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【近代史革命・鳥羽伏見の戦い】西郷隆盛の苦悶=名将か、愚将か(下)

 鳥羽・伏見で戦火が広がると、徳川慶喜は1月6日に、大阪城の城兵に『徹底抗戦せよ』と指図してから、松平容保や重鎮の老中とともに、江戸城に移っている。

 孫子・呉氏の兵法を知らない、後世の御用学者は「将軍が逃げ帰った」という。京都近郊で戦争が勃発して、最前線に残る将軍ならば、最低の愚将である。

 大阪城の位置づけは、寺社奉行→大阪城代→京都所司代→老中への登竜門である。そんな大阪城に留まり、将軍が捕縛されたら、どうなるのか。
 将軍は本来、最もリスクの少ない安全な場所にいるべきである。本陣の江戸城にもどり、巨視的な立場から、国内外の動きを見ながら、先々を読み、さまざまな指示する。それが知将である。


 慶喜は兵法通り、大坂城を抜け出た。おおかた、影武者も使っただろう。慶喜、松平容保、老中ら重臣は小舟で米国艦へ、そして幕府海軍の船に乗り移り、という史料もある。
 本もの慶喜と影武者の動きは超シークレットのはず。現在、一般に言われている「貧しい姿でコソコソ逃げた」という脱出方法は、後世の御用学者の根拠のない創作と見なしたほうがよいだろう。
 知将は、痕跡をまったく残さず、さっと消えるものだ。そうそう目撃者などいるはずがない。

 この面では木戸孝允(桂小五郎)は、池田屋でも戦わず、禁門の変でも乞食にふんして京都を脱出し、出石(但馬)に240日間も逃亡した。わが身を守り、出番を待っているのだ。やがて時宜(じぎ)をみて下関に帰り、ここから幕末史が最も大きくうごいた。

 慶喜は大坂城を立ち去るにあたり、榎本武揚(たけあき)には海軍の軍艦をつかって、大坂城の財宝、18万両の御用金も持ち去らしている。

『武士は城を枕にせよ。敵に軍資金は渡すな』という幕臣たちに格言を与えている。
 かれら幕臣は、1月9日の早朝、和睦(わぼく)と称して新政府軍を大坂城に招き入れる、と同時に放火し、火薬庫、武器庫を爆破炎上させているのだ。絢爛(けんらん)豪華な大坂城は、2-3日間燃えつづけて、全焼である。

 こうなると、西郷隆盛は黒焦げた大坂城に入ったけれど、取り分はゼロである。

 鳥羽伏見で銃弾を使いまくり、大阪城は丸焼けである。……このさき慶喜追討、江戸城を攻めるにも、軍費は必要だ。兵士は宿泊費・現在ならば、一泊三食で1万円だ。

 さて、西郷は今後の戦費をどう都合つけるのだ。となると、経済学に弱い愚将・西郷となってしまう。かれの古い朱子学、陽明学では解決できない。資本主義的な財政・金融論が必要だ。

 当時の明治新政府の閣僚は、大名と公卿たちで構成されている。下級藩士の西郷めが、天皇を守るための、京都御所の警備用武器を無断使用したと言い、責務を問われる。(明日がどうなるか、誰も見えない混沌とした状況下だ)。強いバッシングを受けたことだろう。ちなみに、新政府の要人から、西郷は約1か月間ほど干されている。

「こんど江戸城は焼かせるなよ。ぜったいに。江戸城の金銀、財宝は外国に売り払って、奥羽越列藩31藩と戦争するのだ」
 それに失敗すれば、西郷隆盛の存在は消されてしまう。
 

 西郷は、戦えというよりも、戦うな、と言われるほど、苦悩する性格だろう。京都から悶々と軍隊を進めていく。
 彦根の井伊、尾張の徳川、静岡の各城主、箱根を超えて小田原城主、これらはすべて戦争回避をしておかなければ、江戸城は燃やされてしまう。
 一触即発で、かりに井伊家と戦争でもしたら、次々に、自焼(負け戦になれば、城を燃やして、敵に戦費を与えない作戦)されてしまう。ともかく、箱根の山は戦争せずに越えられた。


 慶喜はみずから江戸の上野寛永寺で謹慎に処した。なぜ、これができたのか。慶喜は外交に強くて、国際法を知っていた。
『敵の総大将(元首)は殺さない。かの有名なナポレオンでも、死刑にしなかった
 幕府はフランスと仲が良い。慶喜にはその知識ある。かれは外交に強い。欧米への働きかけから、イギリス・フランスは、『慶喜や大名は殺すな』と明治新政府に圧力をかけた。
 新政府軍は、慶喜に手出しができなかった。大名の殺戮もゼロである。

 この間に、小栗上野介が江戸城で、
「徳川家をつぶす気か。それでも将軍か」
 と慶喜の胸ぐらをつかんで抗議した。小栗は勘定奉行を4回もやり、財政・金融にも優れた、日本の近代化を推し進めた人物だ。なおかつ陸海の両奉行の経験がある。小栗には、駿河湾を利用した、打倒・新政府軍の戦略に勝算があったのだ。

 しかし、慶喜は戦争による国家の分断を嫌った。小栗を解雇し、片や、勝を登用し「江戸城を明け渡せ」と無血開城を指図したのだ。
 
 勝海舟は氷川清話で、「おれが江戸城を無血開城させた」と述べている。自慢したい気持ちはわかるが、幕臣の一人やふたりの知恵で、世の中が動かせるほど甘くない。
 自惚れ屋が妙なものを書き残すから、慶喜は腰抜け扱いにされてしまったのだ。

