小説家

第80回 元気100エッセイ教室 = 文章の料理法

 若い人と年配者の料理の好みが違います。味覚も違います。若い人はいつも違った作品を書くものです。

 年配者の作品はいつも類似的な内容になる傾向があります。

 若い人は常に好奇心を持ち、きょうの関心はあしたの興味と違います。だから、エッセイ作品も毎回、新しい素材ばかりとなります。一方で、年配者はまず、「こんどは何を書こうかな」と過去の体験・経験をのぞき見て書こうとします。
 
 文章の腕前がいくら優れていても、美味しいご馳走が作れても、毎食が同じような料理では飽きがきてしまいます。
「きょうはいいネタが入ったよ」
優れた料理人は素材選びに目がきくものです。

 作者は材料集めが大切です。作者が若いという精神で、身の回りに問題意識をもってアンテナを張れば、どこからか新しい素材が発見されます。鮮度がよければ、気取った文章表現でなく、生のまま食べたほうがおいしい。


【常に新鮮な素材を求めるエッセイは、作品と作者の魅力となります。書き出しを紹介します・実例です】

  ・若者らはカメラを向けると、すぐピースサインをする。殺された二十代の女性の報道写真がピースをしている。60代の私には違和感がある。

  ・放射能汚染水を垂れ流し、いつ大地震が関東に来るかもしれない。そんな東京にオリンピックを誘致したのだ。開催中に大地震・大津波が来たら、私は外国人にどうしてあげたらいいのか。きっと我さきに逃げだすと思う。

  ・パリのすし屋で、カンボジア人が鉢巻をしてカウンターでにぎり寿司を握っている。ネタの大半は中華料理の食材である。人種差別の気持ちはないが、食欲がなくなった。

  ・大阪の道頓堀「くいだおれ」の倉庫から、円山応挙の「水呑虎図」が見つかった。応挙は江戸時代中期の代表的な絵師だ。私はこのニュースを聞いたとき、写生重視の彼が見たこともない虎を、なぜ描いたのだろう…、と疑問に思った。

 次は何が出てくるのかな、と料理が楽しみになってくる。文章など凝らなくても、けっこう読ませる。(半年間のうち4回の提出作品・書き出しより)

山岳歴史小説の執筆依頼をうける。舞台は天保時代の安曇野(長野県)

 6月24日、務台代議士(同推進委員・事務局長)を衆議院議員会館に訪ねた。務台さんは超党派「山の日」制定議員連盟の事務局長である。
「いま『山の日』制定」の書籍の監修もおこった。(写真)

 この折、2年後の「山の日」(2016年8月11日)にむけた、山岳歴史小説の執筆を依頼された。たんに登山だけでなく、山とかかわりあう人間の群像です、と要望を受けた。背景は、長野県の山と山麓にからむ天保時代である。

「天保の改革」の失敗、「天保の飢饉』による、大勢の餓死者が出たきびしい時代だ。小説としては、そのまま書くと暗さと厳しさが前面に出すぎて、読み手が息苦しくなってしまう。歴史小説だから、極度のひょうきん者など入れて、明るく笑いをとる人物設定などは難しい。

 人間はきびしい中にも、明るさとか愛がある。そこらがポイントになるだろう。
 
 天保時代のころ、僧侶たちの山岳登山が盛んになってくる。槍ガ岳を登った播隆上人の小説だけになると、「山の日」が登山の祝日と誤解を招く。
 山とともに暮らす人々の群像を描く必要がある、と務台さんは語った。地元選出だけに、詳しいので、素材を提供してもらった。
 当時は信州から飛騨に抜けて日本海に出る、「塩の道」の生活山岳道路がつくられた。さらには安曇野には大規模な治水による農地開墾があったという。
 この3つを絡めた歴史小説でいきますと、私はお引き受けをした。

 先々月から、「二十歳の炎」が脱稿し、次なる取材のひとつ阿部正弘(福山藩主・開国の首席老中)の取材に入っていた。ひとつ前の水野忠邦の「天保の改革」時代だから、さして違和感がない。

