寄稿・みんなの作品

【転載・詩】 車内で = 坂多 螢子

「孔雀船83号」より転載です。

孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船83号」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳


〒185-0031
東京都国分寺市富士本1-11-40
TEL&FAX 042(577)0738

車内で  縦書き

【坂多螢子さんの作品】

 坂多螢子詩集 『お母さんご飯が』 花神社版  頒価1000+税
   としよりかいるいものよ/明るい声でいう/あしたもどってくるからね     

 東京都千代田区猿楽町1-5-9-302
  

 


 車内で = 坂多 螢子 

人違いです
で終るはずが
嘘をついているだろう なぜ逃げる
顔がすっと近づいてきた
目のなかに豹変したとなりの男が座っている
出ていってようなんて気の弱いわたしはいえない
なぜ逃げるといわれたって
あんたはお尋ね者なのかい
くぐもった声が聞こえてくる
詐欺師だっけ
ひと殺しだっけ
ほら ほら
ひいひい爺さんの大叔母さんの
そのまたひいひい婆さんの
そこまでさかのぼらなくたって
人間ぐらい殺す わたしだって何回も殺された
血がぎゅっと濃くなる
とたんに力がわいてきて
豹変男を真っ正面からにらみつけてやった
それで
一件落着したしたけど
乗客はいつのまにかいなくなって
うすぐらい車内には
わたしそっくりな女がうすく立っている
豹変男はもっとうすくなっている
わたしと間違えられるといけませんから
こちらにきてかけませんか

【転載・詩】 ミセスエリザベスグリーンの庭に=淺山泰美

「孔雀船83号」より転載です。

孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船83号」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳


〒185-0031
東京都国分寺市富士本1-11-40
TEL&FAX 042(577)0738

ミセスエリザベスグリーンの庭に  縦書き


淺山泰美さんの作品

 淺山泰美エッセイ集 『京都銀月アパートの桜』 コールサック社 1428円+税
     京都がいきいきと目を覚ます このような才媛に声をかけられ(新川和江)
     東京都板橋区板橋2-63-4-509
  

 ミセスエリザベスグリーンの庭に=淺山泰美 


ミセスエリザベスグリーンの庭に
秋が来て
白いコスモスがたおやかに揺れ
飲む紅茶の種類も変わる
空には いちめんの羊雲

わかっているわ
虫たちは もうじき
枯れた草を分けて
遠い家に帰る
家路の果てを
ひととき 秋の夕陽が染めて
その先にあるのは
ほんとうの静けさだけ

長いあいだ
わたしは学びつづけた
一本の木のように
ただそこにあることを。
忘れられた泉のほとり
啼(な)いていた名も知らぬ小鳥
ふいに
もう 手放しなさいと
声がするまで

豊かな実りは いつも
何もないところへ還ってゆくの
答えなどはない ただ
人生に
何も求めない者だけが
幸せでいられる

蜻蛉が低く飛ぶ夕べ
エリザベスは 庭でひとり
虫の音を聴いている
虫たちは
枯れた草を分けて
生まれた家に帰る
どうぞ その扉に
鍵はかけないで。
無へと通じている
ふかみどりのドアに

 

【寄稿・写真エッセイ】 ピアノ = 久保田雅子

【作者紹介】

 久保田雅子さん:インテリア・デザイナー。長期にフランス滞在の経験があります。(作者のHPでは海外と日本のさまざまな対比を紹介)。
 周辺の社会問題にも目を向けた、幅広いエッセイを書いています。


