寄稿・みんなの作品

【寄稿・エッセイ】 絶滅危惧 = 横手 泰子

 毎年桜の開花は心待ちになる。町中を埋め尽くす櫻を見ると、「日本に生まれてよかった」としみじみ思う。
 やがて、不安定な天候が櫻を散らし、近所の公園や多摩川土手の満開の桜が葉桜になっていく。文字どおり『三日見ぬ間の櫻』だ。それでも八重桜は、長く残って、濃いピンクが目立っている。

 ある時期、わたしは毎年2度ずつ花見をしていた。東京で欄漫の櫻を見た後、北海道に帰ると、北上した桜前線と廻り合う。
 しかし、北海道の桜はエゾヤマザクラなので、花が寂しい。淡紅色の満開の枝先が垂れるようなソメイヨシノを見た後では、物足りない。
 北海道の春を告げる花は、白い花を梢一杯につけるコブシなのだ。冬枯れの山肌に、白い固まりが現れると、春を感じる。おなじ頃、身近にフクジュソウが咲き始める。
 フクジュソウは雪が解ける際から姿を現し道端に帯になってさく。そのフクジュソウは環境省の絶滅危惧種のリストに上がっていて、毎年、私は「嘘だろう」と思いながら過ごした。

 わたしが毎年雪解けを待ちかねて、でかけるのが二線の沢だ。雑木林の間を流れる沢に沿って細い農道があり、めったに人は通らない。南斜面に陽が当たり、葉を落した立ち木の根元にはフクジュソウが黄金色に輝く。その間にはエゾエンゴサクのヴルゥが微かに風にゆれて、沢の中にはミズバショウが咲いている。わたしはそこを密かに天国と決めていた。  

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【避難者の詩】 故郷慕情 = 板倉正雄(富岡町仮設住宅)

安積永盛貨物の駅に

 添うて連なる仮設の宿で、

夜ごと見る夢ふるさとの

 桜並木か つづじの駅か

子安観音お堂の浜に

 寄せる波音子守唄

重い響きにふと目を覚まし、

 耳をすませば夜行の電車

思えばここは仮の宿

 枕ぬらして夜明けを待つ


遥か東に横たう峰は

 故郷隔れる阿武隈山地

あの日追われて夢中で越えて

 帰るあてなくはや三年

ままになるまらあの峰越えて

 せめて先祖のお墓を清めて

花を添えてお香をたいて
 
 あれもこれもとととめどなく

思いばかりが空まわり

 愚痴で仮設の日が暮れる

【寄稿・エッセイ】 上野駅 = 横手 泰子

 昭和21年4月1日、私は両親、妹二人の家族5人、台湾からの引き揚げ船で鹿児島に上陸した。そこから祖父母の住む青森まで、日本列島の列車移動が始まる。鹿児島の街は焼け野原だった。広島は黒焦げの立木だけが目についた。列車は買い出しの人でギュウギュウ詰めだった。

 上野駅に着いたとき、2日間休息した。待合室のコンクリ床に敷物を敷いた上で躯を休めた。そこには各方面から引き揚げ途中の数家族が入っていた。その中のある一家は、家族全員、豪華な毛皮のコートを着ていて、熱帯で育った私は眼を見張った。

 植民地で育った私は、日常、『内地』という言葉を聞き続けた。『内地に帰る』ということに大きく夢をふくらませた。しかし、現実の夢は次々と破られた。
 食事時になると、私たちにはきちんと食べ物が手渡された。すると、待合室の入り口にポツリポツリと子どもが立ち始める。アッという間に半円型の人垣が入り口をふさぐ。どの子どもも髪はボサボサ、やせ細った手足はアカまみれ、着ているものも大きすぎたり、破れていたりで汚れ放題なのだ。

 私と同年代と思われるのに、子どもらしさなどまったく感じることはできない。その人垣を、私たち引き揚げ者の世話をしてくれる青年が「コラーッ」と追い払う。一瞬散り散りに立ち去るが、一日数回はイタチごっこが繰り返される。

 浮浪児と呼ばれた彼らは、空襲で親を失った子どもたちなのだ。全員が空き缶を手に持ち、タバコの吸い殻を拾い歩く。食料はおそらく目につくと、掠め取るしかなかったのだろう。そのせいで世間から忌み嫌われたに違いない。

 気がつくと、父が見知らぬ男性と話をしていた。そのうち、その男性が風呂敷をほどいて弁当箱を取り出した。ふたを開けると、パチンパチンと弁当箱を分解した。その中から現れたのは、久しぶりに見る真っ白いご飯だった。私はその白いご飯より小さくまとめられた弁当箱にびっくりしていた。

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【寄稿・写真エッセイ】  3年ぶりの新作 = 黒木 成子