 私には山岳小説の小説受賞作がいくつかあるので、登山は書ける。有名な播隆上人は過去に著名作家が書いている。それに影響されないように、当座は資料のみを読みこなせば大丈夫だろう。

 山岳道路関係は、信濃大町の飯島善三を子孫を訪ねて調べたことがある。(明治初年に、いまの黒部アルペンルートを開拓した)。その時の知識は残っている。

『水を制する者は国を制する』
 古代から江戸時代まで、各大名は治水には苦労している。新たな治水をするとなると、水の流れ、地形、地質あらゆる条件が付加する。
 題材としては面白そうだが、私は江戸時代の河川工学を学ぶところから始めなければならない。

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幕末歴史小説 穂高健一著『二十歳の炎』が全国で販売を開始しました

 芸州広島藩から書かれた幕末小説は、皆無だった。これまで幕末史は、小説家や歴史家が薩摩藩、長州藩、土佐藩の視点から書かれたものばかり。
 どんな著名な歴史作家でも、広島藩を組みしていない。なぜか。理由はかんたんだ。原爆でお城や武家屋敷などが総べて消滅してしまったからである。

 もう一つある。明治政府の政治家は薩摩出身、長州出身が主体で、広島が目立たないように、と芸州広島藩の浅野家が編纂した『藝藩志』を発禁処分にした。なぜ、発禁か。薩長の恥部を知っているからだ。それを暴露されると、不都合だからだ。

 二つの理由から、広島藩の史料はないのが定説だった。しかし、私は150年前はまだ史実が見つかる。その想いで、約4年半の歳月をかけて取材してきた。
 
 ここに穂高健一著『二十歳の炎』を発刊することができた。
   

            『二十歳の炎』 表紙

 出版社は日新報道で、定価は本体1600円+税。6月24日から全国書店やアマゾンなどネットで販売されている。

 第二次征長(幕長戦争)、大政奉還、鳥羽伏見の戦い、そして戊辰戦争・浜通りの戦い(相馬藩・仙台藩)へと2年間に絞りこんだ。登場人物はすべて実在である。

 史料がないのは芸州広島藩だけではなかった。戊辰戦争といえば、白虎隊の会津中心に考えてしまう。
 しかし、新政府にとって東北の雄・仙台藩が最大の敵だった。平将門の血を引く相馬藩と2藩が、福島・浜通りを北上してくる官軍と熾烈の戦いを行った。
 
 仙台藩を落とさずして、会津だけ攻めても、新政府の勝利とはならない。この単純な構図が、現代では作家にも歴史家にも理解されていない。ましてや、現地の住人も「ここで戊辰戦争があったのですか」と聞くくらいだ。

 明治政府のトップにすれば、仙台藩や相馬藩の戦いがこれまた目立っては不都合。これまた、歴史事実から消されてきた。

 
 会津城と比べると、浜通りの戦の研究者は少なく、実に薄い資料だった。
 
 それでも、楢葉町、富岡町、双葉町、浪江町、南相馬町、相馬市の各教育委員会の歴史専門員が協力してくださった。
 原発事故で、まだ立ち入り困難区域だった。役場職員だから、一次帰省で、市役所や公民科の資料室から該当資料を運び出してきてくれた。頭が下がる思いだった。 

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第79回・元気に100エッセイ教室= 文章は流れるように書く

 ビジネス文は結論から書く。そして、その理由を書きつづっていく。叙述文はむしろ逆である。一つの起点を定めると、そこから行動が発展し、流れるように書いていく。
 これが逆になると、作品がゆるみ(底が割れる)、読み手の緊張感が損なう。あるいは後追いで、読まされている感じになる。作品自体がつまらなくなり、読者は途中で投げ出してしまう。

 では、どうしたら良いのか。事例で、そのコツを会得してください。

【事例研究】

A 良くない例


・婚約を破棄した。かれは他の既婚女性と深い関係だった。私と付き合う以前からだと認めた。とても許せなかった。この事情を両親に話せば、そんな陰のある性格なら、結婚してから離婚するより、いまの方が良いだろう、と言われた。

