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猊鼻渓の舟下り、写真で美観を愉しむ=岩手県


  岩手県の猊鼻渓(げいびきょう)の初冬に遊ぶ



 渓谷の岩稜と清流は、魅せられてやまない。

 


 新緑、紅葉も好いがらしいが、冬場は樹木の遮りがないので、切り立つ岩盤は見事だ。


 自然の造形美は、数千年、数万年の歳月をかけてつくられたもの。

 見厭きることはない。



 上り、下りの舟遊びは一時間半ゆっくり、人生の余裕すら感じさせる。

 北からの渡り鳥の鴨が近寄ってくる。

 愛らしく、心から楽しめる。



 カップルは、心と写真に想い出を残す。


 観光客の視点は、岩盤の一点に注がれていた。

 小さな穴に、瀬戸物の皿を投げ入れる。

 見た目よりも、遠くて、とどかない人が多い。


 
 案内したくださったのは、大和田幸男さん

 3.11小説「海は憎まず」で、取材協力してくださった。

 大和田さんも、猊鼻渓は初めてだと、景観に感動されていた。


「おおーい、帰るぞ。取り残されたら、泳いで帰ることになるぞ」

 船頭さんが呼びかける。


 全員乗れたかな?


 人命を預かる船頭さんの竿捌きは、巧いものだ。


 竿の尖端は、怪獣の爪のようだ。



 夏場は船頭が一人。冬場は屋根がかかっているので、ふたりの船頭が乗り込む。

 ひとりは説明は、民謡を披露してくれる。

 謡う喉はプロ級だ。


 船頭の美声に聴き入る


 渓流の美の彼方に、すれ違っていく船がさっていく。



 船下りの料金は、大人 1,600円  小学 860円です。

 こたつ舟運航期間は12月~2月末まで、

但馬国・出石城の仙石騒動って、なんて読むの?   紅葉が真っ盛り

 幕末小説「桂小五郎・木戸孝允」の取材で、いまは各地を飛びまわっている。


 長州藩兵ら2000人が、京都御所の蛤御門に突入を図った。かれらは敗れて逃走した。「禁門の変」である。

 長州藩の京都留守居役(朝廷工作の責任者)だった桂小五郎も、追われて、兵庫県の但馬に逃げた。

 隠れ住んだのが、但馬国の出石城下である。



 藩主は千石家で、天保時代のお家騒動でも有名である。

 関東在住のひとで、「但馬?」「出石?」「千石家?」がすんなり読めたら、そうとうの歴史通である。


 出石(いずし)城は、兵庫県北東部の但馬(たじま)にある。


 戦国時代は、山城で、有子山城が山頂にあった、赤い有子橋を渡っていきます。

 これも、読みにくいな


 
  有子山(ありこやま)城は、江戸時代は山麓に降りてきて、出石城となった。

 この出石城「二の丸」は、紅葉がまさに盛りだった。



 本丸への階段には、赤い鳥居が連続する。

 稲荷神社かな、と思ったが、そうでもなかった。

 


 黄葉も、見ごたえがあるな。 

  太鼓橋で、家族が紅葉を楽しんでいる。

  大勢の人出だった。


 