 パッチワークを始めてもう25年になる。子どもの幼稚園グッズを近所の友人たちと一緒に作り始めたのがきっかけだった。皆で集まってわいわいやっているうちに、当時はちょっとしたブームのパッチワークをやってみようと決めたのである。

 そのころ、私は下の子どもが産まれたばかりで、夜もろくに眠れない日が続いていた。こんな状態ではとても無理だと思ったが、友人たちは盛り上がっており、話についていけないのも寂しいと思い、形だけでも参加することにした。
 友人たちも皆子どもが小さかったため、最初は同じマンションの経験者を家に招き、教えてもらうことになった。

 始めた動機はいい加減だったが、いざやってみるとなぜか面白い。型紙を作って一枚一枚生地を切り、縫い合わせていく。そんな地道な作業の連続だが、少しずつ形になっていくのが楽しかった。
 きっと、子育てと家事のみの毎日でイライラしていた時に、1日30分でも自分だけの時間が持てるのが新鮮だったのだろう。

 毎日少しずつ進めて、1か月程してやっと完成したのが、クッションカバー(写真・右)である。
「風車」というパターンで、三角形を組み合わせた簡単なものだ。25年もたつと色あせてしみだらけで、破れているところもあるが、思い出の第一作目なので、どうしても捨てられず、今だに持っている。

 こうしてパッチワークにはまってしまった私は、皆でお茶を飲んでいる時も、1人ちくちくと針を動かす人になっていた。
 2~3年後、子どもたちが成長すると時間の余裕もできたので、学校に通い本格的に勉強を始めた。そのころになると、一緒に始めた6人の仲間たちはもうやめていて、続けているのは私だけだった。


 パッチワークはアメリカがその起源と言われている。17世紀の西部開拓の時代に、貧しさの中で、寒さをしのぐため残った生地をつなぎ合わせてベットカバーを作ったり、古くなった服のきれいな部分だけを切り取ったりして再利用したというのが始まりだった。

 それが、物が豊富になった今とでは、わざわざ新しい生地を切りきざんで装飾的なタペストリーを作る贅沢な手芸となった。

 日本にアメリカのパッチワークが入ってきたのは戦後である。もちろん、それ以前にもハギレを縫い合わせて着物を作るという文化は存在した。

 これは江戸時代の後期に作られた下着だが、アメリカンパッチワークのヘクサゴン(六角形)の形をつなぎ合わせている。日本では亀甲の模様と言うらしい。(写真・左は、『ハギレの日本文化誌』 福島県立美術館 より引用)

 また、日本で古くから行われている「刺し子」もパッチワークにおいて「キルティング」と呼ばれている、表布とキルト芯と裏布とを三層に合わせて縫う方法とよく似ている。

 それぞれの国で同じような手芸が発達したが、国民性からか微妙に形態が異なっている。私が習い始めたころは、日本人の几帳面さからか、パッチワークとは手で縫う物であり、キルティングの針目は1㎝につき3針、などと決められていた。
 角を合わせ、正しくきれいに縫った物がいい作品と呼ばれていた。

 当時、友人がハワイで買ってきたハワイアンキルトのバッグの針目の粗さには驚いた記憶がある。
 本場のアメリカでは早くからミシンを使い、決められたパターンにとらわれず、自由な発想の作品が多かったが、この十年くらいの間に、日本でもミシンを使ったミシンキルトと呼ばれるパッチワークが盛んになってきた。
 私も布と布をつなぎ合わせるピーシングには、徐々にミシンを使うようになった。


 その後、通っていた学校を8年程で卒業し、個人の先生についてデザインの勉強をして、オリジナルデザインの作品を作るようになった。
             
 作品をコンテストに応募して入選したこともある。「曼珠沙華の咲く道」(縦218㎝×横174㎝  2005年制作)  
 これは埼玉県にある巾着田と呼ばれる曼珠沙華の群生する場所へ行き、風景を写し取ってきて、そのイメージで作った作品である。

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【寄稿・エッセイ】 針を持たざるは = 森田 多加子

 当時、交際をしていた彼が突然言った。
「お裁縫できる?」
 今の私であれば、(得意じゃない)とはっきり言えるのだが、これから結婚をしようと決めている人に、聞かれると
「できますよ」
 というしかない。

 細かい表情を見抜く人であれば、その時の私の顔を見れば、(?)と、わかったのではないかと思うが……。
「じゃあ悪いけど、このズボンが1センチほど長いので、直してもらえないかなあ」
「いいよ」
 渡されたズボンの裾はダブル仕様だ。出来る筈がない。大体、手でやる仕事が大の苦手である。針などもってのほかだ。