  底(結論)が割れてしまっている。婚約はすでに破棄しているから、ハラバラドキドキ感がなくなる


・中禅寺湖の湖畔の紅葉がいま盛りだった。旅仲間の眼が赤く染まり、それぞれデジカメで撮っていた。それから、お土産物屋に立ち寄った。色づいたのは9月後半からですよ、と店員におしえられた。

 単なる説明にすぎなくなる


・どろどろの水田で転んでしまった。嫌だな、と身を見た。この5月には農家に体験で出かけたときのことだった。

  後付では、緊張感がそがれてしまう


B 現在進行形ばかり書いていくと、作品が平板になります。しかし、唐突に過去に入ると、読者は混乱してしまいます。
 ここから過去に入りますよ、と読者にしっかり知らしめてから、過去の描写にも入ることです。

・ 湖畔で紅葉を撮る私は、ふとこの夏の海辺を思い出した

・ 婚約を破棄した。刷り上がった結婚案内状を見つめる私の脳裏には、その経緯がよみがえってきた

・ 初体験の農作業の出来事はいまだに忘れられない。蛭に噛まれるかも、とおそるおそる田んぼに入った。用心し過ぎると、かえってバランスを崩してしまうものだ。想いきり転倒してしまった。


C エッセイは心理優先主義で書けば、文章の流れがよくなる。つまり、行動の前段階で、心理を書いておけば、読者が感情移入してきます。


『行動から書いていく(悪い例)』

  入院病棟の診察室で、母を担当する医師に会った。
「この先は自宅療養をしてください」
 医者は冷たい無機質な顔だった。
「新病棟に移させてくれませんか」
「もう予定患者数に達しています。無理です」
「ダメですか」
 私は途方に暮れた。

 このように行動から書いていくと、作品が味気なくなります。


『心理から書いていく(良い例)』
 
 病院の都合で母を退院させられたら、たまったものではない。私にはとてつもない負担になる。旧病棟は壊される。なぜ、竣工がちかい新病棟に移させてくれないのか。母を狭いマンションに引き取れば、妻とのいさかいも多くなるだろう。
「老母といっしょに出ていってよ」と言い出しかねない。
 この際は、病院の担当医と話し合ってみよう。ダメだと言われたら、もはや打つ手はない。翌朝、病院の待合室で、私は不安いっぱいで、呼ばれるのを待った。


 心理優先で書けば、読み手の心をしっかり誘い込み、次はどうなるのか、と求心力が強まります。

【事例研究】

 写真で例えれば、噴水を見ている中高年の情景を書くよりも、そのなかの一人(私)の心理や心象をまず書き込む。(いま悩む事柄など)。
 そして、何気ない態度で仲間と神奈川県立・相模原公園にきた、散策の景色を書く。そうすれば、読者もいっしょに歩いてくれます。

 皆さんも、独自にチャレンジしてみてください

第78回 元気100エッセイ教室=おしゃべりとエッセイ

 エッセイの源泉はすべて体験と経験である。
 人生の部分的な復元でもある。日常会話のおしゃべりもおなじ。自然発生的に、頭に浮かんだ事柄を口にすれば、おしゃべりである。
 おしゃべりは話す相手によって内容を微妙に取り換えられる。直前の事柄から遠い過去の出来事などに及ぶ。話しの組み立て方、話し方など、脈絡などはさして評価されない。曖昧な表現でも通じてしまう。

 多くのおしゃべりは、相手を見て、必要な事柄だけを口にすればよい。事実を伝えてから、「私」はどう考えたか、どう感じたか。相手の顔色とか反応とかを見ながら、感情のおもむくままに話しても、多くは成立する。
 相手がそれを嫌えば、適宜、話題を切り上げれば、すんでしまう。

 それをいざエッセイで書こうと身構えても、文章にはなかなかできない。
 素材があるのに書けない。芸術的、文学的なものは要求されていないにもかかわらず、過剰になりすぎ、途中でとん挫が多くなる。
 経験や体験が豊富な人でも、エッセイは量産できない。おしゃべりは冗漫さが許容されるが、活字では嫌われるからだ。事実に向かい合って簡素に書いてしまえば、メモとか、日記とか、作文とかになってしまう。エッセイはたんなる備忘録ではない。