 
 紅葉ばかり見ていると、白堊(はくあ)の建築物も、みょうに新鮮に思える。


 辰鼓楼(右手)は、時計台だった。

 関東だとソバは信州だが、関西では出石だった。

 江戸時代に信州上田の大名家が転封(てんぽう)し、そば好きの大名が家臣らとともに、そば職人をつれてきたという。



 訪ねた日(2016年11月16日)が、出石自慢の『新ソバ大会』だった。

 出石役場の前には、一人前(小皿・5皿)が500円である。見るからに市の職員や、近隣のお手伝いさんが懸命に働いていた。
 



 旧・武家屋敷の銀杏は、青空にむかって映えていた。



 いずこの寺院の境内も、紅葉で燃えている。


 落ち葉を踏みしめる音は、じつにさわやかだった。


 
 「宋鏡寺」は、沢庵和尚で有名である。ここら、タクアンが全国に広かったという。

 桂小五郎は雑貨屋に扮装していた。

 この通称・たくあん寺で、散策でも、来たかな、と思い浮かべてみた。逃亡者は心理的に、紅葉狩りのの余裕などないかな。

 名刹は、夕方にかぎる。観光客はひとりもおらず。

 無人で、静寂で、ひとり秋の情感を味わえる。

 「出石資料館」に出むいた。建物は明治だった。

 「出石城の甲冑」はいま土蔵が工事中で観られないといわれて、がっかりした。

 受付の方が、あまりにもがっかりしていたからか、土蔵の内部が工事でないので、特別に閲覧させてくれた。

 蔵の展示のなかで、歓声をあげたいくらいの、慶應4年3月の「太政官」令をみつけた。


 明治政府は初年からキリスト弾圧をとった。この「太政官・令」が証拠品であり、英仏・アメリカから強い抗議で、撤去の要請が出てきた。

 まだ、勝海舟と西郷隆盛の話し合いで江戸城が開城する前だった。


 明治新政府は 「太政官」令のお触書で、戊辰戦争のさなかにもかかわらず、いきなり重大問題を起こしてしまったのだ。

 桂小五郎(木戸孝允に名前を変える)は、長崎浦上の隠れキリシタンの処罰問題で、大きくかかわった。

 さらに岩倉使節団が明治4年((1871年)年11月12日から明治61873)年9月まで、日本からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国に派遣された。副使に木戸孝允・大久保利通とした政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成された。

 日米通商条約な欧米との条約改定の期限が、翌年に迫っていた。その交渉が主たる目的だった。
「キリスト教徒を弾圧する野蛮な国家と外交交渉をしない」
 と剣もほろほろに扱われてしまった。
 さらには、岩倉使節団は行く先々で、民衆から石も投げられた。結果として、どの国とも、条約改定の外交交渉はできなかつた。

 かれらは帰国して、慌てて「太政官・令」の撤去を命じたのだ。

 「出石資料館」受付の方に、よく「太政官・令」がありましたね。というと、「最近、お城の蔵から発見されたのですよ」
 と教えてくれた。
 お礼を言って立ち去った。

 先々月は長崎、先月は萩、津和野、このキリスト教の「太政官・令」は見られなかった。まさか、この出石で見られるとは思いもかけなかった。

「生物多様性とは、人間の勝手で作った言葉だ」市田淳子さん

 伊吹山(いぶきやま、いぶきさん)は、主峰(最高峰)標高1,377 mの山である。滋賀県米原市、岐阜県揖斐川町にまたがる。植物の宝庫である。

 現況において、さまざまな問題があるようだ。「すにーかー倶楽部」の市田淳子さんが、「地球温暖化」と「生物多様性」を取り扱った作品を寄稿してくれた。


 伊吹山は長い間行ってみたかった、と彼女は記す。『なぜ行きたかったかというと、特異な気候と地質、固有種の多さ、そしてお花畑を見たかったからだ。』

 登山をしながら、山頂の三角点を確認し、そこでみたものは、柵に囲まれたクガイソウ、ミヤマコアザミ、サラシナショウマなどの群落だった。
 保護が必要となったのは、シカなどの食害というより、温暖化によるアカソ、センニンソウ等の繁殖力だそうだ。ここから、現況から今後を見渡す問題点を抽出している。

 温暖化とはよく聞くことばだ。片や、最近は急激に高山植物の体系が変化してきている。どこかしこも、高山植物で美しく輝いていたお花畑が全滅してきた。『雑草だらけの山だ』という声すらもある。
 それは単に温暖化だけの問題ではない。自然に対する人間の向い方だ、と彼女は言う。

 登山者からの叫びや提唱だけではない。山登りをしない人も、「自然と人間の関わり方」として認識するべき問題だろう。


 穂高健一ワールドの『登山家』『新しい寄稿作品』に掲載されている。

恩師・伊藤桂一さんを悼む=出会い、戦争文学を学び、非戦文学の道へ

 私の人生の転機は伊藤桂一先生との出会いである。先月末、先生は99歳で死去された。死の床には、同人誌「グループ桂」への寄稿の「詩」が用意されていたと聞く。

 先生の死を悼みながら、想いはまず出会いだった。もっと前の、なぜ小説の道に進んだか、そこまで、私はさかのぼってみた。

 28歳のとき、大病(腎臓結核)で長期療養を余儀なくされた。腎臓はふたつある。手術で腎臓を摘除すれば、わりに早く治る。そのうえ、病後の再発リスクも少ない。

「あなたは登山をなされている。一つを摘除し、残る一つの腎臓が登山中に破損すれば、即座に死になります。薬をつかって治療(化学治療)で治すとなると、数年、もしくは10年にも及ぶ。どちらを選びますか」
 と医師に選択肢をもとめられた。
「薬で治します」
「10年くらい、薬を飲み続ける。つまり、10年間は通院の覚悟が要りますよ」
「だいじょうぶです。通います。治癒したら、山には登りたいですから」
「そうなさい。実は病院に来たり、来なかったりする患者には、この治療(化学治療)は勧められないのです。なぜならば、結核菌は強い細菌で、かつ薬に対して耐性をもつ。そのうえ、結核菌はからだのどこにでも付着するんです。人体のどこで再発するかわからないリスクがありますからね」

