小説家

長編歴史小説「阿部正弘」の執筆を終えて、あなたは日本の歴史教科書を信じますか(1)

 日本人は、「新聞報道を信じますか」と問われると、70%~80%が「はい」と答える。アメリカ・USAは「信じない」が70%以上だという。

 これを日本史にあてはじめると、教科書を信じるがきっと80%以上ではないか、と思う。「お上(政府)のやる事だから信じる」、「文部省選定だから、嘘ではない」、「歴史学者だから、良心があり、ねつ造や、わい曲などしない」と信じ込んでいるだろう。


 私はこんかい「阿部正弘の生涯」(仮題)の書き下ろしを執筆しながら、教科書を鵜呑(うの)みにする日本人の姿をつよく感じた。

 厳密にいえば、「幕末史」において、私たちは「教科書に毒されている」とさえ感じた。

 さかのぼること昨年、新聞連載「阿部正弘」が内諾をうけていた。私の前にふたりの作家が順番待ちだった。つまり、3年後からの連載だった。
 かたや、お世話になっている出版社が、「ぜひ、私の方から出版してください」といわれた。新聞連載が終われば、単行本で結構ですよ、と応えていた。しだいに、「早く出したいので、書下ろしで、原稿をくれませんか」と要望のトーンが挙がってきた。
「決まっているものをひっくり返せませんよ。道義的に」
 やんわり、お断りしていたが、私はこころが揺れはじめた。

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 作家にとって、自分の想いのまま書ける、書き下ろしは魅力である。新聞連載の場合は読者の声が多少なりとも、執筆に影響するし、1週間に一度ぐらいは小さくても盛り上がりのストーリーを折り込む。
「新聞の購読量を挙げる努力」「打ち切られるような無様な作品にしたくない」が暗に筆にも影響してくる。意識・無意識を問わず、読者への迎合となる。ときには娯楽小説、流行作家に近い「売れる商品づくり」のスタンスになりかねない。


 作者の考え方、信条、価値観をつらぬく姿勢が大切だ。殆んどの作者は、新聞連載のあと、作品に手を入れる。
 しかし、一度書いた作品は修正しても、さほど骨組みが変わらず、人間でいえば、脊髄(せきずい)の修正まではできない。

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 約半年間ほど、私の心は新聞連載か、書下ろしか、とゆれ動いていた。
 年初(2019)の出版社と賀詞の電話あいさつのなかで「阿部正弘を、ぜひ書下ろしでください」と頼まれた。「かしこまりました。新聞社は2年先ですから、代替えの企画を入れてみます」と書下ろし単行本の出版を承諾した。
「初稿はいつもらえますか」
 そこまでは深く考えておらず、「阿部正弘」は8年間取材してきていますし、「5月連休が明けたら、お渡しします」と即答した。

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「読売カルチャー金町」の小説講座は第4週の木曜である。勤め人の方が受講できるように夜7-9時。講座が終了すれば、みな空腹なので、会食をして小説談義を楽しんでいる。
 その席で、「阿部正弘の書下ろし」の経緯を語ると、若き女性受講生が、「あと3か月半で、歴史小説が書けるのですか」と質問してきた。
 びっくりしたのは私の方で、指折れば、まさに「3か月半」だ。まずい。出版社に約束はしたし、遮二無二にやるしかない。「穂高健一ワールド」の記事も犠牲になった一つで、手が回らなかった。(約束よりも、1か月半ほど伸びてしまった)。

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 書下ろしの場合は、校正(誤字・脱字・文章の正確さ)、校閲(時代考証)などプロ級の方に頼んでおくものだが、だれもが毎日ヒマをしているわけでない。
 知人の校閲者は、年内は仕事が入っているから、あしからず、だった。
「ここは自分でやるしか、ないか」
 とくに気をつけるのは年代、人名、地名、そして事件・事象の確認だった。

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 IT時代だから、ネットで「用語検索」をかけると、歴史マニア、歴史オタクのブログにも飛んでいく。執筆疲れの癒(いや)しから、バカバカしくとも、そんなブログを読むこともあった。
 その大半が、得意げに上から目線でブログを書いている。薩長史観で、官制『幕末史』を鵜吞(うの)みにしている。それら内容の寄せ集めで、得意がっている。およそ自己努力による新発見などない。
 少なくとも、歴史関係者のブログ80%以上が教科書、既成作家の通念を越えておらず、斬新さがまったくないのだ。
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 かれらは、「幕末史」がいつできたのか。それすらわかっていない。昭和14年の完成である。この時代背景を考えるべきだ。

 幕末史の編さん事業は当初、明治時代の半ばからスタートした。薩長閥の政治家がまず文部省と宮内庁に編さんを命じた。『幕末とはペリー来航から廃藩置県まで』と定義した。この定義そのものが薩長閥には都合がよかった。

 編さん事業は遅々として進まず、途中で中断したり、外務省に移ったり、東京帝国大学に移管されたり、また政府機関にもどったりする。歴史事実を素直に記載せず、政府に都合よくしようと歪曲する意図があるから、異論も出るだろうし、いつまでもまとまらなかったのだ。
 
 長州閥の多い政府だから、歴史学者が長州や薩摩に媚(こ)びて編さんしている。たとえば、長州藩がまったくからんでいない事象でも「薩長」ということばでごまかしてしまう。