 つまり、知将とは戦わずして、事を治める人をいうのだ。 

 西郷隆盛はともかく至上命令で江戸城を焼かずに進軍できた。しかし、西郷と勝はふたりして江戸の治安維持に失敗している。もう、西郷はお払い箱に近い。
 
 新政府の木戸孝允は、知将の大村益次郎に期待した。大村は京都から江戸府に出てきた。怜悧に、江戸城内の金銀、財宝、すべてイギリス、フランス、オランダなどに売り払った。(現・国宝級文化財は一品も残っていない)。大村はこうして奥羽越戦争の軍費を作ったのである。

 上野の彰義隊にたいしても、最小限の費用の半日で決着をつけている。江戸の治安は早ばやと取り戻しているのだ。
 ただ、大村益次郎は、小栗上野介の陸海軍による駿河湾・待伏せ戦略がもし実行されていたならば、『自分(新政府)の首はなかった』と回顧している。

 慶応3年、小松帯刀が京都に不在だった2か月間で、西郷隆盛は鳥羽伏見で派手に戦争をやった。けれども、大阪城を炎上させてしまった。あとさきの必要戦費の計算も、みずから軍費の調達もできなかった。愚将である、という批判が怖かったのだろう。
 戊辰戦争が終わると、西郷隆盛はすごすご薩摩に直行し、帰っていった。
 
 最悪が西南戦争である。血気盛んな若者が、『われら薩摩が天下を狙い、蜂起する』と炎上した。それを止められる人物は唯一、西郷だった。しかしながら、逆に、それに乗ってしまい、大勢の将来ある鹿児島県の若者たちを死に至らしめた。
 
 幕末・明治の歴史は、薩長閥の御用学者によって編纂されたものが多い。鳥羽伏見の戦いは、西郷軍が最新の西洋銃を持って、幕府軍の旧式の軍隊に打ち勝った。
 15代慶喜将軍は、大阪城からこっそり逃げ帰った。そのようなバカげた史観で塗りつぶされている。

「戦争は金がないと戦えない」
 そうした財政・経済学の視点から、歴史をとらえると、名将から愚将にかわってくる。愚将が名将になる。
 ちなみに、日清戦争、日露戦争は、日銀が外国から金を借りまくって(外債発行)から、戦争を勃発している。もし外債の引き受け手がなければ、ロシア・バルチック艦隊が来ようが戦うことなどできないのだ。
 ただ、太平洋戦争のように、戦費の裏付けも満足にないのにパール・ハーバー(真珠湾)に奇襲攻撃をしたり、本土決戦だといい国家総動員令で、お寺の鐘、家庭の鉄をつぶして軍艦をつくり、木の飛行機と竹やりでB29と戦おうとしたりした愚将もいるけれど。 
 
 小松帯刀は明治3(1870)年7月20日に大坂で死去している。36歳だった。それから西郷隆盛は7年後、大久保利通は8年後まで生きている。
 このふたりが小松帯刀日記・慶応3年のありかを知っていないだろうか。むろん、これは推理小説的な推論である。ある意味で、歴史小説作家も、歴史学者も、仮設と推論で展開していくものだ。
 ここから掘り下げると、意外と実証の現物が見つかったりするケースもある。

【近代史革命・鳥羽伏見の戦い】西郷隆盛の苦悶=名将か、愚将か(中)

 西郷隆盛は、小御所会議の当日、御所警備だった。山内容堂が、この場に慶喜将軍がいないのはおかしい。年少の明治天皇をたぶらかせている、と強い批判をしてもめ始めた。
 参列した大名は、徳川を外すのはおかしい、と容堂に同調する空気だった。
 
 西郷は、下級公卿の岩倉に短刀で容堂を脅せよ、助言したのだ。つまり、土佐藩の容堂を殺してでも、会議をまとめろ、と強要したのだ。
 岩倉は前日まで、謹慎処分だった。かれによって王政復古のクーデター政権が誕生したのだ。


 西郷はかたやテロ活動をおこなっている。薩摩藩士の伊牟田尚平や益満休之助をつかい、江戸市中において騒擾(そうじょう)を起こさせているのだ。強盗、略奪、放火などで、江戸市民は恐怖におびえた。庶民の目で見ると、ひどいテロリストだ。
 かれらテロリストたちは、追われるといつも芝薩摩屋敷に逃げ込む。

 怒った小栗上野介(勘定奉行)が、庄内藩に薩摩屋敷を焼き討ちを命じたのだ。庄内藩はドイツから購入した最新銃や、大砲をもっている。大砲を撃ちこんだ。伊牟田や益満たちは、芝から品川の海岸へ。漁師の舟をかっぱらい薩摩艦に乗り込み、逃げていく。

 榎本武揚(たけあき)は最強の幕府海軍で、逃げる薩摩艦を大阪湾まで追っていき、撃沈させている。そして、大阪湾の制海権を握った。

 これより以前に、西宮・尾道に待機していた長州兵2500人が上京していた。

 会津藩が「討薩表」をもって明治天皇に、勅許を得るために京都にむかった。戦うためには天皇の勅許を必要としていたのだ。

 鳥羽・伏見街道で待ち伏せしていた西郷隆盛が、それら会津・旧幕府軍に襲いかからせたのだ。

 それに長州軍がすぐさま反応し、薩摩軍に加わっていく。ここで歴史上はじめて薩長連合軍が成立する。(薩長討幕というけれど、新政府ができた後だから、御用学者のねつ造である)

