小説家

【推薦図書】桜奉行(幕末奈良を再生した男・川路聖謨)=出久根達郎

 川路聖謨、まず読み方から入ろう。「かわじ としあきら」。出久根氏は「桜奉行」の作品の入口から、むずかしい名まえだと、川路・当人があかしている、と紹介している。


 話がいきなり、作品紹介からそれてしまうが、現代においても、とくに女児の名まえに当て字が多くて、難解だ。少女が大人になり、口頭で名まえを説明するときはきっと苦労するだろうな、とおもう。小学・中学の先生方もまちがいなく難儀だろう。
 「桜奉行」を読みながら、そうか、江戸時代にもどっているのか、ともおもえた。

 奈良奉行、佐渡奉行時代の川路は、じつにヒューマニティーに富んだ人物だ。貧しい家に生まれ育ち、勘定奉行のトップまで、一つずつていねいに登ってきた人物だから、ひとの心が読めるのだな、と理解できる。
 ひとの痛みがわかる人物が主人公の小説は、随所で、堪能できるものだ。


 川路日記「寧府紀事」(ねいふきじ)から描いた小説で、人物は実在で、造形やフィクションではない。できごとや事件、そして手紙のやり取りや日記交換による家族愛も、記述から展開なされいるので、実像に近いはずだ。
 むろん、川路の人柄は、作者・出久根氏の想いも、おのずと反映されてくる。そこは学者と作家の違い、学術書と小説の違い。だから、小説は作者の個性がたのしめる。


 お奉行は警察権と裁判権をもつ。行政と司法のトップだ。かんたんに言えば、犯人をみつけて、捕まえて、白州で取り調べて、お裁きするのだ。そして、刑を執行する。

 現代でも、法律用語となるとかなりむずかしい。作者・出久根氏は、江戸時代の奉行所システムで、ちょっとでも難解な用語がでると、巧みに解説をいれている。さらさら読める工夫がなされている。「私、歴史は苦手」という方が、その説明をすーとながしても、文脈はくるってこない。そこはまさに超プロ作家の職人芸だ。

 むつかしい事象・事柄をやさしく言う。書き手にとってはたいへんな作業だったとおもう。歴史好きには知識欲を刺激してくれる。


 現代でも、犯罪ものは小説、TVドラマで人気がある。
 奈良奉行の川路聖謨が8月8日にお忍びで、町に出ていく。奉行所を抜けだす方法も、手が巧妙に入り組んでいる。そして、川路が犯罪者との接点で、みずから捜査する。
 もしも隠れ奉行の身元が、犯罪者たちに発覚したら、どうなるのか。危うさが連続し、ハラハラ・ドキドキ感で、一気に読ませる。


 犯行との接点で、かつて川路聖謨がつとめた佐渡奉行の回顧が展開されている。赴任するときのエピソードなども面白い。江戸時代には手漕ぎ船を使って、荒波の日本海をこの方法で渡ったのか、と知ることができる。

 佐渡奉行所(相川)に着任早々、川路には待っていた未処理の大事件がある。それは佐渡全島を巻き込んだ大規模な佐渡農民一揆だ。発端は奉行所ぐるみの腐敗だった。すでに江戸勘定奉行所から出張した留役(調査官)が取り調べた大規模なもの。

 川路は、引きついだ大勢の直接部下たちを裁く、罪を問う、解雇する、という負の任務からスタートだ。片や、農民の首謀者たちも罰する。善人の軽微な農民、冤罪容疑者には温情のある上手いお裁きをする。ここらも、おもいきり引き込まれてしまう。
 
 読むうちに、ごく自然に、天保10年(1839年)5月に起きた蛮社の獄(ばんしゃのごく)が解説なされている。言論弾圧事件で高野長英、渡辺崋山が犠牲になった。天保の大事件で、日本史では避けて通れない。

 多くの読者は、これら人物や事件名などはうすら、漠然と記憶にあるていどだろう。
 川路はひとつまちがえば、大事件の思想犯の罪びとになった可能性すらある。なにしろ仲間は著名で優秀である。川路はどのような接点と交流をもっていたのか、と説きあかしてくれている。

 歴史の教養が身についたような、ずいぶん得した気分にもさせられてくる。

 
 出久根文学の最大の魅力は、単なる史実の展開だけでなく、料理、桜の種類、天皇の御陵、鹿の生態、マムシの捕獲方法、奈良の町の魅力など、筆をはこんでいる。そこらも楽しく読ませてくれる。切れ味がよく、飽きがなく、展開が速い。だから、作品に吸い込まれる。


 怖さが存分に満ちているのが、『極刑』だ。死刑執行の種類とその微細が巧い筆さばきで描かれている。そのなかで、囚人にたいする奈良奉行・川路聖謨の心の痛みがしっかり組み込まれている。

 歴代の法務大臣で、死刑執行の印を捺さなかった方がいる。川路は逃げるに逃げられない立場だ。わが子を亡くした心重いときの執行だから、読み手もきつい。だから、「人間とはなにか」と、出久根文学は問うているのだ。