「週末には葉山の夕日と富士山を狙っています」。その写真は毎月、ブログの巻頭・巻末で紹介されています。心の憩いになります。

作者のHP:歳時記 季節と暦の光と風・湘南の海から

作品『ピアノ』 PDFはこちらです


   ピアノ   久保田雅子    

          
 テレビで「ピアノ買います…」とコマーシャルしているのを見た。ふと、自分のピアノの事を思い出した。
小学5年生のとき、私の誕生日に突然、家にピアノが届いた。
 両親は私への誕生日プレゼントだというが、欲しかった覚えもないし、興味もなかった。もちろん弾けない。うれしそうなふりをして「ありがとう…」と言った。
 さっそく妹とふたりで、母の知り合いのピアノ教師の家へ通うことが決まった。
<バイエル>というつまらない教本で、個人レッスンがはじまった。
 妹は楽しそうに自宅へ戻ってからも練習を重ねていた。私はなにも練習をしないで、次のレッスン日に行く。先生は不機嫌で、私には苦痛な時間だった。2~3か月するとピアノ教師から母に、
「妹さんは良くできますが、お姉さんはお断りです」と連絡があった。
 母は不満そうだったが、私はほっとした。
 そのころ小学校では<スぺリオパイプ>という楽器(プラスチックの縦笛?)を、全員が買わされて音楽の時間に練習させられた。これも私はみんなと同じようには出来なかった。どうしてもちゃんと音がでない、指が動かない。
 私は指先が不器用で、音楽は苦手だと、子供心にしっかりと自覚した。
(ずっと後になって、私は左利きだったのを、母が小学校入学までに直した事が、右手が不器用の原因だとわかり少し納得した…)
 ピアノは妹のものになり練習に励んでいたが、妹が海外留学して家からいなくなると、誰も弾かないピアノが残った。

 やがて私が結婚するときに、
「あなたにあげたプレゼントよ」と母はピアノを持っていくように言った。
 狭い新婚の部屋を、ピアノがさらに狭くした。ピアノの上は物置になって、雑誌や洗濯物などが積み重なっておかれていた。
 それでも娘が生まれてちょうどよい年齢になると、早速ピアノを習わせた。
幸いなことに娘はいやがらずに練習に通った。発表会にはおしゃれなドレスで出演をかさね、家族を楽しませてくれた。

 だが、彼女が結婚するときに、
「ピアノは?」とたずねると、
「いらない」と言われた。
 実は娘もそれほど好きな事ではなかったのだと気付いた。
 また、だれも弾かないピアノが家に残った。
 ついに私はピアノを専門業者に頼んで処分した。

 いま思うにピアノは高度成長時、庶民の夢の象徴だった気がする。
 ピアノは女子のお稽古事では一番の人気だった。家にピアノがあることは、とてもすてきなことだったのだ。(私には大迷惑だったが…)
 いまの子供たちはピアノのお稽古をするのだろうか?
 現在ではもっと進んだ新しい楽器が人気なのかもしれない…。

 長い間一緒に過ごした私のピアノは、すでに外国に売られて、いまごろ誰かが弾いているのだと思うと少しほっとする。

【寄稿・写真エッセイ】 シニアライフはあかね色 = 乙川 満喜子

作者紹介・乙川満喜子さん : シニア大樂「写真エッセイ教室」の受講生
 

はじめに

  医学の発達や食生活の改善により、人の寿命は驚くほど大幅にのびた。

  それに並行して、家庭や社会にも膨大な医療費が発生したのである。誰しもが元気で長生きしたいものだ。

  快適なシニアライフを過ごしていく為のヒントを探してみた。


   シニアライフはあかね色   乙川 満喜子  


現代の古稀は

 古稀のお祝いは70歳だが、「現代の古稀は100歳に相当する」といわれている。現代では70歳まで生きるのは稀なことではないので、とても古稀とはいえない。 
 そうすると100歳を古稀とするならば70歳はいくつになるのか。
 それには大体7掛けが適当ではないかといわれている。すると70歳は49歳になるので、まだまだ壮年ということになる。古稀だからといって祝ったりしている場合ではないようだ。


                 『写真の人:見た目も若々しい86歳 シニアの趣味作品展で』


100歳は古来稀なり    →  100歳は「よく頑張った。さあこれからひと踏ん張り

90は奇とするに足る無  →  90は「まだ」九十だと心得る

80は大いに為す可し   →  80は学んだことを実践するの意

70は得ること多し     →  70はもっともっと勉強するの意


(中国の有名な篆刻家で詩人の沙孟海(さもうかい、1900~1992)が80歳の友人に送った詩  原田種成薯より)


