第16回の歴史散策は、目黒周辺の史跡めぐりである。2016年2月3日(水)13時に、東急目黒線・不動前駅の改札口に集合だった。ガイド役の山名美和子さん(歴史作家)がインフルエンザで、39度の高熱を出して、ダウン。責任感の強い彼女からFAXで資料が送られてきていた。
山名さんは『真田一族と幸村の城』(角川新書)を出版しているので、NHK大河ドラマ「真田丸」との関連の話題を楽しみにしていたが、先送りになった。

目黒・雅叙園にて。メンバーは毎回おなじなので、割愛します。

不動前駅から、成就院にむかった。
蛸薬師成就院の本堂の『ありがたや、福を吸い寄せる蛸』というキャッチフレーズをみて、思わず苦笑した。なにかのごろ合わせだろうが、愉快な寺だ。
蛸の由来など知らないほうが、余韻があってよい。

目黒不動尊は平安時代k創建で、日本三代不動尊である。都内でも、名高い寺だ。
ちょうど節分の日で、境内は関係者や参拝者で賑わっていた。

目黒不動尊・龍泉寺の豆まきまも、きっと規模が大きいだろう。どんな豆まきになるのか。ただ、1時間先だった。
「ここで、時間をつぶすのはもったいない」と誰もがおなじ考えだった。
6人はごく自然に、次なる目的の「五百羅漢寺」にむかった。仏教彫刻の「羅漢像」の一体ずつ不気味で迫力があった。全部で305体がある。撮影禁止だった。
顔付がそれぞれちがう。内面描写にすぐれた顔の表情だった。すべて松雲元慶禅師ひとりで彫られたときいて、またしても驚愕した。
われわれ作家でも文章上で、人間の顔の表情を300も違えて描けないだろう。一体ずつを見ながら、そう思えた。

北一輝は、「国体論および純社会主義」を論じた。「天皇の国民」でなく、「国民の天皇」が明治維新の本質だと批判した。さらに、「天皇の軍隊」から「国民の軍隊」にするべきだと主張した。
この主張が危険思想だとみなされて、すぐに発禁処分になった。活躍の場を失くした北一輝は、中国の辛亥革命に参加した。
2.26事件(軍部のクーデター)が勃発した。反乱軍とみなされた青年将校たちの「理論的指導者」だといい。北一輝は逮捕された。そのうえ、極秘の軍法会議で死刑判決を受けて刑死した。
青年将校と北一輝の思想はまったく違う。むしろ右と左とまるで逆だ。そのうえ、2.26事件には関与しておらず、非公開・弁護士なしで、死刑判決を受けた。
かれの処刑じたいが、暗黒社会の思想弾圧を象徴するものだった。
青年将校が起こした2.26事件が、日本の戦争加速となった、おおきな分岐点には間違いない。
「どんなことがあっても、軍人が首相官邸に突入し、政治家を殺してはならない」
政治家を殺せば、政治家は軍人にものが言えなくなる。兵器を持てば、軍人は使いたがる。シビリアン・コントロールをなくせば、それは戦争への道だと、北一輝の墓前で思った。

海福寺には『永代橋崩落事故の供養塔』がある。
文化4年8月19日 (1807年9月20日)、深川富岡八幡宮の12年ぶりの祭礼日だった。当日の午前中には、橋の下を一橋公を乗せた御座船が通過するという理由で、永代橋は通行止だった。祭りの八幡宮に早くいきたい群衆はいらだっていた。
昼過ぎに橋の通行禁止が解除される。と同時に、左右から群衆が一気に橋の上に押し寄せた。その重みで、木製の橋は崩落した。
その瞬間の犠牲者だけでなく、後ろから、さらに後ろから、と群衆が押し寄せてきたのだ。止めようがない。当時の人はほとんど水泳ができない。川に落ちれば、次々に水死だ。
多くの文献は1000人以上の死者・行方不明とする。寺の案内板には、空前の大惨事としながらも、溺死者440名と明記していた(東京都教育委員会)。
「えっ、そんなに少ないの?」。それが最もおどろきであった。
歴史には史実・資料のあいまいさはつきものだ。

青木昆陽(甘薯先生)墓
享保の改革の時代のころ、米の不作から大勢が餓えていた。蘭学者の青木昆陽は琉球、長崎を通して伝わってきた『さつまい芋』の栽培の試作(千葉県)に成功し、農民を飢えから救った。

「目黒川の桜はまだかいな。まただよな。3月末の染井吉野は素晴らしい河岸になる」
桜花情景を想像しながら、大鳥神社にむかう。

引き返して太鼓橋をとおり、目黒雅叙園へと足を運ぶ。

雅叙園百段階段(実際は99段)では、東北地方のひな人形が展示されていた。踊り場ごとの小部屋で展示。各地の豪商の家に伝わる、江戸時代の京雛が多かった。(1月22日~3月6日まで公開中。入場料1500円である。
女性は「人形」が大好きだから、目を光らせていた。男性は50段くらいで、飽きた顔つきだった。しだいに、気持ちが 二次会のJR目黒駅付近の居酒屋にシフトしていた。