第100回 元気100エッセイ教室 = 距離感について
学校で作文を学んだから、エッセイや小説が書ける、と勘違いしている人が多い。それは錯覚だ、と言い切っても良いだろう。
学校教育では、「日記を書きなさい」「作文を書きなさい」という指導である。
教師自身は、エッセイや小説という叙述文学の創作技術をもっていない。名作を読ませて感想文を書かせるていどだ。
プロ野球を観戦させたからといって、高度な野球がプレーできるはずがない。名作を読ませたからといって、エッセイや小説が書けるわけではない。
顔見知りに義理で読んでもらい、お世辞でごまかされて、有頂天になっても、創作の基本がないと、いずれとん挫してしまう。
ちなみに冠婚葬祭で、定型文の類似を書いたうえで、参列者のまえで読めば、まわりは涙するだろう。しかしながら、当事者をまったく知らない赤の他人が、後日、それを読まされても、白けて、涙ひとつながさない。およそ感動、感慨とは無縁だ。
では、「作文」と「エッセイ」の最大のちがいはなにか。一言でいえば、距離感の保ち方だ。自己を描くだけの作文には、距離感はほとんど必要ない。
距離を取って書く。それは「もうひとりの私」が、実際の「私」の経験や体験を観察し、文章で克明に描くことである。独りよがり。それを排除し、見知らぬ他人でも読めるように「自分を突き放して書く」につきる。
この距離が十二分に取れていれば、いかなる読者の心にもひびく。感動して涙すらながす。
学校教育では、この距離感の取り方が教えられていない。1作、2作、まぐれで感動作品が書けても、創作技法がなければ、継続などできない。
もう一段すすめて、エッセイと「私小説」のちがいとはなにか。
小説の場合は、主人公「私」という人物にたいして、作者(作家)が生き方の思想・哲学を抽入することである。おおくは他人から得がたい哲学(価値)をちょうだいし、主人公「私」の生き方(ストーリー)に反映させていく。
完全なフィクションでも成立するのが、「私小説」というジャンルである。
エッセイも私小説も、評価において、『人間って、そういうところがあるよな』という基準は同一である。
こんかいで「元気100エッセイ教室」における100回の学びは完了します。叙述文学の創作技法を学ぶにおいて、エキス、コツなどを展開してきました。
文学、芸術、音楽などはつねに高いところに挑戦です。この100回の学びは、くり返されることで、力量が高く上っていきます。くりかえし、基本の確認、継続が大切です。
1~100回まで、創作技法があらゆる角度から、展開しています。エッセイ教室としてきましたが、小説講座としても、十二分に技量アップに役立ちます。
『今後の利用方法』
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