 昭和11年「大日本外交文書」が刊行されてから、さらに編集を重ねて昭和14年に「幕末史」が完成した。
 昭和14年とは、どんな時代だったのか。
 満州事変、五・一五事件、国際連盟脱退、天皇機関説事件、二・二六事件、盧溝橋事件、日中戦争の勃発、国家総動員法、そして昭和14年が治安維持法の制定である。つまり、厳しい言論統制の時代に入った年に、政府刊行の「幕末史」が完成したのだ。

「幕末史の、ここは事実とちがいます。事実誤認があります。真実と真逆です。朝敵の長州はさして倒幕に関わっていません」
 そんな異議を吐く学者がいれば、治安維持法により逮捕される時代である。むろん、研究論文など発表すれば、それは逮捕の証拠品になる。
 
 そして、2年後には太平洋戦争の突入、やがて特攻隊、ガダルカナル、ミッドウェーと進んでいく。この期間となれば、政府刊行の幕末史に異論など言えるはずがない。獄中死を覚悟すれば、別だけれど。

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『歴史は思想教育に利用されやすい』もっとも顕著な学問だ。

 明治・大正・昭和(太平洋戦争終結まで)の官制歴史教育は、国民皆兵(徴兵制)、「祖国のために死す」を美化するものだった。さらに昭和14に完成した「幕末史」は正しい、と金科玉条(きんかぎょくじょう)のごとく扱われ、国定教科書の基本になった。

 つまり、幕末史が、薩長閥政治家に都合よく、軍事教育、および思想教育に使わてきたのだ。
 幕末史は6年間の無修正のまま終戦を迎えた。戦後教育のおいても、日本史の教科書がこの無修正「幕末史」がベースになっている。そのまま現代につながっている。
 だから、私たちが学んできた文部省選定「日本史」は、年表は事実でも、内容には虚偽が多く、公平性に欠ける。だから、いまだに日本史が必須科目にならない。

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 歴史作家たちが描く幕末物も「幕末史」を利用してきた。だから、教科書も、娯楽歴史小説も、出典元はおなじである。 

「阿部正弘は、砲弾外交に蹂躙(じゅうりん)されて、おろおろして開国した」と論じる。軟弱な阿部正弘だと決めつけた、偉そうぶったブログにはなんども出合い、嫌悪をおぼえてきた。自説として掲載しているけれども、治安維持法のできた年・昭和14年に完成「幕末史」をまったく疑ってもいない。実際に、いつできたかも、知らないのではないか。

 ただ、教科書も表現がちがっても、「砲弾外交に屈して開国した」と書いている。出所は、幕末史でおなじなのだ。
 
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「歴史から学ぶには、歴史は真実でなければならない」
 私はその執筆姿勢から、可能なかぎり日本側の資料と、外国側からの資料とつきあわせする、照合する『合わせ鏡』で、既成概念・官制幕末史の打破を試みた。
 
 出版後、多くの日本人が「こんなことは教えてもらっていない」とおどろくだろう。

【幕末彼氏伝〜高間省三物語〜】マンガ化プロジェクト☆『倒幕の主役は広島藩だった』第二話  !

【漫画家・フジィFG氏によるご案内】

 作家・穂高健一氏の歴史小説『広島藩の志士〜二十歳の英雄 高間省三物語』を漫画化!より多くの方に広島の歴史、真実の歴史を知って頂きたいと思います。
 
 第2話「綾の涙」のマンガ動画が完成しましたので、報告致します。

 〜高間省三物語〜第二話

 
 明治維新は薩長倒幕によるものだと、日本中の誰もが信じて疑わない。その実、長州藩は徳川幕府の倒幕には殆ど役立たなかった。

 当プロジェクトは、幕末期の広島藩の活躍、神機隊、高間省三さんの活躍を伝えたいという思いで実施しております。

「プレミア公開」にしておりますので、ぜひリマインドに設定し、楽しみにお待ちくださいませ!

【参考・第一話】

〜高間省三物語〜第一話

「隠された幕末史・芸州広島藩と神機隊」= 広島県・坂町 4月20日開催

 広島県・坂郷土史会 創立25周年記念講演会として、「隠された幕末史・芸州広島藩と神機隊」が4月20日(土曜)に開催されます。

 日時:平成31年4月20日(土曜)

 会場:Sunstar Hall(広島県・坂町立町民交流センター)

      広島県安芸郡坂町坂東2-20-1 

 講師:穂高健一

 講演時間:14:00~16:00

 入場無料(入場には、整理券が必要です*Sunstar Hall、町民センターで配布l)

 問合せ : Sunstar Hall  082-885-5321

 昨年7月に、この講演が予定されており、整理券が多くの方に渡っていました。ところが猛烈な豪雨と河川決壊の自然災害で、坂町は大きな被害を出しました。と同時に、会場の「Sunstar Hall」は避難所になり、講演が延期されていました。

 お亡くなりになった方に哀悼の意を申し上げながら、講師として「広島藩」「神機隊」を中心に、語らせていただきます。

 

文藝同人誌『川』4号 日本ペンクラブ有志 = 発刊

 日本ペンクラブ(PEN)の書き手が、何かの席で、最近の出版社はすぐ「売れる作品」を要求してくるけれど、それは文学じゃないよな。本当の文学を書かしてくれる場がない。
 それならば、われわれで文藝同人誌を作ろうじゃないか。小中陽太郎さん(PEN理事)が音頭を取った。

