【推薦図書】桜奉行(幕末奈良を再生した男・川路聖謨)=出久根達郎
川路聖謨、まず読み方から入ろう。「かわじ としあきら」。出久根氏は「桜奉行」の作品の入口から、むずかしい名まえだと、川路・当人があかしている、と紹介している。
話がいきなり、作品紹介からそれてしまうが、現代においても、とくに女児の名まえに当て字が多くて、難解だ。少女が大人になり、口頭で名まえを説明するときはきっと苦労するだろうな、とおもう。小学・中学の先生方もまちがいなく難儀だろう。
「桜奉行」を読みながら、そうか、江戸時代にもどっているのか、ともおもえた。
奈良奉行、佐渡奉行時代の川路は、じつにヒューマニティーに富んだ人物だ。貧しい家に生まれ育ち、勘定奉行のトップまで、一つずつていねいに登ってきた人物だから、ひとの心が読めるのだな、と理解できる。
ひとの痛みがわかる人物が主人公の小説は、随所で、堪能できるものだ。
川路日記「寧府紀事」(ねいふきじ)から描いた小説で、人物は実在で、造形やフィクションではない。できごとや事件、そして手紙のやり取りや日記交換による家族愛も、記述から展開なされいるので、実像に近いはずだ。
むろん、川路の人柄は、作者・出久根氏の想いも、おのずと反映されてくる。そこは学者と作家の違い、学術書と小説の違い。だから、小説は作者の個性がたのしめる。
お奉行は警察権と裁判権をもつ。行政と司法のトップだ。かんたんに言えば、犯人をみつけて、捕まえて、白州で取り調べて、お裁きするのだ。そして、刑を執行する。
現代でも、法律用語となるとかなりむずかしい。作者・出久根氏は、江戸時代の奉行所システムで、ちょっとでも難解な用語がでると、巧みに解説をいれている。さらさら読める工夫がなされている。「私、歴史は苦手」という方が、その説明をすーとながしても、文脈はくるってこない。そこはまさに超プロ作家の職人芸だ。
むつかしい事象・事柄をやさしく言う。書き手にとってはたいへんな作業だったとおもう。歴史好きには知識欲を刺激してくれる。
現代でも、犯罪ものは小説、TVドラマで人気がある。
奈良奉行の川路聖謨が8月8日にお忍びで、町に出ていく。奉行所を抜けだす方法も、手が巧妙に入り組んでいる。そして、川路が犯罪者との接点で、みずから捜査する。
もしも隠れ奉行の身元が、犯罪者たちに発覚したら、どうなるのか。危うさが連続し、ハラハラ・ドキドキ感で、一気に読ませる。
犯行との接点で、かつて川路聖謨がつとめた佐渡奉行の回顧が展開されている。赴任するときのエピソードなども面白い。江戸時代には手漕ぎ船を使って、荒波の日本海をこの方法で渡ったのか、と知ることができる。
佐渡奉行所(相川)に着任早々、川路には待っていた未処理の大事件がある。それは佐渡全島を巻き込んだ大規模な佐渡農民一揆だ。発端は奉行所ぐるみの腐敗だった。すでに江戸勘定奉行所から出張した留役(調査官)が取り調べた大規模なもの。
川路は、引きついだ大勢の直接部下たちを裁く、罪を問う、解雇する、という負の任務からスタートだ。片や、農民の首謀者たちも罰する。善人の軽微な農民、冤罪容疑者には温情のある上手いお裁きをする。ここらも、おもいきり引き込まれてしまう。
読むうちに、ごく自然に、天保10年(1839年)5月に起きた蛮社の獄(ばんしゃのごく)が解説なされている。言論弾圧事件で高野長英、渡辺崋山が犠牲になった。天保の大事件で、日本史では避けて通れない。
多くの読者は、これら人物や事件名などはうすら、漠然と記憶にあるていどだろう。
川路はひとつまちがえば、大事件の思想犯の罪びとになった可能性すらある。なにしろ仲間は著名で優秀である。川路はどのような接点と交流をもっていたのか、と説きあかしてくれている。
歴史の教養が身についたような、ずいぶん得した気分にもさせられてくる。
出久根文学の最大の魅力は、単なる史実の展開だけでなく、料理、桜の種類、天皇の御陵、鹿の生態、マムシの捕獲方法、奈良の町の魅力など、筆をはこんでいる。そこらも楽しく読ませてくれる。切れ味がよく、飽きがなく、展開が速い。だから、作品に吸い込まれる。
怖さが存分に満ちているのが、『極刑』だ。死刑執行の種類とその微細が巧い筆さばきで描かれている。そのなかで、囚人にたいする奈良奉行・川路聖謨の心の痛みがしっかり組み込まれている。
歴代の法務大臣で、死刑執行の印を捺さなかった方がいる。川路は逃げるに逃げられない立場だ。わが子を亡くした心重いときの執行だから、読み手もきつい。だから、「人間とはなにか」と、出久根文学は問うているのだ。
犯罪者への心配りの川路聖謨の人物像は、出久根氏が作中でとくに描きたかった一つだろう。
わたしは昨年の2月に奈良・京都を歩いてみたが、この「桜奉行」が手元にあれば、濃い歴史散策ができただろうな、とおもう。
人間愛、家族愛に満ちた小説は、読後感がとても良いものだ。
【関連情報】
桜奉行ー幕末奈良を再生した男・川路聖謨ー
作者 : 出久根達郎
発行 : 図書出版 養徳社
定価 : 1800円+税
発行 : 平成28年11月26日