 次女が産まれた翌日から、私の長い入院生活がはじまった。さらには自宅療養がはじまった。性格的には、さして病気は怖れないし、むしろ楽しむように中国古典を読んでいた。前穂高の岩場と大雪渓の間で滑落したとか、雪山の滑落で捜索隊を出されたとか、「これで死ぬのか」という死の瞬間の想いは、20代だけでも、2度も体験していた。
 それに比べると、薬さえ飲んでいれば、治るのだ。悲壮感など微塵もなかった。

 ただ、病床で分厚い古典本を読むとなると、腕には負担となり、朝夕つづけて読むのには疲れてしまう。
「寝ながら、なにかできることはないかな」
 と思慮した。


 小説ならば、寝て考えて、起きたときに、それを書けばいい。そんな安易な動機で、予備知識もなく、小説まがいの作品を書いてみた。
 時間はたっぷりあるが、はたしてこれが小説なのか、という不安がつきまとった。
「だれか教えてくれる人はいないかな」
 経済学部卒だし、そんな想いが長く続いていた。

 腎臓結核が回復途上なのに、膀胱腫瘍が発見されて開腹手術になった。さらには、無呼吸症候群という寝ながらにして呼吸が止まる厄介な病気にも陥った。(大腸腫瘍の手術も)。
 働くよりも、闘病生活で寝ている方が多い。病気の宝庫のような、ありがたくないからだだった。
「あなたは医者運が良いわね。どれ一つとっても、死んでもおかしくないのに」
 親戚筋から、そんな声が聞えてくる。
 妻への負担は、一言ふたことでは表現できないものだ。
「父親の病院見舞いなど、ぜったいに行くものか。本を読むか。原稿を書いているだけだ。あんなの病人じゃない」
 子どもはそっぽを向いていた。

 どの病気の合間か、忘れたが、電車のなかで隣の人が夕刊フジを見ていた。そこに『講談社フェーマススクール』で、「小説講座募集」と広告が載せられていた。
 下車し、迷わず買ってかえった。応募者には数枚の原稿が科せられていたと思う。
 電話で問い合わせると、「伊藤桂一教室は純文学です」、「山村正夫教室はエンター(当時は、中間小説)です」という答えがあった。
 私は迷わず伊藤桂一教室を選んだ。教室に通いはじめると、「あなたは純文学じゃないわよ。ストーリーテラーよ。山村教室に変わったら。そうしたら、世に出るのは早いわよ」と、何人からも、何度も言われた。
 現に、山村教室からは、宮部みゆきさん、篠田節子さん、新津きよみさん、と次々に文学賞をとり、プロ作家へとすすんでいく。
 純文学の伊藤教室は、鳴かず飛ばずで、8年間で『講談社フェーマススクール』は閉じてしまった。


 その後、伊藤桂一先生の好意で、同人誌「グループ桂」が立ち上がった。巻頭には、伊藤桂一先生の詩が掲載されている。先生自身も強い愛着を示されて、毎号、欠かさずに、詩を寄稿されていた。私のほうは、プロ作家になって同人誌活動はしていない。それに比べると、伊藤先生はすごいな、と思う。


 朝日新聞の「天声人語」(11月3日・文化の日)に、伊藤先生に関連する記事が掲載されていた。


 これを読みながら、私は先生の影響を強く受けているのだな、と思った。そこに、「グループ桂」の追悼文の依頼があった。文字数が限定されているので、上記の出会いなど書けなかった。そこでいま執筆する歴史小説に関連して書いて寄稿した。
 それを全文、ここに掲載します。

【伊藤桂一先生・追悼文】

『最近の私は、歴史小説の執筆に傾倒し、それをひと前で話す機会が多くなってきた。戦争は起こしたらおしまいだ、起こさせないことだ、と熱ぽく語る。今や、それが人生のテーマにもなっている。