 犯罪者への心配りの川路聖謨の人物像は、出久根氏が作中でとくに描きたかった一つだろう。


 わたしは昨年の2月に奈良・京都を歩いてみたが、この「桜奉行」が手元にあれば、濃い歴史散策ができただろうな、とおもう。 
 
 人間愛、家族愛に満ちた小説は、読後感がとても良いものだ。


【関連情報】 

 桜奉行ー幕末奈良を再生した男・川路聖謨ー

 作者 : 出久根達郎

 発行 : 図書出版 養徳社

 定価 : 1800円+税

 発行 : 平成28年11月26日

 

【正月に読もう】 瓦版屋権兵衛「筆さばき」(抜かずの剣) = 飯島一次

 時代小説は面白い。なぜ、面白いか。現代社会では、とてもありえない、大胆な性犯罪が白昼からまかり通る。
 生娘。現代ではあまり使われない表現だが、かわいい御嬢さんが、強欲の豪商やそのドラ息子たちに、死に至るほど辱められる。嬲(なぶ)り殺されてしまう。
 そんな悪い豪商が、賄賂で、町奉行や幕閣と結びつく。

 大胆なストーリーの作品だが、作者の腕で、リアリティーがたっぷり。まさに一気に読ませる。

『筆は剣よりも強し』
 そうはいっても、現代のジャーナリズムにおいて、政財界の大物の恥部、悪行、賄賂などを大胆にすっぱ抜けない。
 特ダネ競争も最近ではさしてなく、記者会見の発表がそのままメディアによって伝えられる。そんな物足りなさが、江戸ジャーナリズムの正義の「筆さばき」によってうっ憤を吹き飛ばしてくれる。

 ともかく、作者の上手さで、作品の底割れがしない。一体どうなるのか、と読みだしたら、止められない。

 時代は、田村意次の賄賂がまかり通る、江戸中期である。田沼は最近の歴史で見直される傾向にある。
 この作品では、田沼=悪、という紋切型ではない。

 豪商たちの悪事が、贈収賄で、すっーと闇のかなたに消えてしまう。このミステリー性が強く、謎解きが楽しめるのだ。

 大手ジャーナリズムの瓦版屋は豪商の言いなり。現代と重ねあわせると、大手メディアのジャーナリストたちには悪いけれども、ちょっと重ねあわせてしまう。

 むろん、どこまでも時代小説の世界だ。豪商による記者会見までも出てくる。そして書き手(かわら版ジャーナリスト)が、市中で発表通り記事にして売る。この時代だから許されるのか、袖の下、裏の金をもらう。

 主人公は『闇の悪刷(あくす)り』の7人だ。悪刷とはなにか。「必殺仕掛け人」のような裏稼業で、のさばる悪人を痛快にも退治してくれる役だ。このスポンサーは廃れた屋敷に住む、妙に得体のしれない旗本だ。正義の味方だから、実態がつかめなくとも、実在感がある。


 若き娘が辱められて死に至る。江戸庶民は大手瓦版ジャーナリズムの紋切り型の記事に愛想をつかしはじめていく。突然現れる、裏稼業ジャーナリストたちが真実をばらす。活躍する。庶民は当然ながら、事実に近い本ものの記事を買い求める。

 豪商とつるむ江戸大手ジャーナリズムと、『闇の悪刷り』の戦いだ。単なる対立ではない。江戸時代の刑罰は江戸払いか、100叩きか、斬首・獄門か、遠島のみだ。現代のように懲役刑はない。まさに、双方がいのちを賭けている。悪も善も、当然ながら、知恵を使い、どんでん返しの連続である。

 作者は一流の時代小説作家だから、悪の豪商や奉行側からの視点で、手の内の一端も折々に見せてくれる。実にうまい呼吸だ。


 登場人物が多くても、読み手には負担にはならない。むしろ、個々のキャラクターがユニークだから、存分に楽しめ。そのうえ、文体が落語調に似た切れが良いから軽妙なタッチだ。愉快にもなり、あるいは深刻にもなり、ともかく先が知りたくなる、江戸ミステリーで、ぐいぐい引き込まれてしまう。
 

 これ以上の作品紹介は、ネタバレになってしまう。作者の飯島一次さんに悪いから、この程度に止めておこう。
 正月のTV・新聞・雑誌も多種多様だが、この時代小説を手元において読みはじめたら、間違いなくラストの真実は突き止めたいと、止められなくなるだろう。


【関連情報】

作品 :  かわらばんやごんべえ ふでさばき
瓦版屋権兵衛「筆さばき」(抜かずの剣)

著者 : 飯島一次

出版社: ㈱コスミック出版

定価 : 630円+税

穂高健一講演『知られざる幕末史』=朝日カルチャー・千葉で、12月17日13:00~

 「1000年続いた封建社会から、わずか4年で、近代社会の中央集権制度に切りかえた有能な人物はだれか」
 もし、これが高校・大学入試に出たら、皆さんはどう解答するだろう。

 吉田松陰、高杉晋作、坂本龍馬、中岡慎太郎などは明治まえに死す。
 西郷隆盛は新政府として、外国から借金し設備投資をする「外債発行」の知識など皆無だ。つまり、戦争男の西郷は、財政・金融論などまったく上の空だ。

 大久保利通は薩摩藩・島津家に遠慮し、版籍奉還・廃藩置県など、びくびくして国元の島津久光公にはとても切りだせなかった。1000年続いた武士社会を滅亡させる提案者でもなければ、そこまでの知恵はなかった。


