小説家

第84回 元気に100エッセイ教室 = 段落:改行の分け方

 エッセイ作品は小さな出来事ごとに段落を付けながら、組み立て、全体を構成していきます。

 文章は改行ごとに、一つのブロック(パラグラフ)、一つの意味合い、新たな話題(出来事の小単位)でくくるのが理想です。それは気分や思いつきでなく、計算づくで段落をつけていくと、作品が際立ってよくなります。

① 作者の呼吸にもよりますが、センテンスは3~5個くらいがちょうど手頃です。(センテンスの文字数の理想は42字平均として)。
 読みやすさにもつながります。


② 話題の料処理においても、200字以内でまとめた方が切れ味は良くなります。
 一つブロック内にセンテンスが多いと、内容が捉えにくくなります。


③ 視覚的な長短の工夫も必要です。
 一つセンテンスごとに改行すると、詩的な雰囲気になり、叙述文としては文章や視点が荒っぽく見えてきます。読み手の感じ方、捉え方が散漫になってきます。


④ 一つ出来事でも、延々と文章がつづいて改行が無ければ、「べた書き」と言い、圧迫感から読みづらく、苦痛になります。


⑤ つねに作品の流れによる緩急とリズムで、ブロックの長短をつけていくと、変化と勢いが出てきます。作者の文体づくりにも役立ちます。


          【ポイントとコツ】

① 初稿が書きあがった後、全体を通すよりも、まず段落ごとに統一感から加筆と削除をしていくと、焦点がハッキリします。


② 書き出しから次の段落まで、さりげなく疑問形(あるいは自問など)の文章を入れておくと、作品の求心力がつきます。そして、全体を見直す。


③ テーマの統一感からも手を入れていく。時にはブロックごと捨ててしまう。内容が引き締まります。


④ 結末の段落は1~3センテンスで止めると、読後感が良くなります。

第13回 歴史散策 築地・月島・佃島

 もう3年半になるだろうか。第1回が、真夏の立石散策と飲み会だった。集まったのが、作家仲間で歴史好きなメンバーだった。「次回もどこかへ行こう」

 そんな気楽な集まりだった。これまでどこに行ったのか。ミステリー作家の新津きよみさんが、手帳に克明に書きとめてくれている。1人が記載すれば、まあ、過去の流れは解ることだし、ここで述べる必要はない。
 こんかいの集合場所は11月13日午後1時で、メトロ・日比谷線の築地駅だった。出口1番の改札を出て、階段を上がると、
「いま、遅刻魔の穂高さんがこんかいも遅れたら、置いて行こうね、と相談していたところよ」
 歴史作家の山名さんが開口一番に言った。
「そんな予感がしたよ」
 こればかりは病気かな。出かけ間際にあれこれやりすぎるのだ。そんな言い訳もせずに済んだ。なぜか。早め着きすぎたジャーナリスト兼作家の相澤さんが、昼食を取りに行って、まだ帰っていなかったからだ。私の3分遅れは救われた。こんなことで安堵をしてはいけないのだが。

 散策のコーディネートは、文芸評論家の清原さん、歴史作家の山名さんである。まず築地本願寺に出むく。外観はどこかカトリック建築を思わせる重厚感に満ちている。
 親鸞聖人の生誕を祀る大きな法要の最中だった。寺院の厳かな内部では、ミサならぬ釈迦の歌がコーラスで歌われていた。
「写真撮影は、大丈夫ですよ」
 新品の袈裟をきた僧侶が、愛想よく応えてくれた。
 このメンバーでかつてロシア正教の教会に出むいた。バッグは背負うな、帽子はダメ、そのうえ撮影禁止だった。つい、それに比べてしまう。
(日本の仏教は開けているな)
 日本ペンクラブは表現の自由をうたう団体だ。
 写真による伝達、歴史的な記録には映像が不可欠だと考える。やたら個人の肖像権を振りまわす風潮は困りものだと思う。集団のなかに、己の顔が大きく写っていたにせよ、それによる不都合な面が、どのくらい生じるだろうか。一兆分の1の不都合など生じないはずだ。
 最近では、メディアの報道の自由よりも、優先すると考えている輩が多い。大半は自意識過剰だ。
「あんたは写したくなかった、どいてほしかった」
 そんな嫌味の一つも言いたくなる。

