A020-小説家

第97回 元気100エッセイ教室 = 隠れ主語と大和ことばについて

 日本人には、主語や目的語がなくても、推察できる能力があります。その面では、古来から他民族に比べて、優秀だと言われてきた所以(ゆえん)があります。


「あれ、どうだった?」
「結構、いけるわよ」 
 こんな会話でも、前後の情況から、私たちの会話はながれていきます。

「よかったわよね、きのうのあれは」
「感動よね」
 手ぶり、身振り、顔の表情も入るので、主語がなくても、読み取れます。

「ちょっと、頼んでも、いい?」
「いいけどさ。いまはやめたほうがいいわよ」
 こんな会話もごく自然に成立します。


 古来から大和ことばの言いましにおいて、主語を抜いたほうが心優しくひびきます。

「なにとぞ、お聞き届けください」

「お返事を、心待ちにしております」

「身のほど知らずで、生意気なことを言うようですが」

 欧米人の方、あるいは東洋系の大陸のひとたちとの会話で、こうした大和ことば、隠れ主語の展開では意味が取れないケースがあります。


「なにとぞ、私のねがいをお聞き届けください」
「あなたのご返事を、私は心待ちにしています」
「身のほど知らずで、私は生意気なことを言うようですか」


 大和ことばならば、やはり主語のない方ほうが、流麗な心優しい表現になります。

 随筆はこうした大和ことばで書かれてきました。欧米からエッセイ手法が入り、主語・述語の文体が中心になりました。
 
 エッセイは「私」を中心において描かれます。少なくとも、日本人には、英語のように、「I」、「it」「there」と、主語を書かなくても、文意は読み取れます。
 と同時に、隠れ主語のほうが、大和ことばの手法から、文章が美しく、輝くときが多いのも事実です。

 それが昂じて「エッセイには、『私』は要らない」と指導する方もいます。しかし、これもていど問題です。
 初級の方にはは、文章力向上のためにも必要でしょう。

 上級になっても、すべて隠れ主語で、『私』が皆無になってしまうと、作品全体が平板に陥りやすくなります。盛り上がりに欠けてくるし、なにを強調したいのか、読み手には伝わりにくくなります。

 『強調したいところで、あえて私を挿入る」そうすれば、読み手の心を響かせられます。

① 全体のストーリーの流れのなかで、盛り上げていくさなかに、「ここぞ」と思うところは、主語「私」を明瞭に出したほうが効果的です。

 「こんな破廉恥な息子にむかいあって、腹が立った」 

      ⇓
 
「こんな破廉恥な息子とむかいあって、私は腹が立った」。私の怒りを強調することができます。


② まわりの人物までも隠れ主語にすると、「私」と混同し、意味不明領になりかねません。相手はできるだけ隠れ主語にしないことです。

「怒っていることは、返事もしないので、すぐにわかった」

                   ⇓

「妻が怒っていることは、洋子が返事もしないので、私にはすぐわかった」


③ 感情表現などは、むしろ主語『私』を出したほうが効果的です。

  緒事情を述べてから、「悲しみで泣いた」

          ⇓ 
「私は悲しみで泣いた」


④ 隠れ主語としては、急ぐ、慌ただしい、行動が早いときに効果的です。この場合はむしろ主語をつけると、かえって動きが緩慢になります。

「奴が雑貨店からとつぜん追いかけてきた。男は棒切れを振りまわす。捕まれば、半殺しに遭いそうだ。川沿いに逃げた。奴は大声で、泥棒呼ばわりをしている」 

 私は川沿いに逃げた。これでは逃げ方が緩慢になります。


【ポイント】

  エッセイは原稿用紙400字詰めで、一カ所くらいは『私』を入れたほうが、「私」の行動・心理・性格を強調した、良い作品になります。

「小説家」トップへ戻る