A040-寄稿・みんなの作品

【転載】<むかし外国へ渡った日本人>川上貞奴=久保田雅子

【作者紹介】

 久保田雅子さん:インテリア・デザイナー。長期にフランス滞在の経験があります。(作者のHPでは海外と日本のさまざまな対比を紹介)。
 周辺の社会問題にも目を向けた、幅広いエッセイを書いています。

         作者のHP:歳時記 季節と暦の光と風・湘南の海から


 同HPには、<むかし外国へ渡った日本人>シリーズを展開しています。今回が14回目です。


<むかし外国へ渡った日本人>川上貞奴 サダヤッコ 久保田雅子

 1900年のパリ万国博覧会で公演、一躍パリで大人気になった日本女性がいました。

<川上貞奴 サダヤッコ>1871~1946年

 貞は日本橋の越後屋(質屋)で12番目の子として生まれました。
 7歳で芳町の芸妓置屋「浜田屋」の養女になり、やがて「貞奴」を襲名。日舞その他の芸に優れた貞奴は、芳町一番の売れっ子芸者となったのです。伊藤博文、井上薫、黒田清隆、西園寺公望などの上客が貞奴をひいきにして集まっていました。

 明治27(1894)年、貞奴(23歳)は芸者「奴」を廃業して、自由民権運動の活動家で書生芝居をしていた、川上音二郎(30歳)と結婚します。(写真右 貞奴と音二郎)
 音二郎はオッペケペ節で社会風刺をして、大流行します。やがて滑稽演劇家として川上一座を結成、新築開業しました。
 政治家としての野望を捨てられない音二郎は、国会議員に2度立候補しましたが落選。そのうえ川上座の負債が膨らみ、借金とりから逃れようと、二人はボートで築地の海岸から国外脱出?を試みますが、最終的には淡路島に漂着。一命を取り留めました。

 明治32(1899)年、政治活動をあきらめた音二郎は、新演劇芝居に専念。一座はアメリカ興行に出発します。サンフランシスコ公演で女形が死亡したため、急きょ貞奴が代役を務めて大当たりします。ところが公演の報酬を興行師に持ち逃げされて、一行は無一文になってしまいました。

 餓死寸前の状態で次の公演先シカゴにたどりつきます。死に物狂い?の演技が観客にうけて、ここで貞奴の舞と美貌が評判になりました。翌年ロンドンでの興行を経て、パリの万博会場で公演します。彫刻家ロダンは彼女に魅了されてモデルをしてほしいと申し出ますが、貞奴はロダンの名声も知らず断ります。

 パリ社交界のトップレディとなった貞奴をピカソやドビッシーも絶賛、フランス政府からは勲章が贈られました。
 明治35(1902)年1月に帰国した川上一座は、4月に再渡欧して1年間ヨロッパ各地を巡業しました。(イギリス・フランス・ベルギー・ドイツ・オーストリア・ハンガリー・ユーゴスラビア・ルーマニア・ポーランド・ロシア・イタリア・スペイン・ポルトガルなんと69街78劇場)

 帰国後は日本全国を巡業して舞台に立ちますが、まだ女優というものの価値が認められていない日本では苦労の連続でした。
 日本は長い演劇の歴史で女は女役の男性が務め、女性が舞台に立つことはなかったのです。俳優という職業も最低の身分の時代でした。
 明治40(1907)年には劇場視察と女優養成学校の研究のため渡仏。翌年には帝国女優養成所を創立しました。

  明治44(1911)年、音二郎が病死(47歳)。貞奴は彼の意志をついで公演活動を続けますが、1918年、演劇界やマスコミの攻撃についに女優引退を決意します(47歳)。大阪中座で引退興行終演後、名古屋市双葉町に移住します。

 ここで貞奴は福沢諭吉の娘婿、実業家の福沢桃介(50歳)と同棲。二人の出会いはまだ学生だったころの桃介との恋愛でしたが、彼が諭吉の娘と政略結婚したことで終わってしまっていたのでした。
女優引退後の貞奴は、悲恋の桃介と再び結ばれたのです。

 二人が住んでいた名古屋の邸宅は「双葉御殿」とよばれ、政財界の著名人の集まるサロンとなり、貞奴は接待役として桃介を支えて活躍しました。
 1946年75歳、肝臓癌で亡くなりました。

【関連情報・参考文献】
 おすすめは山口玲子著<女優貞奴>朝日文庫
 双葉御殿は現在、<文化のみち双葉館>として復元されている。

 写真:茅ケ崎市美術館の許諾

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