 ともかく、仏教徒の開けた撮影許可には感動した。信仰の自由だな、とも思う。

 築地場外市場の狭い路地の買物風景を観てから、「かちどき橋の資料館」に出むいた。実物の電動モーター、太いロープの断片などが展示されていた。無料で、社会科勉強ができる。

「橋が開いてるのを見たひとはいるのかな」
 日本ペンクラブ事務局長の吉澤さんが、訊いていた。東京に生まれ育った人は、小学校の遠足できたようだ。(写真は勝鬨橋の中央部)

 東陽院の十辺舎一九の墓は、時間の都合からカットだった。山名さんは朝日カルチャーの公募・歴史作ツアーで、数日前に歩いたコースだと語る。
 トリトンブリッジ・トリトンスクェアの桜並木の散策道は、みな急ぎ足だ。なにしろ東京海洋大学・明治丸(船内見学)の受付時間が2時半だ。それに遅れたくない。本日のメイン中のメインだから。

 同大学が遠方に見えてきた。ごく自然に小走りになった。
 しかし、残念なことに、明治天皇が乗った明治丸は、大掛かりな改修工事の最中で、見学はさせていなかった。船体の外観はすべて保護シートに包まれていた。
 7人は失望した。

「せっかくここまで来たんだから。説明だけでも聞きたい」
 作家の好奇心は廃(す)れない。工事を請け負う大手建築会社の現場主任に掛け合った。作家7人はヘルメットを持っていないので、現場のそとで、明治丸の精密な設計図をもとに説明を受けた。
 天皇の乗られた場所を問うと、推測ですけど、と前置きしてから、船尾のキャビンが示された。
 

 大学港内は誰しもが、青春をほうふつさせる。黄葉の並木道、赤レンガの建物、われら世代には懐かしい想いがみなぎる構内を散策した。
 大学構内のレストランは閉まっていたが、ウィンドーをのぞき見て、「安い、安いな」と相澤さんがとても感動していた。交通費をかけてでも、食べにきたい語調だった。


 次なるは、月島開運観世音へと向かった。この間に、「もんじゃ焼店通り」を散策しながら、お好み焼きともんじゃ焼きとの談義になった。
 広島育ちの私には、ドロドロしたもんじゃ焼きはどうも苦手だ。かつてどんなものかと一度食べた。その時から、もう食べたくないと思った食品の一つだ。
 とはいっても、周辺には、若いカップルが多かった。

 まだ民間人が住んでいる佃島高瀬家住宅(区文化財)から、佃波除稲荷神社に向かった。皆して、まずはツクダ煮を買った。その上で、歴史散策にもどる。

 家康が関東に来た時、関西から漁師を連れてきた。かれらのために東京湾の埋め立てが行われた。それが佃島だ。
 外洋から打ち寄せる波が強くて、埋め立て地の岸壁の土砂や石が流されてしまう。若い娘の人身御供で、波を鎮めた。そんな悲しい伝説が残っていると、山名さんが教えてくれた。

 佃島渡船場跡(石碑)の近くに、一本の大樹の銀杏があった。神社の天井を打ち破った巨木だ。見応えがあった。これには感心させられた。
 
 住吉神社は大坂から猟師たちが庶民が移り住んだことから、祀られた神社だった。いまでは喧騒とした東京にありながらも、静寂さが漂う。心が休まる趣があった。


 いよいよ井出さん(日本ペンクラブ事務局次長)がセッティングした「月島スペインクラブ」だ。料理は抜群の美味しさである。
 井出さんはヨーロッパに生まれて育った。それだけに、ワインには詳しい。実は、私以外はみなスペインを旅している。荒れ地だからこそ、ブドウの樹が育つと私は教えられた。それぞれがワインの銘柄にこだわっていた。
「ビールしか飲まないの?」
 周りの作家から同情された。