長寿国になった背景は

 2012年の厚生労働省の調査で、日本人の平均寿命は女性が86.41歳、男性が79.94歳で世界一の長寿国を保っていることがわかった。
 ところが今から100年ほど前、欧米諸国が平均寿命50歳台を上回った頃は、日本人はわずか30歳台だった。日本はまぎれもなく短命国だったのだ。
「人生50年」が現実となるのは昭和22年のことだったという。長寿国世界一になった背景には、医学の発達とともに、動物性食品による栄養状態の改善、穀類中心から動物性食品を併せて摂る食生活移行などがあったと記されている。

 今後は寿命の長さだけではなく、質の向上が重要と考えられる。
 誰しもが、心身共に元気で寿命を全うできる生き方を考えなければいけない。それには、頭を使う、食生活を考える、運動を意識し、生き生きと自立した生活をすることが大切である。
 日常生活で頭を使い楽しく過ごす
 そうは言っても老いは少しずつやってくる。ただ老いぼれていくだけと、あきらめの心境は私の性に合わない。多少難があっても、これからの人生、未知との遭遇を面白く楽しく過ごしてやろうと思う。だが、特別なことは何もしない。


物忘れ防止で逆発想

 たとえば、出かける前には電気関係や、ガスの消し忘れ防止の為に、玄関の内側ドアにしっかりメモを貼ってある。だがそれらは無用の長物になっていて、外出したあとで気が付き「あっしまった」と思うことがある。
 そこで、忘れることを前提にして考えることにした。電気製品は使い終わったら必ずコンセントを抜く。それが節電や漏電防止にもなる。電子レンジも洗濯機もパソコンの周辺機器も、寝る前にはテレビのコンセントも外す。
 さすがに、冷蔵庫だけは抜くわけにはいかない。残念だ。


キッチンに立つときは           

 生きていく上で、食べる事は欠かせない。したがって、台所仕事を再検討してみることにした。料理は段取りだ。
 献立を考える→材料の買い出し→下準備→手順→熱いとおいしい料理、冷たいほうがおいしい料理がある。だったらいつ火にかけて下すのか、それだけでも頭を使う。
 時には冷蔵庫に入っているものだけで作る。自然に創作料理ができて、美味しくいただけたときは何か得した気分になる。食材がなければないで工夫していく、それが楽しみだ。
 イメージ力を膨らませて工夫するのは脳トレに効果的という。
 料理はこうでなければいけません、というルールはないはずだ。煮物に緑を入れたいな、キヌサヤでも使おうか、とか、カレーライスのご飯にパセリで彩りを…など、食器はこっちの方がカッコイイかな、とか見た目にもこだわってみる。
 年齢を重ねれば重ねるほど、食事は大切だと思う。
 皮むきにピーラーを使わない。野菜のみじん切り器も使わない。それらは、確かに便利だが、手に慣れた道具に勝るものなし、と信じる。
 賞味期限を整理の判断にしない。冷蔵庫の無い時代に生きてきた人間だから、匂いをかげば傷んでいるかどうかわかる。
 それだけで判別できなくても口に入れればすぐわかる。自分の五感を信じる。過去には一度も食中毒にはならなかった。
 但し若い世代には通じないようで、わが子とのバトルは続く。消費・賞味期限に惑わされることなかれ。それが理解できていない。


情報機器を使えば世界は広がる 

 タブレットやスマートフォン・パソコン・携帯など、病気になった時、外出や移動が難しくなった時でも、これらがあれば世界はぐんと広がる。
 必要な情報を集める。音楽を聴く。メールや声で会話ができる。買い物もできる。私たち高齢者に多少の不便が生じても、こんなに楽しく自由に生きていけるのだ。


笑い

 笑顔はその人にとって一番素敵な顔だ。45歳以上になると、顔の表情はその人自身の責任といわれている。もはや親の遺伝ではない。ならば、もっと早く気が付けばよかったが、これからでも遅くはないと自分に言い聞かせる。
 なにしろ「笑い」は医療にも取り入れられており、大きな成果を果たしているという。笑うと脳の配線が変わり、不安の神経回路に血液が流れないそうだ。
 難しいことはわからないが、確かに声を出して笑うとストレスもどこかへ行ってしまう。笑いジワは許すとして、顔の表情筋を鍛えよう。
「シニア大楽」でも、日本笑い学会の藤井敬三氏が講師で普及活動をしており、各地で高い評価を得ている。