「江戸時代の260年間は、日本は海外戦争をしなかった。しかし、明治から10年に一度は、海外で戦争する国家になった。広島・長崎の原爆投下まで、77年間も軍事国家だった。いまだに、日本人は戦争好きな民族だと思われている。だれが、こんな国家にしたのか」

 私たちは原爆の被爆者だ、核廃絶だと叫んでも、それは真珠湾攻撃からの戦争問題になってしまう。もっとさかのぼり、幕末の戊辰戦争までいかないと、根源はみえてこない、と広島育ちの私が語る。なぜ、こうも非戦にこだわるのか、と自分でも不思議に思っていた。

 伊藤桂一先生の死去の悲しみに接したとき、そうか40年間にわたり、恩師の影響をごく自然に受けていたのか、と理解できた。

 文学をめざした頃、私は伊藤桂一・小説教室に通いはじめた。先生は直木賞作品『蛍の河』など、自作の戦記物などを取り上げ、作品づくりや文章作法を懇切丁寧に教えてくださった。と同時に、作品批評も鋭くなさっていた。それから長い歳月が経つ。
 数年前、伊藤先生と最後の顔合わせとなった、ある懇親会(日本ペンクラブ)の場で、
「君の歴史ものは、下手だったよな」と、にたっと笑われた。

(なぜ、下手だったのか)
 習作当時の私は、武勇、武勲の武士や尊王攘夷の志士などを書いていた。そこには戦いや戦争を憎む姿勢がなかったと思う。先生はきっとそれを遠回しに指摘されたのだ。
 それが今にしてわかった。』

                             了

旅の情景=津和野は美観。しかし、明治時代に残酷な歴史があった


 津和野に出むいた。

 山口線の駅でSLに出合った。

 そうか観光目的で、この路線を走っているのだ。

 すれ違いの列車に乗っていたが、すぐさま降りて、3枚ほど撮った。


 車掌の制服が良かった。

 そちらに向かって小走りになった。

 なにしろ、わが列車はすぐに出るかもしれないのだ。

 私に真似して、5、6人が降りてきた。

 「もう出ますよ」
 こちらの運転手に急かされて、戻りながらも、なおもシャッターを押していた。

 過ぎ去っていくSLのアングルもいいかな

 一両列車の最後尾に行った。


 萩・津和野はなにかとセットで捉えられている。

 だから、津和野は山口県だと思われている。

 その実、島根県だ。

 はじめてきた街だが、よく整備されたうつくしい街だった。

 この町に、明治初期に悲しくも、過酷な歴史があるとは思えないほどだ。

 長崎浦上の隠れキリシタンが、幕末から明治にかけて弾圧された。とくに、明治時代の弾圧は、人間が、老若男女に対してそこまで残忍なことが出来るのか、というものだった。


 幕末の各国との通商条約は、宗教の自由を認めるものだった。長崎に教会ができた。すると、隠れキリシタンが礼拝にやってきた。幕府は日本人のキリスト教崇拝は認めなかった。大量に捕縛された。それが「浦上四番崩れ」とよばれる隠れキリシタンだった。

 翌年、明治時代になった。新政府はこれらキリシタンを長崎から名古屋から西の10万石以上の藩に移送し、懇々説諭を加えて改宗する狙いだった。
 4万3000石の小藩の津和野藩にも、割り当てられたのだ。

 なぜ小藩の津和野藩なのか。明治は祭政一致からはじまり、津和野の藩主以下がその指導的な国学者であった。藩主の亀井玆監(これみ)は、岩倉具視に次ぐ地位にいたのだ。

 津和野の国学者たちは、「宗教は宗教で改宗できる(善導)」と言いつづけていた。

「そこまで言うのなら、やれるものなら、やってみよ」
 最初に隠れキリシタンの中心的な人物が、津和野藩に28人が送り込まれた。津和野藩は、乙女峠の光琳寺に収容した。さらに増えて、小藩の津和野藩に153人のキリシタンを抱えた。


 乙女峠のキリシタンたちは、善導しても改宗しない。津和野藩の役人はしだいに焦りを感じてきた。藩主には生殺与奪が与えられていた。拷問は過酷というよりも、人間とは思えない残虐性を持ってきた。
 同藩で死亡した殉教者は36人に及んだ。