「俺たちプロ作家が自費で「同人誌」か。抵抗あるな」
 われわれの大先輩・PEN元会長の志賀直哉だって、大正時代に「白樺」を起ち上げたじゃないか。その精神だよ。日本ペンクラブ初代会長の島崎藤村「破戒」も自費出版だし、夏目漱石「こころ」も、初版がそうだよ。
 事務局を引き受けた高橋克典が補足する。

 そんな勢いから1号をだし、2号、3号と出版してきた。私が3号で掲載した「ちょろおしの源さん」が、出版社の目にとまり、それを巻頭作品にし、中編4本を追加して題名『神峰山』で昨(2018)年11月に出版された。

「3号雑誌かとして思っていたけれど、まさか4号まで来るとは思わなかったな。みんなは金を出しても、本ものの文学を書きたい連中なのだ。文学は人間を描くもの。金儲けが目的じゃないものな」
 そんな意気投合したメンバーが年初に入稿し、3月初旬には刷り上がってきた。編集長は渡辺勉で、この道は半世紀、目の肥えた大ベテランだ。

 作品を簡略にふれてみると、

 ・飯島一次は、3-4ヵ月に一度は文庫の時代小説を世に送り出している。ふだんは、さらさらと読めるライトな文章である。この「川」4号においてタイトル『陽成院』として、純文学・時代小説といえるほど濃密な文体作品だ。


 ・早稲田大ちゅうに地中海のリペア、チュニジア、アルジェリア、モロッコを放流して大学除籍になり、学習院に入り直した中村裕が『サラマンドル』を掲載している。


 ・映画監督・作家の瀬川正仁は、軍事革命軍のアジア諸国でも平気で入る人物だ。いまだ命があるから、今回は「夢のあとさき」を書いている。


 ・高橋克典「神の名人(4)歌う人」は、小説を書きたいな、と思う人には良きに付けても悪しきに付いても、面白い描写がある。
 
 かれが松本歯科大学を中退し、作家をめざそうと、田舎暮らしの芥川作家・丸山健二の自宅に安曇堂の菓子折りをもって訪ねる。話しを進めるさなか、「で……」と手を突きだす。菓子折りを渡すと、「そうじゃなくて原稿だよ」、「じつは、まだ小説を書いたことがないんです」、「だったら、君が書こうとするあらすじを聞かせてもらおう」。学生は弱りきった。「ある一人の男がいまして、父親の歯科医をやりたくなくて、小説家を志して、東京へ」「わかった、わかった、もう良いよ。君は小説技法でなく、人生相談に来たわけだ。君みたいな若者がよく来るんだよな。よせ、よせ、小説を書く理由もなければ、奪ったことも盗んだこともない、人を殺そうと考えたこともない。そんな奴に小説などかけるわけがない。~どんな努力しても小説など書けないんだよ」

 きっと高橋の回顧が素材だろう。この後も面白いけれど、著作権があるから、割愛する。

 ・穂高健一「俺にも、こんな青春があったのだ」は、ちょうど百年前の1019年の第一次世界大戦で、日本海軍がマルタに行く。それが時代背景である。


 ・能村胡堂賞作家の塚本青史は「はもん」である。取材力のある実力派である。


 ・短歌として呑風郎「獣語」


 ・随想・断章として上田豊一郎「J・Dの赤いジャンパー」、小中陽太郎「仏文イヒヒヒ考」がある。


 ・語り芝居「カジンスキー・INヒロシマ」は岸本一郎はニューヨーク在住で、帰朝公演の貴重な台本である。
 この作品の掲載まで口説き落とすのに2年かかったと、編集後記に書かれている。

発売から1か月半の『神峰山』が大きな反響=若き女性の悲哀な人生で、涙が止まりませんでした

 1945年8月15日、終戦、敗戦という言葉だけで、戦争は終わらない。終戦後の悲惨な庶民の生活こそ、「2度と戦争をしてはならない」という歴史的な証言である。5作品の中編小説が収納された「神峰山」のメイン・テーマです。
 戦争が残した非情さ、抗うことができない運命のなかで、瀬戸内の港の遊郭街で、前向きに必死に生きる10代、20代の女と男たち。彼女たちは必死に生きているけれど、結果はとてつもない不幸だったりする。


 ことし(2018年)の11月1日の発売から、実に多くの反響が寄せられています。ご紹介させていただきます。


 【 読 者 感 想 】         


 ☆ 良かった。心に響きました。「初潮の地蔵さま」で泣きました。無念で、悲しくて泣きました。いまの自分(投稿者)の幸せがありがたく、泣きました。「女郎っ子」も、その急展開が、どうしようもなく悲しくて、泣くしかなかった。

 私(投稿者)は、昭和22年生まれで、団塊の世代です。「人の多さ」だけに気を取られて、噛み締めるべき真実の、二面あるはずの裏面が視野に入って来なかった。時代が大きく動いた時の、陰の事実に気が付いていないなことを深く突きつけられました。

 この作品は、映画・ドラマ化するべきです。大きな反響を呼ぶと思います。時代の隠れた面を知ってこそ、歴史といえるのではないでしょうか。

「あとがき」も切り口が鋭く、名文だと思いました。筆者の気迫に押されました。私の三男が広島にいます。神峰山を訪れ、ご冥福をお祈りしたいと存じます。
                     (小坂隆昭さん・横浜)    