「さらさらと書いた」
 多くの場合は嘘が多い。事実だとしても、口にしない方が賢明だ。文章の上手下手は別としても、エッセイの形式で書くとなると、文章を念入りに仕上げる、その工程は必然であるからだ。

『おしゃべりで話しを感動させても、文章にすると駄作になる』

 エッセイには創作力が必要である。
   ・テーマ(主題)
   ・構成(ストーリー)
   ・表現力の工夫。
 これが作品を読ませる力の三大要素だろう。

 作者はひとつくらい感動作品をまぐれでも書ける。だが、連続となると、書く経験と、文章力や表現力が必要だ。おしゃべりのくり返しは嫌われるが、エッセイ作品は時間をおいて、くり返し見直しすれば、磨かれてくる。それが筆力になる。

第11回歴史文学散策=江戸城は武将たちの盛衰すらも消えた。春は盛り

 文学・作家仲間の「歴史散策」は第11回目となった。メンバーは7人(日本ペンクラブの広報委員会、会報委員会の有志)である。初回からおなじ仲間である。

 山名さん(歴史作家)、清原さん(文芸評論家)さんが解説役だ。2人はともに歴史関係の雑誌執筆の常連で、これまでも江戸城の歴史を書いている。同時に、公開講座などでも、歴史散策ツアーの講師として活躍する。

 吉澤さん(日本ペンクラブ事務局長)、井出さん(事務局次長)、新津さん(ミステリー作家)、相澤さん(作家兼ジャーナリスト)も、そして私を含めた5人は歴史好きである。

 こんかいは夜の呑み屋が決まっていない。これがいきなりの課題(話題)だった。



 地下鉄・大手町から5-6分で、「大手門」に着く。集合場所では、山名さんの自筆『名城をゆく・江戸城』が配布された。
 その冊子には弓矢を持った太田道灌像がトップを飾る。
 そして、江戸城の年表や特徴が明記されていた。


 江戸城の入園は無料だ。ありがたい。入園の参観札をもらう。(出口で返す)。

 ひとたび城内に入ると、喧騒とした大都会から、別世界に入る。

 相澤さんは、長年この近くの大手通信社(千代田区)に勤務していたのに、初めて江戸城に来た、と妙に感激していた。

 江戸城といえば、すぐに徳川家と結びついてしまうが、1603年、家康が江戸幕府を開く以前の、江戸城の歴史は一般にあまり知られていない。

 1457(長録1)年に、太田道灌によって築城されている。

 道灌は暗殺される。やがて、上杉氏、北条氏などの支配下になる。そして、1590(天正18)年になると、豊臣秀吉が小田原・北条氏を滅ぼし、家康が関八州をたまわり、江戸城を領する。

 ここらは山名さんが詳しく説明してくれる。


 三の丸尚蔵館から、同人番所の屋根瓦に、徳川の象徴・葵の御紋が残っていた。さらに進むと、「百人番所」で、本丸の最大の検問所だった。
 鉄砲百人組の与力・同心が交代で詰めていた。

 大名たちが登城する行列はここで終る。この先に供侍は入れなかった。

 現在はこの先、本丸、二の丸、三の丸(一部)が一般公開されている。

 身分制度の厳しかった江戸時代を想うと、隔世の感がある。


 大手中の門跡、富士見楼は現存する3楼の一つ。

 どこから見ても、おなじ形に見える。江戸初期には、ここが海辺だったという。

 現在では考えられない、海が真下にあったなんて。 

 その後、江戸城の周辺が、どのように造成されてきたか。それが7人の話題となった。

 松の廊下跡にきた。かつては畳敷きの大きな廊下だったらしい。

 ボランティアガイドが団体さんを相手に、「浅野内匠頭と吉良上野介の刃傷事件」を語っていた。

 吉良は名古屋に行けば、良い殿様だ。

 「忠臣蔵」が大好きなひとは、おおかた浅野に肩を持つ。それが歴史のおもしろさだろう。

 歴史の看板がなければ、「松の廊下」があったとは思えない。周囲はうっそうとした樹林帯だった。

 江戸城の石垣の大半は、伊豆の石切り場から運ばれてきた。

 これら資金、労力を投入した藩などの家紋が、城石に入っている。

 「丸に一」の島津家もあった。

 

