A020-小説家

芸州藩はなぜ幕末史から消えた?(2)=明治新政府から嫌われた理由

 広島、呉、竹原、御手洗と歩いてきて、私なりに幕末の芸州史観が生まれてきた。 芸州藩が真っ先に慶喜将軍に大政奉還を建白し、それが成就していたならば、倒幕の主導権の維持ができていたはずだ。
(西郷隆盛の暴走による)鳥羽伏見の戦いなどなく、約260年の徳川時代は無血革命だけで終わっていた可能性がある。世界史でも類を見ない、平和な政権移譲となっていただろう

 他方で、司馬遼太郎・史観にも疑問が深まってきた。
 司馬さんは、薩長同盟(軍事同盟ではなく、京の朝廷工作の協定)が結ばれたから、第二次長州征伐で幕府の敗戦を導いた。それが倒幕への道になったと展開している。
果たしてそうだろうか。
 司馬さんは薩摩びいき、西郷隆盛が好きな作家だ。薩摩の存在をより大きく見せたがる傾向がある。小説だからと言い、下関の出来事を長崎に置き換えたりもしている。

 司馬さんは、薩長同盟が勝敗を決したと主張しているが、それは薩摩の過大評価だと言い切れる。
 第二次長州征伐を決めた幕府に対して、薩摩は早ばやと不参戦を通告した。となると、幕府とすれば軍事立案の段階から、薩摩抜きは折込済みだ。ダメージはほとんどなかったはずだ。
 
「薩摩が抜けても、長州に勝てる」と幕府は確信を持ったから、1866(慶応2年)6月7日に長州攻撃を通告し、蒸気船の軍艦を宮島沖に集合させ、陸の幕府軍を広島に進めてきたのだ。

 幕府軍は戦略において思わぬことが起きたのだ。「さあ、出陣だ」というときに、長州と隣り合う、最前線基地の広島藩の家老・辻将曹(しょうそう)が、老中に不参戦を通告したのだ。
「そんなバカな」と老中は激怒した。

 武器弾薬、食料、水など供給基地の広島が「戦わない」となったのだから、これが徳川全軍の士気を削ぎ、決定的な大打撃となった。
 つまり、火ぶたを切る直前で戦いを止めた、芸州藩の戦線離脱が強烈なダメージになったのだ。結果として、長州が陥落せず、そのうち家茂将軍の死去という、長州側にラッキーな面が生じたのだ。

 司馬さんがいう、「薩長同盟で薩摩の不参戦を決めた、だから長州が勝利した」という見方は、あまりにも薩摩の過大評価。薩摩が途中からでも長州に軍隊を送っていれば別だけれど、それすらなかった。

 家茂将軍が死去したあと、辻将曹は広島県・宮島で幕府(代表・勝海舟)と長州(代表・廣澤)の和平協定を成功させた。
 辻は、もはや幕府の時代はここまで、と見越したのだ。積極的に働きかけて薩摩・長州・芸州の「薩長芸三藩同盟」を結び、倒幕への道筋を作った。

 辻の作戦としては、京の都に軍隊を出して武力で威嚇しながら、徳川慶喜将軍に大政奉還の建白書を出すと作戦だった。土佐藩も同調した。ところが、土佐藩の藩論がまとまらずモタモタしていた。
 坂本龍馬が芸州の蒸気船・震天丸で、長崎から土佐に1000丁のライフル銃を運んだ。土佐藩は意見がまとまらず、それを武力として京の都に送り出せずにいた。

 薩摩と長州のほうは武力倒幕を求めてくるが、芸州藩は「まだ待て」と両藩を抑え続けていたようだ。
 これが後世の歴史家から「芸州は日和見主義だ」とみなされ、芸州藩が幕末史から名を消されたゆえんの一つらしい。

 後藤象二郎が抜け駆けから単独で、徳川慶喜に大政奉還の建白書を出したのだ。芸州藩は後藤を憎みながらも、数日後に後追いで同建白書を出した。
 
 何事も2番手になれば、インパクトが弱い。
 薩摩・長州からは、「薩長芸三藩同盟」を結んでいながら、芸州藩は日和見で土佐藩(非武装・倒幕)に迎合したと、嫌われてしまったのだ。つまり、求心力を一気に失ってしまったのだ。

 明治新政府は薩摩人と長州人が中枢に座った。徹底して芸州藩を嫌い、芸州藩士を要職に就けさせず、幕末史から消してしまったのだ。


 写真説明:10代の少年・5人が第二次世界大戦で初めて特別攻撃隊として命を絶った。ここから神風特攻隊が生まれた。5人のうち1人が広島県・呉市の出身者である。

 徳川は血を流さず政権を返上した。それなのに、薩長の暴走で、鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争へと無益な戦いに突き進んだ。その驕りが明治政府の武力過信となり、富国強兵につながった。やがて大陸侵略への野心となり、日清戦争、日露戦争、第二次世界大戦へと進んでいった。

 もし大政奉還だけで、平和裏に徳川政権が終わっていたならば、77年後の少年たちの特攻隊の悲劇はなかっただろう。
 幕末・芸州藩を調べるほどに、そこに帰結してしまう。 

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