 やがて土佐と鳥取が薩長軍に加わる。かたや、芸州広島は反戦主義で外れている。
 約3日間で、旧幕府軍は破れて、大阪城へと敗走していった。

 わたしは鉄弾の実価格は知らない。仮に一発1000円だったとすれば、兵士が1分間に10発が撃てば、1万円である。仮に6500人いれば、1分間で6500万円である。10分間で、6億5000万円である。
 銃筒が熱くなるから、そうも連続して撃てないにしろ、1日分はもっと戦費が伸すだろう。戦争は引き金を引けば、金が飛び散る。
 大砲の弾などは一発10万円以上とおもう。100発も撃てば、たちまち1000万円である。

 鳥羽伏見の戦費の資料は見つからないので、正確な数字はわからない。3日間の戦いで、おそらく100万両(80億円)くらいだろうか。

 小松帯刀がやがて慶応4年1月18日に、京都にやってきた。鳥羽伏見の戦いの経緯を知るだろう。
「御手洗から6500人の兵は、最新銃と弾薬をもって上京してきた、その背景を考えろ。この軍隊は京都御所の護衛と京都の治安目的だ。西郷は、武器使用の目的をはき違えている。
 つかった西洋銃の弾丸は、輸入するまで、かなり時間がかかるのだ。この先、京都御所の警備に不都合が生じるだろう。旧幕府軍が、急きょ、体制を立て直して、挑んできたら、どうするのだ」
 と怒るだろう。

 木戸孝允は小松よりも3日後の1月21日に京都にやってきた。木戸は西郷嫌いで、討幕の方向だ。
 木戸はかつて江戸三大道場の一つ、斉藤弥九郎道場の塾頭だった。池田屋事件、禁門の変、第2次長州征討、と危険をかいくぐってきた人物で、肝っ玉は据わっている。
 前年1月の京都・小松邸で、俗にいう薩長同盟の場で、木戸はいきなり西郷隆盛を罵倒している。(岩国藩の資料による)。

「戦争は、見返りの勝利品があって成功といえるのだ。鳥羽伏見で、弾を消耗しただけじゃないか。この先の戦費は、いったい、どこで作る気だ。戦争は無料(ただ)でできないんだ。新政府は大阪商人から金を借りるほど信用ができていないだろう。徳川家500万石はまだ健在なんだ」
 と噛みついただろう。

 戦争は力技だけ名将といえない。
 徳川慶喜は孫子・呉氏の兵法から、ここらをしっかり計算している知将だ。勝利品は西郷たちに渡していない。

 後世の御用学者は勝者側に立って、慶喜が江戸に逃げ帰ったという。決して、弱くて逃げたのではない。

           【つづく】


 写真:雑誌「太陽コレクション」(平凡社・昭和53年5月発行)の「かわら版・新聞Ⅱ」

【近代史革命・鳥羽伏見の戦い】西郷隆盛の苦悶=名将か、愚将か(上)

「金がなければ、戦争はできない」
 幕末・明治の歴史は、この大前提に立って見つめないと、まちがいをおかす。御用学者が都合よく作った年表に乗せられてしまう。
 慶応3年~慶応4年(明治元年)は、歴史の大変革である。

 2月半ば(2017)、ある新聞社の文芸部・歴史担当の記者と、夜、ふたりして酒を飲みながら、大政奉還~小御所会議~鳥羽伏見の戦いなどを語り合っていた。
「小松帯刀日記が某所にあるというので、先日、休暇を取り、新幹線を使って見にいったんです。慶応3年(33歳)がそっくり抜けていたので、がっかりしました」
 記者はずいぶん落胆していた。
「だれが、いつ、どのように日記から抜いたんでしょうね。小松当人とは考えにくい」
 慶応3年の小松日記が残っていると、不都合な人はだれなのだろうか。
 ふたりして、考えたけれど、その場の結論は出なかった。

 記者と別れてからも、わたしは慶応3年12月9日の重要な小御所会議に、薩摩藩の若き有能な家老・小松帯刀がなぜ臨席しなかったのか、とこだわって思慮していた。

 小松帯刀は五代才助などをつかい政治、経済、貿易を取りしきっている重職だ。と同時に、久光の信頼が厚く全権をもっていた。
 大久保利通、西郷隆盛は歴史の上でトップクラスで目立っている。ただ、身分の序列が厳しい薩摩において、かれら下級藩士が家老・小松帯刀や藩主およびその父・島津久光などには、とても逆らえる相手ではなかった。
 後ろめたいことをしていないだろうか。名将にはかならず影がある。

 小松帯刀は三条実美と親しいけれど、岩倉具視をかつぎ上げる根拠に乏しい。もう一つ、かれは武力討幕派ではなかった。

 慶応3年9月に、薩長芸軍事同盟が決まる。それは軍事的な圧力をかけて、徳川家から朝廷に政権を奉還させよう。それが成せば、京都御所の警備につこう、という同盟だった。
 そして、翌10月初に、土佐・後藤象二郎と芸州広島・辻将曹から、15代徳川慶喜将軍に、大政奉還の建白書が提出された。
 慶喜将軍は、小松帯刀もふくめて意見をもとめた。小松には徳川家を排除する方向性はなかった。
 朝廷(天皇)の下に、徳川、薩摩、芸州広島、土佐、諸々家が並列におかれる、という常識的な考えだった。これらは山内容堂なども同様だった。