 朝日カルチャーセンター千葉の主催で、12月17日(土曜)の13:00~15:00に、第3回目の『知られざる幕末史』が開催されます。今回のテーマは、「明治政府が行った歴史を再興する」です。

 「会員2916円。一般3348円」。

 武家社会は平安時代の平家、源氏の台頭から、約1000年もつづいた。それが江戸幕府の崩壊、明治政府樹立で、わずか4年で、武士と封建制度そのものが消えた。

 この4年間という超最短の社会革命は、世界史の上でも稀有である。

 歴史的な大変革は、突然変異で起こらない。かならずや、変革・革命の予兆や底流がある。それでは、だれが、いつ、どのように仕掛けて、それを成したのか。

 通説の幕末史では、解き明かせない。それを朝日カルチャーセンター千葉の講演で、語ります。


 薩長土肥の4藩が、なぜ260諸藩の全借金を引き受けられたのか。どのように返済していったのか。膨大な借金国が、なぜ、近代化の設備投資が短期にできたのか。その金はいったい誰が、どのように調達してきたのか。

 幕末・明治の歴史小説と言えば、たいがい戊辰戦争で終わってしまう。

 文学部・史学部卒の方々は、経済の専門知識に疎(うと)いのがつねだ。学者・歴史小説家は文学部卒が多く、「政治は経済で動く」という側面には弱い。しっかり理解できないから、「解らないものは書けない」という考え方で、避けて通る。
 
 戊辰戦争の後は、廃藩置県、征韓論、西南戦争など、上滑りの言葉で年表的に書いているていどだ。年表からでは、真の歴史は学べない。


                           ☆

 きのうまで、わらじを履(は)く人が靴になり、着物をきて帯刀を差していた武士がわずか4-5年間で消えて、洋服になり、丁髷も消え、帯刀もなくなる。
 260藩の藩主だったお殿さまがいっせいに消えた。

 呼び名も、薩摩藩→鹿児島県、長州藩→山口県、肥後藩→熊本県、土佐藩→高知県、会津藩→福島県と、殆どの藩の名まえが4年間で消えた。

 高かった代金の飛脚が消えて日本全国一律の安い切手で、郵便物を運んでくれる。駕籠(かご)が消え、蒸気機関車になった。木造の建物が洋館建、レンガ造りになった。かがり火・行燈がガス灯になった。


 電信も発達した。きょうの今日にも、電文が世界中とやり取りできる。寺小屋はなくなり、義務教育制度となった。全国の津々浦々にまで、小学校をつくり、だれもが一律に勉強できた。さらに、新聞が発行される。


 新政府は、江戸幕府のお金である大判・小判「両」「朱」の流通を禁止した。と同時に、各藩が発行する「藩札」も回収された。
 通貨はすべて『円』『銭』単位に変えた。新政府のお金しか使えない社会にしてしまった。つまり、貨幣革命・経済革命でもあった。だれが、この知恵を持っていたのだろうか。

 明治時代という、社会の大規模な革命は、経済知識がないと理解できない。維新革命の本質がわかれば、現代社会にも役立つ。

 たとえば、現在、日本国債は1000兆円を超えた。これをいつだれが、どのように支払っていくのか。その参考になるのが、明治維新の経済政策だ。


 明治政府は、外国からの借金(外債)を続けていった。一方で、武士階級をなくし、家禄を6年間に限り支払って、あとはすべて切り捨てた。現代流にいえば、地方公務員(武士)を全部いちど解雇した。そして6年間分の給料を国債で渡した。

 必要最小限度の公務員がいる。新政府は優秀な人材優先主義で、2-3割ていど雇用した。あとは切り捨てだ。乱暴と思われるが、大胆な切り捨てで、全負債を約10年間で支払いを終えたのだ。


 負債がなくなれば、身軽くなる。税収入が有効に使える。良好な財政・金融となった明治政府は、それをばねにして、こんどは「富国強兵」の軍備拡張へとむかう。武器・軍艦などへの投資を強めた。
 明治20年頃には、良し悪しは別にして、強い経済力で、戦力・軍備はまさに西欧諸国並みになった。アジア随一となった。

                           ☆

 幕末小説が好きな読者の多くは、ペリー提督来航から始まり、戊辰戦争までの範囲内で、武勇・武勲の人物に酔っている。鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争の江戸城開城、彰義隊との戦い、会津戦争ばかりが持てはやされる。

「戊辰戦争にしろ、ただ(無給)で戦争できない。兵士だって毎日三度の食事をする。銃を撃てば、その数だけは経費がかかる。天から弾は降ってこない。だれかが膨大な金集めをしなければならない」
 幕末史ものをいくら数多く読んでも、戦争経費の実態を知らなければ、「膨大な戦費が降りかかっても、それでも、徳川幕府を倒すのだ」という本質を知りえない。

 江戸城が開城する以前には、明治天皇の「五箇条の御誓文」が出た。広く会議を起こし……、と身分制度を廃止する四民平等のスタートだった。

 德川将軍は血筋によって決まっていた。四民平等とはなにか。平たくいえば、「極貧農家の子、乞食でも、有能なれば、内閣総理大臣になれる社会である」という身分制度がなくなった社会だ。
 当時のアメリカ大統領のリンカーンは、貧農の育ちだった。その考え方に類似する。事実、極貧の農民の倅・伊藤博文が初代内閣総理大臣になる。


