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東京マラソン・ゼッケンナンバー【27237】

 東京がひとつになる日『TOKY MARATHON 2009』が、3月22日(日)おこなわれる。9時10分に東京都庁をスタートする。
 私のエントリーはフルマラソン42.195キロだ。ナンバー(ゼッケン)は、【27237】と決まった。目標は4時間前後においている。

 
 大会当日のコンディションがよければ、4時間を1分でも切りたい。抽選が7倍強で、当たった、出場チャンスだ。それだけに、大会当日はやる気持ちを抑え、タイムよりも、ゴールを目指し、完走に力点をおきたい。

 過去2回の取材インタビューで、ランナーたちは広々した東京の道路で、名所をじっくり見られる、というコメントが多かった。一方で、私も楽しむマラソンを心がけたい。

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傷ついた鹿と格闘した、都会人=こぼれ話

 PJニュース編集部の小田編集長を含めた、6人のメンバーと27日に早稲田大学正門前「ママキムチ」で会合があった。吉川編集者が同日から掲載された、『田舎暮らしごっこ』の記事はとてもおもしろい、と話題として持ちだした。

 道志村(山梨県)の山間に築100年以上の一軒家がある。それを借りた、ユニークな田舎暮らしのグループ『神地倶楽部』(かんちくらぶ)のメンバーが、「自分流の田舎暮らし」をおこなっている。約10人。かれらは道志の村人とも仲良くなり、畑の耕作についても知恵を貰い、開墾している。

 囲炉裏の側で、数々の体験談を聞いたなかに、こぼれ話がある。メンバーの一人が「猟師の銃弾で傷ついた鹿と格闘した」と語った。
 記事は、事実だからといっても、すべてを書けない。都会人の中年男が角のある野生の鹿と死闘を演じた。貴重な体験だが、記事に盛り込んでも、血なまぐさい話だし、証拠写真はないし、読者には本当かな、と疑われてしまう。

 ニュースにはならなかった事実。こぼれ話として、ここで再現してみたい。親しくなった村人の猟師が鹿撃ちに連れて行ってくれたという。冬場の鹿は里に下りてくるが、禁猟区で銃は使えない。山の奥に入った。1時間半ほど経ったころ、鹿に遭遇したのだ。


 漁師が狙いを定めて撃った。銃声とともに、一頭の鹿が倒れた。北垣英俊さんは、それで死んだものだと思い、歩み寄った。突如として、血を流す鹿が立ち上がってきた。
 北垣さんと鹿は向かい合った。傷ついた鹿だから、危険だ。「どうすべきか」と思いながらも、とっさに両手で角をつかんだ。相手は野生動物だ。

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原作者・新津きよみさんが、フジTV系・連続ドラマ「トライアングル」を語る

 毎火曜の夜10時からフジ系列で、連続テレビドラマ『トライアングル』が放映されている。原作者は、人気推理小説作家の新津きよみさん。関西テレビ(大阪本社)が開局50周年記念のために、依頼した、書き下ろし作品である。

 日本ペンクラブ2月例会が2月16日、東京會館でおこなわれた。同会場で、新津きよみさんに、「原作者として、TVドラマ『トライアングル』をどう見て、どう感じているか」と直撃インタビューしてみた。広報委員会委員の鈴木悦子さんも質問に加わった。井出勉・事務局長代理も興味ぶかく聞いていた

穂高 「ちまでは評判の良い連続テレビドラマで、私の知り合いは家族全員で観ていますよ。いまは何回くらいまで進んでいるの?」
新津 「あしたの火曜日夜で、七編(話)です」
穂高 「何回くらい連続する予定なの?」

新津 「さあ? TV局から台本は貰っていないし、知らされてないの。『トライアングル』HPには未定と書かれているし、判らないわ。私が書いた原作はエピソード(事件)は6、7編(話)で消化されて、終っているけど……。その先は脚本家のオリジナルだから、どうなのかしら…?」
鈴木 「TVの連続ものは、ワンクールがだいたい10回か、11回なんですよ。だから、その辺りじゃないかしら」