 中学時代の、あの一番嫌な家庭科の時間を思い出した。裁縫の時間に浴衣が教材になったことがあった。先生に教わりながら、少しずつ仕上げて行く。
 その日は背縫いの時間だ。真直ぐに袋縫い(二重に縫う)ということだった。裁縫は苦手でも、ここは単に運針縫い(いちばん基本の縫い方)をすればいいところなので、一生懸命に縫っていた。
「ちょっと、貴女、なにをなさってるの」
 一番苦手な先生は? と聞かれると、迷わずに名前が出る家庭科のおばあさん先生の声だ。

「あらまあ、前身ごろまで閉じたの……、ご丁寧に袋縫いまでやって……、私は長年教師をしていますが、こんな間違いは初めてですよ。この浴衣はどうやって着るのですか? 頭も出ないではないですか。全部ほどきなさい」
 真直ぐに縫うことばかり考えていた。言われてみれば、着物の後ろも前も、縫ったので、袋状になってしまって、着られる筈がない。

 身長より長い布を往復して縫ったこの努力はどうなるのか? 一瞬脱力感に襲われた。また縫い直しなんて出来るわけはない。
 帰って母に全部縫い直してもらった。次の授業では、机の列の間を回って、みんなの作品を見ていた先生が、私の浴衣を見ると嬉しそうに言った。
「あら、私はまだそこまで教えていませんよ」
 ちゃんとここまで、と言った筈なのに、母は裁縫が得意で大好きなので、つい先まで縫ってしまったらしい。中学二年の「家庭科」はもちろん目を覆いたくなるような点数だった。

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【寄稿・詩】 歩くということ = 結城 文

作者紹介=結城 文(ゆうき あや)さん

日本ペンクラブ(電子文藝館委員)
日本比較文学会、
埼玉詩人会、
日本詩人クラブの各会員

日本歌人クラブ発行
『タンカジャーナル』編集長

日英翻訳家


歩くということ 縦書き


 写真: USUYA KOHARU


 歩くということ  結城 文 

                             
歩きながら 思う
生まれたての赤ん坊は歩けない
歩くことができるようになるまでの
知らず知らずにした
いくつもの努力

歩く前に 立ち上がる
立つのだって大変
寝返りさえできなかったものが
坐ることを覚える
見守りのなかで―
寝かされてばかりいた姿勢から
初めて座った時 
世界はいかに変ったことか
誰にも 坐れといわれずに
座りたいと
知らずしらずに願った結果だ
立とうとして 何度もくずおれ
やがて立つ 
みずからの意思で

なんでもないことのように歩いている
すてきなことなどと感謝していない―
それはたくさんの試行が
獲得した能力―
初めて立てた時の
初めて歩けた時の 
幼子はなんと誇らしかったろう
私たちは、自分の手で食べることもできる
言葉を使うこともできる

人間のなかにひそむたくさんの力―
生れながら うちにもっている希求
揺り籠にゆられた日からの たゆまぬ試行
私たちは こんなにも多くの
能力を発達させてきた
人間って こんなにすばらしい


短歌

いとけなき嬰児のからだに脈々と伝ひぬ希求といふ名の遺伝子

【寄稿・詩】 天頂の虹 = 結城 文

作者紹介=結城 文(ゆうき あや)さん

日本ペンクラブ(電子文藝館委員)
日本比較文学会、
埼玉詩人会、
日本詩人クラブの各会員

日本歌人クラブ発行
『タンカジャーナル』編集長

日英翻訳家


天頂の虹  縦書き


 天頂の虹  結城 文 


もうすぐ五月というのに
今朝がたは
白い花びらのように雪がながれた
旭川の針葉樹林
根方の根雪はまだ溶けない
林の切れ目から遠望する大雪山系は
白銀の輝き

ふと見上げた天頂の空は透明に潤い
太陽の周りにリングをなす
あるかなきかの虹――
見上げているうちにふっとかき消え
また現れる

なにも覚えていない旭川での幼児期
まだ若かった父母がようやく歩きはじめた私を連れ
移り住んだ第七師団官舎
とぎれとぎれの大人たちの会話と
戦災をのがれたいくひらかの写真――
  雪に埋もれそうな私
  母の膝にのって雛段の前にいる私

そんな手がかりだけをたよりに
訪れた自衛隊旭川駐屯地――
その奥に当時の佐官級官舎が二、三軒
今なお残っているのも驚き
思わぬ立派さで立つ白亜の偕行社は
かつて父母が生活物資を調達したところ
――ただ今改修中