 
 二の丸の雑木林は昭和天皇の意向で、武蔵野の面影が残されている。

 クスノキ、ケヤキ、クヌギ、コナラの森がある。そのなかに、シャクナゲが咲いていた。


 桜が満開だったので、女流作家の記念撮影です。

 人気の女性作家だけに、どこか輝いている。
 


 梅林坂、平川門、書陵部、それぞれの掲示板の前で、皆が食い入るように眺める。

 さすがプロ作家たちだ。一字一句も見逃さず、それを読み込んでから、話題にする。

 何ごとも関心度が高く、好奇心がなければ、執筆はできないから、当然だろう。

 江戸城にはなぜ天守閣がないのか。多くの人には疑問だろう。

「天守台は3度、5層の天守閣が建設されたの。面積は大阪城の2倍以上だった。でも、1657年の大火で、全焼してしまった。加賀前田家がいまの天守台まで築いた」と山名さんは話す。

 保科正之(ほしなまさゆき、家光の弟・会津初代藩主)が、もはや平和の世のなかになったことだし、天守閣の再建費用よりも、焼失した庶民の復興につとめるべきだ、と進言した。

 それが受け入れられたから、江戸城には天守閣がない。


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【書籍紹介】明治~昭和のおもしろ記事・発掘エッセイ=出久根達郎

 豊富な雑学は、知識とみなすか、教養とみなすか、物知りとみなすか。すくなくとも、雑学は人間生活の潤滑油になることは確かだ。では、雑学はどこから得られるか。品質を問わなければ、テレビ、新聞、雑誌、人の話など、アンテナを張っておけば、いくらでも得ることができる。

『人間を学ぶには、雑誌が一番である』
 直木賞作家の出久根達郎さんが、最近の著書『雑誌倶楽部』(実業之日本社・1600円+税)で述べている。同書には明治から昭和の雑誌から、面白い記事が盛りだくさんだ。
 覚えても何にも役立たない。だから、この世には「雑」が必要だ、と出久根さんは強調している。

『雑誌は面白いか否かだ。パラパラと適当にめくって、目に止まった題名から読んでみる』
 それはまさに『雑誌倶楽部』そのものを言い表している。庶民の暮らし、偉人の素顔、艶笑な話、珍事件など、38冊の雑誌の1月号から12月号まで、月ごとに紹介されている。
 ユーモラスだったり、エッチな内容だったり、おどろきの事実だったり、よくぞここまで「発掘」できるものだと驚かされてしまう。
 さすが古書店の目利きだ。半世紀にわたり、あらゆる雑誌、書籍、冊子を見てきて、値段をつけてきた出久根さんの眼力だから、なせる技だろう。

 パラパラめくっていると、山手樹一郎の活字が目に止まった。中学生時代の私(穂高)は、貸本屋通いで、小遣いのほとんどをつぎ込んでいた。大衆小説を片っ端から読み漁っていた。そのなかで、山手が最も好きな時代小説作家だった。理由は簡単で、思春期の少年にとって、ちらっと色っぽい描写が必ず一度は出てくるから、それがたまらない昂揚感になるからだ。

『大衆文藝』(昭和24年3月)に載った、山手作品が紹介されている。
「一度家の若い女中に、いきなり唐紙をあけられたことがある。……」
 男女のいとなみが見られた瞬間が展開される。実にうまい描写だな、と感心させられる。
 いとなみ。こんな安易なことばでなく、山手は絶妙なことばで展開しているのだ。そのうえ、短編小説でありながら、小田原戦争のさなか、斬首寸前の主人公へと及ぶ。ぎりぎりで助かる英知は実に巧妙で、見事だ。作家として、よくぞ、ここまでリアルに書けるものだと感心させられた。それを紹介する、出久根さんもすごい作家だ。

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共通一次試験「国語」、作者が解けず腹が立った=黒井千次(作家)