 ☆ 現在を生きる私には想像もつかない世界。それでいて、昔も今も変わらないであろう、「女」を生きる女性たちの心。……読み進めるごとに、その悲しみが伝わってきました。特に「初潮のお地蔵さま」の(主人公)絵梨には逃げ切ってほしかった。もっと生きてほしかった。雄太先生(広島商船高校生)との物語を、穂高さんが書いてくださったのに……と(死が)残念でなりません。
                     (神山暁美さん・宇都宮)


 ☆ 装丁が良い。本文活字も読みやすく知的な感じです。広島のみならず、戦後の日本人の悲哀と欲、女性史を学ぶ絶好の一書だと思います。
                    (平木滋さん・広島) 


 ☆ 電車の中で読んでいたら、主人公が悲しくて、切なくて、ハンカチを出して、涙を拭きながら読みました。作中の小学6年生の博が遭遇した「紫雲丸事故」をより知りたくなりました。ネットで調べました。木江南小学校と校名が書かれていました。作中の人物の犠牲者たちが、瀬戸大橋が架かる、大きな要因になったのですね。
 神峰山にぜひ行きたいです。
                    (鷹取利典さん・葛飾区)


 ☆ とてもいい本です。しみじみと心にしみ込んでくる本です。情景が浮かんできて、情緒があって、よい純文学です。男性のなかに、女性が物悲しく語りかけてくるのが美しいです。不条理の世界にこそ、究極の愛があるのでしょうか。
                     (竹内真一さん・広島)


昭和30年5月11日・高松港沖で、紫雲丸海難事故が発生。写真の中央部


☆ 「女郎っ子」が悲しくも胸を打ちました。元女郎の優衣子が選んだ大工は、性の問題で不仲になったけれど、心底から話し合って和解する。ともに心優しい人です。かれは義父の立場で、連れっ子だった「女郎っ子」博少年が不良少年にいじめを受けても、「将来は広島大学、東京大学に行かせてやる、世のなかのためになれよ」と励ます。その場面は感動です。
 少年・少女らが海難事件の紫雲丸事故で、不運にも遭遇してしまう。母親の優衣子が少女の棺を開けて語りかける。小説として、悲しみが昇華した最高の場面です。
                    (J.Mさん・目黒)   


 ☆ 私の父親は、戦前・戦後、瀬戸内を航行する内航海運の機帆船を持っていました。木江港の「おちょろ舟」の話しは、子どもの頃、父親や船員からなんどか聞かされました。わからないままにきいていました。作品「神峰山」に描かれた女郎の姿が、そうだったのか、と重なってきました。
 当時は焼玉エンジンから、ジーゼルへと変化する時代だったと思います。
                    (東 力秀さん・福岡)


 ☆ 戦後の女性史を静かに語る名作である。確かに、終戦・敗戦という言葉だけでは戦争は終わっていなかった。「女郎っ子」ひとりの少年の心の情景と、その背景を大切に掘り起こして紡ぎ、静かにかつ心底からの「反戦への想い」を綴っている。
 瀬戸内海の離島という自然風景と共に、運命に翻弄された女性たちの生きざまを、リアリティに満ちた描写で描ききっている。
 女性史を学ぶ絶好の小説と思う
                     (アマゾン・カスタマービューより) 


 ☆ それぞれの人生がかなしい。切ない。戦争したのは日本だ。戦後に、どん底に突き落とされたのが庶民だったし、暗い社会でも人間は生きていかなければならない。善悪で読むのでなく、女郎屋の楼主・女将すらも戦後の困窮のなかで生きるために、その職業を選んだとおもう。
「ちょろ押しの源さん」が、若き女郎が亡くなるたびに、お地蔵さまを神峰山の山頂にかつぎ上げる。仏教思想で、死して仏さまになり、苦しみから女性は解放される。書かれていないが軍人は死んで軍神になったと祀られる。死後における『仏』『神』の違いを考えました。
 掲載された5編は、一冊ずつ「神峰山」①~⑤の長編にすれば、よかった。もったいないな、と思いました。若い世代に読んでもらいたい。
 私は神峰山に行ってみたい。
                    (吉武一宏さん・千葉)

広テレ!キャンパス 第2期「広島藩から見た幕末史・そして現代」

 広島テレビカルチャーセンターで、第2期(1月~3月)の募集・受付がはじまりました。メインタイトルは「広島藩から見た幕末史・そして現代」で、こんかいは広島藩の有能な人物を取り上げます。

 浅野家の家史「芸藩志」がここ数年で世に知られはじめてから、倒幕の先がけは広島藩だったと認知されてきました。具体的に、だれが、どのように活躍したのか、政治を動かしたのか。
 芸藩志を読み解くには時間がない。しかし、活躍した人物を知りたい。これに応えるものです。

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 幕末・維新期の広島藩には、名君と呼ばれた藩主が3代つづきます。薩摩藩の島津斉彬(なりあきら)が死の床で、
こんにち日本の大変化のときに際して、天下のことを託すのは芸藩安芸守・慶熾(よしてる)より他にいない。汝、芸州の藩邸に赴いてこれを告げよ
 と遺言しています。


幕末にはロクな家老がいなかったが、藩をまともに導けたのは辻将曹(広島藩)と岡本半介(彦根藩)だけだった」(勝海舟・氷川清話 )


 明治26年発行「忠勇亀鑑 : 軍人必読」の武勇において戊辰戦争の英雄はたった一人、それは西郷隆盛、板垣退助、大村益次郎でもなく、広島藩の高間省三のみである。かれは21歳にして広島護国神社の筆頭祭神です。他を超越しています。