 流れて2次会は居酒屋だった。記憶があいまいだが、「浅田軒」だったと思う。月島が下町だとわかる飲み屋だった。

 次回はからだが寒さになれきった2月になるだろう。

ミステリー小説および歴史小説の書き方の類似点

 このところ信州(長野県)と飛彈(岐阜県)の歴史小説の取材で飛び回っている。入手した資料を昼夜にわたって読みこんでいる。

「歴史小説を書くのは大変でしょう。資料をたくさん読む必要があるし」
 取材先で、そう言われることが多い。
 たしかに取材で集めてきた資料の質を問わず、読みこなすには時間がかかる。

 ただ、やみくもに読んでいるわけではない。ある基準で、資料は読みこんでいる。それは一言でいえば、歴史的な事実に近いか、否か、と見極めながらである。執筆するときに採用できるか、採用できないか。そうジャッジメントしながら読むのである。

 一つの歴史的な事柄にも諸説ある。だから、不採用だなと解っていても、一応は読みこむ必要がある。「これはダメだ」と頭から決めつけると、私の先入観が歴史的な事実を見落としたりするからである。

 1-2割は真実に近そうだと思うと、再度読みなおすことがある。その点では慎重である。


 私は若いころに純文学からスタートし、中間小説といわれたエンターテイメント小説に移り、長編ミステリーも投稿作品でよく書いていた。かなり良い線まで何度も行った。受賞しなかったが、別途に書いてみませんか、と大手出版部長に声掛けされたこともある。


 雑誌にミステリー小説の連載をしたことがある。これはさかのぼって伏線が張れないので、じつに神経を使った。警察と海上保安庁がらみのミステリー小説は、捜査の専門家になんども取材をくり返した。知識が豊富になった。

「指紋を隠す目的で、手袋をしていると、確実な証拠品になりますよ」
「なぜですか」
「人を殺傷するときは、必ず手のひらに汗をかく。とかく手袋は現場近くに棄てている。それを回収したり押収したりする。そして、内側の汗をDNA鑑定すれば、確実な証拠になるからですよ」


 広島拘置所で死刑囚と向かい合っていた、副所長から長時間にわたり取材したこともある。
「死刑囚は毎日、観察日記を書いて、法務省に提出するんです」
「毎日ですか。その理由はなんですか」
「精神が正常か否か、それを観察するんです。もし精神が発狂したした状態では刑の執行ができないからです」
「死刑が最終確定していてもですか」
「当然ですよ。罪の意識が無くなった人を殺せば、それこそ殺人でしょ」


 小説講座で、ミステリー小説はTVを観て書いている受講生が多い。私の知識から陳腐に思えることがたびたび目にする。警察官と刑務官の職種の違いすら、混同している。
「TVはシナリオライターが書いているんだよ。プロデューサーだってプロ捜査官でないから、ノーチェックだと思った方が良い」
 と指導することが多い。

「裁判を傍聴しなさい。生々しい現場を知ることができるから。どんな凶悪事件でも、公開だし、検事が証拠品を出してくる」

 裁判所が証拠として採用するか否か。裁判官が採用した証拠品から、犯行の全体像をつかみ、犯人に間違いない、と決める。あるいは証拠からしても、無罪だとする。
 

 歴史小説はこれによく似ている。たくさんの「歴史的な資料」を集めてくる。郷土史家などから意見を聴いたり、学術論文を読みこんだりする。執筆する上で、採用する、あるいは捨てる。

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第83回 元気100エッセイ教室=擬音語と擬態語

 エッセイのなかで、擬音語と擬態語は使わない方が賢明である。これは小説でも言える。理由は、描写が甘くなるからである。時には児童文学だとさえ陰口をたたかれてしまう。


擬態語』とは、音を立ていないものを表現する。

「きょろきょろ見廻す」「冬の星がきらきら輝く」「砂がさらさららこぼれた」「一人でくよくよ悩む」「先刻からいらいらしている」「涙がぽろぽろ落ちた」

「たくさんの鯉がすいすい泳いでいる」


擬音語』とは、外界の音を写した言葉である。

「廊下がぎしぎし鳴る」「犬がきゃんきゃん鳴く」「心臓がどきどきした」
「戸をぴしゃっと閉めた」「馬がぱかぱか走る」「雨がざーざー降りになった」


 擬音語や擬態語は他人が作った決まりきった言葉である。事実をしっかり見据えた描写だとはいえない。良い文章とは事象をていねいに観察し、「私」のことばで表現すれば、人の胸を打つ文章になる。それに反してしまう