 『青い工場』は現代国語の試験問題に、よく取り上げられるんですよ。大学入試・共通一次の現代国語の設問でも、その作品が取り上げられました。私は(新聞に出た)入試問題を解いてみたんです。
 『これを書いた時の作者の気持で、一番正しいと思うものを選べ』
 黒井さんは、おかしな設問だな、という気持ちで向い合った。手を離れた作品だし、あまり覚えていない。マークシートだから、おおかた解答3-4から選択する方式だろう。

「一つひとつ答えを読んでみたけれど、どれも、私の気持ちに合致していない。まじめに解答を考えているうちに、私はだんだん腹が立ちましたよ」
 挙句の果てには、答えは違っていた。
「私の作品なのに、私が答えを出せない」
 そう笑いながら話すのは、黒井千次さんだ。

 日本文藝家協会が主催による「文芸トークサロン」が、文藝春秋ビル新館5階で、午後6時から2時間、月一度のペースで開催されている。参加者はいつも20人程度で、大半が熱心な文学愛好者だ。作家の本音がボロボロ出てくるから面白い。

 私は同協会の会員であり、時間が許すかぎりトークサロンに出向いている。
 
 こんかいは24回で、4月18日(金)、トークは著名作家の黒井千次さん(2002年−2007年 同協会理事長)で、題目は『小説家として生きて』だった。
 

 小説は体験+虚構によって成立する。どんな体験だったか。それを知ってもらう必要がある、と前置された黒井さんは、人生の前半で、小説家を目指したころに話を集中させていた。

 1945年の春に、小学校卒業式があり、全員が集まったところで空襲警報が鳴りひびいた。卒業証書を貰わず、逃げた。府立中学の入学試験は、大勢が集まると危険だと言い、書類選考だったと思う。(黒井さんの推測)。
 中学生になったときから、11人が同人誌活動を行った。(いま現在亡くなった人は5人だから、もう一人出ると、生存者の方が少なくなる)。そこが小説家活動一筋のスタートだった。

 学制改革で、府立中学が都立高校になった。だから、入学試験は大学(東大・経済学部)だけだったと語る。
 父親がずーっと役人(最高裁判事)だったから、生産する民間企業に勤めたかった。地方にはいきたくなかった。東京・もしくは近郊の会社を狙った。日産を受験したが、マルクス経済学の学生の身には、近経の設問は難しくて、不合格だった。

 中島飛行機の解体後にできた「富士重工業」に入り、太田工場など勤務した。ベルトコンベアーの前で働く労働者がめずらしく、かれらとの対話(雑談)などが小説の材料になった。5年ほど経つと本社勤務で、マーケットリサーチが主な仕事だったという。
 勤務のかたわら同人誌活動を展開してきた。最初のうち、黒井さんは会社内で小説活動は隠していた。やがて、どこからか知れ渡ってしまった。
「小説とは良い趣味ですね」
 このことばが一番腹立たしかったという。
「趣味で、こんなものが書けるか」
 黒井さんはつよい反発を覚えていた。

 小説は書きたいモチーフや衝動だけで、作品を書けるものではない。「何を書くか」、それを「如何に書くか」と考え、創作していくものだ。それは趣味をはるかに超えたものだ。
 小説家になってからも、小説ひと筋で、余裕がなく、世間でいう趣味らしいものはなかった、と話す。

 20代で『青い工場』を発表して注目される。36歳の時には、『聖産業週間』で芥川賞候補になった。38歳のときに発表した「時間」で、芸術院奨励賞をもらった。この段階で退職した。
 退職してから、食べることが大変で、ルポ、ノンフィクション、なんでもやったという。

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第77回元気100エッセイ教室 = 日常生活を書くポイント

 エッセイを書くうえで、過去の出来事、思わぬ事件や事故の体験、あるいは現役時代の歩みを書きつづる。それだけでは執筆が息詰まってきます。そうそう特別な出来事、特殊なネタが創作上で想い浮かばないものです。

 平凡と思われがちな日常生活にこそ、作者と作品がふかく関わってくるエッセイの神髄があります。私の日常には「ネタ」がいっぱい詰まっています。


 書き手の一人ひとりの感じ方、考え方、見方、視点の捉え方、切り口、そして描きかたは微妙に違います。
 その微妙な違いこそが、エッセイの味です。積極的に、『きょうの私』を書いてみてください。