 箱館戦争が終わる前には、版籍奉還が推進された。版とは領地である。籍とは戸籍と同じ人民である。それを各大名が朝廷に返納したのだ。

 ところが、薩摩藩の大久保利通にしろ、西郷隆盛にしろ、倒幕の目的がしっかり理解ができていなかった。ただ、倒幕に突っ走った。まさか武士社会がなくなるとは、大久保も、西郷も、微塵(みじん)も想定していなかったのだ。

 だから、版籍奉還、廃藩置県に対して、ごねまくった島津久光公の首に鈴がつけられず、十二分な説明もつかず、「島津がいつ天下の将軍になれるのか」という問いに対しても、おろおろモタモタしていた。
 これが西南戦争への大きな要因のひとつとなった。

 江戸幕府の討幕後の政策(ポリシー)とビジョンは、なんだったのか。現代人でも、これがほとんどが解らずして、薩長とか、会津とか、慶喜の恭順とか、そこで興味と思慮が止まっている。
 つまり、倒幕目的を知らずして、「戦争ごっこ」を興味本位で愉しんでいるのだ。それに類する歴史本やテレビに陶酔しているのが実態だ。

                      ☆
 
 もう一度、質問しよう。「御一新」と呼ばれた、大革命を仕掛けた張本人は、だれだったのか。
 政治的に統一国家を目指し、経済は「富国強兵」を目標とし、社会制度として封建の大名や武士を大胆にも切り捨てる、という大仕掛けに挑んだ。
「だから、かれはその目的遂行のためには、どうしても倒幕を必要としていたのか」とわかりやすく、平たく説明していきます。それが今回の朝日カルチャーセンター千葉の講演の趣旨です。

【関連情報】

 朝日カルチャーセンター千葉 

 〒260-0013
 千葉市中央区中央1-11-1 千葉中央ツインタワー1号館5階

 ☎ 043-227-0131
 

恩師・伊藤桂一さんを悼む=出会い、戦争文学を学び、非戦文学の道へ

 私の人生の転機は伊藤桂一先生との出会いである。先月末、先生は99歳で死去された。死の床には、同人誌「グループ桂」への寄稿の「詩」が用意されていたと聞く。

 先生の死を悼みながら、想いはまず出会いだった。もっと前の、なぜ小説の道に進んだか、そこまで、私はさかのぼってみた。

 28歳のとき、大病(腎臓結核)で長期療養を余儀なくされた。腎臓はふたつある。手術で腎臓を摘除すれば、わりに早く治る。そのうえ、病後の再発リスクも少ない。

「あなたは登山をなされている。一つを摘除し、残る一つの腎臓が登山中に破損すれば、即座に死になります。薬をつかって治療(化学治療)で治すとなると、数年、もしくは10年にも及ぶ。どちらを選びますか」
 と医師に選択肢をもとめられた。
「薬で治します」
「10年くらい、薬を飲み続ける。つまり、10年間は通院の覚悟が要りますよ」
「だいじょうぶです。通います。治癒したら、山には登りたいですから」
「そうなさい。実は病院に来たり、来なかったりする患者には、この治療(化学治療)は勧められないのです。なぜならば、結核菌は強い細菌で、かつ薬に対して耐性をもつ。そのうえ、結核菌はからだのどこにでも付着するんです。人体のどこで再発するかわからないリスクがありますからね」

 次女が産まれた翌日から、私の長い入院生活がはじまった。さらには自宅療養がはじまった。性格的には、さして病気は怖れないし、むしろ楽しむように中国古典を読んでいた。前穂高の岩場と大雪渓の間で滑落したとか、雪山の滑落で捜索隊を出されたとか、「これで死ぬのか」という死の瞬間の想いは、20代だけでも、2度も体験していた。
 それに比べると、薬さえ飲んでいれば、治るのだ。悲壮感など微塵もなかった。

 ただ、病床で分厚い古典本を読むとなると、腕には負担となり、朝夕つづけて読むのには疲れてしまう。
「寝ながら、なにかできることはないかな」
 と思慮した。


 小説ならば、寝て考えて、起きたときに、それを書けばいい。そんな安易な動機で、予備知識もなく、小説まがいの作品を書いてみた。
 時間はたっぷりあるが、はたしてこれが小説なのか、という不安がつきまとった。
「だれか教えてくれる人はいないかな」
 経済学部卒だし、そんな想いが長く続いていた。

 腎臓結核が回復途上なのに、膀胱腫瘍が発見されて開腹手術になった。さらには、無呼吸症候群という寝ながらにして呼吸が止まる厄介な病気にも陥った。(大腸腫瘍の手術も)。
 働くよりも、闘病生活で寝ている方が多い。病気の宝庫のような、ありがたくないからだだった。
「あなたは医者運が良いわね。どれ一つとっても、死んでもおかしくないのに」
 親戚筋から、そんな声が聞えてくる。
 妻への負担は、一言ふたことでは表現できないものだ。
「父親の病院見舞いなど、ぜったいに行くものか。本を読むか。原稿を書いているだけだ。あんなの病人じゃない」
 子どもはそっぽを向いていた。