 擬音語と擬態語はいっさい使わないで書く。この覚悟をもって書くのが望ましい。ただ、うっかり使ってしまう場合がある。
 

・人の態度は割に気づかないで使いやすい。
 きょろきょろ、そわそわ、ぼんやり、むっつり、やきもき、どきどき、なよなよ、ひやひや、ふにゃふにゃ、

・人の行動の場合は擬態語だと思っていない
  ずっしり重かった。じっくり考えた結果、すたこら帰って行った。
  とげとげしい人間関係、ぼーと見ていた、べらべら喋る、きっちり閉める

 擬音語や擬態語をどうしても使いたい場合はどうするか。
 作者が独自に表現すれば、創作の効果として評価される。ただ、過度に使うと、作品が滑稽となる場合があるので、要注意である。

光と影=恩師と私

 私はいま2つの歴史小説を追っている。一つは「阿部正弘と日露和親条約」、もう一つは「天保の信州」である。阿部は福山藩主だったから、広島・福山へ。信州は長野、岐阜へと取材に飛び回っている。
 むろん、歴史小説には、史料(資料)の発掘と、その読み込みが不可欠だ。読むべきものが机の周辺に高く積まれている。寝床の周りにも……。

 私は区民大学、カルチャーセンター、NPOなどの「小説講座」、「エッセイ」、「写真エッセイ」など、各講座を持っている。すべて添削がともなうから、往復の車中やホテルでは、それに集中する。
「大変だな」と自分のハードなスケジュールに呆れることが多い。


 そんなときには、私の恩師・伊藤桂一先生を思い浮べる。直木賞作家で、売れっ子でハードなのに、「講談社フェマース・スクール」で、私たちの小説作品を実に丁寧に読みこんで指導してくれた。むろん、プロ作家の目で講評するのだから、実に厳しかった。

 伊藤先生のことばを思い浮べる。「講師の話しがきた当初、講談社に断りつづけた。結果として、引き受けた。やるからには後輩を育てる、それを生き甲斐にする」と述べられた。それには感動した。この先生のもとで、プロ作家になるぞ、と強い意志を持ったものだ。


 講談社が絵画部門の不採算で、4年くらいでクローズした。私は皆を代表して、伊藤先生に引き続き小説指導を頼み込んだ。快諾してくれた。同人誌「グループ桂」が生まれ、いまなお指導してくれている。
 たしか今年で95歳だと思う。頭脳は若い。なにしろ、ビッグな文学賞の選者として活躍されているのだから。


 私は約7年くらい前から、後輩指導で、みずから講師に乗り出した。「伊藤先生が私を育ててくれた。それを次世代に引き継ぐ」という精神である。
 人間の命は有限だから、今持っている私の技量を基本的に全部出し切る。私が永年蓄積したものをこの世に残していきたい。だから、出し惜しみはしない。手抜きはしない、と私自身に言い聞かせている。
「良い面を育てる。瑕疵(かし・キズ)は改善してもらう」と作品に赤とか、青とか、ていねいに入れて指導している。

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東京広島県人会・幹事会で、「二十歳の炎」の販売、ショート・スピーチ

 私は、幕末の広島藩を初めて小説にした作家という点が評価されて、東京広島県人会の同「ニュース(49)」で「二十歳の炎」が取り上げられた。


「平成26年度秋季役員懇親会」が、10月15日に東京・文京区の東京ドームホテルで開催された。出席者は地元選出の代議士、県知事、政財界の大物ばかり約200人である。広島藩、福山藩の浅野家、阿部家、水野家など、「お殿様」の直系・子孫の方々なども出席されていた。

 同実行委員の配慮で、「二十歳の炎」書籍販売と、私にショート・スピーチの機会を与えてくれた。
 壇上では、先月に中國新聞・文化部「緑地帯」のコラムで8回連載した「広島藩から見た幕末史」のポイントをかいつまみ、「二十歳の炎」の神髄のさわりとして話した。