たよりないというより
ほとんど記憶皆無の地に
何に曳かれて
たどりついたのだろう
また現れる天頂の虹を見ようと
いくたびもいくたびも大空を仰ぐ

【寄稿・詩】 包丁の跡 = 結城 文 

作者紹介=結城 文(ゆうき あや)さん

日本ペンクラブ(電子文藝館委員)
日本比較文学会、
埼玉詩人会、
日本詩人クラブの各会員

日本歌人クラブ発行
『タンカジャーナル』編集長

日英翻訳家


包丁の跡 縦書き


 包丁の跡  結城 文 


流しのわきの白い天板の上に
三筋 四筋黄ばんでついている
包丁の跡
新築間もない頃
母さんが林檎かなにかを切ろうとして
つけた傷
すぐ目の前にまな板があるのに!
なぜ?
直接口に出さなかったけれど
――私は内心腹をたてた
傷が目立ってくると
漂白剤をしみこませては拭いたものだ

いまその傷に目がいって
「まあ いいか」と呟く
睫毛に狭霧のようなものが降る
もう帰らないあのことこのことが
どっと私を浸したかと思うと
互いに目配せしあってたちまち消えた

母さんがそれまでやっていた婦人会の仕事などから
退いて 同居をはじめたのだった
それまで親としてものを言っていた母さんが
自分自身しだいに頼りなくなって
人間としてのかなしみを一番感じていた時なのに
私はその心に添って生きてはいなかった
せかせかと乾いていた
――その心にもっと向き合えばよかった

喉元にわく林檎の酸のようなものを
こくんと飲み下す
「まあ いいか――真っ白にしなくても」
母さんのつけた
包丁の黄ばんだ傷跡を
私はふきんでそっと拭く

【寄稿・詩】 ピアノ = 結城 文

作者紹介=結城 文(ゆうき あや)さん
 
日本ペンクラブ(電子文藝館委員)
日本比較文学会、
埼玉詩人会、
日本詩人クラブの各会員

日本歌人クラブ発行
『タンカジャーナル』編集長

日英翻訳家


ピアノ  縦書き


 ピアノ 結城 文 


トルコマーチのピアノの音色が
明るい木洩れ日のように降りかかった
暖かい潮のように押し寄せた
青く凪ぐ海の果てからのように
遠く過ぎ去った時代からの波のように


かつてリビングで響いていた音
上の子が弾き
下の子が弾いたピアノは
ある時から鍵盤に触れられることもなくなって
マホガニーの光沢も曇り
それでも家族の言葉をききながら
三十年 いや四十年以上ともに在った


そのピアノをとうとう手放した――
家移りをする私には
もう一緒に存在するためのスペースを確保できなくなって


そんな矢先のピアノの発表会
彼方から娘たちのソナティネがよみがえる
練習を強いたかつての私がいた
不意打ちのようにきた潮は
私を包み
きらめきながら引き
また寄せる
忘れていた感覚にとまどう私をよそに
プログラムはよどみなく進行していった

【転載・詩】 記憶を綴る人 = 平岡けいこ

「孔雀船83号」より転載です。

孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船83号」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳


〒185-0031
東京都国分寺市富士本1-11-40
TEL&FAX 042(577)0738

 
記憶を綴る人  縦書き

 記憶を綴る人 = 平岡けいこ 


何度目かの台風が行き過ぎた午後
街は徐々に速度を上げ疾走している
滑り込んでくる列車
人ひとヒトの群れ
帰宅ラッシュの大阪駅
生きることは時に残酷でさえある
今日を生きる人たち
学生、会社員、主婦それぞれの役割を担って
子供、成人、男、女さまざまな場所で点在する命の灯
今日を精一杯生きても報われない
何でもない一日が引いてゆく夕刻
沢山の足が同じ場所を目指して群れを成す
その道は光に満ちている
音楽家(ミュージシャン)になりたい
こんなにも多くの人に届く詞を紡げるのなら
ホールを命の灯が埋め尽くす
体温が熱気に変わる
音が身体を抜けてゆく
動き出す無数の灯 輝く無数の命
こんなにも人が息吹いていることの美しさ
こんなにも人が笑っていることの奇跡
どうしようもない毎日の同じ時間同じ場所を共有する
一つの記憶
不穏な世界は問題なく動いてゆく
けれどきみがいなければこの景色は
すこし変わっていただろう
わずかな欠損や欠落でも
この一瞬は訪れない掴めない体感できない
だから音楽家は声を枯らして唄う
この一瞬の輝きを
音楽家は激しく打ち鳴らす
命の鼓動を高らかに響かせ
きみが きみが きみが
きみがいてくれて
良かったと
生きることに纏わるさまざまな憂鬱と歓び
わたしは綴る
音楽家にはなれない
こんなに多くの人がまた元の場所に戻ったあとの
足跡の軌跡 解体される舞台セット
ほんのちいさなため息とふと口ずさむ
幸せな記憶の欠片


            2013年10月17日大阪城ホールにて