 德川政権下においても、島原の乱が起きた。当初は過酷な年貢の取り立てからはじまった農民一揆だった。それがキリシタン弾圧の口実につかわれた。
 原城に立てこもった籠城した老若男女3万7000人は全員が死亡した。(実数は不明)。

 江戸時代半ばからは、過度なキリシタン取調べは薄れてきて、日米和親条約がむすばれると、阿部正弘は踏絵を廃止している。 

 しかしながら、明治時代は祭政一致の政策、さらに廃仏毀釈から、苛酷なキリシタン弾圧となったのだ。
 明治時代に配流された者の数3394人のうち662人が命を落とした。純然たるキリシタン殉教者である。

 この惨事が西欧じゅうに報道されていた。
 そうとも知らず、岩倉具視たち視察団が、江戸幕府が結んだ条約改正に欧米に臨んだ。行先々の王室とか、国会とかで、強い非難を浴びせ続けられたのだ。1年半も面と向かってバッシングされて、あげくの果てにはキリスト教弾圧を理由に、1か国も条約改正に応じてくれなかったのだ。

 かれらは帰国後に、キリスト教信仰の自由を認めざるを得なかった。
 
 津和野には、美観と残忍な歴史が織り込まれている。

旅の情感、わずかな時間の小さな出会い=宮古島

 音楽をかけて、踊っている若者に、「楽しそうだね。写真を撮らせて」と声をかける。

 大半が快く応じてくれる。

 何枚か撮ったところで、

「どんなグループ?」
 と訊いてみる。

 結婚式の披露宴で、披露するという。


 取材の合間にも、わずかな時間の小さな出会いを大切にする。



 もし作詞家だったら、なにかしら歌ができそうな気がする。


 『沖縄の那覇からも、さらに遠い宮古島に、

 心の傷を癒しにきた。

 彼との恋はかなたに行ってしまった

 残るは心の想い』

 歌は、こんな情感の雰囲気かな。


 
 悲しい想いでの旅路はどこまでもつづく。

 遠く見つめるは、あの橋と浮雲。

 呼んでも、もどってこないのは過去のあなたばかり



  海洋の彼方から波打つ

  磯に砕けて、飛沫(しぶき)は激しくひびく

  潮騒ばかり、

  心までも乱れて、いまなお海は荒れる

 


 亜熱帯の緑と青い海は、次なる旅路を誘う

 明日はどこへ行くやら

 いまなお心は定まらず


 海岸にレース編みの波紋を敷いてみる

 あしたには乱れる心も、穏やかなるかな

旅の情感、萩を訪ねる 「世界遺産とは大げさだな」

 山口県の萩に歴史取材に出むいた。

 廃藩置県で、最も早くに、お城を壊したのが萩城だ。

 ここらは小説で描くのだが、

 それにしても、お城が石垣だけとは、妙にさみしいものだな。 

 

 博物館に出むいたが、吉田松陰と高杉晋作ばかりがやたら目立っていた。

 松陰は、幕末の侵略軍事思想家だった。
 かれの思想の影響で、どれだけ多くの戦争犠牲者を出してしまったことか。

 高杉晋作がつくった奇兵隊は、荒れくれ者を大勢集めていた。結成当時から、略奪・強奪をしている。戊辰戦争が終われば、不満分子の巣窟となり、乱を起こす。
 最終的には、木戸孝允に鎮圧される。

 世界遺産となった宿命なのか。

 博物館が歴史的な公平さを欠いて、負の面を隠して賛美し過ぎているので、失望した。


 大学生のころに来た萩だが、

 街なかを散策しても、当時の記憶はほとんどよみがえらなかった。

 

 取材に旅立つ前日、山口県・下松(くだまつ)市の親友ふたりと、東京・大崎で懇親した。

 かれらは萩の街並みを賛美していた。

 とくに城壁の町はいいよ、自転車で回ったら、と強調していた。

 
 城壁の町はなぜ残っているのか。

 萩藩が幕末に、藩政を山口に移したから、

 萩の町は古いまま残っている。


  

 干し柿の構図が面白かった。

 もうすぐ寒い日が来るのだろうな。

 日本海側の冬は過ごしたことがないので、体感的にはわからないけれど。

 和服の女性が、ともにスマホで写真を撮っていたので、

 声がけして、撮らせてもらった。

「被写体にも、責任を持ちなさい」

 私は、そんな写真指導をしているので、彼女たちにいくつかのポーズをお願いした。

 狙い通り、ふたりは笑顔を浮かべてくれた。

【近代史革命】 戦争国家へと折れ曲がる = 台湾出兵 (3)