 どの病気の合間か、忘れたが、電車のなかで隣の人が夕刊フジを見ていた。そこに『講談社フェーマススクール』で、「小説講座募集」と広告が載せられていた。
 下車し、迷わず買ってかえった。応募者には数枚の原稿が科せられていたと思う。
 電話で問い合わせると、「伊藤桂一教室は純文学です」、「山村正夫教室はエンター(当時は、中間小説)です」という答えがあった。
 私は迷わず伊藤桂一教室を選んだ。教室に通いはじめると、「あなたは純文学じゃないわよ。ストーリーテラーよ。山村教室に変わったら。そうしたら、世に出るのは早いわよ」と、何人からも、何度も言われた。
 現に、山村教室からは、宮部みゆきさん、篠田節子さん、新津きよみさん、と次々に文学賞をとり、プロ作家へとすすんでいく。
 純文学の伊藤教室は、鳴かず飛ばずで、8年間で『講談社フェーマススクール』は閉じてしまった。


 その後、伊藤桂一先生の好意で、同人誌「グループ桂」が立ち上がった。巻頭には、伊藤桂一先生の詩が掲載されている。先生自身も強い愛着を示されて、毎号、欠かさずに、詩を寄稿されていた。私のほうは、プロ作家になって同人誌活動はしていない。それに比べると、伊藤先生はすごいな、と思う。


 朝日新聞の「天声人語」(11月3日・文化の日)に、伊藤先生に関連する記事が掲載されていた。


 これを読みながら、私は先生の影響を強く受けているのだな、と思った。そこに、「グループ桂」の追悼文の依頼があった。文字数が限定されているので、上記の出会いなど書けなかった。そこでいま執筆する歴史小説に関連して書いて寄稿した。
 それを全文、ここに掲載します。

【伊藤桂一先生・追悼文】

『最近の私は、歴史小説の執筆に傾倒し、それをひと前で話す機会が多くなってきた。戦争は起こしたらおしまいだ、起こさせないことだ、と熱ぽく語る。今や、それが人生のテーマにもなっている。

「江戸時代の260年間は、日本は海外戦争をしなかった。しかし、明治から10年に一度は、海外で戦争する国家になった。広島・長崎の原爆投下まで、77年間も軍事国家だった。いまだに、日本人は戦争好きな民族だと思われている。だれが、こんな国家にしたのか」

 私たちは原爆の被爆者だ、核廃絶だと叫んでも、それは真珠湾攻撃からの戦争問題になってしまう。もっとさかのぼり、幕末の戊辰戦争までいかないと、根源はみえてこない、と広島育ちの私が語る。なぜ、こうも非戦にこだわるのか、と自分でも不思議に思っていた。

 伊藤桂一先生の死去の悲しみに接したとき、そうか40年間にわたり、恩師の影響をごく自然に受けていたのか、と理解できた。

 文学をめざした頃、私は伊藤桂一・小説教室に通いはじめた。先生は直木賞作品『蛍の河』など、自作の戦記物などを取り上げ、作品づくりや文章作法を懇切丁寧に教えてくださった。と同時に、作品批評も鋭くなさっていた。それから長い歳月が経つ。
 数年前、伊藤先生と最後の顔合わせとなった、ある懇親会(日本ペンクラブ)の場で、
「君の歴史ものは、下手だったよな」と、にたっと笑われた。

(なぜ、下手だったのか)
 習作当時の私は、武勇、武勲の武士や尊王攘夷の志士などを書いていた。そこには戦いや戦争を憎む姿勢がなかったと思う。先生はきっとそれを遠回しに指摘されたのだ。
 それが今にしてわかった。』

                             了

第100回 元気100エッセイ教室 = 距離感について

 学校で作文を学んだから、エッセイや小説が書ける、と勘違いしている人が多い。それは錯覚だ、と言い切っても良いだろう。

 学校教育では、「日記を書きなさい」「作文を書きなさい」という指導である。
 教師自身は、エッセイや小説という叙述文学の創作技術をもっていない。名作を読ませて感想文を書かせるていどだ。

 プロ野球を観戦させたからといって、高度な野球がプレーできるはずがない。名作を読ませたからといって、エッセイや小説が書けるわけではない。
 顔見知りに義理で読んでもらい、お世辞でごまかされて、有頂天になっても、創作の基本がないと、いずれとん挫してしまう。

 ちなみに冠婚葬祭で、定型文の類似を書いたうえで、参列者のまえで読めば、まわりは涙するだろう。しかしながら、当事者をまったく知らない赤の他人が、後日、それを読まされても、白けて、涙ひとつながさない。およそ感動、感慨とは無縁だ。


では、「作文」と「エッセイ」の最大のちがいはなにか。一言でいえば、距離感の保ち方だ。自己を描くだけの作文には、距離感はほとんど必要ない。
 距離を取って書く。それは「もうひとりの私」が、実際の「私」の経験や体験を観察し、文章で克明に描くことである。独りよがり。それを排除し、見知らぬ他人でも読めるように「自分を突き放して書く」につきる。
 この距離が十二分に取れていれば、いかなる読者の心にもひびく。感動して涙すらながす。

