A020-小説家

NHK大河ドラマ『八重の桜』の先取り講演・清原康正氏=鎌倉

10月27日(土)午後1時から、鎌倉・故早乙女貢さん邸宅で、清原康正(きよはら・やすまさ)さんの講演が行われた。タイトルは、「早乙女人脈の広がりと『明治の兄弟』~NHK大河ドラマの主人公」である。
 清原さんは著名な文芸評論家で、日本ペンクラブ・会報委員会の委員長である。同志社大学大学院卒。大河ドラマ『八重の桜』の主人公である新島八重は、新島襄(同志社大学設立)の妻であるから、興味深い講演だった。


 私は昨年の秋に、会津に取材で出向いているし、戊辰戦争に関しては常に関心を向けている。この戦争は何だったのか。江戸時代の260年間一度も海外と戦争をしない平和国家から、戊辰戦争で、明治政府は戦争勝利品の味を覚え、海外派兵の戦争国家になっていったという認識が強い。

 ことし9月初めころ、清原さんから、「早乙女邸の講演に来ない?」と誘いを受けた。会津の新島八重の話だというので、一言返事で出向いた。

 京都人の清原さんの視点だから、薩長と会津とに対して公平感があった。私には好感が持てた。

 これまで「会津落城」となると、とかく悲劇の美化とか、史実の歪曲が多く、鼻持ちならない話が多く、あまり好きになれなかった。
 会津城を攻撃したのは薩摩藩と土佐藩だった。会津が白虎隊の悲劇を含め、憎むべきは薩摩、総大将の板垣退助・土佐藩なのに、「会津は長州を憎し」と作り上げている。
 これらは枚挙に厭わないし、聞くだけでうんざりさせられてしまう。

 清原さんは、会津落城とせず「会津開城」として説明していた。
 
 新島八重は会津砲術師範の娘として生まれている。羽織袴を着て、刀を差し、城に立て籠もり、戦った人物である。洋式砲術にも堪能で、スペンサー銃で戦い、幕末のジャンヌ・ダルクとまでいわれた女傑である。

 開城後は、京都・薩摩屋敷に囚われていた、兄の山本覚馬(かくま)を頼って京都に行き、そこで新島襄に出会うのだ。清原さんはこうした流れから、なぜ京都か、それを詳しく説明する。

 兄の山本覚馬が知的人物だったことから、薩摩藩は捕虜でなく、顧問まで持ち上げた。新島襄がアメリカから帰国すると、京都に教会を作る。それを支援した縁から、八重が新島家に嫁ぐのだ。

 徳富蘆花の著作「不如帰」が一世を風びした。そこには新島家との意外な関係があった。家系図から小説のモデルを説明する、清原さんの切り口は興味深いものがあった。

 五月女貢著「明治の兄弟」を読めば、山本覚馬と新島八重が描き出されているし、来年の大河ドラマの先取りができる。清原さんは最後に、そう結んだ。

 講座が終わったあと、講師の清原さんから声をかけられ、帰路、鎌倉駅近くの喫茶店で2時間ばかり立ち寄った。(清原さんの小説講座の受講生2人を含む)。歴史の談話を楽しんだ。

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