            *

 明治政府が広島藩を恣意的に歴史から消した。それによって倒幕といえば坂本龍馬、西郷隆盛、大久保利通などの活躍が躍っていますが、それ以上に有能な優れた人物が、広島藩には多々います。
 
 これら幕末史を動かした本物の実力者たちの特徴、活躍、業績を知ることで、真実の歴史がしっかり見えてきます。
 と同時に、広島藩がより身近に感じられます。

 1月16日(水) 「徳川家を終焉させた」
             辻将曹(つじ しょうそう)
             船越洋之助
             池田徳太郎

 2月13日(水) 「燃える神機隊」
             高間省三(たかま しょうぞう)
             川合三十郎
             小林柔吉(じゅうきち)

 3月20日(水) 「名君と呼ばれた藩主」
             浅野 慶熾(あさの よしてる)
             浅野 長訓(あさの ながみち)
             浅野 長勲(あさの ながこと)

【問合せ】

広テレ!キャンパス事務所  ☎ 082-567-8676

 〒732-8575
 広島市東区二葉の里3丁目5番4号 F
 
                       写真提供:山澤直行さん

「知られざる幕末と維新 芸州広島藩の活躍」広島県・大竹市=講演案内

 わたしの講演会・明治維新150年記念『知られざる幕末と維新 芸州広島藩の活躍』が、11月24日、広島県・大竹市総合市民会館2階ホールで開催されます。時間は13時30分から16時まで。

 共催は大竹市教育委員会、大竹市歴史研究会。入場料は無料です。

 「薩長倒幕」が最近、疑問が呈されています。かたや、昭和53年にわずか300部、世に出てきた広島藩・浅野家史「芸藩志」から、倒幕の主導は広島藩だった、とクローズアップされてきました。

 河合三十郎、橋本素助編「芸藩志」は、ペリー来航から明治4年の廃藩置県まで、克明に記載されており、全国の史実と照合しても信ぴょう性が高い。

 明治政府がこの芸藩志を厳格に封印したのは、薩長閥の政治家が「俺たちが徳川政権を倒幕したのだ」と胸を張るのには、とても不都合だったからです。

 一方で「防長回天史」は、井上馨の圧力による、長州を美化した私的な要素が強い。不都合なことは記載されていない。事実のわい曲だ、あやしげだ、これまでの薩長史観は鵜呑(うのみ)みにできない、と厳しい批判の目にさらされはじめました。

 講演では広島藩側から、第二次長州征討(長州戦争)の大竹、大野、五日市、廿日市の甚大な被害から、徳川政権の倒幕への展開を克明にお話していきます。
 

 【講演の主だったところ】

 慶応2年、第二次長州征討(長州戦争)まえに、広島藩主の浅野長訓(ながみち)、世子の長勲(ながこと)らが先頭に立ち、幕府の再征には大義がないと非戦を唱えました。

 幕府軍の指揮を執るために、老中の小笠原長行が広島表にきた。執政(家老職)・野村帯刀(たてわき)が折衝する席で幕府をつよく批判したことから、謹慎(きんしん)処分をうけました。
 同年5月、おなじく執政・辻将曹(つじ しょうそう)が幕府に対して非戦をつよく訴えた。すると、辻将曹も武士としては致命的な謹慎処分をうけた。

 老中・小笠原の横暴に対し、広島藩の学問所(現・修道学園)の有志たちは憤り、夜を徹して議論し、「執政の謹慎は藩主をないがしろにした、頭ごなしの処分である。わが藩にたいする脅迫にも等しい、老中の首を打ち取るべし」と決意する。それは切腹を覚悟する行動でした。

 拙著『広島藩の志士』(倒幕の主役は広島藩だった)は、ここからストーリーがはじまります。

 浅野家の世子・長勲が、不穏(ふおん)な空気から、すべての藩士を広島城内にあつめました。「いましばらく自重せよ、身分を問わず腹蔵するところ藩に建白せよ」と申しわたしました。

 文武師範(しはん)の55人が連署で建白した。『藩主の直命があれば、水火も辞せず(命も惜しまず)、暴挙に対して行動を起こします、今後とも長州藩ヘの出兵は固く拒否してください』という趣旨だった。この抵抗運動が德川倒幕への精神となりました。

 広島藩は若者の意見を取り入れて不参戦を表明した。小笠原老中は藩内の過激な動きに怖れをなして、夜に紛れて広島を脱し、小倉に移っていった。

         *

 しかしながら、慶応2年6月には第二次長州征討が勃発(ぼっぱつ)した。大竹から廿日市まで、戦場になってしまった。
 ……町並の家々は焼かれ、農民は田畑を踏み荒らされ、無差別な暴行をくり返えされた。流浪の難民となった数はかぞえきれない。庶民の生活が甚大な影響をこうむり、荒廃してしまった。

 広島藩は戦争反対、開戦反対の建白を20回に及び、出兵を辞退していながらも、わが領地が戦禍にさらされてしまった。
 藩主の長訓以下、無念の極みだった。ここで徳川政権に見切りをつけます。
「こんな徳川家には政権を任せられない。このままだと、いずれ西欧列強の餌食になってしまう。徳川家には天皇家に政権を返上させよう」
 藩主・長訓、世子・長勲、執政・辻将曹たち、そして若い家臣たちが、倒幕へと藩論を統一し、大政奉還運動を加速させていきます。