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【寄稿・写真エッセイ】  Hi Beatles, = 野本 浩一

◆ はじめに ◆ 

 2013年6月にロンドンへ旅行した。家内にひとつだけ頼み込んだことがあった。それはかねてからの念願だったビートルズ発祥の地、リバプールへ行くことである。
 ロンドンでは天気にも恵まれ、事故も無く順調に過ぎた。6月16日、待ちに待ったリバプール行きの日がやって来た。わたしはその日聖地の空気を思い切り吸った。


 
1.Hi Beatles,

 わたしが中学校に入ったのは、東京オリンピックが開催された1964年である。その年から愛唱し続けてきたビートルズの曲は、憂鬱になったり落込んだりした時、たたみかけてくるビートと張り裂ける声が醸し出すハーモニーで元気づけてくれた。
 彼らに合せて一緒に歌うと気持ちは高揚した。一曲一曲が英語のリズム感を体得する上での何よりの教材だった。
 メンバー4人の顔と名前、生年月日から始まり生き様までを、新聞・雑誌で読んだりラジオ・テレビで視聴してきた。レコードだけでなく関連する書籍も買い続けた。だから、リバプールに着いた時、“Hi Beatles, thanks a lot.”と挨拶しながら駅ホームに降り立った。


2.リバプール

1)Please Mister Policeman
 ロンドンからリバプールまでは列車で2時間程だ。往復の切符以外は、出たとこ勝負の旅だった。すぐに見つかると思った観光案内会社を探しあぐねて、リバプール・ライム・ストリート駅近くの交番に飛び込んだ。運よく陽気な警察官が近くのホテルから出る2時間コースのツアーがある、と教えてくれた。
 甘えついでに、「ビートルズが演奏したクラブや関連グッズの店があるマシュー・ストリートに行きたいのです。Please Mister Policeman 教えて」と頼んだ。
「よし、パトカー(バン)で連れて行こう」と手厚い英国式『おもてなし』を受けた。車中では一緒にビートルズを歌って楽しんだが、下車する時は焦ってしまった。まるで犯罪者を見るように黒山の人だかりが出来たからだ。
 観光客と分かると、警察官と懇意なグッズ店主が、個人ツアーのガイドを紹介してくれた。

 わたしが初めて買ったビートルズのレコードは“Please Mister Postman”である。リバプールの出だしが、“Please Mister Policeman”になってしまったのは奇遇だった。


2)ポール・マッカートニーの家

 ジョンとポールの家は、ナショナル・トラストが文化的遺産として管理運営している。期間が限られた上、1日3回各15名限定のツアーを予約しないと中へ入れない。リバプールに行く前日そのツアーを申し込んだが、残念ながら満杯と断られた。

 わたしたちがポールの家の前に着いた時、限定ツアーの面々が家に入る前の説明を受けていた。ビートルズが今もなお愛されていることを実感した。
 ビートルズファンが集まると「ビートルズのメンバー中で誰が一番好きか」ということが話題になることがある。誰が好きかということだけでお互いに通じ合うものを感じて、話が弾んだりする。
 存在感が強く天才肌のジョンに引き付けられる人は多い。わたしも初めはジョンが気に入っていたが、途中からポール派になった。彼らの映画「ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!」や「ヘルプ」を観て、人当りが良さそうな笑顔が気に入ったからなのだろうと思う。


3)ジョン・レノンの家 

 1980年12月8日、ジョン・レノンは凶弾に倒れた。まだ40才の時だった。
 この家は幼いジョンを引き取って育てた伯母夫婦の家である。結婚するまでジョンが暮らしていた家だ。中には入れず門の外から眺めるだけである。それでも何か感じられないかとわたしは何度も覗きこんだ。