 このころに、あやしい動きが薩摩にあった。「偽の討幕密勅」という悪質な手法だった。大久保利通が公卿に「この偽物でも良い、武力討幕の天皇の勅許がほしい」と策略しているのだ。
 15歳の天皇が、500万石・徳川家を討て、と逆立ちしても、指図できるわけがない。広島・浅野家『芸藩誌』には、薩摩側の策略や偽物を書いた筆者までも、克明に記録されているのだ。おなじ内容で翌日には、長州の毛利公に出している。武力討伐する気がない広島は断っているのだ。
 つまり、小松帯刀家老と大久保利通とは、まったく違う動きをしている。

 慶応3年10月15日に大政奉還が成された。徳川政権がなくなったのだから、会津藩は京都守護職から外れる。
 薩長土芸にすれば、京都御所の警備兵士の増強が急務である。1日でも早くやらないと、佐幕の巻き返しが怖い。

 大政奉還の2日後、小松帯刀は大久保、西郷らを引き連れて薩摩に帰っていく。むろん、広島も土佐も国元へ使者を遣わす。早急に、軍隊を上げよ、と。
 長州はひとまず朝敵のまま、京都の手前、西宮で挙げさせるという策だった。

 ここから歴史の謎が出てくる。
 大久保が袂に持っていた「偽の討幕密勅」が薩摩藩でどう使われたのか。島津藩主と久光に、どの時点で見せたのか。あるいは見せなかったのか。

 同年11月後半、広島県・御手洗港に3藩6500人(薩摩・3000人、長州2500人、芸州広島1000人)が終結し、京都へ進発がなされた。

 政変が最も激動している最中で、小松帯刀が約2か月間におよんで、薩摩にとどまっている。それも、脚気の病気療養だった。
『ご家老、霧島温泉でも行って静養してください。われら薩摩隼人が3000人の兵を京都に挙げますから』
 誰かにそう言われたのか、小松自身がみずから静養に出むいたのか。小松帯刀日記の『慶応3年』が現存していれば、克明にわかるはずだ。

 年が変わって、慶応4年1月18日に、小松帯刀は京都の明治新政府の参与・総裁顧問として着任している。つまり、この2か月間、日本史でも、最も歴史の大きな転換があった。それも、薩摩藩の大久保利通と西郷隆盛によるものだった。

 大久保利通が、まず岩倉村から謹慎処分ちゅうの岩倉具視を京都に連れ出してきた。公明天皇から罪人にされた岩倉が、15歳の明治天皇に許可をもらわず、小御所会議に臨んだ。厳密にいえば、大久保らが前日に勝手に罪を解除したのだ。長州の朝敵も解き放たれた。
 そして、王政復古の大号令というクーデターで、組閣した。

              【つづく】

 写真:雑誌「太陽コレクション」(平凡社・昭和53年5月発行)の「かわら版・新聞Ⅱ」

これってインチではありませんか。天下り天国か=遠矢 慶子

 日本の車社会は1970年頃からで、あっという間に車優先の社会が作り上げられた。

 路面電車はほとんど消え、大きな量販店は郊外に移り、車なしの生活が出来ない地域が増えた。そんな中で、仕方なく高齢者ドライバーは増え続けた。

『83歳の女性の運転する車が歩道に突っ込み、男女二人死亡』
『87歳の男性の運転する車が、小学生の列に突っ込み男女二人死亡』

 高齢運転者の交通事故が、毎日のように報道され、社会問題になっている。 私も、2、3年前から、夫や子供たちから運転を辞めるようにうるさく言われてきた。
「大丈夫、遠出はしないし、夜は運転しないし」
と、車を手放す気にはなれなかった。

 ただ、なぜか車体のあちこちに、知らない間に擦り傷があり、そのうえ車庫入れなどで運転感覚がにぶっている。
 それでも、視野が狭くなる身体的なことと、自分の経験や技能を過信していたことは事実だ。

 こうした高齢ドライバーのデーターを参考に、最近は免許証の自主返納の促進策が叫ばれている。

 昨年、終の棲家、便利なマンションに移って、車の必要性もなくなり、55年の車の運転も終わりにした。
 免許証も、ついにあと1か月で切れてしまう。

 やはり手放し難く、返納して運転歴記録の申請をすることにする。
 免許証と写真を持って交通安全協会に行った。
「証書代1000円と写真代700円です」
「ここに写真は持ってきたのですが」
「6か月以内の写真ではないのでダメです。免許書とまったき同じですから、撮影日は古いですね。ここで撮れば700円ですが、隣のスーパーは800円とられますよ」
「免許証として使うわけでもないのに、6か月以内とはきびしいのですね。それで申請をして、これはなにに使えるのですか」
「さー、シニア割引とか・・」
 あいまいで、首を傾げる。何のために発行しているのか、まったく熟知していない。
「返却すると3万円もらえる市町村もあると聞きますが、葉山町は何か特典がありますか?」
「何もないです。ご自分の運転歴を証明するためです」
 と本音をおしえてくれた。
「マイナンバーと、どう違うのですか?」
 わたしは強い疑問をおぼえた。
「マイナンバーを持っているなら、これは必要ないですね。これはご自分の運転歴を10年間証明するだけのものです」
 事務員の話を聞いて、実にバカらしくなってきた。
 何のため1700円も出して、使えない免許を作るのか。運転歴なら自分が知っている。
「それなら申請やめます。この1000円の証書もお返しします」
 と言って、写真代とも1700円を返してもらう。

 交通安全協会のために、使えもしない免許歴証明を1700円で買うこともないと思い直し、腹が立てきった。このお金は何に使われるのだろうか。
 交通安全協会は、名前はもっともらしいが、警察署長らの定年後の就職口のために作り、運転免許の申請の仕事をしている。かれらの高額な給料にまわるのだろうか。
「免許証自主返納という制度を作って、運転を辞めようとする老人にたちに、免許履歴をちらつかせ、最後まで、お金を取ろうとしている。それが見えみえだ。