 当時、政治の中心となっていた京都で、広島藩士たち上下を問わず、烈しく倒幕活動を展開していきます。岡山、鳥取、徳島、津などへ働きかけます。
 さらに公武合体派の薩摩藩を巻き込みます。
 御手洗交易で親密な薩摩は、広島藩の提案する大政奉還という倒幕運動に同調します。ここで、土佐藩の後藤象二郎も巻き込みますが、山内容堂の出兵拒否にあってしまった。
 そこで、禁門の変から朝敵だった長州藩を、薩芸は秘密裏に仲間に加えます。ここに薩長芸軍事同盟が結ばれます。

 慶応3年秋、波乱に満ちた歴史がははげしく動きます。大政奉還、3藩進発(挙兵)、小御所会議における明治新政府の誕生、鳥羽伏見の戦いへと展開します。

 第二次長州征討の最大の被害地だった大竹市で、この歴史展開を語ります。

穂高健一の新刊本「神峰山」(かみのみねやま)=10月25日から全国書店で一斉発売

 ことし(2018年)3作目の新刊・単行本となる「神峰山」が、東京の出版社・未知谷(みちたに)から発売される。定価は2000円+税。全国の書店およびネットで発売される。

 これは中編の書き下ろし5作品が収まっている。

第1章 ちょろ押しの源さん

第2章 初潮のお地蔵さま

第3章 紙芝居と海軍大尉

第4章 首切り峠
 
第5章 女郎っ子

【作品の趣旨】

 昭和20年代の瀬戸内の遊郭街で栄える、木江港の群像を描く。五編の中編を通して、戦争が残した非情さ、抗うことができない運命のなかで生きる、女郎たちと男たちの悲しみの日々を中心に描く。

「歴史はくり返す」
 戦争は人と人が殺し合うもの。敗戦、休戦、という言葉だけで、戦争は終わらない。社会を破たん・破局させた軍人政治家たちは、無責任にも政治舞台からおりるだけで、戦争責任を負わない。
 庶民は戦後、どん底の悲惨な生き方を強いられてきた。人間は悲しいかな、さらなる弱者、底辺層が生み出されていく。生きることに必死だった戦後の姿こそが、「2度と戦争をしてはならない」という歴史的な証言である。

 戦争とはどんな悲惨な結果を及ぼすか。それを小説で再現化する。

【著者から】
 5編とも、登場する人物は魅力的に克明に描いています。それぞれが逆境のなかで、前向きに必死に生きている。
 結果は途轍もなく不幸だったにせよ、涙なくしては読めない。それぞれにモデルはいるが、フィクション小説である。

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『燃える山脈』の最大の取材協力者・務台亥久雄さま逝く= 弔辞

 謹んで哀悼の意を表します。
 務台亥久雄さまの、突然の訃報に驚いています。
 私は「山の日」制定記念出版「燃える山脈」を書いた小説家・穂高健一です。務台亥久雄さまから、数々の取材協力を得て、「市民タイムス」に237回にわたる新聞連載、および「山と渓谷社」から単行本で発刊いたしました。
 亥久雄さまは、わがことのように喜んで下さいました。簡略に、その推移を申し上げますと。

 国民の祝日「山の日」が2014年に、約100人の超党議員連盟により国会で成立しました。と同時に、法案の可決が世界中に報道されました。日本の重要法案が世界をかけまわることは稀です。しかし、「山の日」がナショナル・ホリデーになったと、世界のひとを驚かせたのです。
 この『山の日』が単に登山の日にするだけは止めよう。山の恩恵に感謝の念をもつ場にしよう。山の文化や歴史にも、組み込もうという趣旨が決められました。そして、第1回全国大会が上高地に決定されたのです。
 私は、議員連盟事務局長だった務台俊介代議士から、「山の日の歴史小説を書いてほしい、信州によい素材があるから」と依頼をうけました。

 天保時代に、あづみ野から北アルプスを二座も越えた、飛騨国へ米と塩を運ぶ、『飛州新道』ができています。ちょうど、播隆上人が槍ヶ岳初登頂、十返舎一九があづみ野にきた頃と時代が重なっています。これらを織り込んで、歴史山岳小説として書いてほしい」と務台さんから依頼されたのです。

 拾ヶ堰の完成があずみ野の「いのちの水」になり、その後の発展の基盤になったので、そこは特に書きこんでくださいと、務台代議士から強調されました。

 一つ返事でお受けした私ですが、その実、瀬戸内の造船で栄えた港町で生まれ育っており、農業にはまったく無縁でした。高校時代に初めて田植を遠目に見たくらいでした。およそカイコは見たこともなく、機織り、囲炉裏の生活体験もないし、信州の生活様式すらわからない。
風土・風紀の空気感、信州人の気性も同様で知識がありませんでした。