 帰国後、思いがけない話が家内から飛び出して来た。彼女がロンドン旅行の話を友人にしていると、「私の妹はジョン・レノンの奥さん、オノ・ヨーコの弟と結婚したのよ。自宅にジョン・レノンのサイン入りのレコードジャケットとか、写真が沢山あったわ。ご主人がビートルズ好きだと知っていたら、何か差し上げられたのにね」と、その内の一人が家内に言ったのだ。
 わたしはそれを聞いて、のけぞりながら、「オーノー」と“Twist And Shout”した。貴重なお宝を入手しそこなった無念を抑えつつ、「世間は狭い」を通り越して、「世界は狭い」と思うばかりである。


4)ジョージ・ハリソンの家

 2001年11月29日死去。享年58才。
 彼は口数が少なく「静かなビートル」と言われていた。メンバーの中で最年少だったから遠慮していたのかもしれない。それでも意地悪いインタビューへの彼の答えはユーモア溢れるものだったので、記者連中に人気があった。
 わたしがとにかく気に入っている彼の受け答えが二つある。
 一つは、ビートルズがロンドンで初めてレコーディングに臨んだ日のことだ。「何か気に入らないことがあったら、言ってくれ」とレコーディング・プロデューサー(ジョージ・マーティン)が尋ねた。「あんたのネクタイが気に入らない」と即座にジョージが答えた。この一言でその場の雰囲気が和みスムーズに事が進んだ。
 もうひとつは、初めてアメリカに到着した日のインタビューだ。ある記者が「その長髪はいつ切るつもりですか」と挑発的な質問をした。間髪入れずジョージが、「昨日、切ったよ」と長髪に対する挑発を超溌剌な笑顔で即答した。その瞬間、会場に笑いが溢れ記者たちは魅了された。
 瞬時に切り返した彼のユーモアセンスはいつまでも忘れられない。


5)リンゴ・スターの家 

 リンゴの家は長屋の中の一軒だった。ドアに落書きが出来ると言われ「Koichi Nomoto & Sayo from Japan Tokyo 2013.6.16」と書いた。一杯になると消されるのだと思う。もう少し洒落た言葉を残せなかったか、今になって悔しいような思いが湧いてきている。
「『ビートルズの中で誰が一番好きか』ではトップになれないけれど、『二番目に誰が好きか』ではトップになると思う」とリンゴ・スターは自己分析をしている。彼は、作詞・作曲のライバルとして競い合うジョンとポール、そして一番年下のジョージの3人それぞれと等距離を置いていた。リンゴを除く3人にはどことなく尖った感じが漂う。それに比べて温厚な人柄がもたらすのか、彼の気配りは世界で一番人気のグループ内の人間関係において大事な緩衝剤になっていたのだとわたしは思っている。
 個性派揃いのグループの中で、リンゴは己の立ち位置を上手に理解することで全体をより活性化させた。わたしにとっても、確かに一番がポールで、二番目はリンゴになると思う。


3.メリルボーン駅:A Hard Day’s Night

 帰国当日、ビートルズの映画第1作「ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!」の冒頭シーンに出て来たメリルボーン駅に立ち寄った。撮影された場所は駅正面から見て右なのか左なのかと、駅員数人に尋ね回り漸く右側だと確認が出来てほっとした。

 この映画の東京初公開は1964年8月だが、長崎でわたしが観たのは中学2年の春、1965年5月31日だった。その日まではラジオやレコードからの音声や写真の静止情報だけだった。ビートルズの動画映像を見ることは全く無かった。映画の冒頭、強烈なインパクトのイントロが流れ、ジョンとジョージとリンゴが走って来る。ジョージとリンゴの二人が転ぶ。ファンに追いかけられ三人は笑い走りまくる。ポールも出て来て四人が揃う。
 私は彼らの仕草や表情、さらに一挙手一投足を見逃すまいとスクリーンに釘付けになった。
 突然ひらめいたのは、彼らと同じように歌って笑って走る動画を撮って貰うことだった。そして、転ばないことだった。


4.アビイ・ロード:Here Comes The Sun

 ロンドン到着の翌朝、「まずはアビイ・ロードに行きましょう」と家内が言いだしたので驚いた。嬉しくなってタクシーに飛び乗った。到着したのは9時前だったが、それでもビートルズファンはいた。たまたま大阪から来た夫妻と出会い、思いがけず4ショットまで撮ることが出来た。 
「アビイ・ロードに行けば、もしリバプールに行けなくなっても、ビートルズの何かを感じて帰ることになったと思うわ」と家内は言う。それは後々の日程を文句言わせずこなす為の彼女なりの頭脳的な作戦だった。