 作者にとって当たり前の日常でも、私を対象した、私自身のしっかりした観察がなされていると、良いエッセイの書き手になります。


【ネタの探し方】
  ①日常生活を語るなかで、「こんなことで、ひと様から驚かれた」という実話を取り上げる。(私の小さな特ダネ)。

  ②あらゆるものに、負の「私」をつけてみるとヒントになる。(他人はひとさまの負を知りたがる・それが作品の求心力になる)

    私の弱い科学知識
    主婦の私の経済感覚
    私の貧弱な法律知識
    私のお粗末な科学力
    私のスポーツ音痴
    私の未熟な趣味
    私の芸能音痴

 このように、やたら難しい事柄に、『負』『無知』『未熟』『お粗末』をつけると、頓珍漢(とんちんかん))でも、実に面白く、楽しいエッセイが提供できます。読者は自分と同じだと、共感してくれるのです。


  ③日常のありきたりの素材でも、二つ、ないし三つを組み合わせる。作品が成立し奥行きがでる。(重層化)。
   料理、掃除、郵便物、風呂、宅急便、習い事
   ベランダ、茶の道具、庭木、買物、調味料
   電球、位牌、落書き、襦袢、夕立

   ……無秩序な組み合せをしてみる。


  ④短詩系の作品から、ヒントを取りに行く。(材料をいただく)。
    サラリーマン川柳、詩、新聞の短歌欄、他


  ⑤現代のブーム、流行、それに「私」を結び付ける。(私の主張)


  ⑥外出はネタの宝庫である。散策、旅行、ウォーキング、鑑賞……。(観察力)

 
  ⑦「伴侶のいつもの小言」。私にはありきたりでも、赤の他人には興味深い。そこには人間生活で共感、共鳴、共通するものがあります。(普遍性)


 【陥りやすいミス】

 エッセイの読者は見ず知らずの他人です。『作者が解っていても、読者が解らない』。視えるように書く。この推敲が大きな留意点のひとつです。つまり、地名、年齢、などはしっかり書くことです。

第10回文学仲間たちと、雪の「世田谷を歩く」

 文学仲間の歴史散策がちょうど10回目を迎えた。日本ペンクラブの広報委員、会報委員、事務局長、同次長など7人が、2011年8月9日の猛暑の葛飾立石に集まった。下町を歩いて、そして飲もう。そんなかるい気持ちだった。「次はどこか別の場所を歩こう」
 ごく自然発生的に、浅草だの、川越だの、横須賀だの、と候補が上がった。

 
 3-4か月に一度くらいは、歴史散策、歴史研究、知識の提供・共有化など、というほど大げさなものではないけれども、皆で、街を歩いて愉しんでいる。

 7人はそれぞれ文筆にたずさわる。出かければ、なにかと取材という役目を背負うことが多い。しかし、この歴史散策だけは別に出版社に原稿を出すわけでもないし、締め切りもない、取材で眼を光らせるわけでもない。開放感に満ちている。ひたすら、「好きな歴史」を楽しんでいる。そして、ほどほどの知識(飯のタネ?)を仕入れている。

 今回は『世田谷歴史散策』で2014年2月19日(水)だった。夜の飲み会は、南米のワインの話で盛り上がった。ちょっとワイン通になれた雰囲気があった。

 1週間前の天気予報だと、当日は雪だった。

 今年の大雪が多い。やきもきさせられた。なにしろ、1か月半前頃から日程を絞り込み、調整し、ピンポイントで決めた日だ。ながれたら、2カ月先になってしまう。

「交通機関が動いているならば、決行としましょう。雨ならば傘を差せばよい」
 と前日に決定となった。

 理由の一つには、吉澤さん(日本ペンクラブ事務局長)の提案で、南米料理店が予約されている。

「順延では店に負担がかかり過ぎますので……」
 相澤さん(同・理事、広報委員長)の配慮があったから、ともかく決行の決意だった。雨や雪はふらなかった。ただ、積雪の街歩きだった。
 2月だから、気温が低くて、風が吹くと、寒さが身体に堪える。それは仕方ないし、計算のうえだ。