 日本国内では、このごろ板垣退助、後藤象二郎、江藤新平などを中心として「朝鮮討つべし」という征韓論が巻き上がっていた。
 鎖国政策の朝鮮が、明治天皇の国書の受理を拒否した。その国書には「皇」、「勅」という文字があり、それは清皇帝しか使えないものだ、こんな国書は朝鮮に対して無礼だと言い、突き返したのだ。
 江戸時代を通して、朝鮮は対馬藩しか交易をしていない。新政府とは交易しないという。日本政府が幾度となく交渉をくりかえしても、国書を突き返される。

「明治天皇の国書は、欧米の国は快く受け取っておる。隣国の朝鮮がひじ鉄をくらわすとはけしからん。朝鮮を征討するべし」
 それはかつてペリー提督がわが国にみせた、武力威圧的な開国要求を真似たものだった。日本中がその方向に流れていた。征韓論が閣議決定された。
 
 明治6年9月13日、岩倉使節団が欧米9か国から帰国すると、征韓論に反対を唱えた。西郷たち征韓論派は、政府の中心から排除された。

 徳川幕府を倒した主力は薩摩藩なのに、新政府は冷遇している。薩摩の下級藩士は爆発寸前にあった。下級武士の不満のエネルギーを台湾征伐に使おうと、薩摩出身の西郷隆盛も、大久保利通も、大山綱良の出兵提案にたいして賛成、推進派だった。
「ここは、清国に琉球住民は日本に帰属すると意思表示する好機だ」
 日本が清に対して強気の態度を見せる。
 宮古島の台湾遭難事件が、征韓論から台湾出兵に目を逸らす好機ととらえたのだ。

 明治政府は、まず外交交渉に及び、副島種臣を清に派遣した。
 清国側は、「琉球は清国の属国であり、琉球人が害を受けたか、否かを問わず、日本には全然関係ない事件である」と突き放した。
「それでは清国は、台湾の生蕃(せいばん、中央政府に従わない原住人)をしっかり統治しているのか」
 副島種臣が問うた。
「生蕃は化外(国家統治の及ばない地)の民である」
「化外の民とは、つまり統治できていない民という意味だ。わが国は兵を派遣して、害を及ぼす台湾の生蕃を討つ。そのときになって異議を唱えないように」
 副島は揚げ足を取ったのだ。

 副島は帰国して、台湾征討の必要性を強調した。薩摩藩の下級士族などは狂喜した。

 しかし、徹底して反対したのが木戸孝允だった。日本国内は経済的も疲弊している。
「国力増強、富国と近代化が優先だ。戦争などすれば、日本は疲弊してしまう」
 それでなくとも、明治の御一新で期待した人民の不平が高まり、士族の乱、農民一揆が多発している。戦争などしている場合ではない。木戸孝允はかたくなに台湾出兵を反対して下野してしまう。

 明治7年、閣議決定で台湾征討が決定した。明治天皇は出兵の勅許を出した。そして、西郷従道にたいして台湾征伐の命令が下った。

 ところが、台湾征伐中止の事態が起きるのだ。
                              
                                     【つづく】

【近代史革命】 戦争国家へと折れ曲がる = 台湾出兵 (2)

 明治時代~昭和半ばまで、海外侵略の軍事国家となった。日本の為政者たちは、「戦争」という表現を回避し、事変とか、征討とか、出兵とか、自国民の目をごまかす言いまわしが得意だ。その実、やましい侵略だから、事故・出来事のような語彙でカムフラージュしてしまう。

 私たちは、歴史年表で明治7年の『台湾征伐』と教わるていどで、経緯などほとんど知らない。ましてなぜ、他国を征伐する必要があったのか。

 この『台湾征伐』には3つの侵略目的があった。
① 明治新政府には、一つは独立国の琉球国を日本に組み入れる。
②「台湾」を植民地にする。
③ 国内的には、戊辰戦争の原動力になった下級藩士らが、職も、身分も奪われた新政府の冷遇にたいして反乱を起こしはじめたから、台湾征討で、その不満を逸(そ)らすためである。


 琉球国とはどんな国であったのか。歴史をさかのぼってみた。

 文保元(1317)年には、宮古島の人が中国温州に漂着(ひょうちゃく)と記録されている。このころから「蜜牙古(みやこ)」と歴史書に現れてくる。
 1365年には、与那覇原軍が宮古全島を統一した。豊見親(とぅゆみゃ)時代となった。
 