5.「彼がいたからビートルズが生まれた」

 リバプールのガイド(右写真)は、別れ際に念を押すように「1957年7月6日にジョンとポールを引き合わせたアイヴァン・ヴォーンをみんな忘れている。彼がジョンとポールを引き合わせて組ませたんだ。
彼がいたからビートルズが生まれた」と熱っぽく語った。
 アイヴァンという名前には覚えがあった。
生年月日がポールと同じ級友で、さらにジョンの家の隣に住んでいてジョンとは幼い頃から親友だった。ポールをジョンに紹介しなければならないと考え対面させた。1993年死去。ポールは彼の死を重く受け止めた。ガイドの言葉は「リバプールの人みんながビートルズを生んだのだ」と伝えているのだと私は思った。

◆ 後記 ◆

 リバプールとロンドンでビートルズに縁のある場所を訪問できたことは忘れらない思い出になった。最後に、ビートルズの曲は好きだが、ビートルズ自体には全く興味が無いと言いつつも協力を惜しまなかった家内に、感謝の気持ちで一杯である。心よりありがとう。

【写真撮影】
アビイ・ロード   2013年6月11日  
リバプール    2013年6月16日
メリルボーン駅 2013年6月20日
リバプール    2013年6月16日
リバプール    2013年6月16日

                          

【寄稿・詩】 泣かれんよ = 結 城  文

作者紹介=結城 文(ゆうき あや)さん
 
日本ペンクラブ(電子文藝館委員)
日本比較文学会、
埼玉詩人会、
日本詩人クラブの各会員

日本歌人クラブ発行
『タンカジャーナル』編集長

日英翻訳家


縦書き 泣かれんよ

 泣かれんよ  結城 文 


昨日から点滴が五百CCになった
そのせいか少し生気がないような母
枕に泪のしみがある

声をかけると
また泣きそうな表情

「泣かれんよ」
祖母の使ってた松山弁が
私の口からすべりでる

「泣かないで」よりも
「泣かれんよ」の方がいい
「泣かれんよ」
「泣かれんよ」 

いくらそういったって
その心もとなさは
九十五歳になってみなければ 
わからない

思わず口をついて子守唄
「ねんねんたんです ねんねんたんです 
 ねんねんたんですよぉ―」
子供にうたった子守唄

母の唇がかすかにうごく
一緒にうたっているかのように―

私は母の母になった
小さな声でまたうたう
「かーらーすぅ なぜなくのー」
「泣かれんよ」   

【転載・詩】  庭鳥のいる森 = 船越素子

「孔雀船82号」より転載です。

孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。


「孔雀船82号」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳


〒185-0031
東京都国分寺市富士本1-11-40
TEL&FAX 042(577)0738

縦書き  庭鳥のいる森

写真提供:滝アヤ

 庭鳥のいる森  船越素子 

 その庭で
 くるひもくるひもまちわびていた
 ウジ虫なのか
 ミカドアゲハの幼虫なのか
 もはやアヤメも知らぬまに
 暮色うっすら
 羽化する痛みが桜色にかわる
 うっとり夢なんかみてるんじゃないよ
 取り返しがつかなくなるよ
 記憶のうしろで声がする
 胸がどきどきするくらい
 蓮っ葉なもんだから
 取り返しはつくのかと尋ねたくて
 喉の奥で ちょっと Rのかたちをまねる
 かなしみのかたちだ
 けれど異国のまねはいけないという
 ましてやまつりごとにもしたがわぬ
 あんちごねいさんのまねなんて
 腐った異国趣味だと断罪されるだろう
 それではと きざはしをのぼり かしわでをうつ
 五十鈴川に架かった橋のたもとで
 しょうすいしきってほねとかわになりたい 
 備長炭で焼かれるまえに
 尾ながく 羽白き鶏たちが
 目玉を突きに来る
 さんくちゅありいな森の向こうに
 食い尽くされるよろこびと
 食い尽くすよろこびを
 その庭で 天秤にかける日々が
 待ち焦がれている 森への道形か

