A020-小説家

第96 元気100エッセイ教室 = 観察力と文章スケッチ 

 エッセイにしろ、小説にしろ、読者が作品を楽しむのは、文字を読みながら、自身の脳内スクリーンに映像化して、ストーリーを追っていく行為である。作者の腕が良ければ、文字と映像変換が容易にできる作品に仕上げられる。
 そのためにはどうすればよいか。登場する人や物にたいして観察の優れた文章を心がけることである。借り物の文章、手あかのついた表現などは論外である。

  絵画の世界では、スケッチ力の弱い作品は印象が弱い。文章も、まったくおなじである。作者が頭のなかで考えた説明文では、作品が平面的で、立ち上がってこない。
「できごとは解ったけれど、なにが書きたかったの」 と退屈な作品になってしまう。


『キッチンで食事した』。
 この表現では、読者は自宅の台所しかわからない。テーブル、椅子、流し台、炊飯器、鍋、洗剤、調味料など、多種多様なものがおかれた、自宅の台所だ。

 作者がイメージした台所の空間とは、かなり違ったずれがある。
 作中で「台所」「キッチン」ならば、読者はさほど混乱しない。しかし、屋外に出ると、スケッチの差異が作品力のちがいになる。

『川のそばに、カップルがいた』
 一級河川もあれば、小川もあれば、谷川もある。
 年齢はさまざまである。夫婦か、恋人どうしか。腕を組んでいるのか。散策か、デートのさなかか。情景も書かれておらず、読者任せにすると、読み手の負担になってくる。
 途中で、読むのが嫌にもなってくる。

 とくに長編小説などは、文字だけで、読者の脳裏に情景を浮かベてもらう。次へ次へと導いていく。読者が感情移入し、追いかけたくなるには、具体的な観察力のある文章の連続性が必須である。


『若い女性の顔はそれぞれに違う。老婆になれば同じ』
 この格言は、作品の描写力の優劣を端的に表している。

 18歳の女子大生ならば、体つき、肌、黒髪、表情、癖、趣向なども異なった描き方ができる。細かな描写でも、読者を引き込める。人物がはつらつと立ち上がり、若さにも勢いが加わり、読者にたいしてビジュアルな語りかけもしてくれる。

 彼女が60歳を過ぎれば、白髪の人だけで通過できる。埼玉の女子大生、それだけだと、読者は納得してくれない。細かな観察とは、作品の若さである。

  
 観察力を磨く。実際に現物をみて文字化しなければ、観察力は高まらない。電車の乗客でもよい、昔の友の写真でもよい、対象の特徴をノートに細かくていねいに描き、ため込む。

 毎回、「メガネをかけた女性」とは書かないはずである。多少は特徴を変えていくようになる。新たな表現の発見がある。それが作者自身の言葉であり、重要である。創作中に、それを使えばよいのだ。
「こういう見方、表現方法もあるのか。光る文章だ」
 とまわりから高い評価が得られる。


 反面、作者がよく知っている物や人ほど、描き方が疎かになる。

 『夫』、『妻』と書かれても、顔も、性格も、感情も、年齢もわからない。読者は戸惑うばかり。せいぜい、じぶんの伴侶を想像するていどである。
 エッセイ作品においても、主力の登場人物には二つ、三つくらいは、ていねいに特徴や癖などを添えると、作品が活き活きとうごきだしてくる。

 叙述ばかりだと、ストーリーが運ばない。それでも、初稿では多めに文字化する。作者=庭師になった気持ちで、最初は大きく刈り込む。2稿、3稿……、としだいに緻密に文を削っていく。
 私たちが文豪とよぶ作家は、どんな長編でも一文字もおろそかにせず、なんども吟味している。そして、名作を生みだしてきた。

 まずは「項目別の観察スケッチ帳」づくりからはじめて、歳月をかけ、蓄積していくのがコツである。

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