 「禁門の変で、長州は京都の町を半分焼いた。民衆も怒り、天皇も激怒し、幕府も治安面でテロ活動とみた。そして、朝敵になった」
 そう前置きしてから、長州が倒幕など関われるはずがない。京都に長州人が侵入すれば、新撰組も、会津桑名の藩士に、問答無用で殺されていた。

 だから、大政奉還にも、小御所会議の王政復古による京都の明治新政府の発足にも、まったく関わっていない。それなのに、薩長倒幕とは嘘である。

 実際は、薩摩と芸州広島は政経の両面で強く結びついていた。つまり、「薩芸倒幕」がやがて「薩長倒幕」にすり替えられた。

 幕末広島藩の展開が「二十歳の炎」に描かれています。出来るだけ史実を折り曲げないで書いています、と説明させてもらった。

 高間省三たち神機隊が、自費で戊辰戦争に出向いた。第2次長州戦争では、「小笠原老中を暗殺してでも、戦争をとめる」と主張した若者たちが、戊辰戦争では参戦した。

 戦争は始まる前に止めるべきで、戦いが始まると、非戦論でも戦いに臨む。戦争と平和を考えてほしい。そこらを要約して話した。

会場の入口で、販売を展開した。出版者の営業マンと、写真協力者の滝アヤさんが書籍販売を手伝ってくれた。

 持ち込んだ本は、順調に買っていただいた。

 とくに修道高校OBには、「頼山陽、髙間省三は皆さんの大先輩ですよ」と強く打ち出した。また同校の畠元校長と先週の懇談の席で、「髙間省三を知らずして修道を語るなかれ」といっていましたよ、と勧めた。畠元校長は「二十歳の炎」の協力者のひとり。

 殆どの修道OBの方が知っていた。「畠先生は国語教師で、サッカー部の監督でした。全国大会に出場した。私は部員でした」という方もいた。それにはちょっと驚いた。

「私が撮った被災地の写真が載っている本です」と滝さんは、小説3.11「海は憎まず」を売り込んでいた。カメラマンから声をかけると、購買動機が起きるようだ。こちらも数冊売れていた。

写真提供:滝アヤ

第82回 元気に100エッセイ教室=主語は文章のいのち

 良い作品とは、全体の流れが良く、読みやすく、主語がハッキリしている。だから、どの文章も読み手の頭のなかにスーッと負担なく入ってくる。文意が難なく理解できる。

 逆に、駄作とは突きつめれば、2つの要因に集約される。

①ページをさかのぼって読み返さないと、理解できない。「後戻り

②文章に首を傾げて、立ち止まってしまう。「一時停止


 作者が考えるほど、読者はていねいに読んでくれない。「主語」が不明瞭の場合は、なにを書いているのか解らず、一時停止してしまう。

「えっ、これはだれの話し?」

「どっちの人の話し?」

「主語は何なの?」

 作者はわかっているが、読者には解らない。だんだん読むのが嫌になる。やがて、読むことすら放棄してしまう。挙句の果てには、ぽい、と棄ててしまう。感想を聞かれたら、「面白かった」とお世辞でごまかされてしまう。
 それは捨てたことが面白いのである。


「主語」が解りにくい文章は重大な欠点である

①センテンスが長すぎる。(平均で45字以内にとどめる)。

②主語が文章の後ろ過ぎるので、肝心な主語がなかなか出てこない。

③修飾が多すぎて、「主語はどこにあるのか」、それが解りにくい。

④隠れ主語(省略)が続き過ぎると、読み手の負担になって、主語がやがてわからなくなる。

⑤男性(女性)が複数いるのに、彼(彼女)は、と記する。誰を指しているのかわからない。

⑥一つセンテンスに、意味を詰め過ぎて、二つ以上の主語になっている。

⑦回りくどく、気取った言い方に凝(こ)り、主語を欠落している。


センテンスは短くする。その上で、主語は極力センテンスの頭に持ってくると、簡素で明瞭な作品が生まれます。最大のコツです

第81回 元気に100エッセイ教室=語感をみがこう

 文章は書きなれるほどに、微妙な言い回しで、味わいふかい作品を生み出せる。文の表現が巧くなる。それを前提にして、ふだんから語句をみがくことである。


 叩きつける夕立があがると、太陽が燃え、西の雲が真っ赤に染まる。青空がより鮮明になる。ふだんは都会の濁川でも、焼けた雲が川面に映り、刻々と色が変化していく、見あきない神秘的な情景になる。
 語感の鋭い人は、これを表現するには、どんな色の言葉を当てはめるべきか、どのような表現で書くか、と考える。瞬間ごとに、頭のなかで、語彙を探している。濁川、神秘的、かたいな、ありふれているな、と精査する。
 
