「元気100教室・エッセイ」 現状維持 金田 絢子
令和三年十二月、雪の便りも届き、ぐんと寒くなった。ところどころ、一重の椿がしおらしく赤色を覗かせている。
ある日、買物の帰り狭い歩道にさしかかると、八十三歳の私と同年輩の紳士が向うからやって来た。私を見ると立ちどまり「どうぞ」という風に身をかがめた。
私が通り易いように、道の端に体を寄せてくれている。私は「ありがとうございます」と丁寧に言って、通りすぎたが、多分、私の歩き方にどこか不安定なものを感じとったのだろう。
実は、同年十月十五日、私は左脚の付け根から踝にかけて、激しい痛みに襲われ、その場に凍りついた。かかりつけの内科医に紹介してもらい、歩いて十分ほどの総合病院の整形外科に行った。
レントゲン検査の結果、左の腰骨のゆがみが神経を圧迫しているのだと診断された。痛みどめと胃ぐすり、寝しなに飲む神経をやわらげる薬を処方してもらった。
痛みは日を追って楽になっていったが、玄関の三和土におりてドアをあける動作は、向こう脛にひびく。歩くのはあきらめて、四、五日外へ出なかった。家の中はかがんで歩いた。
それまでもよろよろ歩いていたのだが、なおいけなくなった。力を入れても脚が思うように言うことを、聞いてくれない。年よりだから快復は遅いだろうが、歩かなくてはと痛切に思った。
コロナのせいで、月に一度の新橋のエッセイ教室はしばらく通信で行われていた。が、九月から対面でも実施される運びとなった。
九月はいそいそと出かけたが、十月は生憎、脚の神経痛で参加できなかった。十一月三十日は思い切って出席を決めた。決めたものの落ち着かず、早すぎる時刻に家を出て、地下鉄の都営浅草線に乗り、新橋まで。駅の長い階段をやっとのことでのぼって、教室のあるビルに辿り着いた時には、全身がふるえるほど嬉しかった。
思えば、この日の外出は、私にとって久々の遠出であった。
世界中が、コロナ騒ぎと縁の切れないまま、年が明けた。寒冷前線が猛威をふるい、北国に大雪をもたらし、六日、東京も雪に見舞われた。
私は七日の十時に歯科の予約が入っていた。テレビは「凍結に充分注意してお出かけ下さい」とくりかえしている。
普段は、我が家のわきの坂道を通って三分で行かれるのだか、危険なので迂回することにした。医院の入口まで、娘が付き添ってくれた。娘に言われて傘を杖がわりに持って、決死の覚悟で出発した。ともすれば、つるりとすべりそうになる。傘が役に立った。
診察を終えて、受付のあたりで、
「あしを痛めてから、脚力がにぶりました。でも歩かなければと自分に言い聞かせて、極力歩いています」
するとS先生は言葉をかみしめるようにこう、応じられた。
「歩いていれば、よい結果がついてきます」
私より五つ年下のS先生は、ずっと以前から、長距離歩行をご自身に課して来た人だ。信憑性のあるひとことは、胸にしみた。
歩みをはじめたばかりの新年を前に、勇気づけられ、爽快な気分で、家路についた。幸い往きも帰りも、転ばすにすんだ。
今さら完治はのぞめないにしても、何とか現状維持で、この年をのりこえられそうな、嬉しい予感がする。