A020-小説家

村上水軍を訪ねて。能島の潮流に生きる、漁師が語る(2)

 南北朝時代から戦国時代に活躍した、村上水軍は3家(来島、能島、因島)に別れている。この島を取り巻く海域は、帆船時代は瀬戸内海航路のなかでも最も重要なところだった。村上水軍は制海権を握り、陸上の毛利や小早川など大名と結びついていた。

 前期村上水軍の村上義弘(海賊総大将)は、鎌倉時代の後期に、能島(のしま)に居城を構えていた。後醍醐天皇の皇子で、九州大宰府に落ちた、護良親王(もりよししんのう)と結びついて、九州・四国、さらには関西まで戦いの手を伸ばし、百戦錬磨の勢いだった。彼には子供がいなかった。
 養子縁組などから、その後は3家に分かれている。(後期村上水軍)


 愛媛県・今治市からしまなみ海道を通って、「大島」の宮窪港に行ってみた。小春日和だった。
2キロほど沖合いに能島が浮かぶ。想像よりもはるかに小さな島だった。宮窪瀬戸は干潮と満潮は、とてつもなく激しい潮流を生む。大潮のときは約1mの段差ができる。時速が20キロの激流となる。島全体が天然の要害である。

 漁港の宮窪では、漁師の藤森さんが刺し網の漁網(長さ約800m)に『浮き』をつける作業をしていた。藤森さんから、興味深い話を聞くことができた。
 この付近の海域は厳しいが、それが却って豊富な魚場になっているという。.

 刺し網は、回遊する魚が網に入ると、三角巾に閉じ込められたように逃げられなくんなる。もがくほどに抜け出せなくなる仕掛けだ、と具体的に教えてくれた。
「イカ、タコ、サザエやアワビも、この網に掛かるよ」と、私を驚かせた。貝は夜行性であり、磯から磯に渡るとき、仕掛けた漁網に引っかかるという。

「夏場は、高級魚のアコウが獲れるから、稼ぎどきだよ。冬場は厳しい」と、寒風が身を切る情景を思うと、聞くほどに大変さが理解できる。
 11月の季節はホゴやカサゴが獲れるという。

 藤森さんは兄弟漁師だった。(夫婦もの漁師もいる)。昼間は沖合いに網を入れるために、漁船を出す。一人は船の舵を取り、一人は漁網を入れる。ひとたび漁港に戻ってくる。日没を過ぎると、網を引き揚げにいく。

 干潮と満潮の境目で、約30分間は潮流が止まる。この間に引き揚げるタイミングだという。メダカカレイなど40分ほどで引き揚げる。つまり、潮が動く10分間が厳しい勝負どころになる。

「大潮のときは、能島に近づかない。潮が早くて、網が藤壺に引っかかったりして、傷みやすいから。それに時間が食って、激流に巻き込まれるから」と話す。

 12月にはいると3月まで、マンガ漁が解禁になるという。海底を耕運機のように掘り起こす。かに、カレイ、えびを獲る。
 春になると、鯛(たい)網に代わる。その漁網は特殊で、水中に入ると、透明色の網(糸)が透明色になる。桜ダイなどは見えないらしい。

 宮窪瀬戸はかつて瀬戸貝が産物だった。男が潜水し、女が貝を開いて実を取り出す作業していた。関西方面に大量に出荷していた。焼いても、てんぷらにしても、美味しい。ところが、いまは乱獲で少なくなったという。

 藤森さんは工業高専(当時はエリート学生)を卒業し、数年間会社勤めしていた。その後は瀬戸内の島に帰り、漁師になったという。
「漁師になって、よかった。良い人生だよ」と微笑を浮かべていた。この宮窪の魚は激流に生きて身が締まっているから、おいしいよ、と付け加えていた。
 
 今回は駆け足だった。次回は同地の民宿にでも泊まり、宮窪瀬戸の魚を賞味してみたい。

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