 学校教育では、この距離感の取り方が教えられていない。1作、2作、まぐれで感動作品が書けても、創作技法がなければ、継続などできない。


 もう一段すすめて、エッセイと「私小説」のちがいとはなにか。
 小説の場合は、主人公「私」という人物にたいして、作者(作家)が生き方の思想・哲学を抽入することである。おおくは他人から得がたい哲学(価値)をちょうだいし、主人公「私」の生き方(ストーリー)に反映させていく。
 完全なフィクションでも成立するのが、「私小説」というジャンルである。


 エッセイも私小説も、評価において、『人間って、そういうところがあるよな』という基準は同一である。


 こんかいで「元気100エッセイ教室」における100回の学びは完了します。叙述文学の創作技法を学ぶにおいて、エキス、コツなどを展開してきました。

 文学、芸術、音楽などはつねに高いところに挑戦です。この100回の学びは、くり返されることで、力量が高く上っていきます。くりかえし、基本の確認、継続が大切です。

 1~100回まで、創作技法があらゆる角度から、展開しています。エッセイ教室としてきましたが、小説講座としても、十二分に技量アップに役立ちます。


今後の利用方法


 この「穂高健一ワールド」トップ画面にある【サイト内検索】に、用語を入れると、10秒ぐらいで出てきます。

 たとえば、「距離感」と書きこんで、クリックすれば、この100回が現れます。

第99回 元気に100エッセイ教室=ビジネス・エッセイ

 エッセイを随筆の延長線上で書くのが一般的です。作者の記録的要素で後世に体験を残していくことも、重要な役目だといえます。


 企業戦士として活躍した時代がある。その一面を抽出し、そこに喜怒哀楽の情感を交え、読ませる作品に仕立てていく。この場合は当然ながら、ビジネス用語が必然となってきます。
 随筆の場合はむしろ曖昧で複雑な感情を狙うものです。しかし、ビジネスの展開となると、曖昧な用語は避けて、できるだけ的確な語彙の使い方が求められます。

戦略と戦術の違いはなにか

 作戦の大小ではありません。戦略とは敵の作戦を先読みしていく計画です。戦術とは戦う技術の選択です。
 ここらをしっかり押さえておく必要があります。


危機と危険はちがう

 危機とはシステムが思うように動かなくなって起きる混乱です。危険とは予測・予知ができず、わが身にふりかかってくるものです。


権力と権威はちがう

 権力とは奪うもので、その座で威張っているひとたちです。権威とは自らの手でつくりあげ、相手が敬うものです。


公平と平等のちがいは?

 公平はそれぞれの価値を正しく評価することです。平等は横一列に並べることです。


マイホームとマイハウスはちがう

 新築の家を買ったが、支払い困難で夫婦げんかが絶えない。マイハウスは買ったが、マイホームはできなかった。こんなふうな認識が必要です。


同情と思いやりのちがい

 同情とは可哀そうだと、上から目線の優越感です。思いやりとは相手の立場で考える行為です。


利口な人と、賢い人はちがう

 利巧とは要領がよく、立ち回りが上手で処世術にたけているひとです。賢い人は学歴、年齢、男女、地位に関係なく、人の道をわきまえた判断と行動ができるひとです。


※ 企業エッセイの場合は、人間の観察の目をしっかりもてば、素材は豊富です。

 できもしない非現実的な対策や戦略をぶち上げて
「だから、わが社は問題なんだ」
 という目立ちたがり屋も多いでしょう。居酒屋をのぞけば、もう右も左も、そんな連中かも知れません。


 陰で、能力がある人を誹謗する。そんな陰湿な社員もきっと記憶にあるでしょう。

 精神的に傷つくのを恐れて上司にはへつらい、下に威張る。チヤホヤされる相手を優遇する自己愛(ナルシズム)社員は結構いるはずです。

 こうした企業内(公務員も含む)の人間模様を書いてみると良いでしょう……。


【補足】
 小林剛「経営センスを磨く本」「ザ・リーダー」から、引用しています。
 小林氏は、私が30代のころ、ビジネス用語の使い分けが大切だと言い、ながく厳しく指導してくださった恩師の一人です。

講演会「燃える山脈」秘話に、500人の聴衆=安曇野市

 国民の祝日「山の日」が2014年5月に成立した。山の日はたんに登山の日ではない。日本人が山の恩恵に感謝する日にしよう。そして、歴史と文化を掘り起こそう、という趣旨の下に、『燃える山脈』を執筆した。

 「山の日」記念出版の講演として、『穂高健一講演会』が安曇野市で、2016年7月2日(土)に、安曇野市で開催された。

 

 2014年5月に、超党派「山の日」制定議員連盟(会長・谷垣禎一さん)により、衆参両議員で可決成立した。
 同議員連盟の事務局長で衆議院議員・長野選出の務台俊介さん(写真・左端)から、「山の日」にふさわしい歴史と文化にかかわる小説を書いてください、と依頼があった。

 大飢饉がつづいた天保・天明の厳しい時代に、それでもたくましく生きる農村の人々を描く歴史小説にきめた。

 取材をかさねてきた1年4か月後、10月1日から、市民タイムスで新聞連載がはじまった。挿絵は地元画家・中村石淨さん。237回にわたり5月31日をもって終了した。

 翌6月3日に、山と溪谷社から単行本で発売された。発売同日に、売り切れが続出し、その日のうちに増刷りがきまった。


 このたびの「山の日」出版記念講演会は、市民タイムス主催である。同社の新保力社長(写真・中央・右から3番目)が冒頭にあいさつされた。


 
 後援となった安曇野市を代表して、宮澤宗弘市長(写真:中央)も駆けつけて、挨拶してくださった。

 講演会の開催にむけて尽力してくださったのは、市民タイム編集関係者、安曇野市議会議員の宮澤豊次さん(右から2番目)、取材協力者の方々である。



 会場の安曇野市公会堂ホールは、約500人の聴衆だった。(市民タイムス発表)