 作家の手から原作(作品)が離れると、TV局と脚本家との打ち合わせで進められ、原作者にはフィードバックはないようだ。
             
            鈴木悦子さん(左) 新津きよみさん(中) 井出勉さん(右)

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早乙女貢さん・お別れ会の夜

 直木賞作家・早乙女貢(さおとめ みつぐ)さんが、昨年末に死去した。早乙女さんは親戚筋が皆無なので、密葬は「士魂の会」メンバー8人でおこなわれていた。「お別れ会」が2月4日、18時から東京会館(東京・丸の内)9階の大広間で開催された。主催は日本ペンクラブ。参列者は会場一杯で、推定500人くらい。実に大勢で、早乙女さんの人柄が偲ばれる。

 生前親しかった佐藤陽子さんがバイオリンを2曲奏でた。会場に物悲しく流れた。

 日本ペンクラブ阿刀田会長が、「お別れのことば」を述べた。当クラブが2000人の会員という大きな団体になれたのは、早乙女さんの貢献が大である。阿刀田さん自身も早乙女さんの推薦を受けて入会したという。「ペン会員の10分の1は、早乙女さんの推薦ではないでしょうか」と述べた。

 日本文藝家協会を代表して伊藤桂一さん。1955年のころ「泉の会」に所属し、伊藤桂一さん、尾崎秀樹さんらと同人誌「小説会議」を創刊した仲間である。その後も長い付き合いだった。早乙女さんは無宗教だったが、「私は寺の息子であり、けさは般若心経を唱えてきました」と明かす。
 早乙女さんが『会津士魂』で吉川英治文学賞を受賞した。選者のひとり伊藤さんは、その作品とともに、作家魂を高く評価した。

 菅家(かんけ)一郎・会津市長は、「戊辰戦争から140年目に、早乙女さんが亡くなられた」と歴史的な流れから述べた。会津は官軍からは朝敵にされた。早乙女さんが会津藩の武士魂を世に知らしめてくれた。「早乙女さんは会津の誇りです」と結んだ。

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「走るぞ」。気合を入れたら、強い雨風だった。

 東京マラソンまで、残すところ2ヶ月を切っている。大会を視野に入れると、ロング走やスピードなどに練習不足がある。そこに焦りを覚えてしまう。

 急激な練習量アップは、からだに大きな負担を与える。故障の原因になりやすい。それが怖い。両膝と、左右の踵(かかと)が鬼門だ。過去には足を痛めて、階段の上り下りなど、一歩ずつ顔をしかめるほど激痛に襲われたことがある。そうなると、短期間には回復せず、東京マラソンの出場すら危ぶまれる。

 練習不足のまま大会当日を迎えたら、これも悲しい結果になる。
 1月30日と31日は、『走るぞ』と気合を入れた。取材など予定はいっさい入れなかった。ところが皮肉なもので、30日朝から、低気圧の通過で、東京は強い雨風となった。「何で、こんな日に雨なんだよ」と天を恨む。1日のなかで雲の切れ間がないか、と期待してみたが、虚しかった。

 他方で、これだけ強い風雨ならば、天気予報以上に低気圧の通り抜けは早そうだ、と想定した。
 31日の午前中も雨脚が強かったが、午後になると、想定通り、小雨になってきた。「走りはじめて身体が温まれば、多少の雨は問題ない」と、ジョギングの身支度をはじめた。膝の安全を保つために、シューズは底の厚いものを選ぶ。

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遠方より友来る。葛飾・立石は安価で、人情味ある飲み屋がひしめく。

「東京下町の情緒100景」が完了したのは、昨年の桜が咲くころだった。葛飾・立石を中心とした。堀切菖蒲園とか、柴又とか、浅草とか、メジャーなところは外し、素朴な面ばかり。それでも、いまだに読者がついている。

 先般も葛飾区教育委員会で、『かつしか区民大学』の発足について話を聞く機会があった。主事が一通り読んでおり、「葛飾にも、いろいろな面があると再認識させられました」という。それには驚かされた。素朴な情景も100景となると、厚みがあるようだ。


