A020-小説家

ノーベル文学賞作家・高行健=国際ペン・東京大会の基調講演

 国際ペン・東京大会の開会式で、ノーベル文学賞作家の高行健さんが基調講演を行いました。講演の概略はすでにメディアで報道されてきました。
 日本ペンクラブの保存資料として「講演録」を書き上げました。全文を掲載いたします。亡命作家や国際ペンの活動など、皆さんのご理解が深まれば幸いと考えます。
                 (穂高健一は日本ペンクラブ広報委員会・委員)


 高行健さんは1940年に、中国・江西省に生まれました。62年に北京外国語学院フランス語学科を卒業し、書店、雑誌社に勤務しました。他方で、執筆活動をはじめました。
 ドイツ、フランスに渡り、90年に天安門事件を背景とした、劇作『逃亡』を発表しました。
 現在はフランスに亡命ちゅうです。中国語で創作した作家として、初めて2000年にノーベル文学賞を受賞しました。


              【基調講演・本文】


 高行健は冒頭にひとつの問題を提議した。
「文学は人類が直面している苦境を救うことができるのでしょうか。自然環境の悪化、環境汚染は加速し、深刻さを増しています。これに対して、作家は何ができるのでしょうか」
 作家は特別な地位も、権力もなく、特権もない。かくも弱い作家が神話やSFの力を借りずに、何ができるのか。
「地球のどこを探しても、汚染を受けていない土壌はないのです。人間は生存にかかわる問題に対して、文学は解決できないのです」

 作家は聖人君子でも、超人でもない。神でも、救世主でもない。文学は人間の苦境を描き、現代人の状況をありのままに描く。この状況をどのように認識するか。それが作家の仕事である。
「作家が政治にかかわれば、政治の飾り物になるか、政治闘争の犠牲になるか、どちらかです」
 作家はいかに利益を超越した、創作活動を堅持する。非常にむずかしい問題であるが、圧力や誘惑に抵抗し、精神の独立を維持するものである。
 20世紀はイデオロギーが氾濫する時代だった。

 共産主義から民族主義まで、さまざまな形のイデオロギーが次々に革命神話を作りだした。文学を利用して革命戦争を盛んに宣伝し、革命指導者を賛美し、革命政党のために賛歌をささげた。
「こうした作品は、いまや紙くずとなり、誰も読もうとしません」
 各地の共産主義国家はいま、西洋の資本主義国家よりも、熱狂的に金銭を追求している。空洞化したロジックの骨組みを残すだけとなった。

 文学は社会学ではない。作家は世界を変える能力などない。不完全な世界を描くのみ。人類に回帰し、人間性に回帰し、人間性の複雑さに回帰し、人間のありのままに回帰する。

 文学が向き合うのは具体的な生身の人間である。言いかえれば、人間の苦境に触れるものだ。作品が虚構でも、作家の実体験と感受性から生まれてくるものだ。
 人間生存の問題はかつて宗教にゆだねられてきた。キリスト教の聖書、仏教の経典、古代ギリシャの神話などは、現実的な功利から離れ、人間の精神の追求、内心の欲求を描いている。不可知な運命、人格化した神に名づけられた。

 現代では、これを不条理と呼ぶ。カフカが現代人の工業化社会をありのままに描いた。その後、この不条理はカミュとベケットによって、いっそう進んだ表現がなされた。

 文学に時代遅れなど関係ない。文学には進化の歴史もない。政治権力の交代にも影響されない。だから、作品を何度でも読み返すことができる。
 カフカの時代から現在まで1世紀が経過した。

 科学進歩は人間の生存の苦境を改善できなかった。生態系の環境の悪化、政治の喧噪、世界を覆いつくすメディア、氾濫する市場、広告、これらのものと向き合う人間はその無力さを増すばかりである。

 作家は聖人、賢人ではない。凡人と変わりがない。人間が持つさまざまな弱点、欠陥を同様に抱えている。虚無、喪失感、妄想、焦り、狂気、聡明、孤独、これらはいずれも自我の認知である。