 ともかく小説家として、山々の荒々しさを描き、天明・天保の激動期のきびしさに生きる、という仮想定の段取りから取材をはじめました。

 2015年6月初、大糸線の駅から「拾ヶ堰」を訪ね、おどろきました。拾ヶ堰は真っ直ぐで、ほとんど傾斜がなく、川面の水流はゆるやかで、常念岳の方角に流れていく。野鳥が優雅に遊ぶ情景です。想定する艱難辛苦な掘削のイメージとは真逆で、あまりにも、おだやかな風景でした。
「書けるのかな、私には?」
 務台亥久雄さまが、取材協力者になってくださいました。稲作と水温の微妙な関係を語られて、「農家は利巧ではなければ、出来ません」と前置きされた。それがつよく印象に残っています。
 農事の知識がゼロの私といえば、トンチンカンな質問ばかり。「天保の飢饉では、水稲はバタバタ倒れている光景でしょうね」。「いいえ。稲穂が倒れたら、実りが豊かで豊作ですよ」。虫害から「うんか」(害虫)といわれても、なあに? となる。冬場のしごとでなぜ藁を叩くのですか。備蓄米、救荒米の違いもぴんとこない。水田で泳ぐ小鯉や鮒が子どもの遊び魚だろうとおもっていると、水中の空気の拡散です、といわれる。なにも理解できていない。

 私が農事の歴史を書いても、侮られるだけだ、と考えました。

『小説は人間を画くこと』。純文学の原点で筆を進めよう、農業でなく、掘削に携わった人間の精神を書こう。それに徹底しました。艱難辛苦の下で、掘削に命をかけた人をすさまじく描くことができました。

 しかし、完成のあとは米余りの状況下から、販路をもとめて北アルプス越えの飛州新道の開拓へと「燃える山脈」が新たな展開がなされていきます。
 亥久雄さまは、郷土史家でもありました。務台家および親戚筋には、歴史的に重要な家史が豊富にあり、それら一つひとつを拝見しながら、説明をうけました。

 亥久雄さまの直系先祖には、知的で聡明な『務台伴語』という寺小屋の師匠がいました。明治初期まで活躍されています。

 小説の舞台となる天保4(1833)年の伴語は20歳でした。私は儒者髷の伴語を主人公に据えました。とても喜んでくださいました。取材の過程で、岩岡家の古い戸籍謄本から、「岩岡志由」という魅力的な17歳の女性がみつかりました。ともに実在人物です。
 ここから務台伴語と岩岡志由の淡い恋心を発展させながら、飛州新道の開拓へと作品を推し進めました。

 かたや、亥久雄さまが務台家・本家に案内してくださり、『務台景邦』なる有能な庄屋の膨大な史料や日記を見せて下さいました。景邦は播隆上人といっしょに槍ヶ岳に登頂しています。もっと筆を割きたかったほど、景邦は有能な人物でした。

 天保6(1835)年に、大滝山、上高地湯屋、焼岳を経由する飛州新道が完成しました。ウィンスントンが世界に上高地を紹介する、約60余年前のことです。
「江戸時代の信州の歴史を、ここまでよく掘り起こしてくれた」と亥久雄さまが高評してくださいました。農業に無知識な作家を鞭撻してくださり、両輪の輪でしたから、「燃える山脈」が世に送りだせたのです。

「市民タイムス」の新聞小説の発行日、あづみの講演会の決定日、「拾ヶ堰が世界かんがい施設に登録された日」と、それぞれに電話をくださった喜びの声が、いまもよみがえります。

 信州の教育者だった務台伴語さんに、あの世でお会いになりましたら、「燃える山脈」の主人公になったよ、とお伝えください。
 そして、安らかにお眠りください。

「補足関連」
 2018年10月2日、務台亥久雄さまの葬儀が行われました。
 私(穂高健一)は、地中海のマルタ島を取材ちゅうであり、亥久雄さまの訃報に接し、弔辞を葬儀の場で、代読していただきました。その全文です。
 第一次世界大戦のとき「日英同盟」により、日本海軍が初めて地中海に艦隊派兵をおこないました。(加藤友三郎海軍大臣のとき)。100年前です。日本の海兵隊兵の犠牲者がマルタ島のイギリス軍墓地で眠っています。

 あらためて務台亥久雄さまのご冥福をお祈りいたします。        
     

戦争が残した非情さ。女と男の悲惨な生き方を描く=小説「神峰山」発刊予定

 私は単行本「神峰山」(かんのみねやま・2000円)を年内(2018)に出版する予定である。
 昭和20年代、広島県・大崎上島に、木江(きのえ)港という瀬戸内随一の遊郭街があった。その町に生まれ育った私には、当時の空気感が未だ十二分に残っている。
 昨年度(2017)の8月11日大崎上島「山の日」神峰山大会から、朗読用として中編小説の執筆をはじめた。
 第一作「ちょろ押しの源さん」を、日本ペンクラブ有志が立ち上げた文藝同人誌「川」で発表してみた。自家自賛するようだが、かなり評判が高かった。すぐさま、出版の話がでた。
 他の4編は中編小説の書き下ろしとして、5編を収録した単行本「神峰山」として年内に発刊する予定である。すでに著者校正の段階なので、おおかた11月頃だろう。


神峰山の山頂付近から。眼下の集落が木江港


【作品の狙い】

 戦争は人と人が殺し合うもの。戦場や戦禍を描くだけが戦争小説ではない。敗戦、休戦で、庶民に平和がきたわけではない。
 太平洋戦争が昭和20年8月15日に終わった。軍人政治家たちは社会を破たん・破局させたまま、政治舞台から降りていった。無責任にも政治責任を負わない。
「戦後の日本」は無政府状態に陥り、庶民はどん底の悲惨な生き方を強いられた。人間は悲しいかな、さらなる弱者、底辺層が生み出されていく。戦争が残した非情さ、抗うことができない運命のなかで生きる、女郎たちと男たちの悲しみの日々を中心に描いている。