 葛飾・立石には町工場、家内工業、商店が集中する。下町の中心地のひとつ。仕事が引けると、工員、店員たちは帰り路で飲み屋にちょっと立ち寄る。長居はしない。飲み屋の多くが一人1000円台で呑める。庶民の町の飲み屋街なのだ。

 最近は親しい方に、「葛飾・立石は下町情緒たっぷりで、昭和が残っている街ですよ」とアナウンスしている。その上で、1000円台で飲める店が豊富にある、とも語る。
 大学時代の学友は随分気に入り、年に数回は葛飾立石に集ってくる。かつてITコンサルタントの肥田野正輝さん、旧友の関根稔さん、古関雅仁さんもやってきた。

 1月27日は、二上薆さん(エッセイ教室・受講生)と、松本道湛’さん(いまや写真家)が来てくれた。2人はともに元日本鋼管の先輩・後輩だという。(写真左:松本道湛’さん、右:二上薆さん)

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犯罪的な取材行為は、「取材の自由」ではない=オピニオン

 奈良県田原本町で、06年6月20日に、16歳の少年が自宅に火を放ち、3人を焼死させた事件が発生した。
 奈良地方裁判所は少年の行動に疑問を持ち、精神鑑定を行った。担当したのが精神科医の崎濱盛三(もりみつ、53、写真)さんで、放火した少年は広汎性(こうはんせい)発達障害をもつと診断した。


 草薙(くさなぎ)厚子著『僕はパパを殺すことに決めた』(講談社)が世に出た。そこには警察や検察の供述調書が多数引用されていた。情報源として、崎濱さんがジャーナリスト、講談社に供述調書などを洩らしたとして逮捕された。そして、秘密漏洩罪に問われて起訴された。

 昨年6月13日、日本ペンクラブと(社)自由人権協会の共催で、大手町サンケイプラザで、『言論が危ない』のフォーラムが開催された。鑑定医の崎濱盛三さんが対談形式で、吉岡忍さんの質問に応えて真実の一端を明かした。

「少年は殺人者ではなかった。それを世に伝えてもらいたくて、ジャーナリストに警察や検察の供述調書などをみせました。このときの約束事は、『見せるだけです、コピーはダメです、供述調書の直接引用はしない』というものでした」と打ち明けた。

「私は外出するので、草薙厚子さん、講談社の記者、カメラマンなど関係者4人に住まいの鍵を預けました。その間に、調書や鑑定書をデジカメで撮影したものです」と明らかにした。さらには、「出版前には、崎濱さんへの原稿の最終チェックさせてもらう、という約束も反故にされました」と語っている。

 同フォーラムが終了後、居酒屋で十数人が飲んだ。崎濱さんは一つ席が離れた場所に座り、吉岡忍さんや江川紹子さんらと語り合っていた。「誠実な人柄だな」、という印象を強く持った。

 今年1月27日付の朝日新聞によれば、14日の奈良地裁で、検察官の質問で、草薙さんは被告席の鑑定医の崎浜さんに謝罪し、取材源だったことをはじめて認めた、という。

 閉廷後、崎濱さんは「いまさら謝罪されたって、どうってことない」と冷淡に草薙さんを突き放している。「なんで、今ごろ(情報源)言うのかな。草薙さんや講談社に(調書)を見せたことを強く後悔している」と語った。

 奈良地検の検事は「草薙氏が取材源を明らかにしたことで、鑑定医の供述と一致し、立証は前進した」と話している。つまり、崎濱さんはなおいっそう窮地に陥れられたのだ。

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尾道の旅情と志賀直哉の旧邸を訪ねる

 1月13日の朝、夜明け前に尾道駅に立った。私は幼いころ父に連れられて尾道魚市場に何度もきたものだ。朝の薄暗い時間帯に、セリの声が響いていた。市場の一角で、温かい中華そばを食べさせてもらえた。魚介類の出汁だけに、たまらなく美味しかった。いま流行する尾道ラーメンのルーツかもしれない。