 沖縄本島に琉球王国ができたのは、14世紀から15世紀だった。この琉球王国が武力で、先島諸島を攻めてきた。結果として、宮古群島と八重山群島が、琉球王国の支配下に入った。16世紀である。

 17世紀に入った途端に、1609年3月、薩摩藩が軍船100余隻、兵3000余を投入して琉球全土を侵略してきたのだ。わずか一週間で、琉球王府を屈服させた。

琉球は清国の属国でもあり、薩摩藩の植民地であった。

 琉球王朝は、「清王朝」を宗主国として、君臣関係の冊封(さくほう)あった。わかりやすくいえば、琉球の産物を貢物として清の国王に献上し、「臣」(属国)となっていた。
 片や、17世紀に薩摩藩が侵略した殖民地でもあった。沖縄本島の那覇には、れっきとした琉球政府があり、薩摩藩はそれを認めながらも、過酷な税で搾取していたのだ。

 薩摩藩の侵略の狙いはなにか。それは琉球・清国貿易に目をつけたもので、その「交易」利益を薩摩に貢がせるものだった。片や、領土権、施政権は琉球王府にあり、独立国家として存続させた。

 ここに複雑な問題が残った。
 宗主国の清王朝からみれば、琉球国府は存在しており、君臣関係の冊封(さくほう)があり、支配下にある、という考えだ。

 那覇の琉球王府は、清王朝と薩摩藩に、二重に貢ぐことになった。自分たちの負担を軽減するために、1637年から宮古・八重山に『在番』が常駐させて、人頭税を課した。
 15歳から50歳まで(数え年)の男女にたいして、頭割で村ごとに連帯責任による税を課した。その平均税率は8公2民であり、世界でもっも重い過酷な税だった。
 土地は硬く粘土質で、石ころの痩せており、肥料も買えず、毎日が重労働だった。栄養失調と体力消耗で過酷な使い捨ての命だった。

 人頭税反対の一揆も起きたが、弾圧されてしまった。先島諸島のかれらは、毎年、帆船で那覇に税を運んでいた。(明治36(1903年)に廃止)。

 ペリー提督が浦賀に入港し、翌年に「日米和親条約」を結んだ。同じ(1864)年に、同提督は琉球国政府と交渉し、『米琉和親条約』を結んだ。欧米から見れば、琉球は国際的には独立国だった。これは歴史的事実である。
「植民地になったからと言い、国家が消えたわけではない」
 ここらは現代でも、勘違いしているひとが実に多い。


 明治4(1871)年9月に、明治新政府は清の間で、「日清修好条規(にっしんしゅうこうじょうき)」を結んだ。双方が対等な立場で結んだ条約だった。

 ところが翌年、明治5(1872)年9月に、明治新政府が、琉球国(尚泰王・しょう たいおう、19代最後の琉球王)を琉球藩として、日本に日本の版図(はんと。勢力範囲)に組み込み、琉球藩とし、尚泰王は藩主となった。
 怒ったのは清国である。日清の双方はここから対立がはじまった。

 このときに、宮古島の台湾遭難事件が起きた。同年10月18日、宮古島の『頭』(郡長・島のトップ)仲宗根玄安ら、主従が那覇に人頭税(年貢)を納めた帰り船(144石積み船)4隻が、嵐に遭遇し、台湾に漂着したのだ。
 台湾の原住民(パイワン族、クスクス族)によって、54人が殺害された。

 鹿児島県知事の大山綱良が、明治政府へ提出した「上陳書付属書類」には、生き残った者の証言から、
「殺した人の肉を食うという説がある。また、脳を取りだして薬用にする、という説がある」
 と報告がなされた。
「琉球藩の日本国民だ。国民に害を及ぼしたものを問罪(罪を問いただす)する」
 大山綱良が出兵を明治新政府に要請した。

 琉球国を琉球藩にした直後だ。当然ながら、琉球は日本人ではない、と清国は猛烈に明治新政府に抗議する。

【つづく】

北朝鮮はことし2度の核実験。歴史から学べば、「経済封鎖は逆行なり」(下)

