と西洋の最新銃を数百丁積んでいた」と脅し、徳川将軍のおひざ元の紀州藩から、8万3千両の賠償金をとった。
最終的には7万両が支払われた。「龍馬だから正しい。嘘はつかないだろう」と学者も歴史作家も、
紀州藩を悪者にして書いてきた。平成に入ると、沈没船・いろは丸の潜水調査が行われた。一言でいえば、船員の持物のガラクタばかり。
いろは丸の船主だった大洲藩には1両も支払われた記録がない。龍馬や後藤は大うそつきだった。大政奉還は、その龍馬と後藤象二郎が知恵を絞ったとされてきた。広島浅野家の膨大な史料「藝藩志」から、でたらめな作り物だとわかった。
私の小説の狙いは、歴史作家への批判だった。武器を売り歩く「死の商人」龍馬や、外国と武力で解決を図った(下関砲撃)(薩英戦争)、かれら薩長がまたしても鳥羽伏見でも戦う軍事思想を美化すると、私たちは歴史から学べず、将来の軍事への危うさが見えなくなる。
こうした警告でもある。
【補足】
元気に百歳が主催する:「エッセイ教室」がことし(2016年)6月で、100回になります。1年間に10回です(8、12月は休み)。10年間はいちども欠かさずに、教室が開講してきました。
10回ごとに、記念誌を発刊しています。私は記念誌の序文を書いています。それを随時取り上げてみます。
こんかいは元気に百歳:「エッセイ教室80回記念誌」 平成26年7月より