 駅付近で、魚市場の所在地を聞いてみた。だれもが首を傾げた。思い出深い魚市場は既になくなったようだ。

 尾道水道は向島との狭い水路で、フェリーボート、小型ボート、貨物船、漁船などのさまざまな船が行き交う。対岸の造船所では、大型の鋼船が建造されている。
 タワークレーンから夜明けの陽が昇ってきた。シルエットが水面に映る。船舶との陰影の組み合わせは情感豊かなものだった。

 魚市場がなくなった尾道港だが、海岸線は整備された、気持ちの良い散策道が続いた。右手には尾道城が見える。私が幼い頃にはなかった。(1964年に観光目的で築城)。

 尾道といえば千光寺だ。尾道水道と向島が一望できる、風光明媚なところ。両親に連れられて、千光寺の桜を観に来たものだ。桜がなくても、冬場でも、最上の景色だと知る。そちらに足を向けてみた。

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新年早々

 元旦は快晴だった。羽田発の広島行2便の旅客機から、眼下に白雪の富士山を見た。山頂の噴火口も鮮明にのぞけた。機内から、こうも間近に富士山を見下ろしたのは初めてだった。
 スチュワーデスがコーヒーを差し向けながら、「とても素晴らしい富士ですね」と声をかけてきた。彼女の笑顔の一言も、心をうるおす。09年早々の素晴らしい光景だ。

 一昨年12月には富士吉田側の一合目から、富士山・山頂を目指した。アクセスが悪く、なおかつ積雪をなでる強風で、七合目半で引き返してきた。そんな登攀の思い出がよみがえった。

 正月に、広島に帰省するのは数十年ぶりだ。大学生のころか、少なくとも24歳で結婚した頃まで遡らないと、記憶にはない。子どもが生まれてからは、年末年始の帰省ラッシュに、郷里の島に帰ってことはない。難儀して交通機関の指定券を取る。そんな苦労はムダだと考えていたから。

 3日前の、12月29日の夕刻、瀬戸内の島で一人暮らしする老母が倒れた。島から救急車で竹原市の病院に搬送されていた。30日は島の親戚筋、31日は私の妻と息子。そして、元旦には私が現地に向かった。
「横浜にいればよかったものを」
 私はつぶやいていた。

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「ヨタロウ会」の忘年会は、出版記念会を兼ねる?=神田

 小中陽太郎さん(日本ペンクラブ・理事)の支援者たちの集まりが「ヨタロウ会」だ。その忘年会が12月27日(土)夕刻6時半から、千代田区内神田の居酒屋『樽平』でおこなわれた。幹事は瀧澤陽子さん。
当初の予定(25人)を越え、出版関係者、作家、ライター、日本ペンクラブの幹部など約35人が集まった。

 小中さんは東大卒で、NHK(ディレクター)を解雇されたあと、市民活動や文筆に身を投じてきた。現在は大学教授。気さくで、笑顔の素敵な人である。今年11月20日に講談社から『小田実と歩いた世界』を発行した。「市民たちの青春 ベトナム戦争を止めようとした男」というサブタイトルがついている。
 
 べ平連代表だった小田実さんが、07年7月に死去した。小中陽太郎さんが「小田実さんの素顔を書き残したい」とペンを取ったものだ。

 同書に登場する、べ平連の関係者は多岐に渡っている。本の発売と同時に、ブログなどを通じた反響は大きいようだ。人それぞれ見方が違う、考え方も違う。当時の市民運動の捉え方も違っていたと思う。「絶賛する人もいれば、些細な事実の違いを大げさにいう人もいる」、と小中さんが挨拶のなかで、語っていた。

 同書を読んで感銘した人が、忘年会に駆けつけていた。版元の講談社・出版部長・三ッ間詳二さんも参加する。まさに出版記念会の雰囲気だった。とくに同書に登場した人たちは、1分間スピーチという時間制約を超え、それぞれがべ平連の思い出やエピソードを披露していた。

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