【寄稿・エッセイ】 医療扶助=横川邦子

「作者紹介」

 横川邦子さんは朝日カルチャーセンター・千葉の「フォト・エッセイ教室」の受講生です。

「エッセイは他人に読ませるもの。読者の心が響く、感動作品は、つつみ隠さず、本音を書くことです」と先生に教わったので、過去(幼いころ)から秘めていた事柄を勇気をもって書いてみました、と話す。

 この夏には足関節の手術をしたばかり。写真を撮りに横浜いけないので、滝アヤさんに提供してもらいました。


              

 医療扶助  横川邦子  

             
 私が中学2年の、13歳の時、母が喀血した。大変なことになったと思った。当時、母と私は横浜の本牧緑ヶ丘の伯父の家に同居していた。居候の身だった。そして、私にも疑陽性の反応が出た。
 何とか母を入院させねばならない。
 私は誰にも相談せず、思いきって、地区の世話をする民生委員の家に行った。お寺だった。お坊さん夫婦はよく話を聞いてくれた。市役所の係りを教えてくれて、そこへ行って相談しなさいと、市電の切符までくださった。
 家から、当時桜木町にあった市役所までは八つ目くらい先まで市電に乗って行った。

 市役所では「医療扶助」を受けてもらい、入院できると言いテキパキと手続を進めてくれた。私は手作りの雑巾と花瓶敷きを差出しお礼の気持ちを伝えた。

 それから間もなく母は、横浜市金沢区にある結核専門の病院に入院できた。京浜急行谷津坂駅下車で、目の前の小さな山を登って、山頂に病院はあった。空気のきれいな所だった。母は呑気なもので、「療養俳句」なぞ作って病院内で皆と楽しく過ごしている。
 私は密かに、母を真砂女と俳人風にあだ名をつけた。見舞いに行くたびに、病院への山道を一人で登って行くのは静かな楽しみだった。ホタルブログを見つけたり、シダの葉が美しく、それらを夏休みの課題にしたりして提出した。

 それからしばらくして、通っている大島中学校に市役所の職員が何かの公演に来た。私が廊下を歩いていると、視線を感じた。見上げると、あの市役所の役人だった。目礼をした。彼はあたたかな眼差しで私を見てすれちがった。
 その年の通知表の行動の欄を見てビックリした。「年齢に不相応なほど、しっかりした考え方と行動力を持っている」と評価していた。あの役人がしゃべったのだ。他に思い当たる節はなかった。その通知表を見せる家族は誰もいなかった。私は小柄で痩せていた。子どもに見えたのだ。はずかしかった。医療扶助を受けることは恥だと思っていたのに。
  また、ある時、家庭訪問の後、他の教師が、「御親戚はいいのに」と言った。腹が立った。なぜ担任の先生は何もかもしゃべるのかと。

  近所のおばさんが「邦ちゃん、えらいわね。いつもニコニコして」と言った。別にそんな風に意識していたわけではない。どうにもならないことがあると、不退転の心情で事に当る。きっと道は開かれる。相手の目を見て本当のことをありのまま話すと決めていただけだ。数年後、私は県営住宅を申し込んで補欠に当り、直ぐそれが当選になり、入居できた。この時も、県の職員が親切だったのを覚えている。
  母は退院するときは新しい県営住宅に帰ってきた。のびのびとした開放感は忘れられない。
  家がなく親がいなくても人は生きられる。一回きりの自分の人生、どんな環境にも左右されない生き方をしたいと思った。当時の心情を表した短歌を思い出した。

    春近き海辺に友と遊ぶとき
     さびしき心ふっとよぎりぬ

    陽炎を白きノートに受け止めて
     揺れ動く様飽かずながめん

    幸福と不幸の外で思い切り
     己を高め生きてゆきたし

  私が世間に直ぐに触れた経験である。その方法しかないとき何とかなるものだという変なふてぶてしさが心のどこかにあるのかもしれない。    (了)