 金取り仕事の「交通安全協会」だ。言い過ぎだろうか。これが交通行政か、考えるほどに腹立たしくなってきた。

 免許証は、これまで、身分証明の代わりに使われてきた。生活習慣になっている。マイナンバーははそれに代わる身分証明証だ。国民にまだ浸透していない。
 年配主者は新規なもの、個人情報にたいする警戒心から、その申請に躊躇(ちゅうちょ)している。マイナンバーが浸透まで、数年はかかるだろう。その狭間を狙った、ずるい行政のやり方だ。

 交通安全協会で、『マイマンバーは身分証になります。それでも、運転履歴の証書を必要としていますか』 と親切なマニュアルをつくれば、申請者は半減以下になるだろう。解っていながらやらない。悪質とはいえないにしろ、ちょっとひどすぎではありませんか。
 警察行政のお偉いさん。年金生活者の立場、弱い者の立場に立ってちょうだい。
  
 政府は、いまや高齢者の免許返納の課題視野にして、ライドシェア(自家用有償旅客運送)とか、完全自動運転の規制緩和をすすめている。また、地域ごとの対策も考えられているが、実用化には、時間がかかりそうだ。

 私はこのところ期限の切れた免許証をみせて、美術館の割引を受けているし、映画館のシニア割引の証明にもなっている。
 写真がついているし、住所、年齢と身分を証明するには充分だ。65歳以上、70歳以上の証明は、古い免許証でも、生年月日がわかるから有効だ。

 いま持っている免許証に『免許・返納済み』とハンコを押せば、その手間もお金もかからないはずだ。新規に作る1700円など、まったく必要もない。それが親身な行政だとおもう。

 お役人の天下り対策は、もういい加減やめにしましょう。弱者や高年齢者を敵に回さないでください。

  イラスト=Googleイラストフリーより

消費という奴隷 = 広島hiro子

 一月の早朝はまだほの暗く、静かだ。

 飛丸智子は布団に入ったまま、半覚醒状態でインスピレーションを拾いあつめた。枕もとのメモに、おぼろげな頭のまま、今日のメッセージを殴り書きした。


(富裕層をふくめ、超富裕層と言われる人々にも参加する権利はある。)
つぎつぎに思いもよらない言葉が湧いてくる。
いくら富裕層を顧客にもつ信託銀行勤務の彼女とはいえ、超富裕層との縁など、じっさいには無いに等しかった。にもかかわらず、飛丸智子はある確信をもって、かけ離れた世界に住む裕福な人々に思いをめぐらせていた。

(戦争をなくす最短の方法は、欲望の体系を再構築することです。そのためには、同等の機会を世界の隅々にまで与えなければなりません。お金を持つとされるものも、そうでないものも等しくです。)
 とメッセージはつづいた。

全文は、下記をクリックしてください。

消費という奴隷 全文・PDF


          写真 : google写真フリーより

新金線は大願成就なるか? 葛飾の夢をもとめて=櫻井 孝江

 葛飾区内には、北から常磐線、京成線(本線と押上線)、総武線(快速・各駅)が東西に横切っている。

小松橋から新小岩駅方面を写す

 しかし、南北を繋ぐ鉄道はない。亀有等から東西線の葛西へ行く時は、バスを利用するか、都心を通って大きく迂回して行くしか方法はない。

 不便を感じている区民もいた。そこで、金町・新小岩間にある線路(貨物の新金(しんきん)線(せん))の利用を旅客用に考えた人々がいた。記者もその一人であった。
 葛飾区内の南北の旅客鉄道の願いが、どのようになっているか 調べることにした。


明治30年12月27日(1897)   金町駅開業

大正15年7月1日(1926) 新金線開通(同時に新小岩操車場開設)

昭和3年7月10日(1928)    新小岩駅開業

操車場を停車場(駅)に変更した

昭和21年(1946)  新小岩駅にて貨物営業開始。

昭和38年(1963)  新中川開通(線路が一部変更になる。奥戸中学校あたり)

昭和39年(1964)  新金線電化

昭和43年(1968)  駅の貨物営業分離で、新小岩操車場駅開設

           操車場跡



・新金線のJR戸籍上は、総武線支線 貨物線である。

・区間は、新小岩信号場駅から金町駅迄である。

・距離は、6,6㎞の全線単線である。


2、新金線の今

 現在の新金線のダイヤは下記の10本である。

① 金町駅発➡新小岩駅着

   0027➡0038(日曜休)

   0624➡0635
 
   1017~1049➡1223~1053

   2131➡2141

   2250➡2301

② 新小岩駅発➡金町駅着

   1523➡1533(日曜休)

   1745➡1758

   1920➡1930

   1949➡1959

   2230➡2241


『新金線に沿って15ヶ所の踏切がある』

 新小岩寄りから、

 奥中区(おくなかく)道(どう)・立石大通り・細田・東京街道・耕道・耕道第二・小松川街道・高砂・新堀・新宿新道・柴又・浜街道・三重田街道・第二新宿道・新宿道である。

 (人・自転車のみ通行)

 新宿新道は、国道6号線と交差している。その他は、のどかな住宅地の中である。

 高砂付近で、金網で囲まれた線路を、金網の隙間から入って、反対側に歩いていく女性を見かけた。

  『これからの展望』

 葛飾区内の南北の鉄道がないので、バス路線が区内の隅々まで行き渡ってきた。新金線沿線を取材していると、かつて、旅客化・複線化を考えていたのではないか と思える場があった。