 ルートは山名美和子さん(同・会報委員、歴史小説作家)が立案し、清原康正さん(同理事・会報委員長・文芸評論家)が監修である。
 新津きよみさん(推理小説作家)、井出勉さん(PEN・事務局次長)、私・穂高健一のいつもの7人である。

 東急世田谷線・三軒茶屋駅の改札前が集合だった。田園都市線駅と同名だが、乗り換えルートがわかりにくい場所だった。集合場所の改札には、「えっ、誰もいない?」となると、日にちを間違ったのか。そんなことはない。駅員に聞けば、改札口はここしかなかった。

 駅ビル内で、寒さ除けで皆が避難して待っていた。やはり、私が10回連続して、ビリの集合だった。ほとんど遅刻だったけれど。

 世田谷線の車両はカラフルでおしゃれだ。情緒にあふれている。車窓から「目青不動」の教学院を見ながら松陰神社前駅に到着した。
  車道と歩道が区分けされていない商店街を進む。新旧の店が混在していた。足を止めたのは酒屋の前である。『吉田松陰ビール・370円』である。物書きは酒とたばこが切り離せないようだ。

  松陰神社は、幕末の吉田松陰の墓所である。松陰は処刑後に小塚原の回向院に埋葬されたが、高杉晋作らによって同神社に改葬されている。同社の境内の随所には、幕末史に残る長州志士たちの名前がある。松下村塾を模した建物もあった。
 近代史フアンにとっても、たまらない魅力の場所だろう。
 
 吉田松陰は、思想家でもあり、大勢の幕末志士たちを育てた教育者でもあった。志半ばにして、安政の大獄で処刑された。
「現在は熱狂的な松陰フアンがいるよ」と井出さんが教えてくれた。
 皇国思想に惚れているのか、指導者としての魅力なのか? 過激な倒幕思想が心にひびくのか。フアンの当人は松陰と直接に接したことがない。突き詰めれば、歴史書や小説上で惚れ込んだはずだ。(あるいは映像化されたもの)。
 物書きの筆の影響力を感じさせられた。


 東京聖十字教会に行った。山名さんが「レイモンド設計の合掌造り風建物」と紹介する。教会の中に入るか否か。「帽子は脱げ、コートは取れとうるさいよ。牧師の話は20分はある」という話から、だれもが躊躇(ちゅうちょ)し、外観見学に終わった。

 山名さんは朝日カルチャーで公開講座『歴史散策』の講師をしている。彼女はわりに速足だ。「どのくらい受講生がいるの?」
「だいたい30人くらいかしら」
「山名さんの足だと、後ろが遅れないの?」
「事務局が最後尾にいるけど、はぐれたこともあるわ」
 とエピソードとして語っていた。

『ボロ市通り』に入ると、世田谷の大イベントだけに、皆が感心を持つ。だが、これだけは熱気を肌で感じ取るしかない。12月には個々に行ってみよう、と話になった。

 世田谷代官所が残されている。隣接するのが、「世田谷区立郷土資料館」である。古代から昭和まで展示されている。

 全員が歴史に専門的な関心度が高いだけに、じっくり見学した。 館内は撮影できたので、山名さんにタイムカプセルに入ってもらった。
 こんなふうに、私はけっこう写真を楽しんでいる。

 新津さんと私が約1年半前iに関根稔さん(ライフ)の案内で世田谷を回った。同館が終了間際に飛び込み、入れてもらったエピソードを語っていた。
 その続きになるが、
 世田谷八幡宮には『江戸三大奉納相撲』の土俵がある。コロシアム風の観覧席だ。その折、私がカメラを構えて、「古関雅仁さん、佐藤恵美子さん。写真を撮りたいから、土俵で相撲を取ってみて」とモデルをお願いした。
 男女ががっぷり四つだった。
「まさか、二人が結婚するとは、びっくりよね、おどろきよね」と新津さんが語る。

「それを世間に発表すれば、『縁結びの土俵』になるよ」と清原さんが真顔で語っていた。

 

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