 「燃える山脈」は、『拾ケ堰』、『飛州新道』、『槍ヶ岳登山』の三つの要素を組込んでいる。プロ作家として作品が3つに割れない工夫をした。つまり、構成にはずいぶん配慮した、と述べた。

 わたしは広島県の島出身で造船しか知らず、農業はまったく無知だった。そのうえ、信州・飛彈の生活感や土地勘もなく、旧村名は現代地図に記載がなく、そのあたりの苦労談を語った。


 安曇野市の聴講者が多い。子供のころから農業を見聞している。わたしは農業を知らない作者だ。さこで「人間を描く純文学の手法で、歴史小説を書きました」と、事例をあげながら、説明した。

 純文学とはなにか。「人間って、こういうところがあるよな」、「男と女は、異性を意識すれば、こんなふうに気持ちが変わるよな」、と本音を書くもの。それを作品のずいしょに織り交ぜていく。

 歴史小説といえば、一般に歴史年表を中心として、為政者の移り変わり、潮目の変化を追っていく。「もえる山脈」は年表でなく、農民の目線で書いた。その面では稀有な歴史作品だと思う。


 女性が興味を持つ、女性が読みやすく、女性にも説得力がある作品を心がけた。この面から、文体はやさしく、作中の女性比率を高めた。


「穂高健一」がどんな作家だろうか。聴衆はきっと知りたいだろう。

 わたしが永年にこだわってきた純文学作品の一部を披露した。死刑囚と向き合ってきた拘置所の副所長の話し、根室海峡の密漁船の漁船員の話しを語った。

 歴史小説との出会いは、龍馬ブームの時に、雑誌社からの依頼で連載をはじめたときからである。しかし、坂本龍馬を取材をするうちに、後世の作家が書くような、正義感に満ちた人物ではなかった。

「史実はときに嘘をつく」、「後世に書かれたものはとかく嘘が多い」。ここらは坂本龍馬の話しをもって説明した。きっと、わかりやすかったと思う。


 最後に、純文学・歴史作家のわたしは、「拾ケ堰」が梓川(あずさがわ)の底下にトンネルをつくる(サイホン方式)にこだわった経緯を述べた。
 小説だから、学者と違い、推量・推察はある。だが、作家は想像力は武器だから、河川工学の専門家の取材を通した上で、いまから200年前にサイホンが作られた、と結論づけた。

「拾ケ堰」は世界かんがい設備文化遺産に、2度ノミネートされている。小説とは言え、私の作品が多少なりとも、文化遺産認定に寄与できれば、と結んだ。

 講演後も、多くの方がサイン本の購入に列をなしてくださった。作家としてうれしい限りで、感謝でいっぱいだった。

写真:滝アヤ


【関連情報】

安曇野市議会議員 宮沢豊次(とよつぐ)さんHPにも、取り上げられています。

講演会『拾ケ堰と燃える山脈』の秘話=7月2日、先着500人(安曇野市)

 「穂高健一・講演会」が、7月2日に、開催される。場所は安曇野市豊科公民館・ホール。先着500人である。山岳歴史小説「燃える山脈」の新聞連載をおこなってくれた市民タイムスが主催し、後援は安曇野市、安曇野市教育委員会(予定)である。

 
 5月31日の新聞連載後、山と溪谷社から単行本が6月3日に、全国で販売された。即日に、売り切れて、6月17日に、二刷が発行された。

 8月11日「山の日」にむけて、松本・長野の人気が全国に広がっていくだろう、と期待している。


「講演内容」としては、歴史的事実と、フィクション小説との違いや類似性を語りたい。資料・史料は各地に点と点で存在する。その資料(史料)100%の枠組みのなかで、掘り下げていくのが学術書である。

 それを羅列(られつ)しただけでは小説にならない。歴史小説は、虚構で遊ぶ時代小説とはこれまたちがう。

 執筆に取りかかるまえの第一ステップは、徹底的に資料を掘りさげ、取材を積み重ね、より事実を知ることである。
 そのうえで、点と点を面にするのが、歴史小説家のしごとである。

 面にするためには作者の想像力が必要である。「想像力」、「記憶力」、「好奇心」、この三本柱は小説家の必要条件である。

 歴史小説は、おおむね8割が史実で、2割が想像の世界。この比率が最もバランスが取れているし、この2割が小説の魅力だともいわれている。


 私は瀬戸内の島出身で造船業の町で生まれ育った。農業は知らない。北アルプスは数十回登ったが、下山後に、安曇野市の町を歩いた経験などない。だから、現地の生活体験など皆無だ。信州・飛騨200年前の村名は、現在の地図において、ほとんど残されていない。