【転載・詩】  反転 = 北畑光男

孔雀船・Vol.82より転載


【関連情報】

孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳

〒185-0031
東京都国分寺市富士本1-11-40
TEL&FAX 042(577)0738


反転 縦書き

 反転     北畑光男

 1
 津波の舌が盛りあがり
 のびてくる
 ぼくのこころのなかで
 不安は繊毛のように波打つ
 街は
 海の舌に呑みこまれる
 口は
 とじたりひらいたり
 壊れた街が吐き出されている
 盛りあがり街の奥に入ってくるのは
 津波の舌か
 じざいにかたちの変わる のない
 幽霊の舌か
 のびていくのは
 前ばかりではない
 横へでもななめでも
 恐怖をつれて
 弱っている方へのびていく

 2
 その日ぼくは
 息を殺して
 テレビに見入っていた
 おしよせてくる
 津波は
 舌を
 陸地へのばし
 枯れた田んぼに
 音をひそませて入っていく
 避けた舌の津波は
  でとまり
 横へ裂けてのびていく
 自動車が逃げていく
 ちがうチャンネルに切り替えるや
 壊れた家が
 崩れて流れている
 自動車はぷかぷか浮かび
 右に左に流されている
 呑みこなれた自動車や家は
 プランクトンであるか
 悲鳴を
 消化したのは津波であるか
 死と破壊を好む津波の口であるか
 みなさんすぐに逃げてください
 逃げて
 の声を呑みこみ
 屋根に逃げたひとをも
 屋根ごと呑みこみ
 高い空からみていた電波の世界は
 大きく反転し
 ぼくを
 テレビから放すのだ
 そしてぼくは思い知らされるのだ
 津波舌は 
 遠く離れた親戚の家を壊した
 積み重ねた家族の思いをもろとも壊した
 

 生い茂った草叢から
 飛び立つ小鳥をじっと見ている
 毛の無い猫
 
 お地蔵さまに耳をあてると
 読経の声がかすかに聴こえてくるのである

【転載・詩】 色彩にこだわっていた春の四連詩=尾世川正明

孔雀船・Vol.82より転載

作者:尾世川正明さん 千葉市在住
「尾世川正明詩集」(土曜日美術社出版販売刊・1400円)
    土曜日美術社:新宿区東五軒町3-10 


【関連情報】

孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳

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縦書き

                           写真:滝アヤ

 色彩にこだわっていた春の四連詩  尾世川正明

          *
    
生きることを休むための扉
  その扉は無地の木でつくられている
  ベンガル州の森のなかに質素な土の家があって
  その奥に扉はあった
  晴れた二月のその朝は扉の周囲に
  西インドのきよらかな光がさしこんでいた
  扉の表面は透明で翅のような光で覆われていた
  訪れた若者はその扉に魅せられると
  石でできた顔のない彫像になった

          * 

チューリップの茎
  チョーリップのハナの下は長いという
  庭で測ってみると十センチはあった
  わたしの鼻の下よりはずっと長い
  イスラムではチューリップはアッラーの象徴
  イスタンブールのモスクで
  壁のモザイクのなかを満たしている赤い花
  くりかえされるチューリップの文様
  アッラーは忙しい

          * 

扉を愛するひとのための扉
  扉を愛する人が行きつけのは
  十五世紀の貴族が作ったレンガの館
  石の壁は一つずつわずかに色が異なる桜色
  厚い木の扉は南フランのエルコラーノ・レッド
  壁に埋めこめられた窓は空を映したラビスラズリ
  向かい側もうひとつの窓にはオークルのカーテン
  それはブルージュの穏やかな一日
  2011年のイースターの朝
 
            *

銀の馬車が走る深夜
  描かれた屏風のなかで桜の花びらが舞う
  明け方までずっと床の中で目覚めている老人
  頭のなかを駆け抜ける車輪の音を聞いている
  馬車はどこからきてどこに行くのか
  墨に流し込まれた眠られぬ性欲
  曙に菜の花が咲く土手の道を過ぎ
  河口に広がる沼地のほそい道を走り過ぎて
  はるかなる避地をめざしてゆく