 新中川を渡る陸橋に沿って、橋脚がもう一列ある。

 橋を渡った線路沿いの一部には、盛り土が幅広くなっているところがある。線路際にある細田小学校の場所に駅を作る予定であった という噂もあった。

 葛飾区都市計画マスタープラン地域別まちづくり勉強会のまとめ(平成21年9月 6日)には、金町・新宿地域と奥戸・新小岩地域から 

○新金線の活用で旅客化できないか。


○電車を走らせなくても、既存線路を活用した新交通システムを活用したい。
 等の意見が出ていた。しかし、JRからは、「貨物線の廃止は、代替路線がないためできない。」と説明済みの返事であった。

 平成28年区議会でのくどう きくじ議員の質問にも同じ回答が寄せられている。

 区議のうめだ 信利さんが、今も新金線の活用を訴えている。

 旅客化となると、国道と交差している部分の問題などがあり、難しくなり、現実化は厳しいと分かった。

                          
                2016.9.19~10.4取材 10.28編集


【情報使用(写真、時刻表、文章)の場合は、下記のクレジットを明記してください】


     かつしかPPクラブ  櫻井 孝江

【寄稿・コラム】 奇跡ってあるんだ~!ご縁も奇跡?= 広島hiro子

 新聞の正月記事は特に念入りにチェックする。国の行く末、平和につながる良いアイデアはないかーと、もう20数年になるだろうか、お陰で私の部屋は新聞記事、書籍などのスクラップの山なのです。あ~~若いころは音楽と恋とお洋服が私のすべてだったのに。
 ひとは出会う人やきっかけ次第でこうも変わるものなのですね。ひとの縁こそが私にとっての奇跡・・・感謝&畏怖する年初であります。

 今日は、1月3日の中国新聞オピニオン記事のなかの奇跡(?)を他ふたつご紹介します。
 ひとつは、物や仕事の縁のことです。穂高健一氏が掘り起こしたといえる「芸藩誌」がそうだと思います。核兵器で壊滅し、歴史をさぐる資料をほとんど失くした広島に、奇跡的に残った「芸藩誌」、これなくしては『二十歳の炎』という高間省三を描いた歴史小説も、生まれていませんよね!?

 仏教大歴史学部の青山教授も史料から、芸州が明治新政府の中心の可能性もとお考えです。学会はまだ注目されていないようですが、青山教授を中心にこれから研究のご予定らしく、歴史を覆す新しい発見になるのではないかと私もワクワクしています。

 しかし、こんなすごい史料、よくぞ突き止められましたね。穂高さんの行動する執念がこの奇跡を呼んだのでしょうね。 求めれば与えられるという奇跡があるんだということが、またすごいと思います。


 それともうひとつの奇跡があります。それは偶然のようなひらめき、インスピレーションです。例えば小説家ならば、予期せぬ言葉が、話をしているときや、一心不乱に小説を書いているときなどに湧いてきたりします。
 私でもありますよ。お風呂で髪を洗っているとき、あるいは目覚める前とか。これがイノベーションに繋がったりしてきます・・・、皆さまのひらめき経験はどうでしょうか?

 このオピニオン記事にある『富国富民』は、きっとインスピレーションという奇跡が起こした言葉なのでしょう。少なくとも私のなかでは奇跡です。
 歴史にある「富国強兵」とは真逆の言葉なのですから。私の希望する平和は、軍事国家で儲ける富国でなくて、民が強く優しく豊かになる国です。

 歴史はシロウトの私が想像するに、幕末の志士たちが欲したのは、近代技術や金融システム以上に、それまでの身分がすべてであった封建時代とは相反する、理想的な民主主義の考え方だったのだと思います。
 実際には本物の民主主義にはほど遠いものにすり替わったのですが、福沢諭吉や二宮尊徳の名言が、これから未来にこそ生きてくると期待しています。

 穂高さんの持っておられる奇跡は、歴史家に不足しがちな経済的理論です。経済学部首席で卒業された? 異色の歴史作家の強み。それに広島出身という地縁も、奇跡的だと感じられます。

 できれば、これからの先生方の歴史の検証をきっかけとして、今昔、誰も民を中心に考えなかった施策に、歴史の偉人たちの熱き志を呼び戻してもらえますように願っています。

 ちなみに、宗教学者からの重要なメッセージがありました。奇跡は、宗教だけの専売特許ではなく、どこにもあるのだそうです。2017年は良くも悪くも、「変化の年」だと思います。勇気ある行動は、思いがけない奇跡を呼ぶかもしれませんね。
 皆さまに、たくさんの奇跡や幸せがありますように。年の初めにて、お祈り申し上げます。


            写真:広島城(原爆で完全焼失したので、復元です)


                                             【了】

小説3.11『海は憎まず』その後は?=防潮堤は身命を助けるか、凶器になるか②

 大堤防、それとも防潮堤なの。巨大なコンクリート壁だ。これが有名な復興の一つなのか。海が人間を見たくないと拒絶したのか。まるで、人間が隔離されているみたいだ。

「この先、大津波がきても、これじゃあ、海の様子はまったくわかりません。押し寄せる津波の恐怖と緊張が実感できず、逃げ遅れるひとも多いでしょうね」

 3.11の体験者によると、防災無線が低い波高を報じたから、それなら大丈夫だ、と油断して津波にのまれて亡くなったひとが多いと話していた。
 家屋が二重ガラス窓で、防災無線は聞こえなかったという人も取材してきた。

