A010-ジャーナリスト

司馬遼太郎の幕末史観はどこまで正しいのか?(1)

 幕末に活躍した坂本龍馬は、慶応3年に暗殺された。一度は歴史上から消えた人物である。明治半ば、皇太后の夢枕に立って、「日露戦争はわしが勝利させる」と龍馬が語ったという。それが新聞で報じられてから、第1回目の龍馬ブームが起きた。

 2度目は、昭和40年代に、司馬遼太郎「竜馬がいく」が産経新聞に連載されてから、大きなブームがきた。
 3度目は今年で、NHK大河ドラマ「龍馬伝」が大ヒットしている。

 龍馬は、受取った手紙をその場で破棄していた。とくに薩長同盟のあと2年間は、討幕への地下活動が活発になり、資料が少ない。史料や資料がなければ、作家の憶測、推測が入ってくる。龍馬の人物像は、作者によってずいぶん違っている。

 たとえば密議の場所として、龍馬は御手洗港(広島県・呉市)を利用している。(新谷道太郎・証言より)。どの手紙にも、一行も御手洗の明記がない。
幕府方に手紙が渡れば、重要な機密の場所が露呈してしまう。当然といえば当然である。

 8月19日(木)夜6時から1時間半、横浜国立大学OBの「二木会」で、私は講演を行なった。タイトルは『ほんとうの竜馬像』である。

「いま龍馬ブームで、司馬遼太郎「竜馬が行く」の作品が多くの人に読まれています。歴史的な事実だ、と考え人があまりにも多い。同書はあくまで小説です。虚実が入れ混じっています。司馬氏はあえて『竜』としています。これは実際の龍馬と違う、フィクション小説だ、という逃げ道を作ったからです」
 その辺りを取り上げて説明させてもらった。

「司馬氏は薩摩びいきで、西郷隆盛が好きな人です。西郷は武力派の色合いが強い人物でした。ところが、龍馬は大政奉還、という平和解決の考え方を持っていたのです。薩摩藩のなかでも、リベラル派は小松帯刀(家老)と大久保利通でしたから、そちらと意思の疎通がありました」

 西郷の武力行動を見てみると、禁門の変では、西郷はみずから薩摩軍を率いて、長州軍に大砲を打ち込んでいる。
 第一次長州征伐では戦いの参謀だった。(勝海舟に戦いを止められた)。
 第二次長州征伐は戦う気でいた。(大久保利通から反対された)。
 その後の鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争、征韓論(朝鮮に武力攻撃を主張)、西南戦争とつづく。
 西郷は常に武力行使を行なってきた人物だし、どうみても武力解決型である。

「司馬さんは、武力討幕の西郷と、龍馬とを強引に結び付けている。だから、展開にも史実と違う、かなりムリなところが出てくるのです」

 司馬氏が活躍した時代よりも、現代はネット社会で情報量が数段に勝ってきた。司馬氏は書籍資料の不足分を個人的な歴史観で押している。そこが奇妙なツジツマ合わせやほころびになってきていると、私は講演の中で語った。

 一つの事例をあげてみたい。長府藩(下関)の有能な人材・三吉慎蔵は、薩長同盟の陰の立役者のひとりである。龍馬と京都に向う。龍馬と2人して寺田屋事件に巻き込まれた。三吉はその事件を克明に書き残している。龍馬の生涯の友になった。

 ところが、司馬氏は槍の名人で、龍馬の用心棒として展開している。小説として面白くしたのか、それならば仮名にするべきである。長編執筆者として、三吉の実態まで調べる余裕がなかったのか。
 ネットで「三吉慎蔵」を検索すれば、司馬氏の三吉の見方は間違っている、と一目瞭然でわかる時代になってきたのだ。
 
「司馬氏は長崎が好きな作家でした。下関(長府藩)の出来事を長崎で起きたように展開している。「竜馬が行く」を読んだ人に、それを歴史的な事実だと誤解を与えてしまう。いくら小説でも、やるべきじゃない」【つづく】

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