 その場で語彙が見つからなければ、写真に撮って来て、自宅に帰り、じっくり考えるのも一つの方法である。(写真・鳥取砂丘)
  あるいは、「文章スケッチ」で、その場でメモ帳、ノートに言葉を書きなぐっておいても、むしろその語彙が貴重なヒントになったりする。

 ともかく記録に残すことである。人間の頭脳は新しく次々に吸収るものがあるから、一晩越せば、10%の記憶しか残っていないのがふつうである。

 語感をみがくコツは、見なれた景色のなかでも、常に語彙を探すことである。生活の中で意識するほど、ことばが適切に使い分けられる能力が高まってくる。
 反面、書きなれていない作者は、文章が気取って複雑な言い回しになる。やたら難しく、碧天、翠天、などの漢字をつかう傾向がある。次にくる言葉が、美しい夕焼けだった、と手あかのついた、紋切り型の表現になったりする。

 作者は上手く書いたつもりだろうが、妙に気取られても、文章が痘痕(あばた)に思えるだけだ。時には地の文のなかに、叔母様は、と入ったりする。読者の立場からすれば、あんたのおばさんだろう、身
内に尊敬語を使って、おかしくないの、となる。


「下手だな、この人の文章は」
 表現が複雑な割に、適切な語彙が使われていない。気取りすぎて文意が解らず、いったい何を書いているのだろう、と読み手は立ち止まってしまう。「夫は」「妻は」と書かれても、こちらには顏もわからず、性格もわからない。


語感をみがくコツはなにか
 上手な文章家の作品をたくさん読んでみる。そして、真似てみることだ。語感が磨かれた人の文章は簡素で、気取りがなく、自分のことばで、さりげなく書いている。だから、すんなり頭に入ってくる。真似るだけでなく、応用してみるのがコツだ。くり返し積み重ねていけば、書きたい状況に見合った、適切なことばが使い分けられる能力が高まってくる。
 そして、この作者は語感が鋭いな、という評価につながる。


 語感をみがけば、感銘作品の創作に寄与してくれる。ふだんが大切である。

中国新聞『緑地帯』のコラム、「広島藩から見た幕末史」連載はじまる

 私が執筆する「広島藩からみた幕末史」が、コラムとして、中国新聞・文化欄『緑地帯』で、8月30(土)から掲載される。2回目は9月3日(火)からで、8回連載である。

 幕末歴史小説「二十歳の炎」がことし(2014年)6月に発刊された。作品の趣旨、執筆の動機、取材のプロセス、幕末史の捉え方など、作品の背景となるものを記している。

 第1回目の書き出しだけを紹介すると、

『江戸時代の260年間、日本は戦争をしなかった。しかし明治時代に入ると、10年に1度は戦争をする国になった。広島、長崎の原爆投下まで77年間も軍事国家だった。外国から、日本人は戦争好きな国民と思われてしまった。
 誰がこんな国にしたのか。さかのぼれば、幕末の戊辰戦争に行き着く。大政奉還で平和裏に政権移譲したのに、戦争が起きた。日本史の中で最も分かりにくい。民主的な政権ができた後、薩長の下級藩士による軍事クーデター(鳥羽伏見の戦い)が起きた―とはっきり教えないからだ。~』

 と展開していく。

「二十歳の炎」は、地元の中國新聞、髙間省三を筆頭祭神に祀る広島護国神社、学問所の伝統を引き継ぐ修道学園など関係者が強く推してくれている。
 広島の書店も平積み同様に扱ってくれているところが多い。また、取材先関係者を通して、口コミで広めてくださっている。東京広島県人会なども。
 多くの読者がアマゾンのプレビューにも、書き込んでくれている。