 作家は不安定な自我を客観的に見つめる。そして文学を通して表現していく。現実的な功利から離れ、内心の求めによって書き進めていく。創作の過程は作家の内心を浄化するのにも役立つものである。

 現代では古いイデオロギーが崩壊してきた。これは悪いことではない。世界はもともと主義などなかったのだから。新しいイデオロギーをムリに作り、人々にふたたびタガをはめる必要はない。

 政治権力であれ、政府政党であれ、文学はそれらの命令に服従する必要はない。イデオロギーにも従わない。精神の独立は創作の必要条件である。
 作家は人間の苦境をそのままに描くもの。人間の奥深い部分に触れていれば、地域、国境を超越することができる。言語の違いを超えて、翻訳される。これは民族、文化を超えた普遍性を持つことになる。

 作家は国家公務員ではない。国家のために尽力する義務などない。反面、権力は文学芸術を制約する圧力としてやってくる。
 作家は、沈黙、もしくは逃亡せざるを得ない。やむなく流浪の身になった作家もいれば、自ら追放の身なった者もいる。

 20世紀以降はヨーロッパでも、アジアでも、多くの優秀な作家が国家を流浪し、創作活動をつづけている。特定の民族文化のアイデンティティを強調することは、作家にとってあまり意味がない。ジョイス、ヘミングウェー、ナボコフらは民族文学のアイデンティティを認めることもなく、世界文学の新しい経典を作り出した。

 文学に国境はない。文学作品にはパスポートなどない。古代から今日まで、文学作品は翻訳を通して全人間の精神的な財産となっている。情報交換が電波などで便利な時代に、民族伝統のなにかに、みずから閉じこめる必要はないのである。

 利益追求の資本さえも、グローバル化の時代で国境を問題にしていない。文学は政治権力や国家の束縛を受けず、天馬が空をゆくように、自由にあっちこっち行ったりできる。文学が本質的に備えている風格だといえる。

 時の政府によって大々的に編纂された歴史は、政権が変わるたびに書き直される。文学作品はいちど発表したならば、書き直しができない。つまり、作家は人間のために真実により近い、精神の歴史を提供している。

 文学には時代遅れがない。作家が知恵のかぎりを尽して、「その時、その場所で」、その人生の深い描写を行えば、作品は不朽のものになる。
 現代は、「主義」というものがない。主義がないのは思想がないからではない。作家は経験と観察と自分の感性で、作中の人物を作り上げている。自分の考えや思いを書き記す。主義のない文学は、文学の本質に合致し、人生と人間性の真実により近いものだといえる。

 人間の歴史上、未曾有の2度の世界大戦と、天地をくつがえす共産主義革命の災禍を経験してきた。そこには指導者に対する崇拝があった。いまは思想的な指導者のいない時代である。本来はそうあるべきものだ。

 作家は、指導者の教えに従う必要などない。自分の頭を持っているのだから。地に足をつけて、現代人の脱却が不可能な苦境をありのままに語ればよい。
 作家にとって最も重要なのは思想、表現の自由である。だれがこの自由を与えてくれるのか。それは作家本人である。作家自身が勝ち取るものである。

 現代は資本の利潤追求が無制限に蔓延し、だれも阻止することができない。物欲がはびこる、精神が貧困な時代となった。新興国家すらも西洋諸国が歩んできた、資本の蓄積、循環の道を進んでいる。

 経済危機と退廃に対しては、改善の兆しが見えない。だれも解決の答えが出せない。これでは人類になんら新しい希望を与えてくれない。
「人間性の貪欲さを指摘できるのは、おそらく文学だけです。陰うつな中世のイギリスにおいて、シェークスピアの演劇が生まれたように、人を困惑させる現代において、作家がいずれ光をもたらすでしょう。次の文芸復興はいつやってくるのでしょうか」と結んだ。

 (2010年9月29日、早稲田大学・大隈講堂)

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