 150年前、朝鮮は興宣大院君((こうせんだいいんくん)の時代だった。日本と同様に、かたくなな鎖国政策をとっていた。1866年には、開国を強要するフランス軍が上陸し、侵攻してきた。朝鮮はそれに打ち勝った。フランスは大勢の犠牲者を出した。(日本が、長州征討の年)
 それから5年後の1871年には、アメリカが開国を要求し、力で侵攻してきた。朝鮮はそれも排撃した。当時の朝鮮は、ロシアに門戸を閉ざし、明治新政府となった日本からの、修好条約の要求を退けている。外国からの強要や威圧には、精神的にも強かった。

 かれらは朝鮮民族は優秀だ、世界最強の軍隊だという自負心をもった。そして、かれらは朝鮮全土に斥和碑を建てた。『侵略してくる洋夷と戦わなければ、結果はそれらと和することになる。和を主張するのは売国なり』と記す。

 その左側には、『わが子々孫々を戒めて、丙寅年(1866)年に創り、辛未年(1871)に建立するとする』と刻まれている。

 日清戦争後、朝鮮は日本の植民地にされてしまった。しかし、『和を主張するのは売国なり』と言い、太平洋戦争のさなか、金日成が独立への旗揚げした。かれらは旧日本軍とたたかった。

                    『写真 : 李朝時代の末期に活躍した興宣大院君』


 日本が敗戦で戦争が終結した。その後、朝鮮が南北に分断し、北朝鮮という国家が誕生した。朝鮮戦争においても、北朝鮮は最強のアメリカ軍を釜山まで追いつめていった。反撃に遭い、38度線で、和平に応じたのだ。

 朝鮮は内戦に強い歴史がある。TVなどで北朝鮮の国民が声高に、米帝国主義に打ち勝つ、というのも、そんな歴史的な背景があるからだ。

 日本の評論家や政治学者は、米国、中国、ロシアを中心としたパワーバランスで、北朝鮮の核武装を論じている。150年の近代史、現代史から、北朝鮮の軍隊的特徴があまり加味されていないのだ。


 いずこの軍隊も、突然変異的な軍事行動はまずしないものだ。民族的な特性や、過去の歴史的な特徴、そして現在の環境から軍事行動がきまってくる。

 朝鮮の特徴とはなにか。豊臣秀吉、旧日本軍とちがい、内戦は強いが、外国侵略をしないことだ。ここらは最も重要視するべき点だろう。


 イデオロギー面で、社会主義国家としてソ連は失敗した。中国もどちらかと言えば、もはや資本主義理論でまわっている。
 北朝鮮もこの先、経済的な資本主義に巻き込まれていくだろう。全体主義から個人主義へと静かな移行がはじまるはずだ。
 片や、狭い国土で、くり返される核実験は、国民に放射能被害をおよぼす。為政者が強行する核実験においても、ブレーキがかかってくるのは自明の理だ。


「攻撃は最大の防御だ」という日本人的な発想で、わが国が他国と共同歩調で北朝鮮に侵攻すれば、激しい戦争になるだろう。核兵器だって使ってくるだろう。

 朝鮮の150年の歴史をしっかり分析すれば、ミサイルを持ち、核を持った北朝鮮を「世界最強の軍隊の一つだ」とおだてておけば、満足する民族だ。

 アメリカが社会主義のキューバの核武装化に脅えた時代がある。ベトナム戦争で、北ベトナムの南下にも脅えた。それから半世紀たてば、和合しあえるのだ。
 中国と台湾がいまや手を取り合う時代だ。

 日本にはABCラインという経済封鎖で、太平洋戦争への突入になった苦い歴史がある。いま、北朝鮮の「核の使用」という過剰な恐怖におびえ、経済封鎖が声高になっているが、私たち負の歴史の経験からしても、それは逆効果になる。

 国連において制裁の決議でなく、経済面で、北朝鮮を世界市場へと導く、交易の門戸を大きく開くべきだ。ならば、世界中を駆け巡る北朝鮮のビジネスマンが大勢生まれる。社会主義からごく自然に資本主義に移行してくるだろう。

 個人にしろ、国家にしろ、制裁には報復がつきものだ。朝鮮はみずから軍事力で出てこない民族だけに、北朝鮮の軍事活動を国外へ呼びださないことだ。(旧日本軍のパールハーバーのように)。

 核の脅威を拭い去る最大の道は、北朝鮮の国民一人ひとりが、はやくに個人主義へと移行できる、加速させるように導くことだ。それが北朝鮮の核の拡大を根本から止めさせる道になる。歴史から導かれる最良の策だ。
 
 

                                            【了】