『災害無線は大災害に瞬時にして、的確な情報を流せない』
 これは共通認識ではなかったのか。


『大津波は自分の目と肌で恐怖を感じ、避難するものだ』『てんでんこに逃げる』(親でも、子ども、無視して、わが身はわが身で守る、という教え)

 なぜ海が見えない、高さ12メートルもの巨大コンクリート壁を作ったのだろうか。私にはまったく理解できなかった。
『自然災害は、人間が物理的な抵抗をするほど、被害を大きくする』
 そんな教示をした学者もいた。ヒアリングもなかったのか。意見が通らなかったのか。

「漁師さんが沖合から、一せいに海辺に逃げもどってきた先、この高い壁はどう乗り越えるんでしょうかね」

 探せば、巨大な壁のどこかに石段がきっとあるはずだ。現在は工事中で立ち入れず、特定できない。むろん、ゼロとは思っていない。



              写真提供 : ㈲高田活版 福呼う本舗  撮影者 : 佐藤操さん


 大防潮堤の外に海水浴場ができるらしい。想定では、真夏には大地震がこないのだろうか。

  賑わう海水浴客が、一気に避難する際、巨大な防潮堤はとんでもない障害物になるだろう。私にはかんたんに阿鼻叫喚(あび-きょうかん)地獄絵の大混乱が想定できた。これは作家の単なる架空の空間だろうか。


                      *


 人間は災害パニックに陥ると、ふだん使ってないルートが判らずして逃げ惑う。この人間心理は真実である。それをどう理解し、この構築物に織り込んでいるのだろうか。

 過去からくりかえされてきたホテル・旅館火災の死傷事故は、心理学的にも、大防潮堤にも当てはまるはず。漁師も海水浴も、われ先に狭い石段に押しかけていくだろう。
 大津波は容赦なく、タイムラグさえもなく、背後から大勢の人間を瞬時に飲み込んでいくだろう。


 
「コンクリートは50年でひび割れしてくる。内部の鉄筋が、沿岸部ならば、なおさらも塩分で酸化してきて腐り、もろくなりますよね」
 これは事実だ。
『固い頭の人間ほど、硬いものは強いと信じやすい』と揶揄(やゆ)したくなる。

  鉄は塩分に最も弱いのだ。強烈な圧力の大津波がきたら、ひび割れたコンクリート堤など持ちこたえられるはずがない。それは杞憂ではない。

 思うところをずばり、歯に衣を着せず、言い切ろう。50年に一度、その都度、巨大な防潮堤が作り変えられるはずがないだろう。

 いまから約50年まえに、「建設国債」というひびきのよい債務が発生した。いまや、それが1000兆円の赤字国債だ。あの建設という枕ことばはどこに行ったのか。


 これからの50年後は、日本人は不安に思っている。倍々ゲームでいけば、おおかた3000兆円くらいになるかもしれない。となると、世界屈指の債務大国だ。ある日突然、世界銀行から融資打ち切り、と同時に、超緊縮の政策指図がもとめられる。世界各国からは、債権の取り立ての渦が巻く。

 泣いても、叫んでも、容赦なく、防潮堤がひび割れていても、日本人の生死にかかわると言っても、外国人は冷淡にいっさい見むきもせず、IMFはびた一文も追加融資などしてくれない。

 債務超過国家となれば、「ない袖は振れない」、その施策しかないのだ。第二次世界大戦後、『予算がない』が役人の唯一の仕事だった。


「高田松原の松林遊歩道」が、大津波で消えてから、5年余りで巨大な防潮堤に変身した

写真提供 : ㈲高田活版 福呼う本舗  撮影者 : 佐藤操さん


「政治は100年の計」どころか、50年先の約3000兆円の国家赤字財政すら、為政者らは視野に入れていなかったのだろうか。
 目先の復興予算を使う。このていどの認識だったら、為政者の資質を問われる。選んだ選挙民が悪いのか。賛成したのは住民だ。論旨はここに落ち着くのだろう。

 なにかにつけて「多数決」「大多数」という便利な道具で、片づけられてしまう。民主主義と人命主義の優劣など……、この場ではやめておこう。
 

 これだけの大規模な予算を使うならば、四車路の避難路をつくったほうが、より安全じゃないのかな。モータリゼーションだから、津波発見となれば、かならずや車で逃げる。緊急車両も視野に入れると、四車線は必要だ。

 為政者は、まさか施工費の高い方を選んだのではないだろうな、と私は疑ってしまった。

【寄稿・】 創造する平和にむけて = Hiro子

 今日、金融機関は平常勤務なのだが、一日早い休みを取った。
 みんな年末であわただしいというのに、私は原爆ドームを前に新しくできた「折り鶴タワー」で、コーヒーブレイクだ。正直、年末大掃除もまだだけど、ちょっとだけ勘弁して下さい。

 今、幕末・明治維新の歴史が熱い。
 明治維新の近代化が日本の夜明けとなったとの一言で、かたずけられている空白の10年。その歴史の大転換点に、注目が集まっている。
 メディアでは最近こぞって、徳川の埋蔵金や、坂本龍馬が死の間際に得た8万両もの資金をめぐる番組などを流している。歴史にうとい私の家族も、いつもならすぐにバラエティー番組に変えてしまうところなのに、先日は最後まで釘づけだった。

 もう何年も前から、幕末の志士たちによる美談にぼやかされた近代のイメージに、待ったをかける話題や書籍は多くなっていた。
 しかし、今は歴史オタクでなくとも、頻繁に庶民が目にするようになってきた。事の正否は別にしても、だ。