 高山市も今回の取材で初めて出むいた。

 何も知らない私が、すべてが取材のみで書き上げた作品である。文献まで取材だとすれば、100%が現地情報から組み立てた作品である。

「史料は時に嘘をつく」
「後世に書かれたものは、とかく嘘が多い」
 小説家むけの格言がある。だから、一つの事象に対して、裏付け、裏を取る作業を丹念にくり返す。これは必要不可欠な作業だ。

 検証して、私自身が納得できない資料はおもいきって切捨ててしまう。裁判でいう、証拠の不採用だ。歴史小説も証拠の採用か、不採用か、そのくり返しである。


「燃える山脈」は一つのテーマ「山の恩恵」の下で、「拾ケ堰」と「飛州新道」と「槍ヶ岳登山」それぞれが巨大な川の流れのように、時代と歴史をつくっていく物語である。

「小説は人間を描くこと」である。私には、これを文学作品にする、という強い意識がはたらきつづけていた。
 歴史年表で書くのではなく、、登場人物を一人ひとりたんねんに立ち上げてから、採用した資料・史料と密接に結びつけ、ストーリーを推し進めている。

 どのページの、どの人物も魅力的に克明に描かれている、という要素を最も重要視した。会話文からも、生命感が満ちあふれて、感動・共感を生みだす。1行とも、おろそかにしない真摯な執筆態度に徹してきた。

  歴史作家が100%に近いほど現地を知らずして、いかに小説を生みだすことができるのか。安曇野の講演会では、この『取材ノート』を披露しようと考えている。むろん、取材するほどに、信州と飛騨が好きになっていく過程をも語りたい。


 
 

第98回 元気に100エッセイ教室 = 結末について 

 作品の三大要素と言えば、

 ①テーマ

 ②書き出し

 ③結末である。

「テーマは絞り込む」、「書き出しは動きのある描写文」、「結末は読み終わって、拍手したくなる」。

①、②は作品を書き出す前の準備段階から、計算できる。また、そうすべきである。ただ、③結末となると、読んでみないと、良し悪しはわからない。

 作品が最後の争いとなると、結末勝負となる。それは読後感、余韻、全体の受け皿など、多種の要素がからむからである。

拙劣な結末」ならば、かんたんに列記できる。

 単なる幕引きはダメだし、締め括りの作者の説明だと失望する。

 落ちをつけると、小細工が目立ち、邪道になりやすい。まして、作中でも言ったことを二度出しすれば、息切れした作品におもえてしまう。


良い結末」にも、それなりの技法がある。

① まだこの続きがある、と思わせる終わり方にする。それには、最後の五分の一くらいは思いきりよく棄ててしまう。それが余韻になる。

② 作品のテーマを最後の1―3行で書き表す。作者が最も言いたかったことがこれか、と理解される。

③ 題名を結末のセンテンスで入れてみる。だから、この題名だったのか、と説得力が出でくる。

④ 書き出しの文章と、結末の文章を入れ替えてみる。双方がリンクしていれば、強い印象に結びつく。

⑤ ラスト一行は、「 」会話文で終わらず、短いセンテンスの地の文にする。

⑥ 予想もしていなかった、目新しい意外性で着地させる。作品が光る。

⑦ 作者があえて自分の心を観察する心理描写にする。読後感が強まる


 体操競技では、着地がぴたり決まる。それが妙技の演技になる。
 おなじことがエッセイの結末にも言える。「巧いな」と言わしめれば、それは作品全体をしっかり受け止めたよい結末である。

 ①~⑦を組み合わせると、それに近づけられる

第93回 元気に100エッセイ教室 = テーマの絞り込みについて

「この作品のテーマは何ですか」
 そう質問すると、作者が着想を語ったり、素材を語ったり、あらすじを語りったりする。テーマとは何か、それ自体がわかっていないからである。

「これは受けるはずだ」
 作者がそう思い込み、書きはじめても、テーマが決まっていないと、しだいに話がまとまらず、収集がつかなくなり、あげくの果てには頓挫してしまう。
 あるいは登場人物が多すぎたり、話が飛んでしまったり、脱線したり、無駄なものまで書き込んでしまう。

 結果として、エピソードは興味深いが、何を言いたかったのか、よく解らない作品になる。作者の頭のなかでは良品でも、アイデア倒れの作品になる。


(例)「この店舗は立地が良いが、従業員は不潔な身だしなみだ」(着想)

 勤め帰りの私は、駅前の惣菜屋に立ち寄った。餃子を買った。店員の白衣が汚れているから、手や指先までも汚く見える。他の客もきっと同じ気持ちだろう。こんな従業員はやめさせられないのかしら。……作文調であり、テーマは何か、読者にはわからない。

(例)「知人の展覧会はよかった。エッセイに書こう」(着想)

 電話で友人を誘うと、当日はヒマだという。最寄駅で待ち合わせをしてから、展覧会の会場に入る。割に混んでいた。知人の風景画は素晴らしいと、友人とお茶しながら感動を共有した。……単に、絵画鑑賞の流れにすぎない。


テーマ」とはなにか。作者が言いたいことを、一言で言い表せるものである

「口論もない夫婦には愛がない」

「一途な想いほど、結婚後は失望へと変わる」

「老夫婦は過去の憎しみまでも流せる」


ポイント

 テーマが決まれば、それを最後の一行にする気持ちで、書いていけば、良い作品が生まれます。
 
 斬新なテーマほど、読者を惹きつけます。