 広島はことし何かと話題になっている。音楽家の不祥事、広島カープの活躍、広島市内の土石流災害、崇徳高校・野球部の50回延長戦とか。

 広島藩からの幕末に絞り込んだ歴史小説は、きっと初めてだと思う。読めば、これまで多くの歴史作家が無理してこしらえてきた、幕末史観が変わると思う。虚像の多さには唖然とするだろう。

 多くの作家が維新志士の美化に夢中で、その後の軍事国家をつくった危険な思想の持ち主だったという批判もほとんどなされていない。かれらは「誰がこんな軍事国家にしたのか」、という人物につながっているのだ。そんな思いのコラムである。

 幕末・広島藩が、二十歳で死んだ髙間省三を通して、世間一般に知れ渡り、正しい歴史認識になることを期待している。
 中国新聞はそれを理解してくれたから、執筆の最中の1月、書籍紹介の6月、「作者に聞く」の書評の7月、さらにはこの8月からのコラムと紙面を割いてくれたのだ。

「作家の文章は、それ自体に著作権がありますから」
 文化部の記者は、私の思い通りに書かせてくださった。

『読書の秋に読もう・推薦図書』 南太平洋の剛腕投手=近藤節夫

 旅行作家兼エッセイストの近藤節夫さん(日本ペンクラブ会員)が、初のノンフィクション作品『南太平洋の剛腕投手』を刊行した。サブタイトルは「日系ミクロネシア人の波瀾万丈」である。発売日は8月18日。出版社は現代書館で、1600円+税。

 作品は昨年来から取りかかっていたもの。主人公はススム・アイザワ(相澤進)で、日本人の父と、旧トラック島(現ミクロネシア連邦)酋長の娘との間に生まれた。戦中・戦後に父の故郷・藤沢市で、彼は逞しく成長した。そして、プロ野球投手として活躍した。
 その破天荒な生涯を描いている。

 ススムはプロ野球を辞めた後、トラック島へ帰島し、大酋長となった。実業家として成功した彼は、島のため献身的にボランティア活動に携わってきた。当然ながら、島民から広く尊敬を集めた。

 作者の近藤さんは、親の代から交流のある森喜朗元首相、そしてプロ野球の元チームメートだった佐々木信也氏と、ふたりの友情の絆を同書で扱った。それだけに、奇想天外のドキュメントだともいえる。

  30数年前、作者はトラック島で大酋長と初めて会った。ススムは行動力のある魅力的な人物であった。一方で、謎をはらんだ言動の多い人物だった。そのミステリアスな点についても、証言、風評を交え、取り上げてている。

 偶々大酋長がすでに鬼籍に入られていると知った。
「もうあのカリスマ的な風雲児に会えないのか。そう思うと無性に寂しい気持ちに捉われました」
 近藤さんには懐かしい気持ちが湧き上がった。大酋長の生涯を二つのふるさと・旧トラック島と湘南地方を背景に描いてみたくなったのです、とペンを執った動機を語る。

 『南太平洋の剛腕投手』は江ノ電沿線新聞社が、湘南地方、とりわけ江ノ電沿線に住民に読んでもらいたいと、座談会を催している。
 佐々木信也さんは、湘南高校時代に甲子園初優勝を成し遂げている。ススムの親戚の藤沢市商工会議所副会頭・相澤光春さん、そして佐々木氏の母校後輩となる筆者の近藤さんがトークを行った。座談会の内容については、「江ノ電沿線新聞」9月1日号に掲載される予定である。


  【著者の刊行案内から、取りまとめました】


【作者・プロフィール】

 東京・中野生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業。学生時代に60年安保闘争、ベトナム反戦運動に参加した。
 学生時代・サラリーマン時代を通して、紛争地や戦地に200余り渡航している。訪問国は70数か所になる。
 著書として
『現代 海外武者修行のすすめ』(新風舎)
『新・現代 海外武者修行のすすめ』(文芸社)
『停年オヤジの海外武者修行』(早稲田出版)
 共著として
『知の現場』(東洋経済新報社)
『そこが知りたい 観光・都市・環境』(交通新聞社)