 数年前より先んじてネットや新聞で、歴史作家兼ジャーナリストの穂高健一氏が、
「明治維新以来、10年ごとに戦争する国に誰がしたのか?」
 と訴えておられた。

 同氏は更に、こう言われていた。
「明治維新は、それまで(江戸幕府時代)の、封建社会から資本主義社会に変わる転換点だったのだと、日本の金融から世界の金融に変わったのだと、はっきり教科書で教えればいいんだ」、と。

 世の流れは、さらに隠された歴史に潜り込む。
 年始の地元紙では、明治維新に関わる、それぞれの話題を特集するようだ。
(何かが変わってくるのかもしれない……)
 また密かではあるが、そう思えてくる。

 師走の原爆ドームは、今日も静かにたたずむ……、何をかいわんや。

 そうだ、帰って掃除しよう!
 まずは家族の平和から創造するのだ!!


                                【了】

一度は廃城になったが、本ものが残る美城 = 松江を歩く


 鳥取県立博物館で調べ物をした翌日、松江へ足を運んでみた。  

 全国には、本ものの天守閣は12カ所ある。

 その一つが松江城(島根県)である。



 その実、松江でなく、『隠岐騒動』が起きた「隠岐の島」に足を運びたかった。海を渡る1日の日程だと、現地取材もままならず、断念して、松江城にきてみた。

 文献によれば、慶応4年(1868年)の戊辰戦争のおり、隠岐を治めていた松江藩の代官が、島民の蜂起により放逐されている。

 隠岐ではしばしば飢饉への対処が悪かった。さらには外国船の来航・上陸するが、松江藩は無為無策ぶり、成すことも後手後手だった。島民の不満がとうとう爆発したのだ。

 新政府の下で、隠岐に自治政府が成立した。その後、松江藩に奪い返されたが、鳥取藩と新政府の介入でふたたび自治政府が開かれた。


 明治2(1869)年2月25日には廃藩置県よりも2年も早くに、『隠岐県』が誕生している。

 明治維新では、ほとんど語られない『隠岐騒動』の自治政府には、関心がある。もしかしたら、幕末・維新のエキスがあるかもしれない。

 お城ブームで、全国には「復元天守」、「復興天守」、観光目的の「模擬天守」が多数ある。

 ときにはうんざりさせられることもある。

 この松江城の天守閣は本もの。深みと味がある。


 平家・源氏の台頭から約1000年もつづいた武家社会が、明治時代からわずか最初の10年間で消滅した。
 こんな短期の社会革命は、世界史のなかにおいても、めずらしい。

 新政府による「廃藩置県」は1871(明治4)年に行われた。武家政治の象徴であるお城が「廃城令」で、全国の城・陣屋が次々に取り壊された。「廃刀令」、「断髪令」も加わり、武士という身分制度がこの世から消滅した。
 西南戦争をもって、2度と武士社会はよみがえらなかった。

 なぜ、「廃城令」のなかで、松江城の天守はなぜ残ったのか。

 1873(明治6)年。松江城は、廃城令に基づき、大蔵省の管轄下で、(天守を除く)、お城の建造物が4円~5円(当時の価格)で払い下げられた。解体されて、木材、瓦などが売り払われて国庫に入ったのだ。

 次なる天守も、大蔵省査定により180円(当時の価格)で売却されることが決まった。

 片や、出雲郡の豪農、元藩士らが解体に忍びないと、同額180円で、大蔵省に納めて買い戻されたのだ。そして、現在まで保存されてきた。


 松江藩は親藩で、18万6000石

 松江城は慶長16(1611)年に築城された。

 天守の建造は慶長12(1607)年である。

 幕末の松江藩は、政治姿勢が曖昧で、優柔不断だった。大政奉還・王政復古後の新政府ができても、藩内の意見は、幕府方・新政府方どっちつかず。

 挙句の果てには、新政府の不信を買ってしまった。

 最終的には、新政府に恭順することとなり、慶応4年(1868年)に始まった戊辰戦争では京都の守備についた。

 こうした藩だから、明治2(1869)年は、さっさと『隠岐県』が誕生してしまったのだ。

 歴史は後からなんとでもいえるが、当時は様子見が最善だったのかもしれない。  


 小泉八雲は、ギリシャ生まれのイギリス人であった。元松江藩士の娘セツと結婚して、明治24年6月から同年11月まで、約5ヶ月間の新婚生活を過ごした。


 小泉八雲旧居の目の前には、松江城のお濠がある。

 西洋人の観光客が多く、のんびり景観を楽しんでいた。


 見ごろは桜とお城だろう。

 遠景はいつでも楽しめる
 
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 お濠の橋から覗き見と、屋形船にはしっかり広告が記されていた。


 城下の武家屋敷は、江戸時代に心を運んでくれる散策になる。


宍道湖(しんじこ)は、夕日が美しい、と聞いていた。

日本海側の天候は不安定だ。

昼間は晴れていたが、夕暮れには雲が多くなった。

日本海の海水接しているので、「淡水湖」ではなく「汽水湖」である。

 平均の塩分濃度は海水の約1/10らしい。


 嫁ヶ島(よめがしま)は、宍道湖唯一の島である。全長110メートル、幅約30メートル、周囲240メートルと紹介されていた。

 湖岸から島までは220メートルていど。水深は最大130-140cmと浅く、歩いて渡る行事もあると聞いた。

 島の名前の由来に興味をもってみた。

 若嫁が、姑にいじめられて身投げした、とか悲しい伝説にもとづいているようだ。類似した伝説は多く、どれが真実か、解りかねる。