 昭和20年代の生きることに必死だった戦後の庶民の姿こそが、『2度と戦争をしてはならない』という歴史的な証言である。それを小説のテーマにおいた。
 
 登場人物は5編とも、魅力的に克明に描いた。それぞれが逆境のなかで、前向きに必死に生きている。結果は途轍もなく不幸だったにせよ、涙なくしては読めない作品になっている。
 舞台のプロアナウンサーすらも、涙声の連続で朗読したほどである。

             *

 私の脳裏には、広島原爆の孤児、太田川沿いのバラック建てなど、しっかり刻まれている。木江港の遊郭街はリアルに存在する。ある海軍中将の遺族から資料提供もあり、事実に近いところで描いている。

 私が小学6年生のときだった。昭和30年5月11日、宇高連絡船どうしの衝突事故が起きた。世界で3番目の海難事故で、小中学校の修学旅行生が多数乗船しており、生徒と教師が多く水死した痛ましい出来事だった。

 当初、私たちの通う木江小学校が5月9日出発で、予定通りならば、紫雲丸に乗る予定だった。そして、一週間後に同じ町内の木江南小学校が出発だった。両校はほぼ生徒数がはおなじだった。
 運命のいたずらか。この2校の出発日が直前で入れ替わったのである。かれら木江南小学校が宇高連絡船の事故に遭遇した。そして、生徒22人、教師3人、併せて25人が犠牲になった。
 私たちは六年生全員が南小学校葬に参列した。松村文部大臣が弔辞を読んでいた。
 中編小説のタイトル『女郎っ子』のなかで、運命のいたずらと言えば残酷すぎる、この紫雲丸事件を展開している。


        紫雲丸事件の海難現場

 単行本「神峰山」を脱稿した私は、ことし(2018年)9月7日、木江小学校に出むいて25人の慰霊の前で手を合わせた。
 少年・少女の遺影写真の25人を見入った。記憶どおり松村元文相の弔辞の原文が残っていた。当時、新聞報道された現場写真を掲げられている。幼い生徒たちが死に逝く寸前で撮影されている。痛々しいかぎりだ。
 翌々の10日(雨)、私は紫雲丸事故の同海峡にむかった。この宇高連絡船の紫雲丸事故から、瀬戸大橋を架けようという運動が広まった。現在は、高松と岡山間は鉄道と道路で結ばれている。貨車を運ぶ当時の宇高連絡船は廃止になっている。

 事故現場により近い航路を持っている宇野・高松フェリーに乗船した。雨降る海で、風景は霞んでいる。島々の間を縫う。岩礁、浮標などそばを航行する
 雨雲の視界を狭めて薄ほんやり水平線ができる。


      高松港の全景 

 昭和30年5月11日の事故当日は濃霧だった。紫雲丸は国鉄の体質の時間どおり、レーダーに頼って全速力で航行していた。そして、おなじ国鉄の連絡船・第三宇高丸と衝突したのである。
 衝突現場に差し掛かった。
「予定通りならば、私が紫雲丸に乗っていたならば、どんな行動をとっただろう。泳げる私でも、死んでいたかもしれない。単なる運命の差なのか」
 その推考はいまだに頭から離れない。

          *

 小学校は違っても大崎高校では、島内の小・中学が一つになる。南小学校・中学から進学してきた同級生の、ある男子生徒に、私は紫雲丸事故の状況を訊いてみた。
「ぼくは第三宇野丸に乗り移った。だから、泳がなかった。だから、まったく濡れなかった」
 かれは口重たげに、そう言った。
「木江小学校(難を逃れた方)の六年生は、先生に引率されて、南小学校の学校祭に行った。遺影を見ると、犠牲者のほとんどが女子だった? 漁師町の女の子は、家の手伝いといえば、漁船に乗ることだろう。泳げないわけがないよな」
 島の人間はうわさ好きだ。大半の犠牲者が女子が多かった理由は、事故直後から、私の耳にも入っていた。真実を知りたかった。かれの口から確かめたかったのだ。
 だが、高校のクラスメートは語らなかった。

 沈没した紫雲丸には、いくつもの小中学校の修学旅行生が乗船していた。木江南小学校の教師は3人死んだ。
「先生の犠牲者の数は、南小学校がいちばん多かったんだよね」
 かれは無言だった。
(真相を知っている顔だな)
 かれの深く悶々とした顔から、それを読み取った。
(そっとしておいてほしい)
 高校時代の同級生は、そんな表情に変わった。

 泳げる女子が同校で二十人死んだ。なぜか。クラスメートは語らなかった。私は単行本「神峰山」のラストシーンで紫雲丸事故の、これら疑問も復活させて描いている。
 高校のクラスメートの沈鬱な顔がよみがえりながらも、私はそれを素材にして筆を進めた。大崎上島を素材にする以上は、紫雲丸事件は避けて通れなかったのだ。
 作品の校正者が、まさかというストーリーですね、と言った。小説家は非情だな、という自戒の念がある。

 高松港に着くと、屋島に登ってみた。紫雲丸事故が発生した場所が一望できる。私たちと入れ替わった木江南小学校の死者たちを悼んだ。

「フィクション小説とはいえ、厳しい境遇を描いたな。小説『神峰山』のいずれの主人公も哀れすぎる」
 私はこころのなかで、いつまでも呟いていた。

 高松港の町並みには夕方の灯が点きはじめた。もはや屋島山頂からの終バスはなかった。